赤い弓の断章   作:ぽー

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第三話

 幼稚さゆえに、切実さが伝わる怒鳴り声だった。はじめは一方的な響きだったが、やがて応酬になり、また単一な流れへと戻る。

 私は、街ばかりを見ていた。衛宮士郎の声が、寄せては遠ざかり、震える。間桐慎二の声は、耳を澄ませば届くだろうが、聞こうという気にはならなかった。風景に視線を注ぐことだけに腐心した。

 凛に呼ばれたのは、昼をいくらか回ってからだった。

「今から、士郎に付き合ってあげて」

 彼女は何かの書物に目を通していた。分厚い背表紙を爪で叩きながら、閉口したような表情を隠しもしなかった。こちらを見もせずにいう。

「それはマスターとしての命令かね?」

 私は何を、とは聞かなかった。凛は眉根の皺を一層深くして答えた。

「任す。士郎、多分道場にいるから。内容聞いて、貴方が決めて。用事済ませたら帰ってきなさいよ。いかないなら、また見張り」

 用は終わったと、凛はやはり本に目を落としたままだった。私もそのまま背を向けようとしたが、一つだけ問うた。

「ゆうべは寝なかったのか?」

「寝なかった」

 衛宮士郎は今朝まで凛の部屋にいた。明かりは消えなかった。話し声を、耳にしようとは思わなかった。崇高で生ぬるい理想論と、つまらないが堅実な現実論が、一晩語ったくらいで止揚されるわけもない。

 少なくとも、凛はこうして本の中の文字を追うこともままならなくなり、衛宮士郎は旧友との決着をつけようとする。今はセイバーと語っている。昼前に二人が道場へ入っていくのを屋根の上から見た。昨日ではなく、あえて一日置いたということに、私は何となく納得する気持ちを抱いた。何事も、直視するには時間がいる。

 今度こそ、私は部屋を後にしようと背を向けた。

「アーチャー」

 私を押し留める彼女の口調は、どこか迷いを含んでいた。

「なんだ」

「わたしは葛木を生かしておくつもりはなかった」

「ああ」

「セイバーがやらなくても、私が殺してた」

「わかっている」

「それだけ。もういって」

 最後まで、凛は本を見ていた。私はまた屋根に戻った。

 考え続けた。私に残された道はもうそれしかないとばかりに、思索を深めた。衛宮士郎は、今懸命に地団駄を踏んでいる。生と死の狭間で、理想と現実の境界で、じたばたと足掻いている。前へと進んでいるのか無駄なことをしているのか、誰にもわからない。

 この思索に、答えなど出るはずがない。自分は、あいつのように悩むことなどなかった。理想を追い続け、振り返る機能を最初に打ち捨てて、前のめりに縋った。衛宮士郎の苦悩は、誰かと語ることで前への道へとしている。一歩ずつ進むということは、そういうことなのかもしれない。その変化が私というイレギュラーがもたらした亀裂なのだとしても、その変遷の善悪を判断する基準にはならない。正しい道なのか、悪なのか。

 正しい道が、私にはわからない。衛宮士郎がこのまま正義の道へと至る可能性は、大きい。漠々とした未来は、しかしいつまでも不確定だ。その、不確定の道へと歩きだしたのかどうか、知りたい。

 考える。わからない。お前は正しいのか、私が正しいのか、私は何をすべきなのか。思考に溺れていく。答えを見つけることの出来ないもどかしさが、私から正常な呼吸を奪った。街を見た。上空で鳴いた鳶に視線を移した。空は、いつまでも青いわけではない。戦場の空は、信じられないくらいに黒く赤くなる。この世で、変化の渦から逃れられるものなどないのだ。

 いつまでも終わることのない思考は、もがくのに似ていた。脱却し得ない念から解き放たれるのは、道場からセイバーと二人で出てくるまで続いた。ようやく終われると、どこか救われたような気持ちにさえなった。

「アーチャー、そこにいるんだろう。遠坂から聞いてるか?」

 私は飛び降りて、目の前に立った。少年は一歩後ずさりはしたが、瞳の中に臆する所はなかった。

「話を聞くだけだ。聞いたあとに、どうするかは私が決める」

「ちょっと、付き合えよ。別に難しいことじゃない」

「……なに?」

「いいから、付いて来いって」

 衛宮士郎は、門に向かって歩いていく。

 当然付いてくるものと思っているその態度が、私を微かに苛立たせた。

 苛立ちは、足に伝わり私の体を前へと進ませる。

 道すがらに聞いた。

「どこにいく」

「教会」

 私は全身の血が熱くなるのを感じた。

「リタイヤなら、一人でいけ」

「……ああ、違う違う。戦いを放棄するのと違うって」

「では何しにいく。それ以外に、あそこに意味などあるか」

「あるさ」

 坂に流されるように、歩調が徐々に早まっていく。私は人目を憚って、霊体に身をやつした。

「教会には、墓地があるだろ」

 その一言で、私には合点がいった。今まで、思い浮かびもしない概念だった。

 弔うことの意味を、少年は虚空の私に投げかけた。

「責任なんて取れないけど、でもこれくらいは、しなきゃいけないと思う。足を引っ張った俺と、直接手を下したお前だけは。それと同じで、セイバーも……違う、なんでもない」

 セイバーと二人で話していることについては、察しがついていた。思うところがあったが、考え込むのを避けるように私は質問を発した。蛇蠍は、もう死んだ。

「間桐慎二は、どうする気だ?」

「謝らす。とりあえず藤ねえに」

 それしかない、とばかりに言う。

「でも、頭押さえつけて、っていうのは全然違うから。今日も、また殴りあいになったけどいつかは絶対わからせる。あいつ、根っこはそんなに悪いやつじゃないし。幸い、ライダーの結界で死者もでなかったからよかった」

 注意してみれば、頬がわずかに腫れていた。

「今は遠坂が、部屋から出れないようにっていう暗示かけて、押し込んでるよ」

 放り出すのではなく、最後まで面倒を見ようという気でいるらしい。

 深山の通りをまっすぐ東に進むと、やがて川に出る。公園から一望できる橋は、見事に瓦礫の塊となっていた。報道関係の車両と警察車が、いまだにひしめき合っている。衛宮士郎はそれらに特に興味を示すことなく、橋からさらに上流へと歩いていく。

 急造の船着場がある。数日前、バーサーカー戦のあとに深山に戻ってきたときと同じ方法で、あちらに渡る。土手まで長く長蛇の列が出来上がっている。人を乗せて往復するボートには、どれにも「藤村組」と記されていた。

 黙って最後尾について、順番が回ってくるのを待った。渡し場の手際はよく、二十分と待たない内に列の先頭に出た。顔なじみがいるようで、二言三言と話してようやく舟に腰を下ろした。

 河を行く。悲惨さを垣間見るには十分な時間を経て、対岸に降り立つとそのせいで衛宮士郎の足取りは一層早さを増した。早く行かなければ窒息する、とばかりに。

 十字路をいくつか周り、長い坂道を歩いていく。下界を睥睨するような白亜の楼塔。坂を上りきる。建物には見向きもせず、その裏手に向かって歩を進めた。

 突き刺さっている、無数の――剣――クロス。その中でも、目指す場所は皮肉なほどにわかりやすかった。敷地から溢れんばかりの、新しい花。

 他に人はいない。無人の墓地はどこまで無機質になれるのだろうか。真新しい墓石には、まだ生の匂いが残っている。その反動で、死の影もまた色濃く映る。

 私は墓標に立つことを、拒まなかった。死者の憐れを悼む。頭を下げることだけは、しなかった。目に映る反省などという、偽善を行う気だけは永遠に生まれないに違いない。それは、胸の内だけですべきことだ。

 真っ白な十字は、その主の完全な消滅を否定している。生きた証の一つとして、地面に突き刺さる。

「俺は、別に何も言わないからな」

 手の平を合わせてから、衛宮士郎は言う。

「こういうのって、人から言われてやることでもないし。けどお前は、俺とセイバーを助ける為に橋を崩して、それの犠牲になってあの人たちは死んで。上手く言えないけど、残念だった、で済ますことは、ダメだと思った」

「死んだものに、出来ることなどない。が、悼む意味はあるだろうな」

「……俺は忘れられない、一生」

 いいながら、衛宮士郎は新しい供え物に押し込められている、奥の花瓶に手を伸ばして、離れたところの蛇口で水を替えるために立ち上がった。

「本当は、昨日行くべきだったんだろうけど」

 水の音に、釣られるように口から言葉が突いてでた。

「日常を味わいたかったのだろう?」

「へ?」

 花瓶に花を戻して、十字架の前にもう一度供えなおす。

「犠牲の上で成り立つ日常のありがたみを、知った上でここに来たかったのだろう」

「言ったっけ、俺」

 私は返答する口を閉じて、急いで姿を消した。

 姿が現れる前に身を隠したつもりだったが、欺けた自信はなかった。教会の従僕は、磔の主さえ無視する不遜を漂わせている。

 衛宮士郎が、ようやく足音に気付いて身構えた。敵であると、直感は五月蝿いほどに訴えているだろう。神父は意に介した風もなく手を広げる。

「弔問客を拒む気はないが、甚だ予想外の顔ではあるな」

「言峰綺礼……」

「聖杯戦争の最中だというのにやって来るとは、見上げた信心だ」

「……別に、信心ってわけじゃない」

「そこの地は未遠橋崩落に巻き込まれて召された者のそれだ……なるほどな」

「なにが、なるほどだっていうんだ」

 衛宮士郎から、敵意が出すぎている。それに怯む男ではなかった。私もまた、思わず行動を起こしそうになるが、理性はまだ働いている。

「ここは惑う者を隔てなく受け入れる家だ。告解の真似事でもしてみるか……たとえそれが殺人の苦悩でも、聞き留めよう」

 背を向けて、男は歩き出した。衛宮士郎が、躊躇いがちながらもとらわれたように後に続く。墓地を一周し、また広場の方へと向かいながら言峰は嗤った。

「なに、気にするな少年」

 大した悩みではないと、嗤う。

「人の身で、全ての存在を救うことなど出来ない。人は優越種ではあるが動物の領域を脱出しきったわけでもない。生きることは踏みにじることであり、押し退け進むことだという定義が、覆るまでには至っていない」

「気に、するな――だって? 命に良いも悪いも、ないんだぞ……!」

「人は人の死を乗り越えることが出来る」

 向き合う意義すら見出せない稚拙なテーゼであると、神父は口元ゆがめて弁を続ける。

「黄金率の中の機能だ、これは。まさに、人は忘却することで生きることが出来る。少年、その罪と苦痛の味を覚えておくがいい。悲しくはあるが、それさえも、いつかは忘れることが出来る。味が出るうちに、じっくりとかみ締めておくことを勧める」

「言峰、お前」

「人は自己の有限性の中で無力を自覚する。かつてはそれを病などという輩もいたが――なに、人間など元々病んでいる。全ての壁を乗り越えて目的を果たそうなどと、それこそがむしろ病である。人は挫折の度に忘却という手段を用いて堕落する。己への絶望は実に甘美な免罪符だ。人は人の為すこと以上のことを為すことは出来ない――君は、実に貴重な経験をした」

「誰が、お前になんか」

「これは、嫌われたものだな」

 何が面白いのか、男はくぐもった笑いを漏らしながら、やがて思いついたように言った。

「……しかし。そうか、橋を破壊したのは君と……凛も当然関与してるか。彼女もまだ敗北したわけでもあるまい。いい、具合の混沌だ。今回はアレ程度では済まんかもしれんな」

「アレ……?」

 熱死の彷徨う火の海。愉悦の思考は、それを思い描いているに違いない。

 これは、毒だ。言峰という男は、衛宮という男に毒を盛ろうとしている。

 私は止めようか迷ったが、奇妙な好奇心がそれを遮った。毒は少年の心に染み渡り、一体どういう変化をもたらすのか。衛宮士郎の心を読みきれない、己の浅慮から発する鬱屈した、黒い好奇心だった。

 神父は、こちらの方を――偶然と考える方が自然だが、しかし――軽く一瞥してから嗤った。

「ふむ。それはまた次回とするか。背後にサーヴァントを従えずに、ただ一人来たときにでも語るとしよう。その日が来るか来ないかはまた闇の中だが、余人を交えるのも神に仕える真摯さに欠ける」

 言って、男はまた背中を向けた。

 この男の全てが、毒である。その毒に刺激されて、黒い好奇心はどくどくと脈打つ。

 衛宮士郎は過去を乗り越えることが出来るのか。真実を知って、あの男の前に再び立ったとき、殺意を抱かずにいられるのだろうか。偽善という、事実に屈するのか。それさえ踏み越えて前を見るのか。

 毒は日差しを浴びて中和されていく。


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