赤い弓の断章   作:ぽー

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第三話

「三人を殺したのは、わたしよ」

 民家の屋根の上、柳洞寺への最短距離を駆け抜けながら、凛は吐露した。

「アーチャー、あなたはあの時逃げようといった。それを押し切って、セイバーと士郎を助けに向かわせたのは、わたしの意志よ。だから、関係のない三人の犠牲者は、わたしが」

「やめろ、不毛ないい争いだ」

 私と衛宮士郎の口論が聞こえたのだろう。殺そうと、干将を振り上げた所も見たのかもしれない。いざとなれば、彼女は衛宮士郎の命のために、最後の令呪を使ったのだろうか。下らない、感傷的な仮定だった。

「士郎は」

「あいつが、なんだ」

 奴は運命に屈した。立ちはだかる運命の前に、己が非力さを痛感した。

 正義の味方など、なることはない。あの男は、命の尊さに怯えた。失うことはただ失うことだと、何も得るものがないのだと認めてしまった。橋上で失われた三つの命。その代価を支払い続けることの意味。そして、その重さ。

 不意に浮かんだ、さっきの衛宮士郎の姿。胃の中のものを全て吐き出しながら、涙に濡れながら、それでも誓った願いは尊いものだと叫んでやまない、無様で愚かな姿。折れたのだ。

 衛宮士郎は幸せを知らないと認めてしまった。この未来に幸せはなく、目指してきた過去にも幸せはなく、そんなもの全て子供の頃の火事で燃やしてしまったのだと。

 正義の味方などという幻想を求め続ける道程。人を助けるのは人。自分すら救えない人間に他人を救う術はない。これほどの自虐もあるまい、と思いつつ。

 しかし。

 ひざまずき、倒れ臥し、背骨を叩き折られ、なおそこから立ち上がれるなら――

「あいつはリタイアした。敗退した者の話などするな」

 下らんと、言い捨てて私は先を急ぐ。馬鹿馬鹿しい考えも捨てた。今は戦いだけ考えてればいい。

 凛はなお続けた。

「士郎だけじゃないあなただって」

「私が、なんだと?」

「そんなに、辛そうにしてるじゃない」

 喉に詰まりかけたものを、無視して答えた。

「ふん。とんでもない言いがかりだ。後でじっくりと問いただすことにする」

「バカ――こっちだって、訊きたいことは山ほどあるんだから」

 だから絶対生きて帰る。

 いつの間にか辿り着いたその山の入り口で、漏らした言葉はさんざめく林にさらわれた。

 禍々しいまでに瘴気が濃い。頂上に仏を据えた山というのは、清浄な空気を纏うはずである。それをここまで、血生臭い魔力の匂いで満たす、相当な力を溜め込んでいるとわかる。

 くっと歯噛みして、凛が頂上へと至る長い長い階段を駆け出した。私は無言でその後に続いた。

 階段を登っていく、遠くに小さな山門が見え出す。彼女には見えなくとも、私の目にははっきりと見えた。

「凛、止まれ」

 前へ出た。男は、楽しげに目を細めて、こちらを見下ろしている。

 不思議な光景だった。障害は、自身を障害だと主張するか、そうではないと否定するかのどちらかに分類される。前者はその姿形で重圧を与え、後者は陰に潜みひたすら必殺を待つ。

 山にかかった階の頂上に、一人の男が立っている。その男はどちらでもなかった。山門の前、月を浴びて居る。そこに居るために居るのだ、とでも言うようだった。どうも敵らしいと、すらりと伸びた、身の丈より長い日本刀がそう思わせる。

 しなやかな風の中、皆無の隙を背負って侍は立っている。

 だが六騎の英霊は既に知られた。この男はアサシン以外にありえない。立ちはだかるならば、打ち倒すのみだった。

「アサシンまでいるなんて……! 今回のマスターは腑抜けばっかりってわけ!?」

「下がっていろ」

 告げて、階に足をかけた。一歩ずつ、登っていく。

「アサシンか」

 さもどうでもよさそうに、男は答えた。

「見よ、よい月だ。いくらか落胆し通しの二度目の身だが、こればかりはあの頃と何も変わらぬ――いかにも。アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎」

 驚きはしなかった。英霊として呼ばれるにはあまりに不適なその男にとって、真名を隠すという行為はどうでもよいのだ。

 佐々木小次郎。天下一の技量を誇った、極東の侍。

「あいにく誇りなどドブに捨ててしまってな。答えようとは思わぬよ」

「かまわぬ。さりとて些末なことよ。のう? 剣使い」

「――貴様」

「バーサーカーという出で立ちでもない――アーチャーか。されど気配は剣のそれ。豪奢よな、此度の聖杯戦争は私を含め刀剣が三本。セイバーとの戦は叶わなかったが、代わりの相手を見つけて良しとするのも悪くはない」

「セイバーをどうした」

「無粋なこと。最強の剣技を誇るというあの少女も、その誇りすら今宵限り。刃を交えてみたかったがそれも叶わぬ。小憎たらしい女狐に、油揚げをひょいとさらわれた気分だ」

「そこをどけ」

「生憎、そういうわけにもいかぬ」

「ならば朽ち果てろ」

「参れ」

 番えた弓から、銀の矢を放つ。

 その数四。左右の林を縫って行く二本。石段スレスレを飛び込んでいく一本。それら三本は陽動であり、本命は上空に打ち上げられ刀の隙を狙う最後の一本。

「弓手の真似事は出来るようだな」

 佐々木小次郎と名乗った男は動かなかった。右に半歩、石段を一つ降り、構えもないまま無為に長刀を払った。

 それで陽動の三本は全て死んだ。林より飛び出した二本は狙いを穿つこともなく交差し、反対の林を蹴散らしながら外れた。下段を狙った三射目は胴を断ち割られ、背後の山門に届くこともなく霧散する。最後の上空の一本。

 アサシンの頭蓋に突き刺さる直前、狙いも重力も逆らったそれは、グルンと光を翻すと射手である私に向かって反転した。

 莫耶で切り捨てる。

「燕に劣る」

 背中を冷たい汗が伝った。悪夢のような技量に、私は畏怖を覚えた。

 どうすればそのような見切りが可能となる。ありえない尺の長刀の動きは精密を極め、細い銀の矢を撫でて巧妙に軌道をずらされた。

 が、それだけだ。

「それがどうした」

「確かに。こんなものは小手先の遊びに過ぎん。お互いにな」

 打ち合え、と。

 私は自分が放った矢のように、階段を駆け上がっていく。

 位置は不利だった。私の握る双剣の、数倍にもなる間合いを誇る長刀は、ゆらゆらと流れてはいる。しかし一たびその時が来れば月光さえも切り裂くだろう。

 だが、言った。それがどうした、と。

 干将莫耶。突っ込んだ。臆することはない、足下の不利など力技で撥ね退ける。ランサーのように、相手を威圧するようなものはない。手にしている長刀も、見事な業物だが宝剣や魔剣の類ではない。

 数歩の間合いを詰めようとして、

 首。

 刃が、閃光のように。

「な、に」

 ついさっき駆け抜けるために蹴り出した足を、今は後方に逃げる為に蹴る。

 その一撃を防げたのは、長刀が月の光を照り返したからでしかない。双剣を繰り出そうと右手を握り締めた瞬間、風のような切っ先が私の首先を舐めたのだ。

「惜しいな。もう半寸見切るのが遅かったのなら、その衣がさらに濃い朱に染まっていたものを」

 月下。流麗の文字を体現したような男は、言葉を風に乗せた。

 圧力のなさは、決して威力のなさを証明しているわけではない。誘われ、不用意に進んだのなら、首は胴体から容易く離れる。

 私が振るう双剣の隙間を縫うように、歪曲する煌めきがただ必殺だけを狙ってくる。水のように、押せばいなし気を抜けば間隙を縫って溢れてくる。圧力がないからこそ、純粋なまでの殺意が、何の隔たりもなく迫る。返す刀が速い。長刀は、まるで生き物のように空間をうねる。主より、まずはその得物を叩き折ろうと莫耶を振っても、どんな軌跡を描いて回避するのか、次の瞬間にはこの首筋に迫っている。

 見切れ、この眼は猛禽のそれだ。鍛え続けてきた自身の力だからこそ、上のない信頼がある。

「田舎侍が、よくも吼える――!」

 剣筋は一度見れば十分だ。柳洞寺に至る、二度目の登攀。駆け上がり、疾風のように迫る一撃を干将で受ける。翻る物干し竿を、追って、脳天を襲う二の太刀を莫耶が。三つ目の太刀を、回転を上げた干将。しかしそれ以上に、侍の刀は素早さを増して迫る。一つ余さず、全て急所。一歩も踏み込めない。五尺の距離が、ここまで至る石段の長さより遠く感じる。

 余計なことを考えるな。

 目を凝らせ。しくじれば、その瞬間にまるで鶏のように首が飛ぶ。

 

 

 

 佐々木小次郎と名乗る男に、宝具はない。魔力すらない。

 手に一刀。磨いた技量は、世界を変えた英雄の域にまで達する。

 構えすらない、流れるような自然体に、磨き上げた技の果てに、辿り着いた境地を見た。

 打ち合い、いなしいなし合い、どれほどの合を重ねたのか。

 干将莫耶、身を灰にした夫婦の守りは鉄壁だ。ただそれだけで、この首がまだ残っている、滴り落ちる血液が胸に伝った。避わしきれなかった刃が、首筋を何度も掠めているのだ。

 だといって、ただ無為に受けただけではない。打ち合いながら、アサシンの繰り出す剣技の軌道を私は読みだしていた。どんな使い手であろうと、必ず癖は存在するのだから。

 迫り来る刃を、右剣で払った。アサシンの次の攻撃はそこから滑るように速度を増して、一撃は首筋を狙ってくるはずだ。迸る細身の銀色。そこに、渾身の一撃を叩き込む。

 そもそも日本刀は刀剣同士の斬りあいを旨としない。平面を舞い、一撃に賭ける切断の武器。西洋の剣のような肉厚はなく、細身の、しかもこの尺の長刀のことだ。真っ向からぶつかり合えば、叩き折ることが出来る。

 アサシンも承知の上で、あえてそういう風に戦っている。真っ向から斬り合いはせず、私の剣をいなし、間合いの外から急所を目がけて的確に刃を滑らせる。

 だから頼るべくは、観察眼による読みだった。

「しっ!」

 読みどおり、切っ先は真っ直ぐに私の首筋へと迫り来る。迎え撃つように黒く染まった陰剣。叩き折れると、確信した。軌道が交差する。砕いたあとは、五尺の距離も一歩で踏み越え、陽剣でアサシンの胴を貫く。この、一撃で刀を砕ければ。夜の闇に透き通る剣閃。私の左剣とかち合う瞬間。

 そして軌跡が歪んだ。

 あるはずの手応えが、どこにもなかった。

 決定的だと繰り出した一撃を、完全に回避された。私はいま無防備だ。莫耶は死んだ。干将も間に合わない。アサシンの殺気。空気が断たれる音が聞こえる。

 馬鹿な。考えている暇があったら飛べ。

「ぐぅっ、かっ」

 後先など毛頭ない。今という窮地を脱するだけだ。石段を蹴り、背後の闇へと身を投げた。

 追い迫ってくる長刀が、私の背中を切りつけた。その焼けるような痛みが、逆に私の冷静を維持させた。石段を無様に転がり落ちる。アサシンの制空圏から逃れることだけを考えた。

 真一文字に斬られた背中に、手を当てた。ジクジクとした痛みがある。私が輪切りにされなかったのは、何のことはない。石段一つ分の高さの差だ。傷は浅く戦闘に支障はないが、アサシンの壁の前に、私は完全に止められた。

「アーチャー!」

「まだ手はある」

 まだ、敗北を喫したわけではない。この身が消え去るその時だけが、敗北なのだ。

 フェイルノート。

 剣技の差は、雲泥の間より大きい。わざわざ、相手の土俵で勝負する理由もない。

 干将莫耶を消す。弓と矢をもう一度構えた。

 バーサーカーに撃ちこんだ時のように、ありったけの矢をつがえて解き放った。

 二十二発の銀色の流星は、石段の上を、林の中を、あるいは上空を。アサシンの体に牙を突きたてようと疾走する。ただ斬るだけで防げる量ではない。私は着弾を見る前に駆け出した。体勢さえ崩せればいい。そのまま一撃を加えれればよし、そうでなくても山門の中に駆け込むことが出来る。

 殺到する矢を前にして、佐々木小次郎が初めて構えを取った。だらりと下げられていた、物干し竿と呼ばれる五尺の刀が、初めて獲物を切り殺す姿勢を整えた。

 そして言う。

「――見逃すな、これが唯一にして最も秘する、技」

 正面から三本、右から二本、左から六本。

 当たった。そう思った時には霧散していた。三方向からの攻撃は、全て同時に攻め立てるように放っている。その全てが、全く同時に消えた。時間差で迫る、上空からの三本、再び正面から五本、さらに地を這うように迫る二本。もはや当たるとは思えなかった。私は駆け抜けていた足を、おしとどめ、目を凝らしてその剣の軌跡を追った。

 竹のように割られ、霧散する矢達。切り裂いた刀の軌跡は三つだった。

 完全に『三つ同時』だった。

 一本しかない刀が、一振りで三つの軌跡を描く。それは一体、どんな魔法か。

「燕がな」

 一つ余さず切り捨てて、佐々木小次郎はひどく遠い昔のことを思い出すような顔をしていった。

「この刃を逃れるのだ。するりと。あやつらは見て避けるのではない、その体で感じているのだと、気付くまでも長かったが、これを身につけるために費やした歳月の比ではないな」

「一度に、三度だと……」

「こう斬ってはこう避ける。ああ斬ってはああ避ける。ならば、逃げ場を無くしてやればよい。ただひたすら刀を振るって幾星霜、かくして私が身につけた唯一の技だ。秘剣の名を、燕返しとつけた」

 いうほど、それは簡単なことではない。いや、違う、不可能なのだ。

 壱と弐と参。三方向からの太刀は、全て同じ刀のものだ。一度振る刀に、空間と時間を捻じ曲げてさらに二つ。悪夢のドッペルゲンガさえ子供だましに貶める、事象を捻じ曲げる、多重屈折現象。

 宝石老の名を冠する、それは壮絶な奇跡の領分だ。

「刀の檻だとでもいうのか」

「檻か、言いえて妙よな――檻に飛び道具は利かんぞ」

「あれで終わりと思われては困るな」

「あの程度の矢、夜すがら続けた所で眠気覚ましを越しはせん。だとして、お前の精根が尽きるか娘の命が尽きるか、どちらが早いかな」

「私と、斬り合いを望むのか」

「然もあらん。見たところ、明国の夫婦剣だけ、というほど芸が小さいわけでもあるまい。楽しみを奪ってくれるな、アーチャー。お前の繰り出す刃と火花を散らすのは存外に心地よい。愚直な太刀筋だが、それは一念に鍛えた見事な絵だ」

 侍は、嬉しそうに笑った。

 この男に、目的や望みがないことを、私は理解した。望みというのなら、今この瞬間を指すのだろう。求める理由すらなく、純粋なまでの、刀を交え敵を打ち破る喜びだけがあるのか。

「続きだ。存分にさらけ出せ。それでも私の秘剣をかいくぐるのは容易くは――愚図愚図しすぎたか」

 言葉を途中で切ると、アサシンは詰まらなさそうに山門まで足を引いた。

 そして山門の奥、ふっと沸くように、二つの人影が浮かび上がっている。

 どこかで見たような影は、口元にどうしようもない笑みを浮かべながら、言う。

「どこかで見た虫と思ったら、いつかの公園のアーチャー。うふふ、来たのね」

 キャスター。では、その横のもう一人は誰なのか。白いドレスに身を纏い、両手首を赤い糸のようなものでくくられ、吊るされている。

 それはどこか、耽美的な終末絵画のようだった。

「セイバー! キャスター、あんたセイバーを!」

「ええ、抗う姿はとても可愛かったわ。でもまだ安心していいわ。この子、どんな痛みを与えても、絶対にうんとは言わないのだから、困っているくらい。それでも今宵限り、そろそろ飽きてきたし、この令呪を使えば全て私の思うまま」

 キャスターの背後で、赤い鎖のようなものに掴まったセイバーの姿。鎧ではなく、白いドレス。剣を取って戦う彼女にとって、それこそが最大の冒涜だろう。懸命に、歯を食いしばって耐えている。赤い手錠から、時折電気のようなものが走るたびに、セイバーの苦悶が山の中で空しく響いた。

「その男を突破して、ここまで辿り着いたのなら返してあげる。ふふ、ふふふ。嘘だと思う? 本当かもしれないわよ? ふふ。確かめるためにも、ここにやって来なくてはね。小娘、あなたは来れるでしょう、邪魔者はアサシンが止めているのだから気兼ねなくおいでなさい。約束するわ、セイバーを返してあげる。嘘はつかないわ、確かめにおいでなさい。ふふ、ふふふ。本当よ? ふふ、あはは」

「凛、相手をするな。この男を倒しさえすれば済むことだ」

「あら、あなた倒せるの? じゃあ今すぐセイバーを虜にしないとね」

「……キャスター、楽に死ねると思うな」

「馬鹿な子は嫌いよ。この身は一度死んでいるなんて、貴方にだってわかるでしょう。今さらそんな脅しがきくと思って? 浅はかさも大概にしないと不愉快に至るわ」

「アーチャー、もういいわ」

「駄目だ、相手にするな」

 凛が、一歩踏み出してきた。

 このマスターの考えなど、聞かなくてもわかる。私は自然と声を荒げていた。

「待て、凛!」

「三つ数えたらダッシュする。アーチャーはアサシンを止めて。その隙に私は柳洞寺に入るから」

「下らん罠に乗ることはない! ライダーとキャスターを同時に相手できると思っているのか!」

「それでも、しなきゃならないでしょ! 大丈夫、打ち合わせどおり、慎二に不意打ちかませばライダーは消える。そうなれば、ほら。キャスター対わたし。何の問題もないわ」

「馬鹿な! 君はそんな甘い考えが!」

「セイバーが完全に落ちたら終わりなのは知ってるでしょ? ――待ってるから、早く来なさいよ。でないとわたし、死んじゃうんだから。三」

 二。

 止める暇はない。彼女の意識を奪おうと首筋に肘を叩き込もうとして、それを知っているように凛は一を数える前にもう駆け出していた。不愉快そうなアサシンから、繰り出される刃。私も地を蹴った。もどかしさ、怒りが渦巻いていた。凛の首に迫った白銀を、寸前で干将が受け止めた。そのまま翻り、私の眼球に迫る切っ先を莫耶で受け止める。二撃目を防ぐ。反撃を叩き込もうとしたときには、遠坂凛の姿は山門の中に溶け込んでしまっていた。

 消えていく後姿は、忘れることの出来ない、遠い理想に似ていると、思った。

「セイバーがあの女の手に落ちるのは愉快ではないが、何人たりともこの門を通すことは罷りならん――セイバーを取り返したくば、押し通る他ないぞ」

 レイラインが切れている。境内の内は、キャスターが練り上げた要塞だ。外部からの干渉を遮断する程度の施しは当たり前だった。

 息を吸って、腹に溜め込んだ。遠坂凛は頭のいい魔術師だ。すぐさま敵の虚をつけると判断したのなら即座に行動し、そうでないときは私の到着を待つために、時間を稼ぐだろう。

 矢は通じない。

 干将莫耶は守りの剣。頭上の不利、リーチの差、技量の差。突破は難しい。

 こみ上げてくる焦りを押し殺した。対処法はいくらでもある。が、魔力量の消費が半端ではない。この先にキャスターと、下手を打てばライダーとの連戦が続く。セイバーの契約の鎖も絶たねばならない。だといって、この場で凛を失うなど言語道断だ。

 元より、考える時間が一番惜しい。

「I am the bone of my sword――カラドボルグ、デュランダル!」

 新たな二本を作り出し、三度アサシンに向かった。尺も伸び、切れ味も上がっている。それゆえに、夫婦剣の堅固さを捨てた。守りを考えて、打ち破れる敵ではない。他の概念武装を呼び出すにも、詠唱が必要なものは――詠唱、だと。

 騎士剣を扱いながら、ふと私の内に一つの疑問が起こった。その疑問が明確な形となる前に、衝撃が空気を伝ってきた。

 地面が揺れ、怒号が鳴り響く。震源も音源も、境内の中だ。戦いが、始まった。偽臣の書を燃やすことは出来なかったか。

 このままでは凛が死ぬ。為す術もなく、私はここで足止めを食らっているしかないのか。再びこの世に戻り、彼女への恩返しも誓いも守ることが出来ずに、私は何をしている。何たる無様だ。しかし、私には、手がない。

 日本刀の切っ先が、私の喉を浅く切り裂く。

「考え事をしていると、マスターより先に消えることになるぞ」

「アサ、シンッ――!」

 カラドボルグで突き、デュランダルで斬りつける。得物を変えたところで、展開は何も変わらない。アサシンの刃を交わし続け、距離を埋める隙を探すだけ。つまりはただひたすら、膠着することと変わらないのだ。

 それでも打ち続ける。五尺の差を消し去ろうとする。その行為が、何か暗示的なものに思えて仕方ない。だったら、凛はこのまま死ぬのか。馬鹿な。

 頭上の有利が、アサシンの技量をさらに助けていた。空しいまでの打ち合いの中、境内の爆発音が未だ消えないことだけが、せめてもの救いだったが、それこそいつ消えるやも知れない。

 腕一本を犠牲にして、敵を打ち破る方法はある。今の私なら、腕一本なら喜んで差し出そう。けれど、目の前の男は腕など見てはいない。首と、心臓。これほど端的に、純粋なまでに殺すことしか考えていない刃もない。例えアサシンに一撃を加えられたとしても、私の首が刎ね飛ばされているのなら、何の意味もない。

 不意に、境内から聞こえ続けていた、魔力の炸裂音が途絶えた。

 剣を振るう。これしか知らないとばかりに、今までしてきたように。

 音よ、戻れ。

 音。どんな音でもいい。首を狙う物干し竿が、肩を抉った。

 音よ。

 戻れ、凛。

 そして、何か聞こえた。

 ガラスが破砕するような剣戟音の中で、ただ一つ違う音が聞こえる。それは何の音か。段々と大きくなる。何の音だ。背中から聞こえる。双剣を振り回しながら、私はその音に耳を奪われた。

 その音の真実を、にわかには信じがたかった。

 ひざまずいたはずだ。

 倒れたはずだ。

 もがき苦しんで全て吐き出したはずだ。

 生きてきた理由を否定され、論破され、存在そのものが間違いだと気付いた。

 戦えない。戦うことを放棄した心。

 では、何故この男はここにやって来たのか。

 打ち合う私とアサシンの隣を、駆け抜けていく赤い髪の男。衛宮士郎。

 人は、信じていた理念が崩れても、生きることが出来るのか。

 背骨を叩き折られたとしても、再び立ち上がることが出来るのか。

 刹那、交差する瞳と瞳。

 私は自分でも不思議なほど自然に、その男に凛の命運を託した。

 駆け上がっていく小さな背中、私が切りつけた傷もそのままに。

 ただ一途に、山門へと消えていく。


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