第一話
衛宮士郎はこの夜に死ぬ。そして、一本の剣となる。
予感と、現実逃避と、最後通牒が合わさったような、イメージ。
「士郎、行って!」
空間の許容量を超えた魔術のぶつかり合いの中で、遠坂は叫んだ。
四方をそれぞれ異なる魔方陣で囲い、手にした宝石のポテンシャルを増幅し、紡ぎだす詠唱の合間の一言だった。
俺は、その声で、のろすぎる足取りで、目を腐らすような黒く燃える地面を蹴る。
行かなければ、死ぬのだと、強迫観念に襲われているように。
事実死ぬ。吸い上げ続けた魔力は、もう人の手に扱える代物ではなくなった。黒く黒く、平原を焼いて、空に舞い上がって、太陽さえ燃やしてしまわんと、盛る、滾る、焔。
俺の原風景を再現したようなその図式を、フラフラとした足取りで駆ける。
剣の投影は済んでいる。選定の巌に突き刺さっていた、王の剣、カリバーン。
ああ、もう永遠に俺は、この剣を手にしないだろう。二度と、この剣を思い浮かべることすらしないだろう。そんな予感めいたことを、もしかしたら呟いていたのかもしれない。
障害は何もなかった。彼女を守るように聳える巨人の腕は、全て遠坂に向かっていて、俺はおぼつかない足取りで、呆気ないほど簡単に彼女の前に立った。
「先輩。私」
桜が何かをいっている。悪いけど、何も聞こえない。
藤色がかった綺麗な髪が真っ白に脱色して、真っ白だった肌には悪い冗談のようなどす黒い紋様が走っている。
確かに桜だ、声も、笑顔も。それでも、一昨日とはあまりにかけ離れたその姿と、地獄の門に吸い込まれるように消えてしまった人々と、吸収した魔力の余波で燃えさかる街が、目の前の人間が家族のように過ごした愛しい後輩であることを、丸ごと否定する。
「もう先輩、ちゃんと聞いてます?」
桜に似た彼女は、まるっきり桜の仕草で笑う。
「士郎、殺しなさい!」
凛の声。そうだ、俺は彼女を殺さなきゃならない。でも、お前は桜の姉で……
涙。そうか、遠坂。だからこそ君がいうのか。
もう、彼女は桜ではない。完全に、黒い聖杯――“アンリ・マユ”――と同化している。助ける手立てはない。
桜が俺の腕を掴んで叫ぶ。
「先輩、私、何もいらないんです。何も。先輩さえいれば、だから、私と一緒に」
「さ、くら」
「頷いて……頷いて! でなきゃ私、姉さんだけじゃなくて先輩まで殺さなきゃならない! 先輩を殺したら、この世界で私は一人ぼっちになるの!」
こんなに悲しいことはないと、桜は泣く。
泣いて――笑う。
「でもね、こうも考えられるんです」
こんなに嬉しいことはないと、
「――世界を滅ぼしても貴方さえいれば、二人っきりになれるっていうこと」
桜は笑う。
――終わってしまった。
言葉にさえならない想いが脳髄をこれでもかと責めた。
初めて出会ったときの、どこか遠慮しがちな少女。
次第に仲良くなって、料理を教え始めたら思った以上に素質があったこと。
高校の頃にはすでに抜かれていたこと。
縁側でのんびりと、一緒に彼女の好物のまんじゅうを食べたこと。
彼女の料理の味。繊細で、どこかあったかくて、甘い。
「ね? 先輩、素敵ですよね。世界で生きるのは私と先輩だけなんです。邪魔な姉さんもいない」
俺だ。
俺が桜をこんな風にした。
もっと早く桜の異変に気付けていたら。
彼女はどこかで助けてと、信号を送ってたのではないか。
間桐家の、聖杯に対する妄執。
昔、朝餉に夕餉に見せてくれていた笑顔も、家に帰れば責め苦に惑う泣き顔に変わっていたのか。
俺以外の誰が責任を取る。
「桜」
「ん、なんですか先輩? 質問ですか? なんだって答えてあげますよ」
「俺は、お前を殺さなきゃならない」
俺以外の誰にも、桜を殺させてなんてやらない。
あは、なんて普通の笑顔を、真っ黒な顔で浮かべて、桜は笑う。
「多分、そういうんじゃないかって思ってました。予想、当たりました。悲しいけど、やっぱり私が先輩のこと、一番よく知ってるんだと気付けたし――はい、許してあげちゃいます」
彼女の意志を経ることなく、アンリ・マユの拳が今度こそ俺を捻り潰そうと迫る。
でも、どうしてそんなに遠いのだろう。そんなに遅いのだろう。
もっと速く振り下ろせ、黒い聖杯。でないと、俺の剣が先に桜に届いてしまう。
頼むから、もっと、速く――
そして、何の希望も楽観もなく、カリバーンは桜を貫いた。
ああ、また、罪を。
原風景で背負った罪を、原風景に酷似したこの原野で、積み重ねた。
これは、死んでも払い続けなければならない、負債だなと、思った。家族殺しは、馬鹿みたいに重い罪なんだ。生きている間に返済するなんて、できるわけがない。
それでも立とう。悪いことをしたなら、一つ残らず背中に背負って、間違っても膝は屈しない。走って、折れるまで走って、死んでも走って、誰かのために。
それしか俺は償い方を知らない。
嘘のように軽くなった桜の亡骸を抱きしめて、消えていく黒い炎を見上げた。
滂沱のように涙が出ると思った。悲しさで、涙が出ると思った。
本当に悲しいと、涙は出ないと知った。