赤い弓の断章   作:ぽー

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第二話

 朝の訪れも、もう六度を数える。

 冬の冷気に、霜が張る。空気中の水分が冷えて結露するということは、その分空気は乾いていくということだ。

 同じように、思考も乾いていけばいい、と私は思った。

 考えるべきことは山ほどある。問題は、いくら考えても答えが出ない類の疑問だという事だ。

 昔から、人の考えを汲み取るのを得意と思ったことはない。むしろ不得手だった。ひどい時には朴念仁とまで言われたことがあるが、それでも今ほど自覚したことはない。なにしろ、昔の自分の心境を理解しきれないからだ。

 衛宮士郎に、一体何があったのか。

 あの男の変化を、正確に見抜かなければならない。絶対に見落としてはならないと、心のどこかで焦りに似た思いがあった。妙なのは、その思いが、足元から地響きを起こすような怒りに囚われた類のものではない、ということだった。

 見落としは許されない。だが、同時に自分の心境の変化についても自覚している。

 正義を求めて、剣を振るってきた。自分の正義を信じて、戦い続けた。血にまみれて刃を毀し、己の主観の正義を貫き通した。正義など、客観的で、誰もが己の正義を持っているなどと、私は気づくことが出来なかった。私が刀剣の墓標の丘で生きながらえたのは、単純に力があっただけ、という理由でしかない。

 ただ、力があったから。

 この生き方は、自分の影に、憎んだ紅蓮の炎の影を見る。

 だから私は清算を目論み、この時代に到達することだけを願って歩いてきた。前を進んで歩き続けた命在りし日を全て否定して、この日に舞い戻って無に帰すことだけを、胸に秘めていた。

 この生き方は人を救う。とはいえ、全ての人間を幸せにすることは出来ない。人を殺して、選んだものだけを救うのだ。まるで神のごとき驕慢である。気付くのに、長い時間と犠牲を必要とした。

 塁をなす屍の上。そこに希望はない。光もない。滾々と溢れる、血と憎悪の流れがあるだけだ。

「そんな生き方を、目指す。愚者」

 衛宮士郎がそこから脱却できたとは思わない。やつはそれでも、戦うためにこの夜に戻ってきた。事実、剣を振るい、私が生きた頃より早く投影を身につけた。

 男は殺人を否定した。

 しかし、殺さないと叫んでも、覚悟が固まっていない今のうちだけだろうと私は見ている。いつかは言い訳できなくなり、誰かを殺す。そうやって辻褄を合わせなければ、生きていけない、理想を持ち続けることが出来ないのがこの鉄火の戦場なのだ。親の仇を前にして、収められる矛なら初めから誰も持ちはしない。

 立ち上がる。分析を続けながら。そろそろ、誰かが目を覚ましてもいい頃だろうと思った。今夜の衛宮士郎とセイバーの行為について、心の揺さぶりは少なかった。私のセイバーは、たった一人しかない。あの時の、あの日の彼女だけが、俺のセイバーだ。そう思える自分に、かすかな安堵があった。磨耗せずに残っていた自分の原石を、見つけたような気がした。ただ、その考えに言い訳じみた色があるということも自覚していた。

 思考から、脱却した。

 凛も、衛宮士郎も起きてこない。昨夜の疲れがたまっているのだ。むしろ後者は、今頃強烈な痛みに苦しんでいるのかもしれない。なにせ、何かの拍子で開いてしまった、安定していない魔術回路を無理矢理こじ開けて、投影などという術式を扱ったのだ。全身の苦痛に苛まれて、呻いているのは容易に想像がつく。

 それもいい、とどこかで思った。暗い感情だった。お前がそのまま死んでしまえば、私のこの不愉快な葛藤もあっさりと消滅してしまう。

 扉の開く音がした。セイバーだった。

 金色の髪は、朝の冷気の中では、少し濡れているように光った。

「目が覚めたか」

「アーチャー……」

 かすかな頭痛を覚えた。身体のないこの存在に、そのような事象は起こりえないというのに。

 セイバーは凛が持ってきたという私服に袖を通している。サーヴァントの外見に意味はない。全ては魔力の有無が物をいい、魔力が全てを代弁する。

 だからああして、今でも消えそうだというのに平然としていられる。

 私は言葉をかけようとして、それを失していることに気付いた。なにをどう話すというのか。あの日の彼女だけが、という思いが毀れ始める。何があっても顔には出すまい。それでも、じとりと、出るはずのない汗だけが、出てくる。逡巡を患っている間に、セイバーと見つめあう時間だけが積み重なっていく。

「なぜ」

 こちらを見上げる視線を変えないまま、セイバーは訊いた。

「なぜ、あのとき私を討たなかった」

 柳洞寺の境内でのことをいっていることは察しがついた。

「彼我の戦力差は開いていた。ライダーが去り、キャスターを討ち果たす策があったとはいえ、アーチャー。あのとき貴方は、私を討つべきだった」

「手を抜いたとでも」

「弓ではなく、あえて剣で向かってきただろう。セイバーである私にむかって」

「下らない、計略に引っかかり、敵に寝返った女。力を出すまいと向かってくる敵如きに、私の全力など必要ないと思ったのだ。事実、そうだった」

「なに?」

「はっきりいわねばわからんか? 剣で討ち取れると思った。それだけだ」

 セイバーの顔が紅潮した。そして踵を返した。こうやって、嫌われるのもいいだろう、と思った。彼女と話すだけで、神経を使いすぎる。あまりにも当たり前だが、面影がありすぎるし、距離を縮めたところで、彼女は衛宮士郎のサーヴァントであることに代わりはない。

 主役は、自分ではないのだ。

「もう一度、シロウと戦える。そのことについては、礼をいう」

 最後にそういい残して、再び屋敷の中へと戻っていった。

 シロウを守り、シロウと戦う。

 皆、そういう。凛も、セイバーも。

 

 

 

 何事もなく、一日が過ぎ去っていく。

 昼を迎える頃に、凛に命じられ、新都まで足を運んで偵察をしたが、目ぼしいものは何もなかった。それ以外は、いつもの通り屋根の上だった。

 凛にそれほど疲労はないようだった。毎日の日課をこなし、午後になると衛宮士郎に乞われて魔術の指南などをしていた。投影に適正があるとすでに知っているので、その方面で伸ばしていくようだ。スウィッチについては、もう完全に開いているらしい。

 私が衛宮士郎が扱う魔術の本質が、強化ではなく投影にあるということを見透かしていたことについては、追求されたが白を切りとおした。何となく気付いたといい続け、彼女も渋々納得していたが、腑に落ちてはいないだろう。どこまで隠しとおせるか知れたものではないが、知らせるつもりも毛頭ない。

 衛宮士郎はそのあと、セイバーと道場で稽古を積んでいた。屋根の向こうでも、集中すれば何がどうなってるか見透かす眼は持っているが、気にもしなかった。ただ竹刀で叩く音は聞こえてこなかった。何らかの話をしているらしいが知りたいと思うこともない。一度、セイバーと眼があったが、それも無視した。

 総じて、穏やかな一日だった。気を緩めはしなかったが、思慮をめぐらすにはちょうどいい弛緩だった。

 そのまま夜を迎えたとき、ふと、妙な気配を感じた。

 私は腰を落とした。妙だと思ったのは、それがまるで私に向けてぶっつけてきたように感じたからだ。

 屋根を蹴る。方向は、直上。干将を握り、振り向きざまに払った。

「ライダー」

 暗躍する紫の色。夜から急降下してきたライダーの蹴りを、すんでのところでいなす。

 まるで嘲笑うように、女は屋根から屋根へと飛び移る。追った。スピードに開きがある、私が屋根を二つ蹴る間にライダーは三つである。狭い間隔を俊敏に跳ね回り、鎖につながれた釘剣をうねらせる。間断なく襲ってくる刃を弾きながら、私は追尾をし続けた。

 斬撃を伴う鬼ごっこの終着点は、凛たちの通う学校の屋上だった。

 壁を駆け抜け、間桐慎二の張った罠にはまり、ここに立った。それはつい先日のことだ。戦いに没頭すると、一日は驚くほどに長くなる。屋上からさらにもう一段高い給水塔の上で、ライダーはこちらを見ていた。夜の風に長い髪をなびかせている。

「また罠か?」

「まさか」

 シルエットを映したまま、ライダーは平然と言う。

「武器をしまってはどうです」

「敵を前にして、無防備になれとはまた何の冗談だ」

「けれど、しまうのでしょう?」

 肩をすくめて、私は干将を収めた。元より、ライダーに敵意は感じなかった。放たれる攻撃も、特に殺気を伝えることもなく、俗に言うあいさつがわりというやつだろう。禍々しい眼帯と闇に隠れて判然としなかったが、彼女の口元に笑みが浮かんだように見えた。

 上から見下ろしていることに気を使ったのか、ライダーがそこから軽やかに下りてきた。私も正面から向き直る。背の高い女だった。長い髪。どこか、剣呑な印象を受けるが、案外そうでもないのかもしれない。声に淀みが混じっていないからだろう。

「さて、一体何の用だ。下らないと思ったらすぐに切り捨てるぞ」

「我がマスターの命令で、衛宮士郎を守護することになりました」

 その声は、いささか予想外だった。

「……間桐桜が、衛宮士郎を守る、だと?」

「流石に気付いていましたか」

 ライダーは表情を変えずに言った。

「桜は令呪をかざして『衛宮士郎の命を守れ』と命じ、聖杯戦争を放棄した。この令呪の効力は、衛宮士郎の命が消えるか、桜との契約が切れるまで有効と認める。とはいえ、桜が私のマスターであることに何ら変わりはない」

「で、私に話を通すわけか」

「その方が効率がいいと思ったからです。セイバーは傷ついている。マスターにコンタクトを取ろうにも、結局はサーヴァントと激突する。それに貴方ならば、上手に私を使うでしょう」

「利用されるのも覚悟の上というわけか?」

「戦闘が決定的な局面を迎えるまで、姿を見せずに影に潜んで待ちます。知っての通り私は打撃力に欠ける。宝具はまだありますが、あれは使いどころが難しい」

 まだ奥の手があるという。同盟を申し込まれるよりも、それは私を驚かせた。

「……全く、どこまで信用したらいいかわからんな」

「これもまた、貴方を信用させるための策。言ったはずですよ? 貴方ならば、私を上手に使う、だろうと。この力、捨てるには惜しいでしょう」

 少しだけ、思案を巡らせた。言うとおり、ライダーの力は扱いには難しいが、捨てるには惜しすぎる。

 仮に、周囲に居座ることを黙認したとして、戦闘中に離反されれば背中から撃たれることになる。逆に認めなければ、それはすなわち今ここで雌雄を決するということだ。

 拒絶するには危うく、計略だと疑えばキリがない。記憶があるというアドヴァンテージもない。私は、桜がマスターであったことを生前は一つも知らなかったのだから。

「衛宮士郎の命を守るということは、敵対するサーヴァントは討ち滅ぼす、と考えていいのだな」

「ええ」

 どちらをとってもメリットデメリットが存在するならば、対バーサーカー用の切り札を一枚増やすと考えればメリットがより大きいだろう。

 私は頷くことで肯定を示し、ライダーもまた目線を下げてそれを認めた。凛には、まだ黙っておいた方がいいだろう。折をみて切り出そうとは思うが、今はまだ彼女を休ませてやりたい。優れた魔術師とはいえ、二十にもなっていない少女だということに変わりはない。

「それでは、最後に確かめておかなければならないことが一つ」

 この場を辞去する前に、ライダーは訊いた。

「貴方は、なぜ衛宮士郎を憎んでいる」

 頭脳が揺れた。

 いつかの呪詛が、息を吹き返す。

――幾年月、それを写し、熱で打ち、鋼に鍛え、血で振るい、欠片を毀したのか。悠久の時を彷徨う行為を終局へと導く。数多の骸をこの身は踏んできた。それは罪悪という単語ですら御しかねる行為。正義を履き違えた愚行は、この手で終焉へと切り換える。その機が、今私の手の平の中にスルリと滑り込んできたかもしれないのだ――

「なぜ殺そうと思っているのですか」

――どう殺してくれようか。背中に背負った全ての死体をぶちまけて呪ってやるのもいい。貴様の全ては無駄と無力を培うことなのだと絶望させてもいい。聖杯など用いずとも、この手であればどうにでもできる――

「アーチャー」

 ライダーの一言は、わずかに眠りかけていた私の根底を揺さぶった。

「答える気はないな」

 それだけを、どうにか口に出すことが出来た。

「……下らない問いでしたか。ともかく、伝えるべきことは伝えました。もし貴方が衛宮士郎を害そうと動くのなら、そのときは私が阻止する、最後に言いたかったのは、それだけです」

「待て。こっちにも聞きたいことがある、ライダー。なぜ、間桐桜は衛宮士郎を」

 どうでもいいことだった。それでも、聞かなければならないという気持ちに駆り立てられていた。

「愛しているからでしょう」

 ライダーは、それだけをいった。言葉の衝撃は、ぶつかるような激しいものではなく、抗い難い力がじわりと浸透するような感じだった。

 愛。それで、皆が皆、衛宮士郎を生かそうとしているのか。いや、口に出せばそんな言葉になるだけで、本当のところは理由などないのだろう。あまりにどうでもいいことだった。人の感情に理由があるのなら、争いごとなど全て絶えている。

 多くの人間が、衛宮士郎に、生きて欲しいと願う。

 本人だけが、知らない。それを罪と呼ぶかは微妙なところだった。逆に、衛宮士郎は己の身にかえてでも周りの人間を、と思いこんでいる。

 自分を幸せに出来ないものに、周りを幸せに出来ないということも知らないで。

 いつの間にかライダーの姿は消えていた。私も帰還しようと屋上の床を蹴った。

 衛宮士郎と自分を置き換えることはしなかった。この身はもう人間ではない。記録され使役される媒体であり、退行も発展もない。

 だが、変化しない存在であっても、他の存在に影響を与えることは出来る。

 月明かりに濡れる、曖昧な思考だった。冗談に似た思いは、形さえ持たずに、また混沌に戻っていく。

 愛しているから。

 ライダーの一言が、唐突に思い起こされて、束の間戸惑った。


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