赤い弓の断章   作:ぽー

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第七話

 誰も彼もが動くことを許されない。

 夜の闇を抜いた光の橋はもう、どこまでも遠い。荒涼とした沈黙と風が戻るまで、どれほどの時間が要るのか。

 妖精が鍛えた王者の剣。エクスカリバー。

 その剣を佩くことを許された者が、他にいるはずがない。かつて、いくつもの戦場の丘を、勝ち鬨で埋め尽くした竜の王以外に。時の彼方で伝説を灯す、イングランドの尽きない伝承は、それを初めてみる者の目を釘づけにした。

 少女は燐粉の中で揺れる。

 いつまでも光を失わないその余韻の中で、アーサーという名の少女は、ゆっくりと崩れ落ちた。

「……あ……セ、セイ、バー」

 衛宮士郎が、覚束ない足取りで歩いていく。その手にはもう干将莫耶は握られてはいなかった。葛木に砕かれたのか、投影が不完全だったのか。それでも剣を生み出した事実が曲がるわけではない。限界を超えた魔術行使に、歩くのもままならない様子がなによりの証だった。

 凛の後を追う。セイバーは今にも消えてしまうような息遣いをして、額に汗を浮かべていた。

「まずいわね……魔力が空っぽで、消えかけてるんだわ……」

 宝具が必要とする魔力は、莫大なものだ。星史において、かつてない輝きを放つ聖剣ならば言うまでもない。万全の状態であるならいざ知らず、ルールブレイカーによって令呪の縛りを断たれ、魔力の供給の一切がなくなったスタンドアローンで使用したのならば、そのまま肉体の消滅を招きかねない。キャスターがセイバーに宝具の使用を求め、十分な魔力供給を施していたことがせめてもの救いだった。

「どうするつもりだ?」

 先決すべきは魔力を、つまりはそれを供給するマスターをあてがうことだった。魔術師と呼ぶには未熟すぎる衛宮士郎に、パスを通す力などあるわけない。凛にしても、いくらなんでも二人分のサーヴァントを使役できるほどのキャパシティは保持していない。

「……考えは、あるわ。いいから運んで。士郎も、早くここを立ち去るわよ。さっきの宝具でキャスターの結界も潰れただろうし、すぐに騒ぎになる」

 少年は、がくがくと限界を訴える膝で、立ち上がる。

「つらいの? ちょっと、顔色真っ青じゃない!」

「……大丈夫。それより、遠坂、ちょっと待ってくれ。まだ、一つやることが残ってる」

 セイバーの額に浮かんだ汗を、服の袖で一度拭って、衛宮士郎は震える足を押さえ込んで歩きだした。

 歩いていく方向に目をやった。傷だらけの体は、境内の隅、呆然と腰を下ろしたままの間桐慎二に向かっていく。凛も黙って、その後に続いた。間桐慎二はこちらを見ると、悲鳴も忘れたように、首を振って後ずさる。自分の心臓を抉りとる、悪魔にでも見えているに違いない。

 ずるずると後ずさって、衛宮士郎がその肩に手をかけるのと、壁に背中を掴まれるのとは同時だった。

「慎二」

「……あ、あ」

 衛宮士郎は殺すだろうか。

 どう考えても、殺すとは思えない。衛宮士郎に人を殺せる意志はない。立ち上る火炎の原風景が心の中から消えない限り、自分の命が他人の命より劣るという考えを捨てない限り、衛宮士郎は人を殺せない。

 ではなぜ、衛宮士郎はここにいるのか。

 あの時、胃の中のものを吐き出して、ひざまずいていたのではなかったのか。

「吐き出したのは、胃の中のものだけでは、なかった――?」

「え?」

 吐き出したのは、胃の中のものだけではなかった。抱いた理想の愚かさも、共に吐き出してしまったのなら、衛宮士郎は、正義という夢想から現実へと目を移し、障害という名の、しかしかつては友人と呼んだ男の命であろうと奪える。真実、変わったのなら。

 だが最早、そうなった男を、私は衛宮士郎とは呼ばないだろう。

 間桐慎二の前に立った男の、その体がフラリと揺れた。

 揺れて、力もこめずに倒れこむ体に任せて、衛宮士郎は肘を突き出して、間桐慎二の顔面を殴りつけた。鈍い音を立てて吹っ飛び、血と、砕けた歯がパラパラと落ちる。

 悲鳴。

「い、ああ、っぐ、いたっ、いたい、ああ、うわあお前」

「慎二」

 そのまま馬乗りになった。迷いのない動きで、衛宮士郎は拳を振り上げ、振り下ろす。間桐慎二の顔面に叩きつけられる拳。硬い音から、血液の散る粘質な音へと変わる。右と左を交互に、狙いも定めずに振り回して、殴った。

「慎二」

「や、やめっ」

「慎二!」

 顔面を庇う腕を気にすることなく、その上から握りこぶしを叩き下ろし続ける。

 名を連呼しながら、殴った。衛宮士郎は本気で殴っていた。

 叩きつける、拳は、途中で鈍い音を立てた。だがやめる気配はない。容赦なく振り下ろす拳は、叩きのめして泣かせるのが目的だ。

 規則的な、手で頬骨を殴る音。穴だらけの地面の一角で、馬乗りになって相手を叩く子供のケンカは、月の光と相まって儀式めいていた。これは、子供のケンカなのだ。決して殺し合いなどではなかった。

 私はその光景を、妙な感覚が混じるのを自覚しながら見ていた。羨望に近いのかもしれない。

 打撃が止んだ。朦朧とした視線を漂わせる男に、男は襟首を掴んで引き起こした。

「慎、二っ」

「ひ、い」

「お前は! 藤ねえを傷つけたっ」

「う、ぐふ」

「関係ない人も傷つけた」

「う、うう……」

「桜にも何かしたな」

 沈黙が答えだった。

 鼻血と、拳が裂けた時の返り血で、赤ペンキをぶちまけられたような顔面に、さらに背中を仰け反らせてからの、頭突きを叩き込んだ。ぐちゃりという音が、鈍く境内に響いた。

「うっうわああ」

 悲鳴を上げる男の襟首を、揺さぶって、同じように返り血で顔を真っ赤に染めて、それを涙でかき消しながら、衛宮士郎は叫ぶ。

「殺さないぞ!」

 膝で立っていることすらままならないのか、覆いかぶさるように崩れ落ちた。

 二人の体が重なって、元よりみっともないケンカは、それ以上に見苦しくなる。殺意のない拳に、それでも殺意を感じたのか、終わりがないと思ったのか、一方的に殴られているだけだった間桐慎二も拳を突き出した。揉みくちゃで、適当に出したパンチが当たるはずがない。それでも抵抗した。引っ張って、叩いて、髪の毛を引っ張って、わめいた。噛みつきもした。赤ん坊のようなみっともない泣き声で、慎二が泣いた。その中で、士郎も叫び続ける。殺さない。殺さないという絶叫は、己に向けてのものだ。

 殺さない。

 誰も殺さない。

 誰にも、殺させない。

「金輪際、誰一人、俺の前で死ぬんじゃねえ――!」

 私は聞いた。

 聞き間違いなど、しなかった。

 自衛の為に殺すという選択すら、この決意にとっては不純物であると。

 

 

 

 気を失った衛宮士郎と、間桐慎二、セイバー、さらに凛を担いで林から街を駆け抜けるのは、中々骨が折れた。

「労えとはいわんが、遠慮する気持ちはないのかね? 私は乗り物ではないぞ」

「仕方がないでしょ、サイレンだって聞こえてたんだから」

「まあいいがね。しかしこの」

 間桐慎二、といいかけてやめた。

「ライダーのマスターだった男を、何故連れてくる」

「放ったらかしにするわけにも行かないでしょう。また面倒ごとになるのも嫌だし、聞きたいこともあるし――って、無駄話してる場合じゃないのわかってる?」

 下らない話だって、したくなるというものだ。

 セイバーの消滅を防ぐ手立てとして、凛が提案したのは至極自然で、また馬鹿馬鹿しく、同時に頭痛が限度を越えてしまうような、そんなことだった。

 衛宮士郎を再びセイバーのマスターとする。

 そこまでは、いい。

「だがな、もう少しマシな方法ないのか」

 あったらいいなさいよ。いいながら、凛は気絶している間桐慎二の顔をタオルで拭って、立ち上がった。衛宮邸の部屋の一室だった。この二つ隣の部屋には、セイバーと衛宮士郎が寝ている。

 廊下を歩きながら、凛は何度もため息を吐いた。

 月明かりが差し込む家の中は、不思議なほどに静かだった。先ほど、ここから何キロも離れない山の上で、人間の理解を凌駕する死闘を繰り広げたことなど、まるで嘘のようだった。

 何も音はない。零時を越えた。寝静まる時間に、生きて戻ってこれた実感を、目の前の少女はかみ締める暇もない。

 多分、それは悲しいことなのだろう。幸福と戦うことが結びつくことは難しい。それを知っていて、正面から受け止めて、乗り越える遠坂凛の強さは周囲を切なくさせることすらない。

「よく、キャスターを止めたな」

 台所で洗面器の水を取り替える彼女の背中に、私は言った。

「へ、ああ、まあね。結構辛かったけど」

 しかし、無傷というわけではない。衛宮士郎の分の包帯から、私はいくらかを千切り取った。

 凛の腕には、無数の傷がある。服もところどころ裂けている。それをおくびにも出さない強さは、時として、自分自身さえ置いてきぼりにしてしまう。

 腕を取って、包帯を巻きつけた。

「ちょっ、なに」

「じっとしたまえ。赤い服で目立たないとはいえ、血は出ている」

「そんなの、別に」

「マスターの体を気遣うことは、サーヴァントとして当然だと思うがね」

「と、当然って」

「いいマスターなら、なおさらだ」

 労いの言葉など、私にはそれくらいしか思い浮かばなかった。

 それきり黙りこんだのをよしとして、包帯を巻ききって結んだ。傷は深くはないが、放ったらかしにしていいほど浅いわけでもない。

「よ、余計なことよ。こんなの、唾つけとけば、治るんだから」

 ふん、と鼻を鳴らして衛宮士郎の分の包帯と水を持って、いそいそと廊下へ戻る。素直に感謝もいえない態度に苦笑して、私も続いた。音のない廊下を渡り、二人が寝ている部屋へと。

 ぼろぼろの姿で、衛宮士郎は呻いている。反面、セイバーはもう呻きすらない。一刻を争う状況で、凛はまだ躊躇っている様子だった。私にはそれを責める気はないし、むしろどうすればいいのかすら見当がつかない。

「はあー……ふー」

 大きく深呼吸をして、凛は、傷を拭うために持ってきた洗面器の水を、おもむろに衛宮士郎にぶちまけた。

 ばしゃんと水しぶき。ぶちまけられた男は目を見開いて飛び起きた。

「ぷぅっ、うわー! なにごとー!」

「起きた?」

「起きないでかー!? ……って、え、あ、れ。と、遠坂……?」

「混乱してるのもわかるけど、落ち着いて聞きなさい」

 まずは現状把握、というわけで、凛は一つずつ説明をする。何割かは、自分に言い聞かせるためのものでもあるだろう。

 セイバーがさらわれて、柳洞寺に向かい、アサシンを倒し、ライダーを追い出し、キャスターと葛木宗一郎を打倒したことを説明する。葛木が死んだ、というところで、衛宮士郎は一度目を細めた。

「ここまでわかるわね?」

「ああ、わかるよ。それでセイバーの宝具で……って、ちょっと待った――セイバー、エクスカリバーって」

「それは、ちょっと待ちなさい。気持ちはわかるけど待ちなさいね」

 一息溜めて、セイバーが消える、と凛は静かに告げた。

「魔力が枯渇している。今は主を持たないはぐれで供給が正真正銘のゼロ。その上、あんな大出力の宝具を使ったもんだから、肉体維持も厳しいといったところね」

「――セイバーが死ぬってことか?」

「このまま行けば、朝日を待たずにね」

 その推察は非常に正しい。サーヴァントは魔力という燃料を引き換えにこの世に存在を保っていられる。それが枯渇すれば、消えるのみだ。体の維持が精一杯の状況で、このままマスターとの契約を為すことが出来なければ、消え去る他ない。

「セイバーが消えてもいい?」

「い、いいわけないだろう! セイバーは俺を守ってくれて、一緒に戦う、仲間だ!」

「そう。セイバーを助けたいのね? でもそれは、聖杯戦争に再び参加するってことなのよ。殺し合いに戻るということ。セイバーを見殺しにすれば、貴方はまたあの平穏な世界に戻ることが出来る。平和な世界を、貴方は捨てることが出来るの」

「捨てないよ」

 迷わずに言った。

「それに殺しもしない。これは前も言ったけど、今はあのとき以上に思う。俺は誰も殺さない。誰にも殺させないために、もう一度、聖杯戦争に参加する。だからセイバーを見殺しになんか出来るわけないし、言いたいこともある」

「セイバーにパスをもう一度通すのは、魔術工程をしっかり理解していない士郎にとっては、簡単なことじゃないわ。どんな方法かも聞かないうちに、断言して、覚悟はあるの? 中途半端なら、逆に迷惑だわ」

「中途半端なわけあるか。どんな方法だよ。正直言って、自信があるわけじゃないけど、やるしかないってんならなんだってやってやる――俺は、セイバーのマスターだ」

 こういうとき、凛は優しく笑う。気付かないくらい小さな瞬間に、安堵の笑みを浮かべるのだ。そしてすぐにまた厳しい顔に戻って、彼女は体を横たえているセイバーの肩に手をやって、ゆすった。金色の前髪の間で、うっすらとその目が開く。血色の悪さと、額に浮かんだ汗が限界が予想より近いことを示唆していた。

「……凛……シロウは無事ですか?」

「セイバー」

「シロウ……よかった」

 お互いの無事に安堵する二人を、凛は冷静な視線で見つめた。

 冷静に、冷静にと、胸の内で繰り返しているのかもしれない。二人を交互に見やって、下を向いて、ため息を吐いて、はたから見ても落ち着かなさを最高に発揮しながら、彼女は意を決して告げる。

「悪いけど、そんなことしてる場合じゃないの。落ち着いて聞いてね、一回しか言わないから」

 セイバーを抱きなさい。

 しんとする。

 さっきの廊下以上に静かになる。

 もう少し言い方はないのかと、私は頭を抱えた。

 口ごもるセイバーと衛宮士郎をさし置いて、凛はさらに大きな声で叫んだ。

「ええい! なんでもするっていったでしょう! セイバー、あんたもこのまま消えるなんて、アーサー王のくせして覚悟が足りないわよ! 文句があるなら抜け抜けとさらわれた自分にいえー! 士郎も! あんたが普通の手順でパスを通せることが出来たらこんな面倒くさいことにもならなかったわよ! そのボロボロの手と体でナニが出来るってのよー! この情操出来損ないー! 私も手伝うんだから文句いうなー!」

 まくし立てる凛に気圧され、二人とも唖然と口を開ける。

 私はもう、何を言う気もなく、色々思うことはあるが、どうも間抜けな事態にしか思えず、頭がどうにも痛い。いつものように屋根の上に登ることにして、私は姿を消すことにした。

 私が何をせずとも、マスター側からレイラインを一部カットしてきた。私が口を出すことではないし、聞きたいこともない。何も考えまいと、意図的に考えることさえどこか不自然だったが、私は先ほどの戦闘を思い返すことで誤魔化した。

 アサシンに、キャスター。葛木宗一郎という男。駆け去っていったライダー。

 まだ、勝利を手にするまでは遠い。体の軋みを、一刻も早く消さなければならない。セイバーが戻ったとはいっても、私以上に状態の危うい彼女はすぐに戦闘を行うことなど出来るはずがない。

 上空には、そのセイバーに寸断された雲が未だ消えずに残っている。あの頃と何も変わらない太刀筋だった。圧倒される輝きを、私は覚えていた。忘れてはいなかった。そして、その雲の狭間には、いつかのような月が覗いている。

 いつの月に、似ているのだろう。隣に誰かいたような気がして、私は思いを馳せてみた。

 思い出せるはずなどなかった。


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