国家試験も間近に迫った頃,おもしろい求人を見つけた。「池袋駅そばに6月開業予定の性病検査クリニック」に勤務する医師の募集。週1~2日だけの勤務も可とのこと。性病と言ってもいろいろあるけど,HIVと梅毒は抗体を調べるから採血する。淋菌とクラミジアは,昔と違って今はたぶん遺伝子検査,男性なら尿,女性なら子宮ガン検診のように子宮頸管から採取するのだろう。電話で問い合わせ,面接に出かけたのは国家試験が終わった翌日だった。
面接してくれたのは女の人だった。面接場所に指定された池袋駅前の喫茶店の個室で,彼女はテーブルを挟んで座り,
「笠原ともうします」
と言って名刺を差し出し,相手を品定めするような,だけどちょっと怪訝そうにも見える表情で,ボクを正面からじっと見つめ,それから話を始めた。
「初めに,仕事の内容を率直にお伝えします。今度できるクリニックの主なターゲットは風俗業で働く女の子たちです。その子たちは自発的に検査を受けることもあるし,お店から指示されて毎月検査を受けに来ることもある。その子たちが主な受診者になるはずです。もちろん,風俗業とは無関係の男性や女性も来れば拒みはしませんけど。そこで,ぜひお願いしておきたいことがあります。そういう仕事をしている子たちを人間として扱ってください。ふつうの病院でふつうの受診者に対するように,マナーをわきまえて対応してください」
ボクは,そんなことをわざわざ言われるのが意外だった。
「それは,当たり前だと思いますけど」
「そのはずなんだけど,医者の中には,まあ医者に限らないけど,世間には,彼女たちを人間扱いしない人たちも多いから」
と言って,彼女はまたボクを見つめる。
「藤原先生は,まさか風俗の経験はないと思うけど,学生時代に水商売のアルバイトとか,経験ありますか?」
「いえ」
「ああ,そう・・・・」
「そんなふうに見えますか?」
「まあ,その美貌だから・・・・失礼でした?」
「いえ,そんなことはありませんよ」
「わたしは,風俗嬢をやってました」
彼女はさらりと言った。
「風俗嬢がどういう扱いを受けるものか,よく分かっています。仕事柄,性病検査は必ず受けないといけないんだけど,病院って愉快な場所ではないですね。誰にとってもそうかも知れないけど,とりわけこういう仕事をしている人間にとっては・・・・風俗嬢が不愉快な思いをしないで検査を受けられる場所を作りたいと思って,このクリニックを立ち上げているんです。もちろん,わたし一人ではありません。それほどの力量はありませんから。ちゃんと,協力してくれる人がいます。バックはしっかりしているからご安心ください」
彼女はちょっと笑った。
「さて,具体的な仕事の内容なんですけど。実は,医者の仕事はあまりありません」
「えっ?」
「つまり,採血は検査技師や看護師がやります。膣分泌物の採取は,基本的には本人採取を予定してます」
「本人採取?」
「まあ,はっきり言えば,女の子が自分で膣に綿棒を入れるということ」
「それで,かまわないんですか?」
「そんなに危険なことではありませんよ。わたしも何度もやったことがあるけど」
「いや,そういう意味ではなくて,それできちんと良好な検体が採取できるかということです。文献には,淋菌やクラミジアの遺伝子検査のための検体は子宮頸管から採取するように書いてありますけど」
「それについては,わたしは何ともお答えできませんけど,これまでわたしが受診者として経験した範囲では,たいていの病院でこんなふうにしてますよ」
「そうなんですか」
「ただ,自分で綿棒を入れるのを怖がる子もいます。そういう時は先生にお願いします。あと,店舗によっては,本人採取ではなくて医師が採取するように指定するところもあります」
「なるほど」
「ただ・・・・」
ここで彼女はもう一度ボクを品定めするように見つめ,ちょっと間を置いて,言葉を継いだ。
「その程度の仕事のために高い給料を払って医者を雇うなんて,ずいぶん愚かなことと思われるかもしれません。ありていに言えば,医者を雇うのは法律上の規則を守るためです。医療機関には責任者として必ず1人は医者がいないといけないので,募集しています。医者のいない検査所をヤミで運営するのはリスクが大きすぎますから。それがありていの話なのですが・・・・」
ここで彼女はもう一度言葉を切り,ボクを見つめる。
「つい先ほどお会いしたばかりですが,わたしの第一印象とういか第六感というか,藤原先生は誠実でまじめな方だとお見受けしました」
彼女は相変わらずボクをしっかり見つめて話を続ける。
「なので,ぜひお願いしたいことがあります。ここに検査に来る子たちのいろんな相談に乗ってほしいんです」
「相談?」
「はい。こういう仕事をしていると,健康について,体について,いろんな心配があります。その心配に真面目に答えてほしいんです。もちろんできる範囲でかまいません。『そんなこと,医者の守備範囲じゃないよ』というような相談も受けるかもしれません。その時は,そのように答えてくださってかまいません。ただ,真面目に誠実に対応してほしいんです」
「それは医者として当然のことだと思います」
「そう言っていただけると心強いです。ただ,これもわたしの体験から言えることなんですけど,病院で自分が風俗の仕事をしていることを言うのはかなり勇気が要ります。そう話した時の相手の対応が想像できるから。でも,ほんとうは健康についての相談をする時には,どんな仕事をしているか,話す方がいいですよね?」
「もちろん,そうです」
「だから,風俗の仕事をしていることを知った上で,真面目に相談に乗ってくれる医者がいてほしいんですよ。こういうクリニックなら,初めから仕事が分かっているから,相談しやすいと思います。もちろん,女の子たちもバカじゃないから,そういう相談にまじめに対応してくれる医者かどうか見極めてからのことになるとは思いますが,たぶん1ヶ月もしたら,先生をそう見極めて,いろんな相談をしてくると思います」
「それは,わたしにとってむしろありがたいことです。いい勉強になります」
と答えたのは,お世辞でもゴマすりでもない,ボクの本心だった。
「ただ・・・・」
ぼくはちょっとためらったけど,正直に話しておくべきだと思った。
「わたしは人の心が分からないです。空気を読めないんです」
「そんなふうには見えませんけど」
「いえ,ほんとうに,そうなんです。だから,これから実際に仕事を始めて,自分ではそんなつもりでなくても,相手を傷つけるようなことを言ってしまったり,場違いな対応をした時は,きちんと注意してください。そのようにスタッフに伝えておいてください。医療の現場で,スタッフが医者に意見するのは勇気が要ると思いますが,この点は,ほんとうにお願いします」
彼女はうなずいてくれた。
「分かりました」
ここでいったん話が途切れた。
「ところで・・・・」
彼女は言いかけて,ちょっと言葉を中断し,また話し始めた。
「ここまで面接を進めておいて,今さらこんなことをお尋ねするのも変なんですけど,藤原先生は女医さん? それとも・・・・」
「女医ではありません」
「あっ・・・・失礼しました。顔を合わせた最初に訊こうかと思ったんですけど,何となくためらって・・・・」
「いいんです。慣れてますから。ただ,そういう人たちを相手にするなら,女医の方が都合が良いのでしたら,女医ということにしてくださっても,かまいませんよ。医師免許にも性別は記載されませんし・・・・」
「うーん・・・・」
彼女は考え込んだ。
「それは難しい選択ね・・・・確かに,いやらしい男の目つきで見られるのは,まっぴらごめんだけど,女医さんは女医さんで・・・・同じ女として引け目を感じてしまうのよね。わたしたちが勝手に感じているだけかもしれないけど・・・・でも,わたしたちを心から軽蔑するような目つきで見る女医さんもいるから。そういう時,男の医者からそうされるよりも,もっと傷つくのよね。分かるかしら?」
「女どうし,分かってくれるかもと期待していたから,その期待が裏切られた時は落胆が大きいということですか?」
「まあ,そういうこと・・・・藤原先生はどうしたい? 女医さんでいる方がいいなら,そうしますけど」
「わたしは,ウソはつきたくありません。受診者がわたしを女医と思っているのなら,敢えて訂正はしないけど,『女医さんですか』と聞かれたら『違います』と答えたいです」
「ああ,それでいい。それがいいですね。そうしましょう」
ここでちょっと間が空いた。ボクは,ぜひ聞きたかったことを質問した。
「さっき,採血は検査技師か看護師がやるとご説明なさいましたが,たまにわたしにやらせてもらえないでしょうか。スキルを磨きたいので」
彼女は一瞬あっけにとられたような顔をした。
「まあ,そういうことなら,そのように現場のスタッフに申し伝えます・・・・それにしても,採血をやりたいというお医者さんは初めてお目にかかりました」
「まあ,卒業してこれからスキルを磨いていく立場なので」
「なるほど・・・・でも,その方がいいかも。医者の世界に浸かり込んでいない,『お医者様』の雰囲気を身につけていない人の方がこの仕事には向いているかも・・・・藤原先生,週何日勤務していただけますか?」
「週1日でもいいと広告に書いてありましたが・・・・」
ボクは迷った。ここで聞いた話から推測すると,卒業したての医者が修行するのに適した仕事場と思えるし,ボクにとっても仕事しやすい場所と思える。そして,相手もボクに期待してくれている。それに応えたいという気持ちはある。だけど,卒業してすぐこの仕事だけに自分を限定するのも不安だった。
「週2日くらいなら・・・・」
「週3日は難しい?」
「・・・・じゃあ,週3日。できれば,飛び飛びじゃなくて,木金土とか月火水とかにしてほしいのですが」
「分かりました。こちらで調整してお答えします。クリニックの診療時間は10時から18時までの予定です。13時から14時半までは昼休み。ただし,13時に昼休み前の受け付けを終了しても検査が終わるのは13時半くらいになるかもしれません。18時に受付を終えても最後の受診者の検査が終わるのは18時半くらいになるかもしれません」
「もちろん,かまいません」
それから,開院準備を進めているクリニックの場所に案内してもらった。池袋駅の地下通路の出口を出て路地に入ってすぐのビルの地下1階。ほとんど日を浴びずに駅からクリニックに入れるのが,ボクにはありがたい。しかも地下なら診察室にぜったい日は当たらない。
「地下街に直結していない地下室は賃料が安いので。それと,外からぜったい見えないというのも,この種のクリニックにはむしろプラスかと」
と笠原さんが言い訳のように説明する。
「わたしにとっては,日が当たらないのがありがたいです」
笠原さんはおもしろそうにボクを見る。
「日当たりが悪いのに文句を言う人は多いですが,日が当たらなくてよかったという人は初めてです」
「アルビノ症なんです。日光を浴びると火傷したように肌が赤く腫上がって,長期的にはガンのリスクが高まるんです」
「それはたいへん!」
「なので,日が当たらないのはありがたいんです」
「なるほど」
笠原さんは納得してくれた。
クリニックの中を一通り案内してもらった後,ボクたちはビルを出て池袋の地下道を歩いた。
「藤原先生,センスが良さそうですが,クリニックの名前,思いつきませんか?」
「クリニックの名前?」
「ええ,まだ決まっていないんです。いくつか候補はあるんですが・・・・」
ボクはちょっと考えて,Ange(アンジュ)という言葉を思いついた。
「フランス語で『天使』という意味です」
「・・・・女の子たちの守護天使,それ,いいわ。アンジュ・クリニックね」
「・・・・クリニック・アンジュClinique Angeの方がフランス語の語順としては自然だと思いますが・・・・」
「そう?・・・・」
4~5日後,笠原さんから電話があった。「木金土の週3日勤務をお願いしたい」ということと「開業準備が予定より早めに進行しているので,5月下旬に開業できる。その頃から勤務を始めてほしい」という内容。そして,最後に「名前は『クリニック・アンジュ』にしました」とのこと。
池袋で週3日仕事することが決まって,ボクは引っ越すことにした。ヒカルと一緒に5年を過ごした部屋だけど,千葉から池袋に通うのはやはり遠すぎるから。ただ,二段ベッドはそのまま使う。いつかヒカルが戻ってくる時のために。
インターネットで探していて,おもしろい物件を見つけた。場所は駒込。駅から徒歩3分。3階建ての小さな家の2~3階部分。2階,3階とも約11平方メートル,あわせて22平方メートル。2階にミニキッチン,洗濯機置き場,ユニットバス・トイレ,3階はクローゼットを作り付けたベッドルーム。家賃は管理費,共益費などはなしで6万円。今住んでいる千葉の部屋と同じくらいの広さで,家賃はちょっと高いけど,山手線の駅から徒歩3分にしては格安と思えた。ボクはさっそく管理している不動産会社を訪れた。今風の大手のチェーン店ではなく,昔ながらの駅前の不動産屋という感じのところだった。
さっそく案内してもらう道すがら,ボクは気になっていることを尋ねた。安さの理由。
「それは,築年数が浅くてワンフロアで22平米あれば,あの立地なら7万かひょっとしたら8万くらいの家賃を付けられるんですが,古い物件だし,2階と3階に11平米ずつだと使い勝手が悪いんです。実際,ご覧になれば分かりますよ」
そう話しているうちに,物件の前に着いた。古い木造3階建ての一軒家。
「築40年くらいですね」
間口の右端と左端にドアがある。その左側のドアを開けるとすぐ急な階段がある。
「この上ですよ」
階段の幅は70センチくらい。太った人ならつかえるかもしれない。しかも各段の踏み板が左右半分ずつ,35センチずつの幅になっていて,その代わり長さというか奥行きが倍になっている。
「急階段を昇りやすくする工夫です」
と不動産屋さんは説明してくれた。2階の部屋は予想していたよりは広い感じがした。
「11平米というとおよそ7畳くらいなんですが,キッチン,バストイレを除いた広さが4畳くらいでしょう。小さなテーブルと椅子1~2脚くらいなら置けます」
3階に昇る。奥の間口いっぱいにクローゼットが作り付けてある。ベッドを置いて,机も置けそう。
一通り室内を見終わって,ボクたちは階段を降りて外に出た。
「1階は誰か住んでるんですか?」
「バーです」
「バー?」
「そう。隠れ家的なバーですよ・・・・ああ,それも家賃を安くしている理由の1つです。まあ,客層のいいバーだから,酔っ払いが騒ぐようなことはないんですけどね」
ボクは興味を覚えた。不動産屋さんは話を続けている。
「この建物はそのママさんのものなんです。1階をバーにして,2階,3階を自分が住む用に設計して作らせたんですね」
〔なるほど。それなら,確かに合理的にできた建物だ〕
「昔は客が外に溢れるほどはやっていたんですよ。今もまあそこそこに客は入ってます。日曜と月曜がお休みで,火曜から土曜まで週5日,7時から12時くらいまでですかね。昔はもっと遅くまでやってたみたいですけど」
「それで,ママさんは今どこにお住まいなのですか?」
「すぐ近くのアパートです。『年を取って階段の上り下りがたいへんになった』と言って,今年の初めに近くのアパートの1階に越して行かれました。確かに,この階段はお年寄りにはきついですね。毎日のことだから」
「そんなお年なんですか?」
「まあ,70歳前後とお答えしましょうか。30歳くらいまで銀座の一流クラブのホステスをやっていて,それからここにこの建物を建てて店を出したらしいです。それだけの蓄えを築いて,銀座のクラブのお客をここまで呼べたんですから,かなり売れっ子だったんでしょうね」
どんな人なんだろう・・・・ボクは心惹かれた。ともあれ,いったん不動産屋の店舗に戻って契約する。連帯保証人を求められた。
「姉でもいいですか?」
「藤原さんとは別の家計を持ってる人ですか?」
「もちろんです。父のところで医者をやってます」
「それなら大丈夫です。ただ,本人に了解を得ておいてください」
契約が終わって,不動産屋さんが
「引っ越したら,バーにあいさつに行ってください。貸す側はどんな人が借りるのか,気になるものなんです。企業として運営しているのなら,そんなこともないんですが,個人の家主の場合は,やはり気になるんですよ。あなたなら,カヨコさんも安心なさるでしょう・・・・ああ,カヨコというのが家主さん,つまりバーのママの名前です」
引っ越したその日,7時ちょっと前くらいに1階にあいさつに行った。ドアを開けると,椅子が5脚並んだ小さなカウンター。その中にママさんがいる。70歳前後にしても,それなりに美しい。若い頃はどれほどだったのだろうという思いが心をよぎった。そんなボクにママさんはちょっと怪訝そうな顔で
「いらっしゃいませ。どなたかのご紹介?」
「あっ,いえ,お客じゃないんです。今度2階と3階を借りることになった藤原ともうします。今日,越してきました」
ママさんの表情が和らいだ。
「ああ,あなたですか。不動産屋さんから聞いてましたけど,ほんとうにおきれいね。お医者様だそうだけど・・・・」
「まだ確定はしていません。国家試験の合格発表がまだだから」
「それなら,もし不合格だったら,銀座でホステスやりなさい。へたしたら,医者をやるより稼げるかも」
ボクが何と返事をしてよいか戸惑っていると,
「冗談よ。まあ,へたな女よりずっときれいだとは思うけど」
と笑ってくれた。
「まあ,立ち話もなんでしょう。座ってちょうだい」
「でも,お客様がいらっしゃるでしょう」
「まだ来ないわ。7時半か8時くらいからよ」
そう言われてカウンター席に座ったけど,何を話していいか分からない。お客として来たわけではないのだし。賃借人のあいさつとしては・・・・
「一人で住むにはちょうどいいコンパクトな部屋ですね。使い勝手が良さそうです」
「若い人にとってはね。年を取ると,階段の上り下りがたいへんになる。建てる時はそんなこと思いつかなかった。若い時は,自分が年を取ったらどうなるか,実感として思い浮かばないのよね・・・・あっ,ごめんなさい。こんな年寄りの愚痴,聞きたくないよね」
「いえ,そんな・・・・」
「不動産屋さんから聞いてると思うけど,夜の12時くらいまでバーに人の出入りがあるの。そんなにたくさんじゃないし,お客もわたしと一緒に年を取って,もう酔って騒ぐような元気はなくなったけど,それでも何かとうるさいことはあるかもしれない。それは,大目に見てね」
「ええ,もちろん。それは承知しています」
ここで,カヨコさんはボクをしみじみと見つめ,
「たまに気が向いたら,顔を出して。あなたみたいな若くてきれいな人がいると,場が華やぐから」
と語り,ボクに微笑みかけた。その微笑みは,銀座ホステスという言葉から連想されるような営業スマイルではなく,もっと素直で素朴で,その人の心根の優しさを感じさせるようなもの・・・・〔でも,だからこそ,この年になってもこの仕事を続けられて,お客を呼べるんだろうなあ〕ボクは素直に感心しておじぎをした。
「はい。たまにお邪魔します」
と言って,帰ろうと思って椅子から立ちドアの方に姿勢を変えると,壁に掛けてある写真が目に入った。ママに向き合っている時は背後になっていたから気がつかなかった。文庫本かそれよりちょっと大きいくらいの寸法。美しい人が美しいドレスを着て立っている写真。美しい人はもちろん若い頃のママ。今も面影が見分けられる。ドレスは,左肩だけ覆われ右肩は露わなワンショルダードレス。その左肩あたりは白。そこから斜め右下に向かってグラデーションをなして紫の色が現れてくる。バストあたりではっきり色が分かるようになり,ウエストからヒップにかけて薄紫。裾は濃い紫。広がった裾は水平でなく斜めに裁たれている。右足はくるぶしが隠れるくらいだけど,左は膝下あたり。ボクは見とれてしまった。
「ここを開店した頃の写真よ」
と声がした。ボクは振り向いた。
「ふだんは,こんな素敵なドレスを着てらっしゃるんですね」
というボクの言葉にカヨコさんは笑った。
「まさか。ここでは普段着で仕事してるのよ。銀ホスやってた時に着てたの・・・・あの頃の衣装はほとんど捨ててしまったけど,それだけはまだ捨てきれないで持ってる」
そしてちょっと間を置いて言葉を続ける。
「着るなら,あげるわ」
「えっ?」
「着るのが条件よ。クローゼットの肥やしにするんじゃ,あげない」
「着ます」
ボクは反射的に答えた。
「じゃあ,今度もって来ておくわ。もう,わたしが着ることはないから。ドレスにしても,あなたみたいな美人に着てもらえてうれしいでしょう」
国家試験の合格発表を待つ間,ボクはヒカルに手紙を書いた。池袋のクリニックでの仕事の話,駒込の家と家主のカヨコさんの話。そして,ドレスのことも。すぐにヒカルから返事が来た。
― いくら万が一にもすべるはずはないと確信していても,結果を待つのは気が揉めるよね。・・・・池袋のクリニックの話,おもしろい。東京にはそんな仕事もあるのね。知識,能力はもちろんだけど,ロミーのエレガンスがその子たちを癒やすかも。ひょっとしたら彼女たちこそ,ロミーのようなキャラクターを必要とする人たちかも・・・・隠れ家的なバーの上とは,おもしろい住まいを見つけたね。カヨコさん,機会があれば一度会いたいわ。それと,ロミーの銀ホスドレス姿はぜったい見たい。写真を撮ってもらって送りなさい。・・・・ ―
4月下旬に国家試験の合格発表。合格を確信していても,実際に発表を見ると,やはり安心する。さっそく笠原さんに連絡し,いくつかの健診会社の担当者にも連絡し,それからヒカルに,今回だけは手紙じゃなくて,電話した。診療が終わった頃を見計らって。
「おめでとう。確信していたけどね。でも,やっぱりうれしいよ。ロミーもついに自分の翼で飛び,自分の声で歌うようになるのね」
ヒカルの期待を込めた心からの励ましの言葉。うれしかった。ほかの誰よりも,ヒカルから褒められるのはうれしい。ただそんな気持ちの片隅で,1年前の辛い場面もよみがえった。「ロミーはもうわたしの羽の下に守られる小鳥じゃないの。自分の翼で空を飛ぶ白鳥に成長したのよ。あなたの翼は自分で思っているよりずっと大きいの」
自分の翼で飛ぶからといって,ヒカルと離ればなれになる,わけじゃないよね?
ロミー第1部:藤原Sisters 終わり FIN
「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざがありますが,わたしはこの『ロミー』で二兎を追いました。ヒカルとの愛の物語だけでなく,ロミーの知性が育ち,花開くプロセスも描きたかったのです。抽象的に「ロミーは美しいだけでなく頭も良かった」と語るのではなく,具体的にどのようなことに興味を持ち,どのようにその興味を発展させ,知性を開花させたのか,そのプロセスを描きたかった。たとえば,中学の化学部など。そして,医学部でも。そしてまた,誠実な学生として医者の仕事について悩み考える姿もきちんと描きたかった。わたしにとっては,そういう部分も含めてロミーという人間が存在するからです。どれほど姉を愛していても,その愛だけで人は生きているわけではないから。
第2部は医者になったロミーを描きます。二兎を追い続けるつもりです。
3月に連載できればいいなと思っています。