第一話
色は匂へど、散りぬるを。
我が世誰そ、常ならむ。
有為の奥山、今日越えて。
浅き夢見じ、酔ひもせず。
脈絡なく、詠うようなその声に、少年は年相応の好奇心を発揮して、聞いた。
「爺さん、今のなんだ?」
聞いてから、ゆっくりと興奮のようなものがすりよってきた。まさか、何かの呪文ではあるまいか。自分には見えないだけで、何かの神秘が発生したのではあるまいか。周囲をぐるりと見渡した。特に変化はないように見える。しかし油断はならない。この男は魔法使いなのだから、意味のない言葉など吐くはずがない。一挙手一投足に意味があって、一言一句に奇跡が隠れている。今の言葉にも、何かの秘密があるに違いない。
そんな少年の様子に、男は静かに微笑んだ。
「いろわに? 爺さんもう一回」
「色は、匂えど」
「なんだそれ、魔法の呪文かなんかか?」
男は、肌着の上から胸に手を当てて、呼吸を整えた。飛び出そうになった赤い咳を、そうやって一旦下がらせる。
こんな無邪気な笑顔を、曇らせることなんて、もったいなくて出来るわけがない。
「色が綺麗で、匂いもいいけど。それもやがて散ってしまう、って意味さ」
「花?」
「そう、花」
「花かぁ」
で、それが何の呪文だよ、と少年は食い下がる。
「呪文って言うわけじゃないなあ」
「なんだ、違うのか」
「でも、意味がないわけでもないし」
「なんだよ、もったいつけるなよ」
湧き出る笑いに任せて、笑った。団扇で自分と士郎を交互に扇ぎながら、切嗣は虫の鳴き声に耳を澄ました。
虫のよく鳴く夏だった。縁側で、こうして二人でそんな無為なものに身を任せるのが好きだった。風も好きだった。士郎の淹れた熱くてちょっと苦いお茶、足元を這う蟻の列、塀の向こうで車が走る音ですら好きになった。その中に身を置くだけで、生きていると思えた。
その中でも、月が一番だった。
生きている。
「生きているよ」
「当たり前だろ。死んでないんだから」
間髪いれずに返ってくる答えが愉快だった。子供の感性は時に目を見張るほど鋭敏だ。大人になると、もう思い出すことも出来ない感性を、少年はいつまで持っていられるのだろうか。
「月がね」
「月がどうしたんだよ」
「僕は、月が好きなんだ」
虫よりも、風よりも、月が一番だった。
この縁側で、少年と二人で見上げる月が何より好きだった。
その月を見上げながら、切嗣は思う。不意に、自分の罪深さに驚く瞬間がある。この手で奪った命の数を数えてみることがある。数え切れなくなって、また驚く。けれど一番驚くのは、あまり深刻に考えなくなったことだ。
安らぎとは、あの月に向かうようなものだと思っていた。真実は、右手の届く温かいところにあった。
少年は、月もいいけど魔法を教えろ、と切嗣の服を掴んで揺さぶる。
こんな些細な幸せ、今まで知らなかった。
恨みも憎しみも、いつまでも残るものではない。どんなに深い傷も、いつかは消え去っていく。
「爺さん、眠いのか?」
いつだって、疲れた者の心を癒すのは、無垢なものだ。
聖杯からこぼれた黒々としたものを浴びて、切嗣も、己の命がそう長くないことを自覚していた。しかし平静でいられる。穏やかな心持ちは、痛みさえ不思議な柔らかさで包んでしまう。
「士郎」
なんだよ、という少年に、告げた。
「人はね、幸せになるために生きてるんだ」
有為の奥山を、切嗣はまた一歩越えていく。
目の前の少年にも、いつか疲れて、どうしようもなくなった瞬間が訪れたとき、願わくば、無垢な心を持つものが現れることを、祈る。
眠りに落ちていく。見るのはいつもの浅い夢。
幸せな、我が子の笑顔の夢だった。