山門の中に踏み込むと、魔力の濃度にむせ返りそうになった。
蒐集され続けた莫大な魔力が、ここを一つの世界から切り離していた。
キャスターの視線がこちらに注ぐ前に、私は駆け出した。干将莫耶を手に、凛の背中を追い越して東側で打ち合い続けるライダーと衛宮士郎に向かって。致命的な釘剣の軌道を、私はその男を突き飛ばしてから干将で弾いた。ライダーの追い討ちを二度防いで、まるで荷物のように男を抱え上げて凛のところまで駆け戻る。
復活したレイラインを確認するように、私は彼女の意識に声を投げた。
「生きてるか」
「遅刻よ」
上空で羽根を広げているキャスター、その女が空けたいくつもの穴に囲まれて、凛は肩を揺らしていた。セイバーはキャスターの下で、赤い鎖の糸に縛られたまま、今から火炙りされるように吊るし上げられている。
「すまない。が、手遅れというわけではなさそうだな」
「当たり前よ――士郎は無事?」
衛宮士郎もまた、荒い息を繰り返しながら干将莫耶もどきを握り締めたまま、立ち上がった。
まだ生きている。転がってくるのが首だったとしてもおかしくない実力差を、何が埋めているのか。私はその男を一瞥しただけだった。衛宮士郎は一瞥すらしなかった。直視できない弱さを、どこか感じずにはいられない。
「ちょっと士郎、大丈夫?」
凛の声にも、衛宮士郎は答えない。もう一度問いかけそうになった彼女の声を、キャスターの忌々しげな声がかき消した。
「アーチャー……そう、アサシンを破ったのね」
私は肩をすくめる。
「意外かね?」
「その程度で図に乗るなんていただけないわね」
「ほう」
「ふん。あんな分不相応な英霊もどき、元から期待なんてなくてよ」
佐々木小次郎という男は、英霊として不適なのは間違いない。名ばかりが知られているが、実は歴史書にその存在が明記されているわけではなく、もう一人の剣豪を際立たせるためだけに捏造されたと言われている、あやふやな存在なのだった。
だとしても、あの男は紛うことなく侍だった。
あの戦いを、キャスターごときが愚弄している。不愉快な思いを抑えこみながら、私は策を練る。状況は依然不利なことに変わりはない。この会話の間にも、凛と衛宮士郎の体力と魔力は少しずつ回復しているだろうが、果たしてそれもどこまで期待が持てることが。
キャスター、ライダー、そしてセイバーの三面の敵。最悪なのは各個撃破されることであり、私たちがするべきことこそが各個撃破である。地力で劣っているこちらは、敵戦力の温存を何としてもを阻止しなくてはならない。解はいくつもないが、逆に迷わなくて済むのだから、考えようによっては楽だともいえる。
「凛、作戦を変更するぞ」
「言って」
「キャスターとセイバーの相手は私がする」
他に手はないと知っているのか、凛はすぐに肯定を示した。
「君は衛宮士郎と一緒に、ライダーの本を焼け」
「セイバーと、キャスターの二人を?」
「我らの目的はセイバーの奪還だ。ここはキャスターの胃の中のようなものだ。セイバーを引きずり出せなければ、ジリ貧のまま終わる」
「勝算はあるの」
「無ければただ死を待つのか?」
「まさか。ところで、さっきアサシンを倒した一撃は凄かった。宝具?」
「というわけでもないのだがな。もう二度と使えない代物だ」
「魔力が空っぽだから、なんて言わないでよね」
「そんな間抜けに見えるかね?」
「ならよし」
ロンギヌスで解き放った魔力はそれほど多くはない。自己の意思さえ保有する、と受け取るときにいわれた。私は黒い銃身自体の解放を、わずかに手伝ったに過ぎない。
私の残存魔力は十二分に残っている。キャスターだけを打倒するには余剰ですらあるだろう。
「ちっ。おいキャスター! 話が違うじゃないか! 遠坂のサーヴァントは通ってこれないはずなんじゃなかったのかよ。もうちょっとで衛宮の馬鹿を殺せたっていうのに」
ライダーの背後で、間桐慎二がつまらなげに吐き捨てる。
場に不釣合いすぎるその台詞を、キャスターは聞きもしなかったように言葉を続けた。
「あんな男に手間取るなんて、今回の聖杯戦争の三騎士の一角は、穴ね。ふふふ」
「耳が痛いな。だが、キャスターよ。お前がそんなことをいうのは、それこそ期待はずれというものだ。アサシンを呼び、ライダーを誑かし、セイバーを取ろうと策を練る。つまりは、単独では向かっても来れない出来損ないだろう。その程度の、下位のサーヴァントを倒した所で何の自慢にもならん」
「……なんですって?」
「それでも長い時間をかけ、この街の精神力の大半を溜め込んだ。たいしたものだ、バーサーカーの戦力を削ぐ、当て馬程度には使えそうだと思ったが。いやはや、見当違いだったよ。ここまで愚かだともはや何もいうことはない。図に乗りすぎたな」
「……戯言を。貴方程度の存在が、この」
「笑わすな、お前が、私を、どうすると? いくら魔力を溜め込んだところで所詮は出来損ないのサーヴァント。宝の持ち腐れも甚だしい」
「……よくもそこまで吼えたわね。笑わすのは貴方よ――出なさい、セイバー」
ローブの奥の歯軋りが聞こえるほどの怒りを乗せて、キャスターは叫んだ。途端、セイバーを拘束していた赤い糸が千切れ飛び、無造作なまでに地面に叩きつけられる。
飛び出そうとする衛宮士郎を、凛が押しとどめている。そして小さく、二人がかりでライダーのマスターが持つ偽臣の書を焼く、と告げている。私は双剣をもう一度強く握り直した。後ろを振り返る余裕などどこにもなかった。
木枯らしが吹いた。巨大な力が起こす、予兆のさざなみだった。
緩やかに舞い上がり、銀緑に染まりながら、一つ処に集束する。
「立ち上がりなさい、セイバー! この紋章は偽りではなくってよ、魔力のつながりも滞りなく、意が覆る計算式は何処にもない――欠ける標の代償は、あの者たちの命!」
赤い令呪の輝きが完全に消え去る前に、セイバーは己の聖剣を握り立ち上がった。憤怒に焼かれる仁王のように。
「行くわよ士郎!」
凛が背を向け走り出す。彼女たちの戦況をのんびりと眺める余裕は、私にはないようだった。
目前、純白のドレスから頑強な鎧姿へと纏いを変え、ズチャリと土を擦りながら迫ってくる、少女。
セイバーは、風王結界を固く携えて、口を開いた。
「アーチャーよ」
発散される魔の風が、飛び出そうとする私の全身を押し返す。
セイバーの瞳がこちらを向いた。決して、理性を失ってはいなかった。金の前髪の隙間の奥、エメラルドの輝きは、騎士としての誇りを断固として失ってはいないことを主張していた。
「逃げろっ――!」
失わぬ誇りを瞳に宿したまま、セイバーは豪剣を振り上げた。
上段から世界が死んでいく。
振り下ろされる不可視の剣を、双剣諸とも叩きつけるように弾く。力の流れを生かしたまま、後ろに跳んだ。両手でたたきつけた渾身が、痺れている。圧力は、今までのあらゆるものを超えている。ランサーでさえ、この者の前では霞むだろう。アサシンの一撃は確かに脅威であったし、翻る燕の太刀筋を捉えることはできなかった。だが急所を突かれなければ、その場に踏みとどまれないほどの威力ではなかった。
「アーチャー!」
これは違う。違いすぎる。アサシンの刀と違う次元で、セイバーの剣は必殺だと知った。
胴の薙ぎ払い、そのまま体を反転しての頭上への一撃。
「くっ」
魔力の桁が違う。十全に力を内に秘めたセイバーに、隙などない。振り下ろす一刀ごとに、膨大な魔力を上乗せして目標を力任せに叩き潰す。これこそが、騎士王の騎士王たる所以なのかと、考えながら私はただ退路を求めて後ろへ跳んだ。こらえきれなかった。距離が欲しい。後ろに跳ぶしかなかったのだ。
痺れているのは一方的に私だけだった。間断なく追って来る銀緑の剣把。右に一歩ずれた。それだけで剣の軌道が多少わかりやすくなる。敵はすかさず反応した。低い体勢から急転する。左半身に異常な熱を感じる。その塊に向け、陽剣を突きだした。
頭蓋を貫いた。
貫いたと、思っただけだった。
塊はそこからさらに急転する。速度がある。私の反応を凌駕している。捕捉の暇はない。陰剣を盲で振った。剣戟音が触覚より早く当たりを知らせる。体勢が悪い。ここぞとばかりに押してくる。
胴薙ぎを両剣で受け止め、そのまま手から弾き飛ばされた。召還が、間に合うか。二度目の上段を、私は彼女の胴を蹴り飛ばした反動で何とか回避を間に合わせた。
セイバーが何の苦悶もなく一歩後ずさる。
弓を持ち、ある程度上位ランクの刀剣を打ち放つ必要があった。彼女の剣技に対抗するには、純粋な力押ししか考えられなかった。
しかしその考えが、私の中で育つことは無かった。
干将莫耶よ。
何かの感情が沸き起こる。感情は死んだ。なら、それに似たものが沸き起こる。
「逃げろ! このままでは貴方を斬ってしまう! 私を撃ちなさい、弓を持って、私を撃て!」
彼女が何かを言っている。キャスターが冷静に睥睨している。私は、何をする。
「行くぞセイバー……」
感情に似た、何か。それに任せて、境内の地を蹴った。
私は私の力を誇示する。英霊にさえ昇ったのだと、彼女に誇示する。
セイバー、私はこんなにも強くなった。いつかの朝、いつかの夕、君と打ち合わせた竹刀から走り出して、辿り着いた境地がこの赤い霊魂なのだ。永劫、届かないと諦めていた、この想い。届くことはないと今でも知りつつも、届ける望みはここにある。
詮無い感傷でしかない。戦況を無視した、馬鹿馬鹿しい戦術だった。
しかしその感傷も、彼女を前にしたときだけは仕方ないと、どこかから聞こえる気がする。
「何を、笑っている」
「さあな」
打ちあいひしげあい、斬り結び撥ね飛ばし、振り下ろしては避わし、睨めば殴り合い、左右からの擬態を混ぜての突きを単純な力で押し返され、そのまま体の勢いを殺さずに放たれた大上段からの一撃を、交差した干将莫耶で受け止める。
猛烈な圧力の前に、表裏一体の双剣が悲鳴を上げた。足が、地に埋まっていく。頭上の剣が私を砕こうとしているからだ。その剣を握っているのは、セイバーだ。何枚かの鋼の向こうに、セイバーがいる。私の感情は死んでいる。感情に似た何かが、ときおり蠢くだけだ。だとしたら、その感情に似た何かは、今、懐かしさというものを吐き出しているのだと、全身にまで及ぶ衝撃の中で、私は思った。
だが、この愚かな戯れもすぐに終わりを迎えるだろう。
「Ατ」
詠唱を聞き逃すことはしなかった。私は干将莫耶に魔力を流して頭上の剣を逸らすと、上空に跳躍した。
「λασ」
キャスターの放った魔術は、何者をも害さず境内の地面の一角を別次元へと隔離した。回避が間に合わなければ、数秒とはいえ動きを止められ、迫る二撃目に朽ちていただろう。双剣をセイバーに向けて投擲した。手に握る武器を、弓へと移行する。半円を描く二本一対の剣はセイバーにあしらわれるだろうが、追撃を防げさえすればそれでいい。
キャスターの顔、胸、右大腿、左腕に腹へと向かう五つの矢は、食らえばキャスターの体を容易く引き裂くだろう。ローブの女の動きは鈍い。蝙蝠のような羽根は微動だにせず、小さく呟くキャスターの声を聞いた。
「無駄なことを」
矢は、位置を見失って森に消えた。声の方向は、今まで浮いていた場所より遠く離れていた。キャスターが移動した瞬間は全く確認できなかった。
「瞬間移動。それとも、固有時制御」
「どちらかしらね、ふふ。忘れてなくて? ここは私の工房であり子宮よ」
空爆が始まった。
河原で撃ち出した時と同じ、純粋な魔の塊を無数に。この身を撃ち滅ぼそうと一斉に射出される。その狭間を縫いながら、セイバーが間合いを詰めてくる。セイバーのクラスに備わる彼女の対魔力は、キャスターのこの魔弾を無かったことにまで相殺する。比べて、大魔術レヴェルをかき消すほど、私の対魔力の性能はよくない。
空白地点を探しては回避し続ける私と、意にも介さず一直線に突っ込んでくるセイバーがぶつかり合うのは、幾ばくもない。私はさらに五本の矢を二度撃ち出した。一度はキャスターへ、二度目はセイバーへ向けてだ。前者はさっきと全く同じ、焼き直し。後者も容易く打ち払われた。
爆撃は続く。火柱を撒き散らす炎の魔術、氷塊で標的を抉る水の魔術、時の流れを断ち切る時空干渉の魔術。一つでも当たれば致命的な隙を生み、それを逃すほど追撃者は鈍くない。
顔を歪める。火炎の迸りがわずかに私の腕を舐めた。哄笑を乗せて密度を増す溶けた宝石の落下、繰り出される銀色の剣技の末に、フェイルノートは真っ二つに断たれて虚空へ消えた。
絶体絶命だった。
絶体絶命だと、思わせなければならなかった。
表情をゆがめたまま、私は小さく呟いた。
こじ開ける、頭蓋の扉。取り出したるは、山のような設計図の塞。
「終わりよ、虫けら! 塵へと還りなさい!」
スコールを模したような魔弾の奔流を、からがら逃げ延びる。セイバーの一振りが二の腕を浅く斬りつける。上乗せされた力に弾き飛ばされ、私は地面を転がった。大地を穿つ見えない大剣と石化の魔術。それでも私は、呟くのをやめない。
立ち上がり、干将を投擲してセイバーを押し返し、頭上を見た。
キャスターが、血さえ出しそうな笑いを吐く。
「なに、その目は。何なの? もしや命乞い? いいわよ、さあ! 囀ってみなさい。けど残念ね、貴方は私を怒らせたの。額を地面に擦りつけても貴方は消える――!」
私はもうそこを見なかった。一度見れば、十分だった。山積していた設計図は全て消化した――昇華した。
残ったのは一工程だった。単純な、詠唱だった。
私は先ほど見た、キャスターの背後に向けて、最後の鍵を差し込んだ。明るい、鍵穴へ。
告げる。
「ブロークン・ファンタズム」
幻想は、月の下でこそよく壊れる。