カラン、と氷の音がした。体積を減らしたそれが、配列を変えてお冷の表面へと並び直る。そのグラスに映る彩度を落とした私の瞳は、アイドルでもモデルでも無く、只の女のそれだった。
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「違う、違うんだよ高垣さん」
アイドルデビューを果たしてから半年。同プロダクション内でのアイドル転向であり、モデル時代と同様、順調な滑り出しを楽観的に想像していた私は――今考えれば当然だけれど――思いもしない障壁にぶつかっていた。
ソロでのCM。30秒一本取り。その僅かな時間の私が、一度も肯定された事はない。
「申し訳ありません」
「困るんだよ、早めに決めてくれないと。昔に比べてテープは安くなったけれど、それを使う人間の時間は高くなってるんだ」
8度目の取り直しが監督に否定された時、私には分からなくなっていた。
何故謝っているのか。
どこがいけないのか。
どうすれば良いのか。
何が求められているのか。
プロデューサーは、この仕事を他でもない私に回してくれた。
アイドルとしての先輩なら、346プロダクションには何人もいる。しかし、モデル時代を含めた芸暦として言えば、私が最も長い部類になるだろう。その経験に込められた期待を裏切ろうとしていた。
「今日は時間もないし、お開きにしよう。まぁ、今までの撮影だけでも、クライアントは納得させられるだろうが」
俺は不本意だがな、と言外に吐き捨てられた私はその場で俯く事しかできなかった。
モデルとして駆け出しだった頃の私であれば、直ぐにその背中を追って尋ねていただろう、「何がいけないのでしょうか」と。けれど、モデルとして成功した経験が、思考が、矜持が、私の足に絡み付いて離さなかった。
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何時からだろう。私は周囲の人間との会話の中で、モデル時代を話題に出すことが多くなった。別に、モデルに思い入れがあったわけではない。流されて行き着いたそこは決して満点ではなかったけれど、心地良い居場所だった。喧嘩別れで無いことも大きいだろう。モデル時代の関係者とは何度か食事もしていた。
そんなだった私に川島さんは食事に連れ出して一言放った。
「アイドル事業部で前の仕事の話をするのは止めておきなさい」
それまでの他愛ない話が消し飛び、口腔のパスタの味が色を失うまで数秒も掛からなかった。その後、川島さんは私に2~3のアドバイスをしてくれたけれど、私の思考は始めの言葉に掛かりっきりで何も覚えてはいない。ただただ、アイドルになってから初めて私宛に届いた言葉が、私が期待したものではなかったことだけは確かだった。
だからと言って、彼女の言葉を無下にするわけにも行かなかった。元アナウンサーである川島さんが私を呼び出してまで伝えたことは、きっと大きな意味があると自分に言い聞かせ、過去の話を封印し続けた。それは思いのほか心苦しく、それ程までにアイドルとしての私はくすんでいた。
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何故モデルを辞めようと思ったのだろう、何故アイドルになろうと思ったのだろう。
業界でもそれなりに名を知られた方であり、少なくとも後数年はモデルとしてやっていけそうではあった。けれど、それ以上長く続けられる展望は見えなかった。国内だけで過ごすならまだしも、更に上を目指すのであれば、私には時間も身長も足りなかった。強いて言えば、只漠然と辿り着いたそこにあまり執着がなかったのかもしれない。
知らない事は幸せだと言うけれど、モデル時代の私の眼には、新設されたアイドル事業部は新興組織特有の活気に溢れる魅力的な場所に映っていた。需要と供給の変化が少なく、天井の見えているモデル業と違って、切り拓かれたばかりのアイドル業界はまさにブルーオーシャンだった。程なくここも激しい競争に飲まれると思うけれど、モデル業界で多少経験を積んだ私であれば、今からオーディションを受けるような娘達よりも一歩先んじられるのでは、という期待――いえ、野心と言うものがあった。モデルとして既に容姿は問題なく、身内にしか披露していないけれど歌唱力にも自信があった。演技やダンスには不安が残っていたけれど、一般的にアイドルに求められる要素の3分の2を満たしているのであれば、十分踏み切れると考えた。
結果は――芳しくない。
時折、モデルを辞めない方が良かったのではないだろうか、と思う事があった。それは過去の自分を否定する禁断の思考であり、同時に博打の沼に陥らない為の理性的な思考だった。自分は運命に流される事で幸せに生きる事が出来る、無理に捻じ曲げる必要なんで無い。今なら未だ戻れる、この半年は
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ノックの音がした。自分が叩いたとおり部屋の中に3回分の打刻音が響き、しばらくしてから「どうぞ」との渋い声が聞こる。中の余り広くない事務室には、1人の男がいた。
武内P。
若くして自分を含む複数のアイドルのプロデュースを任されている彼は、どちらかといえばオーディション組の新人達に掛かりっきりで、私のような転向組と接する頻度は多くない。社内で人づてに聞いた話では、業績評価は高いとのことだった。しかし、プロデューサー業は初めてのようで、私には評判ほど優秀な人には見えなかった。
「相談がある」と彼をデスクから打合せ卓に誘導し、私の正面に腰掛けたところで簡潔に話を切り出す。
「モデルに戻ろうと思います」
私は、彼の表情が変化する事を知った。
出てくる言葉が下手な引止めであったのであれば、私は席を立つつもりだった。しかし、思案の後に出てきた彼の言葉は、非常に痛いところをついたものであった。
「もし、高垣さんが今のままで居たいのであれば、モデルに戻られる事をお勧めします。しかし、変わりたくてアイドル事業部に来られたのであれば、アイドルを続けて頂きたいと思います」
彼はデスクに手を伸ばし、幾つかの書類を掴んで打合せ卓に広げた。動画から抽出したであろう私のキャプチャが散乱する。
「今お任せしている30秒CMの件、現場に足を運ぶ回数が少なく申し訳ありません。ですが、その少ない中で気が付いた事を、お話しておきたいと思います。私は、モデルの仕事について詳しくありません。けれど、高垣さんの動画を見ていて分かる事があります。高垣さんはあまりにも"モデル"として撮られすぎている、と言うことです。例えばこのキャプチャ、どう思われますか」
武内Pは卓上のキャプチャの1つを取り上げる。丁度、私がカメラ方向へ振り返るシーンをバストアップで切り抜いたもので、それなりに自信があったシーンだった。カメラや証明の位置を意識して最も綺麗に見せる動きは、幾度と無く練習し、身についている。
「もし、これが衣装や化粧品のCMであれば問題ないと思います。ですが、これはアイドル"高垣楓"のCMです」
彼は一言一言、言葉を選んでいるようにゆっくりと語った。
「貴女が主役で、貴女を撮っているんです。カメラを通じてファンが見ているものは、貴女の衣装でも髪型でも化粧でも背景でもありません。貴女を見ているんです」
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彼の言葉は少し抽象的で、私をどうプロデュースしたいのか俄かには理解できなかった。今も、完全にとはとても言えない。けれど、その日以来、私は私がどのように見られているのか、どのように見せるべきなのかを考えるようになり、徐々にリテイクも減少した。モデル時代と同様、いえ、それ以上に一緒に仕事をする人達から認められる事が多くなり、私の日々は徐々に輝きを取り戻して行った。
「どうしたの楓ちゃん? 考え事?」
川島さんの声に、昔の記憶へと旅立っていた私の意識が引き戻された。
「いえ、この鯵フライがとても美味しくて……少し味わっていました」
「ホント、そういうところが楓ちゃんよね」
私は考えるけれど、考えた事を口に出す事は少ない。人が私に期待するのは、少し不思議で、そして圧倒的な歌と映りで魅せる"高垣楓"だから。
引き戸が擦れる音がして、1人の女性が店内へ入ってきた。彼女が人数を尋ねに来た店員に告げる前に先制する。
「いえ、私達の連れです」
思考の廃熱が駄洒落な楓さん