赤い弓の断章   作:ぽー

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第五話

 夜を待っていた。どこか湿った夜を。

 冷え切らない夜、隠れた月が反射を届けきれていない。

 それらの事柄が、どこかが緩んでいる、弛緩している、そう思わせた。全ての感覚が曖昧なのだ。月に被る雲が光を拡散させる。夜は、目も冴えるばかりに月が明るいか、一寸さえ定かではない暗闇がよい。曖昧は、感覚さえも鈍らせる。

 私は屋根の上で、その時を待っていた。

 視線は、遠く川岸に焦点を合わしている。間にある遮蔽物のせいで全てを見渡すことはできないが、恐らくライダーも遠距離からの監視を警戒しているだろう、姿は見えなかった。実際にある程度の距離まで近づき、令呪かサーヴァント同士が共鳴するまで人質の居所はわからない。逆に言えば、橋に向かいさえすれば自動的に待ち合わせの場所がわかるというわけだ。

 衛宮士郎と遠坂凛が、何を話したのか私は知らない。

 ただ同盟が決裂したとしても、何も不思議はない状態だった。決裂したらしたで、正面切って衛宮士郎と対峙すればよし、このぬるい状態が続くのなら話をしても特に何も変わらなかったというだけのことである。

「瑣末」

 今は戦いのことだけを考えていればいい。あとしばらく、マスターの一声がかかれば私は彼女に追従し、河原で待ち構えているライダーをセイバーと共に討ち果たす。二対一ならば、それなりに罠が仕掛けられていたとしても勝率は十分にこちらにある。凛はそう言って合図を待てと残した。

 しかし、どこか楽観的過ぎはしないかと、首筋の辺りで警鐘が鳴っていた。

 私に、生まれ授かったときから働くような、先天的な直感はない。だからこそ、私の勘とは、長年培って育った経験則だった。こんな眠たい月が出る夜ほど、当てずっぽうの矢が頭蓋を貫く。

 油断をしているわけではかった。敵を見下しているわけでもない。

 恐らく、凛も気付いているだろう。知っていて、どうすることも出来ない。実体のない、それは雰囲気としか呼べないものなのだから。

 ゆるゆると、一段階ごとに力を強めるように私は拳を握った。傷は癒え、全快へと順調に回復を見せている。セイバーがいなくとも、対等な状況ならばライダー相手でも負けはしない自信があった。使用不能だった類の刀剣もほとんどが錬成できるだろうし、突き刺さる刀剣の荒丘も、この世に具現させることが出来るだろう。

 力と同じくして、霧がかかっていた記録の欠落も相当数が戻った。

 藤村大河。間桐桜。

 私はそれらの事項を、溝の形を指先でなぞって知るように、ふと、知った。さっきのことだ。あまりの呆気なさと無様さで、自分に呆れてしまった。

 戻ったのは決して多くはなく、名前や姿かたちや彼女たちの生涯の顛末などだけだった。

 それだけである。笑顔すら、声すら、わからない。ましてやこれ以上、戻ることもない。

 多分、思い出したとは言わないだろう。記録が残っているという、だけだろう。

 気持ちまで、取り戻してこそ思い出なのだから。

 だから、私は殺せる。

 殺せるのだ、殺さなければならないのだと、私は己に言い聞かせるように二度三度口に出した。

 藤村大河さえ。

 セイバーさえ。

 間桐桜でさえ。

 つい二日前、バーサーカーの追撃を避けるために放った螺旋剣が、無関係の人間を殺したのと、何も変わらない。今まで何度もそういうことをしてきた。一度は竜の卵が生まれた村を村民ごと一つ残さず焼き払った。歴史的に重要だということでたった一人のために数千人を生贄にしたことも、逆に歴史に干渉しすぎるほどに突出した才を持ってしまった人間を、赤子のうちに何人も何人も殺した。

 英霊と崇められ、一番初めに手に入れたものは、人を殺す感覚を麻痺させることだった。

 だから、今回も同じことだ。

 見も知らぬ何万を葬り続けた私が、今さら身勝手な私情を挟み彼女たちだけを助ける? 断罪する罪人に、そのような権利があると考えること自体、馬鹿馬鹿しい傲慢だ。

 私は、目的のためになら、彼女たちでさえ自嘲気味の笑みを浮かべて殺せるだろう。

 いつかのように。いつものように。

「アーチャー」

 凛、ではなかった。私は少なからず驚いて、腰を上げた。

 同じ屋根の上でこちらを見下ろしながら、暗闇の中でも銀色を失わないまま言った。

「聞きたいことがある」

 考えに没頭しすぎていたことを、少し反省した。彼女はあくまで共闘しているに過ぎない、背後に立たれても気付かないとは気を許しすぎだった。

「なんだ。下に居たのではないのか」

「話し合いは終わった」

 凛と衛宮士郎、そしてセイバー。人質について、そして敵の処遇についてを三人して下で話していたのだ。お互いの事情を押し通す、感情論が飛び交うのは目に見えている。あまりに容易に想像がつくので、私は元からその作戦会議もどきの参加を辞した。

 終わったのだろうか。我がマスターからの報告は入っていない。

「これからの行動については、貴方のマスターに直接聞く方がいいでしょう。それより訊きたいことがあるのです。貴方の持つ、弓のことだ」

 そのことか、とすぐに合点がいった。

 弓を私の中から取り出した。座ったまま、左手で握り右手で弦をつまむ。

「それだ……その弓の名を、もしやフェイルノートと」

「いかにも、これはフェイルノート。そして私は円卓を戴いた騎士、トリスタンだ」

「私を謀るか、アーチャー。ブリテンの騎士がアイルランドの英雄の剣を撃ち出すというのか」

「なに? ……ああ、橋の時か。そうか、凛に担がれながらも、私の一撃を見逃しはしなかったか」

 螺旋剣・カラドボルグは確かにアイルランドのフェルグス=マクローイが所持していたとされる刀剣である。

「答えよ」

 握った弓の胴を寝かせて、狙いを定めるために肩に顔を添えた。

 いつもは、その左手の甲に矢を乗せる。確実に当てるための、堅実な技術だった。そこに何かが乗っていると仮定して、つまんだ弦を少しずつ引いていく。

「場合によっては、いつか、力ずくでも聞くことになる」

 長い付き合いの弓だった。投影された伝説の刀剣の数々を、矢として扱うには並大抵の器では荷が勝ってしまう。初めは牛骨だった。鯨の髭を弦に当てた。回り道の果てに、この一本に辿り着いたのは、笑ってしまうほどに必然だった。

 それを彼女は、一目で見破る。考えてみれば、当たり前のことだった。

 弦を離した。

 常人では持つことさえできない剛弓。弦音だけは大して変わらない。糸の振動が出す音を、やはり指先でつまんで消した。

「貴方は双剣を使うという。さらにはアイルランドの出典の剣を矢とする。それを放つのは、ブリテンの弓だ……アーチャー、貴方の存在は、不穏だ」

 不穏という単語が、自分でも呆れるくらいに似合っている気がした。

 世界の不穏を始末する守護者が、その不穏の元凶なのだとすれば、私の結末は己に止めを刺す凄絶なものに違いない。不穏を暴力と定義して、やはり不穏を消すには不穏を当てるしかないのだとすれば、私こそが暴力の具現となるのか。自己の存在さえ否定する輪廻の蛇。ヒーローの結末は、いつだって死への疾走である。

 さりとて、私は反論せねばならない。

「ふむ。そこまで断定するというのなら、見たことがあるとでも、いうのかな。生前にでも? かの無駄無しの弓を見たことがあるなど、出自をさらしているようなものだ。もう一度問うぞ。この弓を、円卓の先陣をきった男が握った弓を、君は、見たことがあるのだな?」

 私はまっすぐ彼女の目を見て続けた。予想してたのか、セイバーは顔色一つ変えることはない。

「さあ、どうだろう」

「セイバー、それを君が言うのか。この弓をフェイルノートだと見破った君が言うのか。それを握る私を、トリスタンではないと一目で見破った君が、それを言うのか」

「勿論だ。それは元々、私の物だから。私こそが円卓の騎士、トリスタンだ」

 とぼけたように口元に笑みをつくり、セイバーは白を切る。

 その不敵さ加減が胸をくすぐり、笑みが浮かんだ。

「当てずっぽうで話す貴方の目は、節穴だな」

 当てずっぽうと言われたことさえ、存外におかしく感じられた。

 だから、こんなことを言おうと思ったのかもしれない。

「そうか。私の目は節穴か。では、君がアーサー王ではないか、という見立てもやはり外れなのだろう」

 今度こそ、セイバーの息が止まった。

 私はそれに目もくれず、さも冗談だというように夜空に向かって口の端をゆがめた。当てずっぽうだよ、と呟きながら。いまだぬるい風を頬に感じた。

 そろそろ降りてこい、と凛の声が聞こえた。返答のないセイバーに私は言った。

「行くらしいぞ。どうしたセイバー。まさか真実だったか」

 どこか茫とした表情で、騎士王だと指摘された少女は立ち尽くしていた。予想とは違い、あまりに露骨な動揺だった。

 様子がおかしいまま、彼女は苦しげに眉を寄せて言う。

「いや、違う……妙な既視感が」

「既視感だと?」

「おーいセイバー」

 衛宮士郎の声に、はっとセイバーは我を取り戻して飛び降りていった。

 既視感、の言葉が私の中で幾度か繰り返される。答えを得ぬまま、凛の叱責に追われるように私も彼女の後を追って屋根から飛び降りた。

 大したことない高さ。同じくして、坂の下から風が吹き上がってきた。合わさった空気の流れが、驚くほどの強さで私の顔を叩いた。

 吹きかかった顔にしばらく残る、生ぬるい風だった。

 

 

 

 作戦を選べる余裕はなかったようだ。

 橋上でバーサーカーのマスター相手に放った遅延効果の矢を配置し、頃合を見計らって間桐慎二に向けて撃つ。ライダーが己の主を庇った一瞬の隙に、セイバーが飛び出し人質を救出するか、ライダーを斬り伏せる。相手を油断させるために、二人と二体は隠れもせずに河原に姿を現す。

 大雑把な作戦だが、時間もない中でそれ以上の案はでなかったらしい。後手に回りすぎている以上、最大限の連携と言ってよかった。そして、最低限の連携でもある。

 人質を取られた二対一。そういう状況で、一瞬の隙を突いての力押しというのは決して間違いではない。

「いくら考えてもきりがない」

 歩きながら、沈黙に耐えかねるという感じで凛が言った。相槌はどこからも出ない。

 私の矢を使うということに、異論はそれほどなかったようだ。

 無事に人質救出が成ろうとも失敗しようとも、その後はセイバーが前衛で圧し、私は後衛で援護に廻る。藤村大河の生命に関わらず、どちらにしろ、ライダーも間桐慎二もここで倒すということだけが明確だった。

 一度私の手を離れた矢は、初速度のまま突き進むだけになる。放出したのなら、その先に目標がいようがいまいが、人質が盾になろうが関係はない。私が描いた想像を忠実になぞり、銀色の矢は突き進む。

 私は、藤村大河ごとライダーを射殺せるだろう。魂さえ自嘲しながら。

 人気のない路地を曲がり、橋までの道を迂回しながら歩く。くだんの崩落で、大橋近辺には夜通し人が絶えることはない。二つの町を繋ぐたった一つの中継点は、急ピッチで再建設されているとのことだ。

 わざわざ、そんなところで戦いあう馬鹿もいない。

 上流の方に道を逸れると、背筋を這う怖気のような気配を感じた。

「ライダーの気配を察知した」

「どっち?」

「この道を真っ直ぐだ……橋の三百メートル上流、いやそれほど離れてはいないか」

「士郎、私も捉えました。間違いなく、ライダーです」

「そうか……よし」

 衛宮士郎の持つ、鉄パイプにふと目を落とした。

 素材に魔力を通し、強度価値その他を上昇させる、強化の魔術。衛宮士郎はいそいそとそれを自分の背中に隠した。

 その様子に悲観はなく、一種の達観がある。地響きのするような火の海で、いくつかの感傷が焼け焦げてしまっているからだ。

 この戦力外の男が、剣を握る日はそう遠くはないだろう。

 一度、目の付く辺りで一番高い民家に上り、その屋根に矢を据えつけた。糸が伸びるのを許す距離はそれほど長くはない。ライダーまでの距離を考えるとこの辺りが限界だった。

 最後の十字路を抜ける。

 視界がぐっと開けたところ――土手に出た。公園のようなところだった。この前の時のように、禍々しい模様の目隠しをつけたライダーと、そのマスターは、わかりやすいように街灯の下に居た。人質は、その街灯に縛り付けられている。

 間桐慎二の手に、一冊の本が開けられているのが見えた。

「アーチャー、藤村先生は?」

 この距離ならば目を凝らすまでもない。

「生きているな。呼吸は正常だ、外傷も特に見えない」

「そうか……良かった、藤ねえ」

「シロウ、安心するのはまだ早い。安堵はライダーとそのマスターを倒すまで取っておくべきだ」

「わかってる。慎二は、敵に回ったんだからな」

 歩を進める。間桐慎二は初めからこちらに気付いていた。嬉しそうに手を挙げ、声を上げる。

「ああ、衛宮。ありがとう。言ったとおり、ノコノコと間抜け面を晒してくれたってわけだ。面倒がなくて助かるよ」

 横にはピッタリとライダーが張り付いている。隙などあるはずもない。

「慎二」

「ほら、藤村だ。安心しなよ、殴っちゃいないし、手も出してない。ライダーが後生大事に抱えていたよ」

 私は、間桐慎二の本から目を離さなかった。

 投影が本質を知ることより発するならば、私の眼は物の質をことごとく見分けることができる。とはいえ本というカテゴリは得意ではなかったが、衛宮士郎と上機嫌に話しているので、中身を判明させるまでの時間は十分に取れた。

 その名を、偽臣の書。従僕を委譲する禁忌の誓約書だった。甲より乙へと――甲の同意さえ得られたのなら、たとえ乙に魔力がなくともマスターとしてサーヴァントを使役できる。そのような効果を、私はその本の中から盗み見した。

 私がそれを知ったちょうどそのとき、一際甲高い声で間桐慎二が叫んだ。

「よし、じゃあ交換条件だ。遠坂の首を刎ねろ」

 とうに予想できていた要求を、だが既知の友だった者から言われた為か喉が詰まっている。

 凛は動じずに、鼻を鳴らしている。人としての弱さのいくつかは彼女に適応されない。

 こぼすように言った、衛宮士郎の返答は、出来ない、だった。

「ライダー、その女の首切れ」

 クン、と小さくライダーの手首が動いた。それだけで鎖は動きを伝え、釘の剣が弧を描き、十分な速度を持って突き刺さる。

「やめろ!」

 ガキン、という硬い音。剣は文字通り首の皮一枚だけ傷つけただけだった。その代わり、鉄で出来ている街灯を、容易く貫き通していた。その穴が何を連想させるか、考えるまでもなかった。

「焦るなよ。脅しってやつ? イライラしてるんだ、だって約束破られたんだからな、あの衛宮に」

 アーチャー、準備。レイラインから伝わる凛の声には、十二分に怒りが乗っていた。

 私は放っておいている矢に意識を通した。ライダーが気付くかどうかは賭けだったが。男はまだ何か言っている。律儀に、衛宮士郎は相手をしていた。凛。合図を待った。

「ほら、遠坂か藤村。簡単だろ? どっちか選ぶんだよ。高校で初めて顔を合わせた遠坂、ずっと一緒の藤村。そら、手伝ってやるよ。どっちが長いこと一緒なんだよ? ん?」

「……藤ねえだ」

「よし! いいぞ! 調子出てきたな! じゃあ次だ。どっちがお前を沢山助けてくれたんだ? ちょっと前に知り合った遠坂か、お前の親がくたばってから世話し続けてきてくれた藤村、どっちだよ」

「……」

「言え!」

「藤、ねえだ」

「決まりだ! そら、決まったぞ! せっかくセイバーがサーヴァントなんだ。その剣でズバンとやっちゃってよ」

「……慎二、最後にもう一度だけ言うぞ。このまま、黙って藤ねえを返してくれ。そうしたら」

「さっさと殺せ!」

「――わかった。セイバー」

 セイバーが剣の柄に手をかけ、抜いた。

 衛宮士郎の言葉が最後通牒だとはついぞ気付かなかったのか、男は偽りの本を片手に高笑いをやめない。

 不可視の剣が振り上がる。観念したとばかりに目を閉じたまま、凛は小さく呟いた。

「残念ね、命だけは助けてあげようと思ったのに……アーチャー」

 遅延信管発動。飛来する矢は銀色の軌跡を描いて、間桐慎二の頭蓋に直進する。

 キン、キンと音の壁を破りつつ、銀光の飛礫は殺意で走る。

「慎二」

 ライダーが矢に呼応し立ち塞がったのと、振り上げた剣をそのままライダーに向けてセイバーが駆け出したのは全く同時だった。

 ライダーもそれに気付いている。かなりの距離を離して撃った矢にそれほど力はない。容易く払いのけ、鎖で繋がれた二本の釘剣の内、一本をセイバーに向かって放ち、もう片方を藤村大河に向けた。

 致命的な距離だった。到底間に合いはしない。

 しかしそれはあくまで人間に換算してのこと。獅子のように低い大勢から駆けるセイバーの俊敏さは、尋常を凌駕した。蹴り上げた地面が暴発した。膨大な魔力を上乗せし、力任せに袈裟に振り下ろす。ライダーが短剣を盾として防御しても、何の意味もなかった。力も魔力も圧倒的な差があった。そのまま勢いを殺せずに、ライダーは自分のマスターごと公園の草むらに吹っ飛んだ。

「セイバー、藤ねえを!」

「承知」

 追撃ではなく、己のマスターの意に従って、人質を縛っていた縄を切り柔らかく受け止めた。すぐさま衛宮士郎が駆け寄り、藤村大河を愛しそうに抱きしめる。

 その光景に在りし日をフラッシュバックさせ、安堵の息を漏らすのはこの状況と、我が骨子が許さなかった。セイバーはそのまま腕を放すと、剣を手にライダーへと向いた。私も干将莫耶を。衛宮士郎でさえ、藤村大河を再び横に寝かせると背中から鉄パイプを取り出して構える。一歩踏み出した凛が嘲笑を隠そうともせずに顔に張り付けたまま言った。

「あらら、形成逆転ね」

 かくして状況は一変した。立てた作戦は、見事に成功ということになった。

 草むらから身を起こしたライダーが、マスターに肩を貸しながら立ち上がった。

「謀りましたね」

「卑怯だとでも?」

 つまみ出したのは、赤と黄色の宝石だった。

 すんなりと戦況はこちらに与した。ライダーも力弱く、圧倒的戦力差を持って勝敗は決した。

 だが、果たしてそうなのか。

「はは」

 間桐慎二が、本を片手に笑いだす。その様はどこか狂人じみていた。

「はっ、はは。ひはあっはは。はははははは」

「狂ったの?」

「最高だよお前たち! 本当にさ!」

 誰も途切れることのない哄笑の真意を読めなかった。セイバーと衛宮士郎が構えなおし、凛が宝石を握りしめ、私が投影を待機させる。微動だに出来ず、つまりそれくらいしか出来なかった。

「本当おめでたいよ。出し抜いたつもりかよ」

 何かがある。セイバーが直感で、私と凛が洞察で、衛宮士郎が不気味さでそれに気付き、一歩しりぞいた。

「二対一? いつから? この川原でか? それとも学校の屋上でか? お前たちの橋での戦いを見て僕たちが結託した日から?」

 危険がさしせまっている。それはひどく近い。

 致命的な罠に嵌ったのではないのか。敵の必殺の領域に立っているのか。

 まさしくその通りだった。

「本当に。ねえ? 慎二」

 

 

 

 セイバーも、衛宮士郎も、凛でさえ、本能に従ってとっさに上空を見上げた。

 蝙蝠の羽根を広げたような格好で、女は被ったローブの奥で笑っている。

 その回りをじゃれ合うように浮かぶ光球は、一つ一つが大魔術の元素だ。単純にぶつけるだけで根こそぎ破壊行為を尽くす、数は八。問答などなく、キャスター以外にありえない。

「……キャスター、お前遅刻なんて許されると思ってるのかよ」

「ふふふ、その怒り、向ける相手を間違えてはいけませんよ」

「くっ……あーあ、そうだな。よくもやってくれたよ、衛宮ぁ!」

 その結託は、いつから組まれていたのか。橋で私がセイバーを助けた所を目撃されたのが原因なのか、対バーサーカーに備えてなのか。だというのなら、道化のように嵌められたのはこちらの方だった。戦況は完全に、五分にまで押し戻されていた。

 マスターの怒号に反し、ライダーはあくまで冷ややかな顔で一歩間合いを詰めてくる。

 ぬるい空気の正体が、発露した。

「遠坂にセイバー……撤退しよう」

 衛宮士郎が、さらに一歩退いて藤村大河の体を抱き上げながら言う。人質は取り返して、もう十分だと。

 が、セイバーは首を振った。

「シロウ、それは得策ではない。二対二とはいえ固体保持戦力の比はこちらの方が良い。むしろキャスターまで現れたのは好都合だ。打倒すべきです。一合も交えぬ内に撤退する選択肢は持ち得ない」

「私もセイバーに賛成」

 凛が続く。

「なんてったって、嵌められたってのが気に食わないし――ほんっと、気に食わないわね」

「当たり前だ、こんなことされて、黙って帰れると思うなよお前ら!」

「あんたに言ってんじゃないわよ、自意識過剰」

 ここでキャスターの登場を、一気に二騎を挫く好機とみるというのは悪くはない。

 私も、さっきあの妙な夜の気配を感じさえしなければ、それを支持したはずだ。鈍い月明かり、川から流れてくるやけに冷たくない風。浮き足立ったような雰囲気。

 戦っているのではない、戦う状況に追い込まれているのではないか。それに気付いた時には、ライダーが釘剣を巻き躍らせながら間合いを詰めてきていた。

「慎二、後退を。これよりセイバーとアーチャーを止めます」

「止めるって、この役立たず。無様に吹っ飛ばされといて! キャスターに任せとけば」

「あれはあくまで最後の一を刺すためだけにいる。この戦況をさらうのは私の力です。元より問題はない」

「あぁ?」

「要害を開放します――慎二、後退を」

 邪魔だからどけ、と言ってるのと何も違わない。間桐慎二が怯えた犬のように後ろに下がったのを見届けると、こちらまで十歩ほどの距離を、ライダーは地にまで垂れる長い髪を揺らしながら、無造作に詰めてきた。

 それが真実――投降するときのように無造作だったからか、彼奴が戒めのように巻きつけた眼帯を取り外す時も、ただ見ていることしか――杜撰。それが致命的な隙だった。

「まずい、凛! 見るな!」

「無駄です。キュベレイは既に捕捉を終えた」

 遅すぎる危険察知に叫んだときには、決着はついていた。眼帯の下の薄紫色の眼球。

 脳髄までもが石化する。

 喉を万力で締め付けられるように息が詰まった。身動きが、取れない。息が。

 私の対魔力など薄紙のように破り捨てられた。ランクはそれほど高くはないとはいえ、シングルアクションの魔術ならば問題なく弾き返す耐性が。洪水のような呪詛の流れが、アーチャーという定義のスイッチを切っていく。

 石。

 凍結。

 鋳型式。

 凝固目録。

 反転禁送受。

 強制停止。

 乱入色。

 傀儡。

 呪。

「魔眼……!? アーチャー!」

 レイラインを通して、凛が悲鳴を上げる。構っている暇はない、私は外から塗り替えられていく定義を内部より構築しなおしていく。身に纏った聖骸布を総動員して外世界の壁とした、侵食された部分に強引に魔力を押し流して戻していく。

 が、絶望的に間に合わない。

「ありえん……!」

 それが魔眼などと、誰が信じられる。

 このような急速な定義の書き換えなど、魔眼などという矮小な範疇には収まらない。城レベルの術式でさえ難しい。拘束を超えた固定の石化など。一人、史上類を見ない石化の魔眼を保持した女に思考が辿り着いた。

「『宝石』クラスの魔眼はやっぱり伊達ではないわね。音に聞くゴルゴーンの秘宝。それでこそ、魔力を貸し与えた意味もあるというもの」

「御託は耳障りでしかありません。早く用を済ませなさい」

「ふん、言われるまでもない」

 月を背負ったままのキャスターが、指を鳴らした。

 するとそれまで無秩序にたゆたっていた光玉たちが、キャスターの前面に集結しだす。形のない、ただの魔力元素。溶けた宝石のようなものだ。毒々しい光を放ちながら浮かぶ、無数の珠玉たち。一つ一つが長い間凛が溜め込んだ宝石一つを凌駕する程の威力を秘めている。

 さらに全身に魔力を流し続ける。それを上半身に限定した。剣製さえなるのなら、キャスターなど一撃で屠れる。リミットを越えてオドの奔流を腕に流し続ける。動け。足りない、時間が。

 終わるのか、ここで、凛に誓った思いすら遂げれずに、終わるのか。

「させは、しない」

 背後でセイバーが動いた。動けるのか。セイバーに備わった対魔力が魔眼に抵抗を示しているのか。だがそれは十の内の二を相殺したという程度で、歩くことすら遅々たるものだった。

「あの魔眼にも対抗できるなんて、セイバー……なおさら」

 ローブの奥でキャスターが微笑む。子供が虫という獲物を手にしたときに浮かべるのと全く同じ、哀れな抵抗を慈しむ、勝利を確信した制圧者の笑みだった。

 口元がわずかに動いた。呟いたのは死への手向けだろう。魔球が空気の粘膜を破いて突っ込んできた。一つ残らず、矛先はセイバーへと向いていた。

 状況を嘆いている暇はない。上書きされた私の魔力回路を、さらに上書きをし直す。強引さに氾濫した魔力が神経を焼いたが、だからどうした。動かねば終わる、そのための代償なぞ。私の回避は後回しでいい。順序はまずは右腕、さらに左腕。

「Αερο」

 星が落ちてきた。

 振り返ることさえ出来ないすぐ後ろに、キャスターの放った光弾が炸裂した。

「ぐうっ」

 地が四方に裂けていく。法則なく解き放たれる魔力が、竜巻のような突風を巻き起こした。ただでさえ視野が確保できない暗闇の中で、さらに砂塵が光を遮る。

「凛、無事か!」

 返事はないが、死んではいない。それだけはわかる。

 砂埃が晴れていく。私は、何とか首だけを回して状況を確かめようとした。

 倒れている衛宮士郎に、凛。外傷は見えない、直撃を受けたわけではなく、突風に飛ばされただけのようだ。

 晴れていく土ぼこりの中で、セイバーは不動で立っていた。無傷のまま、叫ぶ。

「この程度か、キャスター! こんなもので私を殺せると!」

 尋常ではない防壁は、キャスターの魔術といえど打ち破ることは叶わない。

「傷一つない!? なんという対魔力……! 素晴らしいわ……けれど、そっちで這い蹲っている無様な貴方のマスターは、どうかしらね?」

「くっ、シロウ……まだ、魔眼が……!」

 走れず、遅い足取りで衛宮士郎まで歩いていくセイバー、ひどく遅い歩み。あまりに無防備な背中。

 かばねのように倒れている凛。

 セイバーに向かって、千切れそうな腕を伸ばす衛宮士郎。

 私はただ立っている。そんな馬鹿な話が、あるわけがない。

「そうそう、庇わないとね。貴方なら無傷でも、生身の人間ならば髪の毛一本すら残らないものね」

 何かの遊戯に享楽するように、笑いながら地に降り立った。ゆっくりと歩きながら、必死に駆けるセイバーの後を追う。隙だ。隙だらけの背中だった。干将が握られている右腕は、もうかなりの自由が戻ってきている。キャスター程度ならば、一撃で。

 押し流した魔力によってズタズタになった神経をかき集め、干将を振りかぶった。

 ざくり。

 痛み。手首に釘が突き刺さっていた。ライダーの剣。抜けない。右腕は、動かない。

 なんだ、これは。

「貴方の出番はない。じっとしておくのですね」

「ッライダァッ! 貴様ぁっ!」

 もうキャスターを阻むものは何もいない。何の障害もない道を、あえてゆっくりと歩いていく。

 セイバーまで、残り三歩。

 剣の英霊は、持ちえた素早さが幻だったのではないかと思わせるほどに、遅い。呼吸すらままならいほど止まっている衛宮士郎に一歩ずつにじり寄る。すでに石化は全身に回っているように見えた。私と同じように不吉を感じたのか、衛宮士郎は走ってくるセイバーをみて、虫の息で叫んだ。

 残り二歩。

「くるな……セイ、バ」

「シロウ!」

「まだ、キャスターはなにか……」

「なかなかいい洞察だけれど、でも、手遅れね」

 一歩。

 理不尽な鬼ごっこは終わった。キャスターの腕が無造作に振り上げられ、落ちた。

 とん、という音がした。

 画鋲を誤って刺してしまったかのような間抜けさで、オーロラを引っ張ってきたような歪な短剣は、セイバーの背中に突き刺さっていた。

 何の殺傷力もないその短剣を、私は知っている。

 破戒すべき全ての符――“ルールブレイカー”――

「れ、令呪が消えていく……」

 衛宮士郎の、呟き。

「そんな、シロウ!? 契約が途切れて! ぐっ、キャスター……! 貴様なにを」

 あははは。

 キャスターの高笑いはこれ以上ない喜びを謳歌していた。

 勝利を手にした勝ち鬨の声であり、また同時に私たちの敗北の鐘だった。

「ふふ。そう、これは契約破り。ルールブレイカー。響くとおり、あらゆる契約を、破戒する忌まわしき断絆の刃。これに斬られたからには、たとえ聖杯のよるべであろうと『ルールは変わる』の。そしてもう、この子の次の契約は済んだ……はあっ! なんて沢山の魔力を食べるのあなた! これが最強のカード、セイバー!」

 哄笑が、夜の公園というそぐわない場所で響き続ける。

「キャ、スター……貴様の、思うとおりにいくと、思うな」

 精根さえ果てた姿での強がりは、何の力も持たない。キャスターはそれさえ私の楽しみだと言わんばかりに、抑揚を上げた。

「ええ、当然。貴方がすぐさま従順になるなんて、考えてもいないわ。でもね、貴方のそれは抵抗とは言わないの。躾けがいがある、っていうの。知らなくて? ――とりあえず、眠ってもらいましょうか」

 キャスターの唇が小さく動き、何事かを呟くとセイバーが感電したように悶え、すぐに糸の切れた人形のようになってしまった。断末魔さえないのは、すでにマスターとして大概の実権を手に入れたからなのか。

 ローブの女は口元の笑みもそのままに、哀れな道化に慰めをかける。

「ごめんなさいねお二方。でも大丈夫。いつだって物語の結末は、悲恋だなんていうセオリー、私の時代からまだ変わってはいないでしょう?」

「くっ、セイ、バー……お前、セイバーを、どうする気だ」

「どうする? セイバーという最強のカードを手に入れて、どうするですって? あはは、あはは。手駒にするに決まってるじゃない。この子を飼い慣らしたのなら、もう勝ちは決まったも同然、あの汚らしいバーサーカーも眼じゃないわ――とびっきりの陵辱で、身も心も従順に仕立てて上げる。さあ、慎二。我らが砦へと戻りましょう。のんびりしてると、ほら、そこの無様なサーヴァントはもう動けるようですし。でも放っておいていいわね、殺す価値すらない――ふふ、もがく様が虫みたいね」

 言うと、耳障りな笑いを止めることもなく、キャスターはセイバーと共に上空に舞い上がり、ライダーと間桐慎二もそれに続いた。

 何も聞こえない。釘剣がいつ私の手から抜けたのかすら、知らない。

 セイバーの呻きと、衛宮士郎の苦悶と、間桐慎二の罵詈の隙間を縫うように、キャスターの呟きが私に届いた。

「形勢逆転ね――まさか、卑怯だとでも?」

 屈辱にまみれた、皮肉だった。

 宙に浮いたまま、キャスターの短い詠唱の後には幻のように消え去った。

 鈍い月光の下、沈黙だけが残った。

 ああ。しかし、私には一つだけ生まれたものがあった。

 この、身を焦がすほどの――

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