崩壊した橋が、平和な街に相容れるはずもなかった。
騒ぎはいずれ終息を迎えるだろうが、今はまだその時まで遠い。
時刻の不都合も関係なく、見物目当ての人間も避難を促す人間も呆然とした表情のまま、しばらくその場を離れることはなかった。誰も彼も無言で、混乱が無駄に拡大されなかったことだけが救いといえばそうだった。爆心地を臨むような表情を顔にはり付け、市民は直立している。公安や報道のあわただしい足音だけが、夜明けを迎えてもいつまでも消えなかった。
その夜明けを境に、どこかしら冬木の町に、もやのような非日常感がたゆたうこととなる。平和はもはや終わってしまった。戦争の火蓋は、未遠大橋の崩落と共に落とされた。
それでも今はまだ、朝もやに没した人の街。虎口も歯牙も、なりを潜めている。相変わらず生ぬるい冬の寒さは、どこか人の矮小さを揶揄しているようにも思えた。
私はビルの屋上を蹴って、路地裏へ戻った。暗く湿ったビルの隙間には、まだ日の光は差していない。わずかに群青色の四角い空から着地した。
全員がまだ体を横たえていると思ったが、セイバーは一人目を覚ましていた。全快したようにも思えるが、内面はかなりの損傷を負っているはずだった。外見だけは血糊と鎧を除いて、無傷に戻っていた。
「異変はありませんか」
「サーヴァントの気配は感じないな」
路地の外に向かって、セイバーは目を細めて言った。
「場所を変えなくてはならない。昨夜は気が回りませんでしたが、無関係な人間が近づいてきたら困る」
「問題ない。マスターが上手く細工をして一般人には気がつかないようになっている――外からもここには気が回らん、ということだ」
「なるほど、あなたのマスターはやはり優れた魔術師のようだ」
言うと、怪我も何もなかったかのようにその場に立ち上がった。瞑想するように目を閉じると、やがて光のもやがその体を覆い、バーサーカーに破砕された鎧が、傷一つない頃の光沢を取り戻していく。
魔力で練り上げられた武装は、特に意にすることもなくこうして元に戻せるのだろう。傷ついた部分も含めて、一度ほどいて編みなおしたのだ。私の聖骸布とは似て非なるものだが、その強靭さも生半ではないと一目でわかる。
「確かに素養は十二分を越えている。とはいえ少々、じゃじゃ馬だがな。なに私はアーチャーだ。乗りこなす必要はあるまい。まさか羨ましいなどと言うのではあるまいな」
「私は私のマスターに満足している」
「己の分水嶺すらわきまえられぬ未熟者、生身の人間の分際で君を庇おうとしたあの男がマスターとして満足、か」
「確かにそのことについて私はシロウに叱責するでしょうが、あなたの関知する所ではない。私もシロウも死ななかった。彼の判断は最良ではないが、最善だった――見ていたのですか」
「そんなとこだろう、と思っただけだ。どうせそんなとこだろう、と。それに君が無事だったのはただの偶然だ。バーサーカーの踏み込みが十全ではなかったので威力が半減している。そのおかげだ。橋が粗雑な造りで助かったな」
「重畳です。生きている限りは次があるのだから」
セイバーの物言いが丁寧になっていた。それは私を敵とは見なさない、彼女の考えの表れなのだろうか。
「朝から、なんだか楽しそうね」
凛が割って入る。いつから気が付いていたのか、不機嫌そうに頭をかきながら起き上がった。
いつにも増して表情は険悪だった。寝心地が悪かったからに違いない。
「凛、珍しいな。君がこんな早く目を覚ますなんて。いつもそうしてコンクリートの上で寝たら低血圧も気にならなくなるのではないのか」
「別に」
髪を手櫛で整えると、苛立ったように立ち上がる。
「どうした、どこか具合でも悪いのか」
「ちょっと、嫌な夢を見ただけよ。放っておいて――散歩してくる」
ゴミ箱か何だか知らないが、盛大に蹴り飛ばして路地の外へとその吊った瞳を向けて歩いていく。
不機嫌というより、もはやあれは怒りの段階であった。
「追わないのですか」
セイバーの言葉に、私は首を振った。
「放っておけと言うのだから、放っておくさ。霊体に戻って、主の機嫌が回復するのをのんびり待つ」
散歩とはいえ、凛は異常があれば私が即座に駆けつけられる程度の距離までしか歩かない。
彼女の意識を追いながら、機嫌の悪さの理由を考えた。どこまで考えても見当がつかなかったので、本当に夢見が悪かっただけかもしれない。そうでないとしても、私には関係がないことだと割り切ることにした。必要があれば、いってくれるだろう。
私は霊体に戻り、損傷の具合を調べた。
快復はそれなりのスピードで進み、戦力としては可も不可もない程度でしかない。平均値――最も役立たずで不安定な状態だった。戦うのなら、今が最悪だった。快復前の昨夜の方が、まだ戦えた。万全の虎ではなく、窮した鼠でもない。ある程度戦えこそすれ、結局は持久力で遅れを取る、時間稼ぎにしかならないのだ。なまじ選択肢が残されている方が、戦うには迷いを生んでしまう。
しばらく私は、そのまま戦力分析に没頭した。
結局、凛が帰ってきたのは半刻ほど経ってからである。不機嫌が表立つことはなくなっていたが、平常時よりどこか苛立っているように見えるのは勘違いではない。私は特に話しかけずに、捨て置くのが一番だと判断した。
衛宮士郎が気が付いたのはそれからさらに半刻後だった。
「あれ? なんで遠坂がここに? ぐ、あ?」
「あーもう、無理して起きようとしない。大怪我なんだから、あんた」
私は実体を消したまま、痛みに悶える男を見ていた。暗い、どこか自虐に似た感情が生まれていた。死ねば楽になるぞという、忠告さえしてやりたくなるような、真摯な痛みを衛宮士郎は訴えていた。だがお前は死なずに残り、夢と呪いの狭間に惑い、永遠に自傷し続けるのだ。この感情が凛に伝わらないように、私はかなりの力を傾けた。
「どう? 落ち着いた?」
「ああ……なんとか、そうか。そうだ、あれは、夢なんかじゃ」
「うん。現実として、認識できるわね。よし、オツムは大丈夫そうね。なんか、思ったより傷口も塞がってるし」
それでもまだ混乱の見られた衛宮士郎に、細々としたことから大まかなことまで状況を説明し終えると、順当にこれからのことについての話になる。その頃になると、凛の不機嫌も大分回復の兆しを見せていた。
ある程度、基礎の現状把握が終わると、全員で意見の交換をするということになった。
衛宮士郎はセイバーに手助けしてもらいながら、一度立ち上がり打ち捨てられていた木箱に座り込んだ。セイバーはそのまま自分のマスターを守るように隣に立ち、凛は真ん中の狭いスペースで腕を組む。
私も実体化し、彼女の傍らに寄り添った。
四人が路地裏の一角を囲み、作戦会議を行うという、妙な事態になった。
「さて、じゃあ話を続けるけど」
凛が会議を主導するのに、誰も口を挟みはしなかった。
誰でも、牙の鋭い犬の口に手を突っ込もうとは思わない。
「実は、未遠の橋を落としたのってスゴイ巧手なのかもしれないって思うのよ」
曰く、川を中心に戦力が二分化され、深山と新都でそれぞれ弱者の淘汰が行われる、ということだった。
「あちらは十中八九バーサーカーの一人勝ち。で、こちらはこちらでセイバーとアーチャーがいればほとんど敵なし。ああ、なんで早くこういう手を思いつかなかったのかしら。戦略拠点の移動及び変更の有用性なんて、とっくの昔に証明されてたってのに」
腕を組んでうなる。途中から独り言に入ってしまっていたが、言いたいことは伝わっていた。
私は黙って趨勢を見守ることにした。
「衛宮くんは、どう思うの?」
自力で包帯を巻きなおしながら、衛宮士郎は曖昧に首を振った。
「なに、反対なの」
「うん。というより」
「なによ、他に考えでもあるっていうの」
えーと、と付け足して衛宮士郎は言う。凛の不興を買いたくないという、白々しさが滲んでいた。気持ちは、わからないでもなかった。
「いや、俺たちっていつから仲間になったのかな、って」
ピキリ。
音が聞こえたのは私だけではあるまい。
凛が浮かべる上品な笑いは、何よりわかりやすい怒りのポーズ。
「へー、敵同士がいいんだ。衛宮くんは」
衛宮士郎が一歩二歩とたじろいだ。地雷は、踏んだ瞬間に踏んだと気付くが、気付いたときには炸裂している。
往々にして手遅れ、ということだ。
「違う、断じて違うぞ。今の、なったのかな、ってのは否定を前提にした問いかけでは決してない、断じて」
「あらそうなの。じゃあ同盟、結ぶのね」
「俺にとっては、願ってもないことだけど。遠坂がずっと敵だ敵だといってたから」
言い訳は一定の成果を上げた様子。凛は誤魔化すように手を振りながら答えた。
「まー、いいじゃない。確かに、結ぶつもりはなかったけれど、アーチャーに無理させすぎたし、その上イリヤスフィールとあのバーサーカーをぶっ倒したくても戦力が足りないのよ。まさか断らないわよね、あら貴方たち二人を橋から助け出したのは誰かしら。セイバー、貴方はどう思うの? 受けた恩をかなぐり捨てるっていうなら、騎士の名誉と矜持も共にどうぞ。宣戦布告と一緒にただちに受け取ってあげるわ」
「……ああ、わかった。セイバー、そんなに悩まなくたっていい。共闘関係を受けるよ。だから騎士の名誉も矜持も大事に取っといてくれ」
眉根を寄せて、困った風に凛と衛宮士郎を交互に見続けていたセイバーが、安堵と共にため息を吐いた。それを見て笑う衛宮士郎、つられる凛。私は、そんな様子をただ憮然と見下ろしていた。
「よし。じゃあこれからは私たち、戦友ね」
「よろしく遠坂。言っとくけどな、昨日助けてもらったからじゃないからな。俺は純粋に、お前と敵になりたくないし、ましてや殺しあうことなんて考えられない。遠坂と、一緒に生き延びたいからだ」
「そうね、甘いし油断もあるけど、それは正解」
「ああ、甘さも油断もひっくるめて衛宮士郎だから。こんなんでよけりゃよろしく頼むよ」
「うん、わかった。士郎」
共闘関係。
これで、正面からセイバーを破り、衛宮士郎を倒すという選択肢はなくなった。
一度築かれた仲間意識を断ち切れる程度の冷徹さを、凛が持っていると期待するほど私はお人よしではない。ただ内心はどうあれ、口に出して反論もしなかった。私が十分に戦闘能力を発揮できるのなら、共闘関係など結ぶ必要はなかったのだから。
放棄したわけではない。今は、目的を忘れてさえいなければそれでいい。
「さ。関係がはっきりしたところで話を戻すけど、これからのこと。どう? このまま新都で活動を続けるっていう案」
「戦略とか難しいことは正直わからないけど、遠坂の案は賛成できない」
衛宮士郎は断固として言った。
「理由は、もちろん聞かせてくれるんでしょうね」
「遠坂の作戦は攻撃的過ぎる。俺は、昨日も教会で言ったけど、聖杯戦争に参加する。聖杯戦争の結末を最後まで見届ける。だから死ぬ気はない、けど同じくらいに敵のマスターを殺す気もないんだ」
「話し合いが通じると思ってるの?」
「違う。俺は、俺の身を守るってことだ。もし相手が殺しに来たなら、やり合う。でもこっちからは攻め込まない」
正義の味方。
私は、かつての自分だったものが目前でそう語ることを、許容できなかった。耐え切れたのは、ひとえに凛と繋がるレイラインがあったからだった。それがなければ、この手に刀剣を握り締めそっ首切り落としてしまっていただろう。去来する数多の憎悪と羞恥を押し殺すのを手伝うために、私は歯を食いしばって目を閉じた。
正義論。凛は何を思ったのか、しばし目をつむった後に言った。
「それが正しいと思ってるの?」
「ああ、正しい」
諦めたように、彼女はため息を二度三度と繰り返した。
「はいはい、わかった。この件については、また今度話し合いましょ。じゃあキリキリ答えて欲しいんだけど、これからどうするっていうの? 反対票を入れるってことは、当然、何か一個は意見があるんでしょう」
「俺としては、一度家に帰りたい」
さも当然のように衛宮士郎は言う。
「士郎……橋が落ちてること、忘れてないかしら? 川を渡れず、家に帰れないからこの話し合いでしょ。セイバーとアーチャーに担いでもらって飛ぶだなんて言ったら、傷口殴っちゃうわよ」
「あー、それなら多分、電話すれば藤村組が舟でも出してくれるだろ」
「へ」
間抜けた凛の声。展開は意外な方向に向いていく。
「藤村組。地元の極道くらい知ってるだろう? ついでにいうと藤ねえの実家。極道ってさ、ある意味保険企業っぽい所もあるし、藤村組は特にそうなんだ。多分未遠川の渡しくらいしてると思う。昔この街に橋がない頃も、川の渡しを仕切ってたって本当かでっち上げか知らないけれど、歴史に残ってるらしいし。それが本当なら、電話するまでもなく今もう舟でてるんじゃないか?」
「……アーチャー、川に舟は?」
橋とその周辺の様子を見に行った時、やや上流で何やら人だかりが出来ていた。
人だかりの中心には、確かに小舟が見て取れた。
「確かに何艘か浮いてたな。人を乗せて行き交っていたが」
「乗ってた衆、全員ガタイ良かっただろ」
「ああ」
「セイバーはどう思う?」
金髪の少女は、己のマスターと同じく迷うまでもないように言った。
「私には士郎の意見が魅力的に思えます。過剰な攻めは身を滅ぼす。物資のために基地へと戻るのは決して敗走というわけではない。拠点を移すという戦略は高度であり有効ですが、それは正式に宣戦布告を交換し合う、人間の行う真っ当な戦争でのこと。此度のような、いわゆる隠密戦での効果はあまり期待できない」
「……そうね、一度帰るっていうのアリか……わかったわ、わたし一人が頑固に主張するなんて往生際悪いし、チームじゃない。撤退しましょ。お風呂も入りたかったところだし」
先陣切って路地裏の外へと歩いていく。その後に慌てて衛宮士郎、セイバーが続く。私はまた霊体へと戻り、外界とのリンクを一部遮断した。考えることが多すぎた。
このまま新都にねぐらを移して戦闘を続ける、ということ。私もその可能性を考えていたが、まさか凛から口に出すとは思わなかった。彼女が最も考えそうもないことだからだ。学校が休みになった、というのも一つの要因かもしれない。もしくは昨夜のバーサーカーの威力か。
違った。己の愚かさ加減を、己に問いかけた。私の弱体化を懸念しての打開策に違いない。焦ってる原因は他にあったとしても、それに拍車をかけているのは間違いなく私の状態を考えてだった。
戦略から戦術に至り、衛宮士郎の処遇について、他に些細なことまで含むと考えなければならないことは甚だ多い。
外に出ると朝陽が鋭く刺さった。人通りは慌しく、非常の車は後を絶えない。
ふと、凛が私にだけこっそりと訊いた。
「焦ってるとか思ってる?」
拗ねたような言い草に、私はなんとか笑った。さらに拗ねが進んでしまったが、なに、可愛いものだった。
「方法論の一つが食い違うなど、よくあることだがね。安心してるよ、今回しでかしたうっかりは、君にしては小さくて助かったと思う」
「……いいわ、焦ってた。ちょっと嫌なことがあったのよ」
「夢かね?」
「そうよ」
「魔術師は夢を重要視する。家に戻れば、落ち着いた思考がまた元に戻ろう。そのときもう一度、慌てずに考えればいい」
「ふん。なに、慰めてるつもり?」
「まさか。だが私のマスターは、人を見下すくらいでちょうどいいと思うよ。しおれた表情を見るとどうにも、落ちつかんね」
「あなたも、衛宮くんと同盟組んだの不愉快なんだろうけど」
「闘争において、万全を尽くすのは常に正答だ。気兼ねするな」
「わかった。じゃあ命令よ、今あなたに出来ること、さっさと力を戻しなさい」
「ああ、任された。マスター」
あとは黙って姿を消していた。私の沈黙を、同盟に関する不満だけで捉えてくれたのはありがたかった。
人波を縫うように、川岸へと歩いていく。甲冑が目立つセイバーはやや離れながら死角を選んで付いてきていた。私は周囲に気を配りながら、彼女を焦らせた夢。幾分かそれが気になっていた。
サーヴァントは夢を見ない。普通は眠るということさえしない。だから気になって考えたとしても、彼女の見た夢の世界など、想像すらつかないだろう。夢という事象を、私は忘れてしまっていた。昏い夢を歩き続ける私に、さらに夢を見ることなどありえない。
だがきっと、彼女が見たのも悪夢だろう、という知識と推測だけはできた。人は、悪夢をより鮮明に覚えて生きる。きっと、私が歩んできた道程に似た、悪夢だったのだろう。
何も感じはしない。悲しいという感情はとうの昔に死んだのだから。
清冽な空気。透る太陽光は眩しい。
まだ流れを取り戻しきれないのか、それでも川は朝の日差しを照り返していた。