桜。ライダー。間桐慎二。
ほぼ完璧に、記録は復活した。桜の声を聞いたことが、最後の堤防を叩き潰したようだ。セイバーに斬られた損傷で予想より遅れてしまったが、今現在取り戻した記録は十割に限りなく近い。イリヤスフィールのことも、思い出している。だが、深いことはあまり考えるのは今の段階ではやめておくことにした。
間桐兄妹とライダーのマスターについての関係を悟った凛は、私を部屋に待たせたまま出て行った。ショックを受けている様子はなかったが、彼女もまた仮面をつけたまま生きる魔術師なのだ。ともすれば、気を使うことも無粋だった。
結局、凛が席を外したのは五分ほどだった。部屋に戻ってくると、一枚のメモ用紙をヒラヒラとさせながら、あの性格の悪い笑みを浮かべる。
「バッチリ。キャスターのマスターが割れたわ」
メモ紙をヒラヒラとさせながら、うっすらと笑う。どんな方法を使ったのか、少なからず驚いた。
「ふむ。聞かせてもらおうか」
「いいこと? ――なんて、格好つけていうほど推理したわけじゃないけど」
勘ね、とあっさり。
「勘か。君の場合、それ以上アテにならないものもないと思うが」
「やかましい。でも、わたしもそう思うけど……まあドンピシャだったからよし。この紙は、ライダーの結界で病院に搬送された教員の名前が書かれてるの」
「ふむ」
「で。意識を取り戻した藤村先生に、この中から、会議に参加したのに搬送されていない人間はいませんか? と訊いたわけ。そして一人だけいたのよ」
男の名を、葛木宗一郎。
聞き覚えはない。
「推測の域をでないけど、キャスターも多分学校にいたのよ、あのとき。慎二とわたしたちの交渉が上手くいかないときは、丸ごと襲うつもりだったんじゃないかしら」
「それとマスターと、どう関係がある」
「慎二は馬鹿だけど、頭が悪いわけじゃない。生徒がいない中で魔方陣を呼び出すのは下の下っていってたけど、ある程度の損得勘定は働くだろうし無駄なことはしないと思う。だから、あれは十中八九キャスターの入れ知恵なんだと思うの。そこに、一人だけ結界の被害を免れた人間がいる、なんてとてもじゃないけど偶然には思えない。アイツがあんな大掛かりな魔方陣呼び出して獲物を逃すような性格してないし、そもそも何であの日に教員会議があったのか、慎二が知ってるわけない」
年増ブスめ、と毒づきながら早口でまくし立てる。
「ふん、大口は君の方だろう。自分の前で教鞭をとっている教師を、魔術師だと君は見抜けなかった。それでこの地を統括すると、笑えない冗談にしか聞こえないな」
「断言できるけど、この男は魔術師じゃないわ。だから後悔しないし、ええ、もう驚かない。ありえないことがありえ、ありえることがありえない。ふん、面白いじゃない。一筋縄じゃいかないなんて、そっちの方が歯応えがあるってものよ――それに、正体もわかった」
私はその意気に笑って、もう一つ皮肉を言おうとしたとき、彼女がバッと指差して先手を取った。
「皮肉も小言も、あとでじっくり聞いてやるから黙ってなさい。キャスターを討つ。作戦をいうわよ」
戦いの前に高揚しているのか、実に楽しそうだ。どこか不自然なまでに。間桐桜について現実逃避をしていないかね? と言いかけてやめた。
ポケットからサファイア、エメラルド、トパーズ、アメジストを取り出して並べる。さらにその向かいにルビーと、ガーネット。二つの赤がどうやら私たちのようだ。
「葛木宗一郎に戦闘能力はないと思うけど、あの年増のことだもの。洗脳して体の自由を奪って人間爆弾にしてるとしてもおかしくない。あ、このトパーズが葛木ね。で、サファイアがキャスター。こいつらはわたしが止める。その隙にアーチャー、ライダーにダッシュ――アメジスト? エメラルドって感じじゃないから、どっちでもいいか。とりあえず、止めて。問題ないはずよ」
「問題ないが」
「で、隙を見て慎二の偽臣の書とやらを焼き払う。これで多分、ライダーはその場を去るでしょうね」
以上、作戦終了。
私はあからさまに、嘆息をこぼした。
「ちょっと待て。それはいくらなんでも無茶だろう」
「何が?」
「ライダーがその場を去るという、確率は?」
「五分。十分に賭けれるレベル。あんたが言ったのよ?」
「少し後悔している……セイバーはまだ抵抗している、というのも楽観だな」
「セイバーの対魔力はAクラス。それに令呪であろうと、どんな契約も相互認定の原理を外れることはない、はずよ多分。セイバーが抗っている可能性は相当高いわ」
「最大の問題は、君がキャスターを止めることが出来るか、ということだな」
「信じて」
畳に散らばった宝石を、一つにまとめて握り締める。
個々に封印された魔力を全て合わせると、大幅な概念形成すら成し得る量の魔力たち。彼女が日々研鑽して積み上げてきたものだった。
「今、このときのために溜めてきた。発散できるんだから、結構楽しみなのよ」
疑念を抱くまでもなかった。
私は湧き上がる気持ちのままに笑って、頷いた。
負けるわけがない。
「賭けよう。あいにく、私のマスターは君しかいないからな」
「これ以上ない、マスターでしょ?」
「柳洞寺から無事戻ったら、認めてやってもいいな」
キャスターに挑戦する。
冬の短い一日が、もう終わろうとしている。障子の向こうの窓からは、朱色の光が差し迫っている。逢魔ヶ刻。鬼が跋扈する、魔術師が跳梁する。夜の闇、散らせる火花と宝石は、より明瞭に光るだろう。
最後に、私は確認しなければならないことを訊いた。
「衛宮士郎は連れて行かないのだな」
凛は、迷う素振りもなく答える。
「当然でしょ? セイバーのいないあいつは、単なる一般人と変わらない。強化以外の魔術が使えない――あんたが言うには他にも使えるんでしょうけど、それでも戦闘に参加できる技量なんかない。というより、今から教会に行けって言うつもり」
「安心したよ」
「安心って、あんた」
「しかし、君にいえるのか? 足手まといは来るな、と」
「いえるに決まってるじゃない。何よ、その目」
「いや、なに。大したことではないが、君は衛宮士郎に好意を抱いているのだろう? だから私が代わりにいってきてやろうと思ったのだよ」
「――ッ! はぁ? っ!?」
「ふむ。間違ってたか? そこまで狼狽するからには、もしや自分自身気付いてなかったとか言うのではないだろうな」
「ちっ、違うわよなに勝手なこと言ってんのよアンタばかこらー!」
「……凛、仮にも魔術師なのだからもう少し平静を装ってくれ。うろたえすぎだ。私としては面白い限りでありがたいが。まぁ任せておけ。なに、心配しなくても君の気持ちを告げ口などはせんよ」
飛んでくる置時計を避けて、私は部屋を出た。
屋敷を囲っている庭の、隅に蔵がある。自分を磨き上げる狭い空間は、ささやかで貧相なものだったが、間違いなく工房だった。
はっきりと覚えていたわけではないが、懐かしさがないといえば嘘になる。窓の格子からの朝陽が、浮かぶ埃を突き刺している風景。無造作に散らばっているようで、どれもこれも思い入れのあるガラクタ達。セイバーとの邂逅も、確かこの場所だった。
衛宮士郎は、そこにいた。座り込んで、鉄パイプを握っている。私が来たことに気付いてはいないだろう。
魔術回路を毎回一から通していく、自殺行為のような修行風景。一般的な魔術師は、魔術回路をいちいち開けたり閉じたりはしない。回路の開閉はそれほど危険が伴い、そもそもそんなことをしなくてもただ開けっぱなしにしとけばよいからだ。無知であり、危険な行為でもある。心臓を動かすために、いちいち胸を切開して自分の手で直接揉みしだくようなものだった。
額に汗の玉を浮かべながら、やがて魔術師見習いは大きく息を吐いた。強化の魔術は、成功している。
「貴様、毎回毎回そんなことをしているのか?」
思わず口から出た。
「なんでお前がいるんだよ」
衛宮士郎は驚く様子もなく、フンと鼻を鳴らしてもう一度鉄パイプに手をかざして魔力のとおり具合を確かめる。私が来ていることには気付いていたようで、あえて無視を決め込んでいたらしい。
「そんなことってなにさ、未熟者が鍛錬するのは普通だろ」
「方法のことをいっている……しかしこれはまったく、ひどいものだ。凛に一度、教えを乞うんだな」
「なんだよ、間違ってるってのか」
「さぁな、そこから聞いてみたらいい。彼女の怒りを買ってせいぜい殺されないように気をつけながら」
なぜこんな場違いな助言をしているのか。さっさと貴様はリタイアだ、といえばいいだけであるというのに。
恐らく、間桐桜の声を聞いたからだろう、と漠然と思った。
誰かを助けたい、という思いは何かの代替行為ですべきではない。誰かを助けることで自分を満たすということ自体はありうるが、自分の全ての欲求が他人を救うことに集約されていることは、一つも噛み合わないピースだけでパズルを完成させるようなものだ。
隙間だらけで、押せばすぐに壊れる。目の前の男も、今からこの先、間違いだらけのパズルを完成させていくのだろうか。私がいま感じているこの気持ちは、憐憫にとても近いものだ。
「なあ、アーチャー」
握った鉄パイプを足元に置いて、衛宮士郎をこちらを向いた。
「バーサーカーから逃げるとき、橋の上に他に人間がいたのを、お前知ってたのか?」
今にも泣きそうな目で、そんなことをいう。
「なぜそんなことを聞く」
「三人、死んだ」
「そうだ、だからどうした?」
「三人、死んだんだぞ?」
突如フラッシュバック。
ぐらぐらと、煮えたぎる空が黒く。
ぐらぐらと、地面が揺れている。立っているのもようやく、だった。
ぐらぐら。どこで手違いが起きたのか、何もわからない。
ぐらぐらが、止まらない。
ぐらぐらと、わからなすぎて、私はあのとき、何も出来なかった。
その悪夢は忘れない。目を覆うような黒い炎。その中心に桜がいて、倒れ臥した多くの人。
こんな悲劇、ありえないと、俺は、手にした剣をこぼしそうになって、握りなおした。
まるで馬鹿だ。
それでも私は、理想を捨てれなかった。悪夢に苛まれても、前に進むことが正しいのだと、信じて疑わず。
あのとき私は、恨みもし、後悔もし、怒った。
けれど信じることはやめなかった。正しいのだと、決して間違えてはいないと。レールから脱線した音に気付くこともなく。
駆け抜けた。桜を失っても、折れることはなかった。命の限り命を助けて、死んだ後も空っぽの欲望と贖罪を続けることを迷うこともなく、英霊に身を貶めた。
救えなかった人間を、彼女だけに留めておきたい。
それは綺麗な願いだったのかもしれない。
至った結末は、雑草をつまみあげるように、命の取捨選択をすることだった。
あのとき気付けていれば、ここまで愚かな醜態を晒し、苦渋の道も歩むことはなかったのではないかと。
束の間の回想を終える。
「今回の聖杯戦争、負けるわけにはいかない。何があろうと」
「聖杯のためなら、関係ない人は死んだっていいのかよ……そんな、自分勝手な都合で……!」
「聖杯とは何だ?」
激昂して立ち上がる衛宮士郎に、逆に私は問いかけた。
「それは、願いを叶える」
「そんなものが本当にあるとでも思っているのか、貴様は。いや、お前だけではない。凛も、最たる者はセイバーだ。聖杯を、何か素晴らしい奇跡の賜物とでも思っている」
はき違えているのも甚だしい。
「あれは決して夢をかなえる万能の器ではない。あれは悪夢の釜だ。ぶちまけられた願いは、想像も絶する地獄を実現する」
聖杯に関する正しい知識も戻ってきていた。二度もこの目で見て、体感した。
黒くて、黒くて、眼を覆いたくなる惨劇の朝と夜。
どの願いも、阿鼻叫喚という形でしか具現化できない、出来損ないの魔法のランプ。この世の全ての悪と怨念の集大成は、どうしてこうも綺麗な物だと思われるのか。人間の欲とは、どうしてこうも盲目なのか。
「今のところ、下らんことに聖杯を使わないと断言できるのは、お前と凛だけだ」
サーヴァントして召還されても、私がすることはそう変わらない。
多くを救うために剣を振るう。その最中に、少数の命を見捨てるということも今までどおりである。
あの三人にしてもそうだ、それ以外に何の方法があった。私と私のマスター、さらにセイバーにこの男、それらがあの鉄の鬼の攻めから逃げ延びるためには、アレ以外の方法などありえなかった。より多くを助けるためには、小さな犠牲には目をつむらなければならない。
「俺には出来ない……」
「出来ない、だと」
「セイバーは助けなきゃならない。何があっても。あいつは俺なんかを必死に守ってくれたし、戦ってくれた。今度は俺の番だ。でも、次はない。三人も死んで、俺は、もう戦えない……セイバーを助けたら、終わる」
もう戦えない。
聖杯戦争を、放棄する、という。
この体、英霊となってしまった私を消し去ろうという、私の思惑は徒労だったと知った。
目の前の男は、決して守護者になどならない。これは、私ではない。
桜の黒い聖杯の前に立ち、何も決断できないまま、この男は眼を背けて殺されるだろう。
戦わない者は、何も失わない代わりに、何一つ得ることが出来ない。
「無様だな。ああ、その姿がお前には相応しい」
「お前にはわからない! お前は、平気で人を殺す! 生活に苦しんで国を変えようと思った人たちは、お前は平気で殺したんだ! 赤ん坊だっていた、その人たちは、苦しんで痛くて」
「なんだと?」
「……あんたの夢を見た。バーサーカーと戦った夜、多分、あの赤い布キレのせいだと思う。大陸風の国だった。あんたは、守護者として」
それ以上いわなくてもわかった。確かに、それは私の所業だ。
バーサーカーに腹を裂かれた衛宮士郎を手当てしたとき、聖骸布の一部を使ったために、私の精神と一部リンクしたのかもしれない。それで、男はあの地獄を見たのか。
「みんな、一人ひとりに夢があったんだ。喜びもあった、悲しみだって、あった。そんなことさえ知る前の、赤ちゃんだっていたんだ。お前は、それを平気で殺した」
いわれなくても知っている。
身に染みて知っている。だから、そんな青臭い理想論を鼻で笑うことが出来る。
「そうだな。で、それがどうかしたのか」
「な、に?」
「どうかしたのか、と聞いている。いまさら、何を貴様はいっている。命に貴賎はないが、より多くを救うためには少数の命を見捨てなければならないなどということ、目の前でして見せてやっただろう。橋の上で」
「――ッ、テメエ!」
掴みかかってくる衛宮士郎を、私は片手で払いのけた。勢いあまって、ガラクタの山の中に転がっていく。転がりながらもこの男は、認めない、と暗示のように言うのをやめない。
「人の命の重さを、お前はわからないんだ」
「誰よりも知っているからこそ、だ。守護者として剣を振るう俺が、平気だったように見えたか――貴様如きが……私の正気を、戦いもしない貴様如きが推し量るな。私が嬉しがってやっていると思うのか。人を殺す感触を貴様は知っているのか。赤ん坊の断末魔を聞いたことがあって、貴様は言うのか」
そんな反論が来るとは思っても見なかったのか、座り込んだ衛宮士郎は、半ば呆然としていた。
「じゃあ、どうして」
じゃあ、どうして――
その答えを私は知らない。答えを求めて走り続けて、どうすれば良かったのかいまだにわからずじまいで、こうとしかいえない。
「私には、それしか方法がないからだ」
その先には笑顔があると信じて、一念に、剣を振るうことしか。
それすらも嘘で、いつだって怨嗟と裏切りと醜悪な呪いだけを背負わされたが。
「ふん。ともかくだ、あれが人の手に渡れば、とんでもない災厄が招かれる。そう、貴様が体験した十年前の火災など、ただのボヤに見えるくらいのな」
「お前、何で」
「死ぬわけにはいかない。敗れるわけにはいかん。あの三人は気の毒だと思うが、運が悪かった。そしてこれからも、勝つためなら誰であろうと殺す。万のためなら十や百の犠牲は仕方がないのだ。それを嫌えば、万のさらに数倍が死んでしまう。理解できないとは、いうまい」
「違う、それは、絶対に違う!」
「何が違うというのだ?」
「誰かが犠牲にならなきゃ築かれない未来なんて」
「では皆で心中をするのか。まさかとは思うが、本気でこの世の全ての人間を幸せに出来ると、思っているのか?」
何か、頭の奥に引っかかるものがあった。一つの単語。この世の全ての人間さえ救える、そんな存在の言葉を、確かなんといったか。思い出せないくらいなのだから、どうでもよいものなのだろう。
「それこそ魔法――違う、決して叶わぬ夢だ。いいことを教えてやろう。聖杯に、この世から殺人をなくしてくれと祈れば、どうなると思う?」
「それ、は」
「まず悪人が全て死ぬ。将来殺人をおかしそうな可能性を持つものも死ぬ。萌芽であるだけで、人は皆死ななければならない。つまり、平和など、どこにもありはしないのだ」
「本当に、ないのか? アーチャー、本当にないのか?」
ない。
しかし、忘れられない誓い。
この誓いだけは、どうしても消えない。
「それでも、平和を願わずにはいられない――だから、夢に過ぎないという」
衛宮士郎が立ち上がってきた、認められないと、暗示を呟き続けながら。あるんだと、全ての人が笑って暮らせる世界があるのだと、切嗣の残した言葉に、囚われて、だからそれに縋るしかない歪んだ生き様。
「貴様は結局、責任逃れをしているだけだ。あの三人も、幼少の頃の火事の被害者も、全て自分のせいだと思っているのだろう? ――そうだ、そのとおりだ。衛宮士郎という男がいなければ、他の者たちが助かっていた。事実だ、避けようのない事実を、貴様は他の誰かを助けることで、なかったことにしようとしている!」
「違う!」
「人の命を、他人の命で帳尻を合わせようなどというのは、傲慢以外の何物でもない」
「違う違う!」
「眼を背けるのも大概にしろ、そして言い訳をやめろ! 貴様が何人助けたところで、死んだ人間は生き返りはしない! 戻ってきやしない! 貴様はそうして逃げている。助けたら助けられなかった分の後悔に充てて、忘れようとしている! いや、忘れてはいないか。覚えているということでさえ、貴様は免罪符にして生きている。それは生きている人間も死んでいる人間も、果ては自分自身さえまともに見ようとしない逃避だ――持つべきは、語らず、逃げず。ただ受け止めて見つめ続ける覚悟だというのに」
「違う、違う! ――ぐ、ぇ」
感情の激に体がおかしくなったのか、うずくまり、衛宮士郎は口から胃の中のものを盛大に吐き出した。鼻水と、涙も一緒だ。それらを吐き出しながら、衛宮士郎は叫ぶのをやめない。
「それ、でも……間違っちゃいないんだ……だって、こんなにも綺麗だ……あんなに……人が笑っている姿は、あんなにも、綺麗なんだから!」
過去の自分。
私は、本心で自分が変われるとは思っていない。
矛盾が果たしてどれほど重なろうと世界の監視、調停の握力は私の逸脱を許すとは思えない。
これは怨嗟などではない。
わかりやすい欲望だった。とても単純な、八つ当りという理由。
たまらなかった。想像するだけで、暗いものが蠢いた。そして今、想像だけではなく、肉をもってここに。
衝動。それは、どこか性欲に似た。
「正義の味方になりたいっていう――夢!」
殺そう。今ここで衛宮士郎を殺そう。
令呪の縛りなどどうでもいい、ランクが一つ繰り下がるからどうした。瞬間、ぐらぐらと沸騰した脳が、考えること全てをやめてしまった。
あの苦しみを、あの殺戮を、正義の味方などといってこの男は夢見ている。
真っ白だった。
私の手にはすでに干将。
背筋から頭頂へと、刺激が肌を灼いた。今ようやく殺せる。いや、いつでも殺せた、それでも私は耐えたのだ。なんのためにか、忘れた。忘れたが、私は歯噛みをして耐え続けた。赤い令呪の糸が、太い綱となって拘束を始める。振り下ろそうとする私の腕を、ギチギチと定義が締め上げる。
それで思い出した。凛が聖杯戦争で勝つために、彼女との約束を守るために、私は耐えると。
――だから、どうした。
そんな誓いさえ吹き飛んだ。目前の男は、私の、逆鱗に触れたのだ。
「もう死ね」
人一人殺すのに片手で足る刀を、逆手にもって、殴りつけるように振り下ろした。
衛宮士郎が青い顔をして振り向く。私の放った殺気に、一瞬早く反応していた。のろまな仕草で逃げようとする男。
「――チッ」
令呪の強制力は予想以上だった。こんなときだけ、マスターのキャパシティが恨めしい。転がっていく衛宮士郎を追う。踏み込んで、さらに二撃目を振り下ろした。とっさに掴んだ鉄パイプが奴を守った。真っ二つになった、鉄パイプ。干将はかすかにやつの胸をえぐっていたが、致命傷ではない。その鉄棒にとっさに強化をかけていなければ、心臓にまで達していたというのに。もどかしすぎるこの怒り。ちょこまかと、貴様は、なんと、生き汚い。
三撃目。それを、衛宮士郎は寸前で防ぎきった。半端な強化をかけた鉄パイプなど真っ二つにする干将を、完全に受け止めていた。
私の干将を受けたのは、瓜二つの同じ剣――干将。
「あ、がああぁぁっ!」
火花を散らす、鏡あわせのような陽剣と陽剣。
「投影魔術だと!? 早過ぎる、貴様――そうか聖骸布の祝福か……!」
「……ない」
押し合う、衛宮士郎は人間以上の力を出している。筋肉に魔力を流して、強化している。感情の昂りが、そこまでの応用を許したか。もはやスイッチも完全に入ってしまっている。
「死ぬわけには……っかない!」
生きなければならない、生きなければならないと、この男は暗示を呟くことでしか立つことが出来ない。
「あの火事で、死んだ人のためにも、俺は生きなきゃならないんだ!」
「だからそれが言い訳だという。ならばさっさと教会へ行け、ひざまずいて大人しく祈りでも捧げていろ!」
「違う! それじゃ何の償いにもならない! 俺が勝って、争いを止めればいいんだろう!」
「何を言う。お前はもう終わっているのだ。どういう形であれリタイアを考えた。考えたという時点で、貴様は運命に屈したのだ」
「運命に、屈した――?」
この男は、一度背を向けた。セイバーを助けた後に、リタイアすると。
敗北を拭い去ることは、誰にも出来ない。
「そうだ、お前は屈した。抱いた夢も、掲げた理想も、お前は己の非力さの前に曲げるしかない。お前は、セイバーを助けてから、それで勝手に責任を放棄することを選んだ。自分に負けたのだ」
ついさっきの、無様な敗北宣言を忘れたとはいわせない。
無意識だからこそ、そこには何の飾りもない本心がある。
「貴様には何も出来ない。衛宮士郎は、ただ自分が不幸になるためだけに生きている。そんな男に、出来ることなど何もない。自分さえ救うことが出来ない人間に、誰かを救うことが出来ると思うのが、そもそもの傲慢なのだ」
「……あ」
それが、至った私の結論。
人を救えるのは人だけだ。幸せになりたいという、大事な部分を欠落させたまま生きた俺が、元から人を救い続けることなど、どだい無理な話だったのだ。
「俺の、幸せ」
紛い物の干将を、今度は間違いなく貫き通した。折られた剣は幻想へと戻り、私は何の守りもない衛宮士郎に、右腕を振り下ろした。
刃先は、衛宮士郎を傷つけることなく、石畳に突き刺さった。
目の前にいる男は、すでに根元から折れていた。
殺す気が失せたのではない。
私が耐えることが出来たのは、聖杯の氾濫などで死なせてはならない、より大勢の人の笑顔。その、どうしようもないほどの想いが、私を。
ここで殺せば私のランクが下がる。それでは、聖杯戦争を勝ち抜くことが難しくなる。
「さっさと教会へ行け。セイバーを失った貴様はもはやマスターではない。令呪の染みた腕を切り落とされることもなく、保護はしてもらえるだろう。そして哀れに生きていけ。生きなければならないのなら、空っぽのまま生きればいい。その間違いに気づくこともなく、空っぽで」
本当の人間なら、生きたい、と叫ぶはずなのに。
この男は、生きなきゃならない、としかいえない。
半端に残った理性でそういい残し、私は蔵を後にした。
私の復讐は終わった。この男はかつての私ではない。私が私を殺してこそ、細い細い蜘蛛の糸にすがる権利を得ることが出来た。けれどそんなものはどこにもなかった。何一つ言葉をこぼさぬまま、正義を目指した少年は、その果てがただの幻想だったと知り、膝をついた。
凛が待っている。私は思考を切り替えて、骸を背に、歩き出した。
庭から門へ。柱にもたれて待っていた凛が、怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「アーチャー、あなた」
「行くぞ。余計なことを考えている余裕はないだろう」
それでも何かを言いたそうな表情のまま、凛は私の後ろについてきた。
道は朱色。影が長い。逢魔ヶ刻。山につく頃には、月も見えるだろう。