午前五時。凛が眼を覚ました時刻だ。
キャスターが去った後、そのまま衛宮の屋敷に担ぎ込んで都合八時間が経ったことになる。
私は何も言わずに水を一杯。彼女も、無言でそれを受け取った。
どこか間の抜けた鳩の気配。衛宮家で即席に整えられた彼女の部屋の窓、カーテンの向こうから朝が這い寄ってくる。
コップに注いだ分を飲み干した彼女に、二杯目を注いでやる。
肌寒い朝の部屋に、静かに嚥下する音が漂う。
凛の頭には包帯が巻かれていた。後頭部に受けた、キャスターの攻撃で吹き飛んだ礫の傷は、かすり傷といって良かった。血も包帯を巻いただけですぐに止まった。
後ろを向かせてその包帯を取り替えてやる。やはり血は完全に止まっていた。丁寧に包帯を巻きなおそうとするのを、凛が掴んだ。
「いらない。シャワー浴びるから」
「そうか」
「……わたしたち、負けたのね」
呟きを私は沈黙で受け取った。
敗者には何もかける言葉はない。自分も同じく泥を飲んだ側ならなおさらだった。
私は彼女を置いて外へと出ると、昨日の夜と同じように屋根に上がった。
朝を控えた冬の未明。
凛の意気が削がれているのを、責める気にはならなかった。キャスターにライダー、さらにセイバーの令呪まで奪われ、彼女がまだキャスターの力に抗っていると考えても二対一であり、それすらかなりの楽観だった。
方法がないわけではなかった。
キャスターの要塞に突入し、投影できるだけの剣を投影し、私もろとも全ての敵を貫き殺す。また陣地が郊外にあるのなら、その土地ごと消し去る手段もないことはない。
そのどれもが自滅を避けられるものではなく、現実味に欠けている。私の消滅と代償に凛が最後の勝者となれるのならば、考える余地はあるが、今の段階で私が消えるということは、遠坂凛が聖杯戦争を脱落するのと全く同じ意味だ。
反吐が出るような楽観をすれば、セイバーに迫る刀剣が彼女の対魔力に運よく弾かれて即死を免れ、瀕死の内に凛と再契約をさせる。
「難しい話だ」
そもそも、そこまで際どいさじ加減を調整できるのなら、私自身が決死を覚悟することすらない。多分に運に頼む考えだった。
しかしゼロではない。必要なのは、限りなくゼロに近い数字をいかにして引き上げるかなのかもしれない。
聖杯は誰にも渡してはならない。彼女に誓った使命も感じてはいるが、それ以上に『守護者』としての使命も認識している。単なる争いごとで、私が呼ばれることなどありえない。そこには確実に世界の歴史の維持と、忌避すべき破滅が迫っているからだ。聖杯戦争とは、つまり私の考える通りなのだとすれば、陰惨な儀式だった。生前の記憶はほとんど残っていないので、思い出すというのとは少し違うが、かなりの部分を理解した。
「なんという、不毛なことだ」
聖杯が、ではない。
そんなものに夢を抱いたことが、不毛なのだった。
セイバー、君はそれを知らずに、それを求めて、戦い続けている。今も、これからも。
フェイルノートを呼び出した。相当な部分を誤魔化しているので、真実これをフェイルノートと呼べはしない。けれど他に名前を付けることもしなかったので、そうとしか呼びようがなかった。
立ち上がり、昨夜のような戯れではなく、本気で弦を引いた。
軋みあがる何か。何が、こうしてキリキリと音を立てるのだろう。わからないまま、しかし確かに糸に何かを乗せ、解き放った。
ヒン、と未明を裂いた。
弦音だけは、いつもと変わらない。
飛んでいったものが何なのか、忘れてしまった。二度と思い出すことはない。いつもこうして、私は忘れてきた。同じことを何度繰り返してきただろうか、その度に私は、何かを取り戻せないほど遠くに飛ばし、拾おうとも思わずに歩き続けた。
昨日の夜、問い続けるセイバーを横に、私はこうして弓を引いていた。彼女を取り戻そう。糸の振動を指で殺しながら思った。立ちはだかる者は、余さず蹴散らす。
遠坂凛の入浴が終わった頃合を見計らって、私は部屋を訪ねた。
いつものように赤い服に袖を通し、左右で髪を結わえた彼女が立っていた。私は出来るだけ簡潔にいった。
「凛、君はもう屋敷に篭っていろ。あとは私が一人でやる」
トパーズを摘み上げる、彼女の手が止まった。
「……え?」
遠坂凛は間違いなく稀代の魔術師として名を馳せる素養を持っている。素養を、である。
即戦力として、彼女の力は可もなく不可もなくといったところだった。相手によっては十分通用する可能性はあっても、サーヴァントに拮抗できるほどでもない。
キャスターは、単独で魔法さえ行使しうるポテンシャルを見せ付けた。長々とした詠唱を口ずさむこともなく、強烈な魔術行使をする力。ライターの火を熾す程度の労力で、奴は街一つを消せるのだ。
歴史に刻まれるほどの力を誇示した、神すら生きた時代の魔術師の力。現代の人間には理解も出来ない工程で力を生んでいるのだろう。
魔術の叩きあいで、この少女に勝ち目があるとはどう贔屓目にみてもありえない。
そういう思いを隠さずに告げた私の言葉に、少女はあっけらかんと肩をすくめた。
「あ、そういう考え。ん、キャスターは、手強いわ。本当にあれは驚いたし、けど、全く対処の方策がないってわけでもないのよ」
クルクルと指を回す。
「マスターをぶっ殺せばいいんだし」
「キャスターと共に行動していると断言できるのか」
「それくらいの優しい予想も許されない、か」
「無理をすることはない」
私は、声を少しだけ抑えるのを意識して言った。
彼女は初めはキョトンとした顔で、やがてじわじわと顔全体に嫌な笑みを広げていった。
む。
まずいと思った。思った時には、完璧に嵌っていた。
悪魔は、見てるだけで楽しめる玩具を手に入れたように、私を見て笑う。
「ふふーん、心配してくれてたんだ」
「心配など」
「してないとでも?」
「……む」
「へー、やっぱりしてたんだ」
「してない!」
「ムキになってるあたりが、自白してるのよねー」
案外可愛いところあるじゃない、なんて言いながら見下す視線。
反論を口にしようと――彼女は本当に一瞬だけ、年相応の儚い顔を見せて、そして消した。
「ふ――っ」
「凛」
「大丈夫よ……前向きだし、自暴自棄でもない」
大きなため息は、気持ちの入れ替えの作業なのだ。下らない後悔を吐き捨てて、新たな現実を吸い込む。
吐き出して、存分にいらないものを吐き捨てて、パン。頬を張った。
「反撃よ、アーチャー。あそこでわたしの息の根を止めなかったあの女を、後悔のどん底に突き落としてやる」
この意志が、彼女の最も根幹の武器なのだろう。それだけでも、やはり信頼に足る剣だ。
私は立ち上がり、扉に手をかけた。
「どこへ?」
「決まっているだろう」
魔女の城を訪ねる前に、住所を知らねばならないという、間抜けな話。
士郎とあとで行く、という声を聞き終わる前に、私は霊体に身を戻して朝陽が出たばかりの街の中へと、魔力の痕跡を探し始めた。
キャスターは柳洞寺にいる。
半日かけて捜し求めた結論は、意外な所から飛び出してきた。
レイラインを通して、妙に苛立たしい感情の混じった報告を受けると、私はきびすを返して衛宮の屋敷へ戻った。
部屋では静かな怒号が舞っていた。
「ほら、もう一回いってみなさい衛宮くん。
「えーと、イリヤっていう女の子から……ほら、バーサーカーのマスターの」
それを聞いた凛は、頭に血を上らせて卒倒しかけて気を取り直して指を振りかざし魔術の弾丸を連発して――ともかく彼女の逆鱗に触れたようだ。あわや蜂の巣といったところの惨事である。ともかく、それで気持ちは収まったらしい。
「こ、殺す気か、遠坂」
「だったらとっくに死んでるっての。本気で狙って、仕留め損なうわけないでしょ」
「……」
「まあともかく、軽率すぎるわよ、士郎。ほんと馬鹿。あんた、バーサーカーのマスター舐めてるでしょ」
「舐めてなんかないって。殺されると思ったよ」
「じゃあ、なんでいまだにピンシャンしてるのよ」
「いや、それがよく俺にもわからない。商店街で偶然出くわして、ドラ焼き食べながら公園でちょっと話しただけで、帰ったし」
「……あんたはもういいとして、あの小娘もなに考えてんだか……ちょっと、まさか変な『虫』付けられてんじゃないでしょうね」
「付けられたとして、お前が見逃すのか?」
「そんなわけないでしょ」
「だから安心してる」
「……笑うな。あーもういい。とりあえず、今回はこの程度で許して上げるけど、今度軽率な真似をしたら」
「軽率って、そのおかげでセイバーの居所がわかったんだしいえなんでもアリマセン」
満面の笑みで衛宮士郎を黙らすと、凛は続けて柳洞寺への質問を始めた。その寺については衛宮士郎の方がよく知っているようで、二人が受け答えをするうちに私にも大体のイメージが掴むことが出来た。
「山の上の寺、か。要塞としては、磐石ってことね」
山は守るところなり。山は拒むところなり。
特に東洋において、山という場はそれだけで力を持つ。その上に地脈が流れて、寺という蓋がなされているのだから、キャスターにとって塞を築くことはそれほど難しくはないだろう。
「やっぱり最近流行った昏睡事件は、あの女の仕業で間違いなかったわけか。地脈の力に、大勢の人間の精神力に、ライダーに、セイバーか」
ぶつぶつと呟きだすのは、彼女の持病の一つだ。その発作を止めることは無駄な努力だと知っているので、私は霊体のまま静観を決め込む。衛宮士郎は戸惑う。
「あの、遠坂?」
「完全封鎖されてたら勝ち目なんかないんだけど、どっかの穴倉なみに力を溜め込んで蓋なんか出来るわけもないし、力の流れの逃げ道はやっぱり入り口だけと見た方が」
「遠坂ー」
「あーくそ、あの狭い山門を通れっての? 馬鹿馬鹿しい。それにセイバーって切り札もあるんだし、くっそ、鉄壁じゃない。イリヤスフィールっ。場所は教えてやったからあとはよろしくってわけ? ヘラクレスなんか使役してるんだからちょっとは手伝えっての」
「おーいとおさかー」
「……え? 呼んだ?」
「いや、ごゆっくり。俺、一回お茶いれてくるから。あと藤ねえの様子も見てくるし」
ふらふらとした足取りで、凛の部屋を出て行く。私は足音が遠くなったのを確かめて、霊体から実体へと移行した。
足音が遠ざかるのをまって、凛は一段と深くベッドに腰を落ち着けた。
「あいつね、セイバーと毎日訓練してたんですって」
ふぅ、と。ため息を一つこぼしながらいう。厳しくない程度に目を細めて言うのは、お茶が欲しいからではないだろう。彼女の優しさは、魔術師を生業にするにはひどく邪魔なもので、捨てるにはあまりに綺麗なものだった。
「無駄な努力だな」
サーヴァントという存在は、人間とは違う次元に属している。サーヴァントを倒せるのはサーヴァントのみ、またはその次元を超えた守りを打ち破れる魔術がいる。だがそんなものが易々と存在するはずもなく、常識で考えてマスターの出番などない。あるとすれば、よほど修練を積んだ魔術師以外にないのである。
この世に、例外という事例がないのであれば。
「アレも一応魔術師に分類できるけど、使える魔術が強化ただ一つだなんて、役立たずっぷりだし」
素材に魔力を通し、その特性を高める術を強化という。
まるで怠れば朽ちてしまう儀式のように、毎日のように素材に魔力を流していた。そうやって仕向けたのは、衛宮士郎の本質を押し隠す、死にいく衛宮切嗣の精一杯の予見だったのかもしれない。
「通じないっていうのは知ってるみたい。それでもしなきゃならないんですって。覚悟の問題とか、コンマ一はゼロじゃないって言ってた。でも強化しか使えないんじゃやっぱり話にならない」
その誤りに気付ける者はいないだろう。
この少女ですらそうなのだから、切嗣の残したものはやはり本物だったのだ。
「君の目も、案外に曇っているな」
「へ」
「衛宮士郎の保持魔術は強化だけではない。いや、強化以上に適正の魔術を保持している」
「ちょっと、アーチャー。あんた何か知ってるの?」
「何となくだ――それより、今はキャスターだろう」
話の矛先を強引に変える。嘘ではなく、時間がなかった。彼女も承知しているので食い下がってはこなかった。
勝機について話し合う。セイバーはまだ完全にキャスターの支配下に落ちていない、というのは合意した。仮に令呪をかざして、セイバーを完全に手足としたのなら、今頃この屋敷は戦場と化しているはずだった。手に入れた強力な兵器の力を、黙って懐に収めておける女ではない。実験も兼ねて、間違いなくここへセイバーを寄越すはずだった。
「つまり、まだ彼女は抵抗している」
「油断だな。確かに戦力差は圧倒的だが、致命的だ」
「……まぁ、あんたの大口にももう慣れたけどね。でもやっぱりそこよ、つけこむべきところは」
「そう、何も問題はない」
「ライダーさえいなければね。メドゥーサ、か」
言わずとも知れた、有史以来、最悪の石化の魔眼を持つ女。
ライダー。
知らず知らず、右手を握り締めていた。突き刺さる釘剣。あのとき干将を投擲できたのなら、セイバーを奪われることもなかった。
なにかしら胸の内から湧いてくるものを、私は抑え込んでいった。
「やつは、大丈夫だ」
「大丈夫って、何が。あんたの抗魔力なら一回食らった魔眼は利かないのかもしれないけどわたしは」
「違う。やつを数に入れる必要はないといったのだ。あれは今のところ直接的な相手ではない」
ちょっと待てといわれる前に、私は手を振って思い出せといった。
「ライダーのマスターが何を持っていたか、君は気付いたか」
「え、慎二? 藤村先生を抱えてたのはライダーだし、ちょっと待って――あ、なにこれ――本?」
「偽臣の書という」
曰く、臣の使役を他者に委ねる。
従えられる臣にまことの忠誠はあらず、あるは記された一筆の契約のみ。ゆえに偽臣。
「やつは正式なライダーのマスターではない」
「――そういうわけね。おかしいと思ったのよ、間桐の家の魔術回路は何代も前に途切れてしまって今はもうない。絶えた素養には、令呪を宿す力はない――ああもう! 千切って穢土に撒いてやるなんて、いよいよこっちも本気でやりたくなってきたわまったく!」
手に掴んだ枕に拳を叩き込む姿を見ながら、私はいうかいうまいかを、束の間迷った。
ガラガラと玄関の扉が閉まる音、去っていく足音。彼女には聞こえまい、数分前に来客が来たことすら知らないだろう。
来訪者は、衛宮士郎と二言三言話して、いま帰途についたのだ。
迷いというほどでもない、私は長めのまばたきをしてから告げた。
「偽臣の書は、真の主の意志が不可欠だ。どういうことか、わかるな」
ライダーを真に使役するものが、積極的に間桐慎二に加担したということ。
間桐慎二に限りなく近い人間。子供。恋人。あるいはその親族。凛の目に、うろたえがよぎるのを見逃さなかった。
近づいてくる衛宮士郎の足音を察して、私は霊体に戻った。
「悪い、ちょっと桜が来てさ、遅れた。藤ねえが倒れてるのが心配で来たってさ。こういう状況だし、上がれっていうのもなんだったから元気だっていったらすぐ帰ったけど」
「――桜?」
「ああ。知らないか? 弓道部だった頃の後輩で、うちと結構仲良くてしょっちゅう」
「知ってるわよ――間桐、桜」
私もその名を知っている。いや、思い出した。さきほど、衛宮士郎と話している声をちらりと聞いて。
間桐桜。
消えるわけがない、私にとって、最も手痛い悪夢を見せてくれた人。
吹き荒ぶ黒い影、貪り尽くされていく命。
黒い、もう一つの聖杯の素。
戦い尽くした聖杯戦争の数年後、冬木の町を沈黙の廃墟に変えた、昔ながらの普通の少女。
間桐桜。今は、影で参戦しているマスターの一人なのか。
何も知らない間抜けな話し声に、彼女の合いの手が途切れない。