赤い弓の断章   作:ぽー

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第四章
第一話


 色は匂へど、散りぬるを。

 我が世誰そ、常ならむ。

 有為の奥山、今日越えて。

 浅き夢見じ、酔ひもせず。

 

 

 

 脈絡なく、詠うようなその声に、少年は年相応の好奇心を発揮して、聞いた。

「爺さん、今のなんだ?」

 聞いてから、ゆっくりと興奮のようなものがすりよってきた。まさか、何かの呪文ではあるまいか。自分には見えないだけで、何かの神秘が発生したのではあるまいか。周囲をぐるりと見渡した。特に変化はないように見える。しかし油断はならない。この男は魔法使いなのだから、意味のない言葉など吐くはずがない。一挙手一投足に意味があって、一言一句に奇跡が隠れている。今の言葉にも、何かの秘密があるに違いない。

 そんな少年の様子に、男は静かに微笑んだ。

「いろわに? 爺さんもう一回」

「色は、匂えど」

「なんだそれ、魔法の呪文かなんかか?」

 男は、肌着の上から胸に手を当てて、呼吸を整えた。飛び出そうになった赤い咳を、そうやって一旦下がらせる。

 こんな無邪気な笑顔を、曇らせることなんて、もったいなくて出来るわけがない。

「色が綺麗で、匂いもいいけど。それもやがて散ってしまう、って意味さ」

「花?」

「そう、花」

「花かぁ」

 で、それが何の呪文だよ、と少年は食い下がる。

「呪文って言うわけじゃないなあ」

「なんだ、違うのか」

「でも、意味がないわけでもないし」

「なんだよ、もったいつけるなよ」

 湧き出る笑いに任せて、笑った。団扇で自分と士郎を交互に扇ぎながら、切嗣は虫の鳴き声に耳を澄ました。

 虫のよく鳴く夏だった。縁側で、こうして二人でそんな無為なものに身を任せるのが好きだった。風も好きだった。士郎の淹れた熱くてちょっと苦いお茶、足元を這う蟻の列、塀の向こうで車が走る音ですら好きになった。その中に身を置くだけで、生きていると思えた。

 その中でも、月が一番だった。

 生きている。

「生きているよ」

「当たり前だろ。死んでないんだから」

 間髪いれずに返ってくる答えが愉快だった。子供の感性は時に目を見張るほど鋭敏だ。大人になると、もう思い出すことも出来ない感性を、少年はいつまで持っていられるのだろうか。

「月がね」

「月がどうしたんだよ」

「僕は、月が好きなんだ」

 虫よりも、風よりも、月が一番だった。

 この縁側で、少年と二人で見上げる月が何より好きだった。

 その月を見上げながら、切嗣は思う。不意に、自分の罪深さに驚く瞬間がある。この手で奪った命の数を数えてみることがある。数え切れなくなって、また驚く。けれど一番驚くのは、あまり深刻に考えなくなったことだ。

 安らぎとは、あの月に向かうようなものだと思っていた。真実は、右手の届く温かいところにあった。

 少年は、月もいいけど魔法を教えろ、と切嗣の服を掴んで揺さぶる。

 こんな些細な幸せ、今まで知らなかった。

 恨みも憎しみも、いつまでも残るものではない。どんなに深い傷も、いつかは消え去っていく。

「爺さん、眠いのか?」

 いつだって、疲れた者の心を癒すのは、無垢なものだ。

 聖杯からこぼれた黒々としたものを浴びて、切嗣も、己の命がそう長くないことを自覚していた。しかし平静でいられる。穏やかな心持ちは、痛みさえ不思議な柔らかさで包んでしまう。

「士郎」

 なんだよ、という少年に、告げた。

「人はね、幸せになるために生きてるんだ」

 有為の奥山を、切嗣はまた一歩越えていく。

 目の前の少年にも、いつか疲れて、どうしようもなくなった瞬間が訪れたとき、願わくば、無垢な心を持つものが現れることを、祈る。

 眠りに落ちていく。見るのはいつもの浅い夢。

 幸せな、我が子の笑顔の夢だった。


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