舟を使って深山へと戻った。雲の隙間から、わずかに日が照っている。風の強い川の上でも、寒さは気にならなかった。衛宮士郎は、気温以外の寒さに襲われて、肩を震わせている。
言峰という男について、耐え難い、悪寒がある。悪寒は、はっきりとした形をもたない。だからこそ、余計に異形へと育っていくのだろう。
なくはない記憶も、嫌悪感が全て塗りつぶしてしまっている。この聖杯戦争での立ち位置も、思い出せない。無意識の中へと抑圧してしまってるうちに、曖昧なものとして封印されてしまったようだ。
仇ということだけは覚えている。
「そうだ。食材、買わないと」
商店街へと入っていく。人通りは驚くほどに少なかった。危険――いや、漠然とした不幸、そういいかえてもいい――を警戒している。人々は今、戒厳令が発令されたように怯えて外出を拒む。謎の昏睡事件。未遠大橋の崩落。柳洞寺から登る閃光。不可思議は人々を恐慌へと駆り立てる。今は、その一つ前の段階だ。ひっそりと、心の中の恐怖を、溜め込んでいる。街は、異様に静かである。
衛宮士郎は、スーパーで食材をまとめて購入した。いくつものビニール袋を下げて、店の外へと向かう。
「あ、シロウだ」
「ん?」
子供が一人、駆け寄ってきて衛宮士郎の腕に抱きついた。
私は最初、その少女がイリヤスフィールだと見抜けなかった。普通に、近所に住んでいる子供だと思った。遊びをねだって、マスターがマスターの腕を取る。死線が縦横する戦争のただ中で、こんなことがあっていいはずがなかった。はしゃぐ声を上げながら、バーサーカーを繰る少女は嬉しそうに腕を引く。
私は本心で呆気に取られ――同時に、ああ、こういう子だったと、想い返した。
「い、イリヤ!? なな、なんでお前ここに」
「え? 何か変かしら? この前会った時、また会えるって約束したじゃない。お兄ちゃん。忘れたの?」
「あ、え、や、忘れたわけじゃない。じゃないけど、あーなんというか」
バーサーカーを操る少女。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
敵を減らすチャンス、だと思った。人通りは少ないとはいえ、皆無ではない。だがその程度のリスクを無視しても問題がないくらいに、戦果は大きいだろう。腕一振りの呆気ない挙動で、バーサーカーのリタイヤが決定する。たとえ目の前の子供が、イリヤスフィールという名の少女だとしても、私の双肩には世界という厄介な代物が積まれている。
ふと、列挙する廃墟となった商店街が思い浮かんだ。そして、花に埋もれた真っ白い十字架が。手には、鈍い感触。剣を握っている。いつかの誰かの、冷えていく死骸を、思い出す。
桜の二の舞を、私はしようとしているのかと、自問した。
私に、その罪をもう一度被る覚悟があるというのか。家族殺しは、馬鹿みたいに、重い罪だ。加えて、この場で戦うことで、周囲に及ぶ被害も――私は、一体何を考えているのか。多少の犠牲など、目をつむればよいだけだというのに。
衛宮士郎の腕を引きながら、少女は頬に小さなえくぼをこしらえた。
「ねえシロウ。今日はちゃんとお話に付き合ってくれるわよね。この前は、キャスターの居所を聞いたらさっさといってしまったんだから」
「ああ、うん。ええと、ごめん。あの時はほら、急いでたから」
「うん、ちゃんとキャスターも倒したようだし、アサシンも。マスターも殺したのよね。いいわ、許してあげる」
「……知ってるのか」
「ええ、知ってるわ」
少女はよくやったと、褒めるように笑顔を作る。
「ライダーのマスターはどうしたの? 家に連れて帰っちゃったりして、ふふ、たくさん遊んだら後始末はちゃんとしなきゃダメなんだからね。わたしもいつも適当にやっちゃって、セラにお小言をいわれちゃうの」
その場でくるくる、はしゃぐように回る。くるくると、言葉を操る。
イリヤスフィールは鼻歌を歌いながら、殺人と、それを凌駕する残虐な快楽を肯定する。
「後始末、って、なんだ」
「後始末は後始末よ。いつも、してること。シロウはどうしたの? 燃やしたの? 埋めたの? 流したの? まさか食べちゃったっていうのはないでしょうし、うーん」
少女は笑顔でさえずる。
衛宮士郎は、頭を殴られたようにその場にひざまずいた。痙攣するように震える腕を、少女の肩に置く。
「……なんでだ……」
呟きから、段々と声は大きくなる。痙攣も、比例する。
「みんな……みんな! 殺すことしか考えてないのはなんでだよ! なんで、そんなに……」
「お兄ちゃん?」
「イリヤ……人を殺すな。殺すことは、ダメなことなんだ。ダメな、ことなんだよ……なんでみんなそんなことを知らないんだ!」
どこまでも陳腐な台詞が、私に届くことはない。少女にも届いていない。
ただ、私にも衛宮士郎が見えていない。
「そっか。シロウは、そういう在り方なのね」
それは苦しいことだと、わずかに少女は表情を曇らした。
「でもごめんなさい。わたしはこういうモノなの。シロウ以外のマスターは全部害虫だし、関係ない人が何人死のうと、どうでもいいの」
「どうでも、よくなんかないんだ。イリヤ、人の命は、葉っぱじゃないんだぞ」
「そういう生き方は、つらいわ」
肩に置かれた腕をほどいて、真っ白な少女は、姿に合わない大人びた足取りで、歩いていく。衛宮士郎が、いくらか遅れてそれに続いた。イリヤは、度々振り返っては楽しそうに首を傾げる。そういう仕草は、とても子供らしい。公園までずっとその調子だった。
差し出された焼き芋を受け取って、嬉しそうに頬張りながら、少女はいくつかの話をした。故郷と、メイドと、聖杯戦争について。
敵は殺すものだと教わった。締めくくるようにそういった。
「お兄ちゃん、今日はアーチャーを連れてるのね」
少女の赤い瞳が、正確にこちらを射抜いた。目と目が合う。それだけで、動揺は何倍にも大きくなった。
私は、いつかは彼女を殺さなければならない。バーサーカーに勝つということは、そういう解釈も許容している。
私は殺せる。私は、誰であろうと殺せる。多くの人を、守るためならば。一人殺して百人救えるのならば、百人殺して世界を救えるのなら。
今は、まだ機が満ちていない。ただそれだけである。
「一日、時間をあげる。だから、シロウの家に行くのは明後日。シロウのことを気に入ってるから時間をあげるのよ。月が出た頃に、バーサーカーと一緒に」
宣戦布告というより、死刑宣告に近い響きがあった。
「イリヤ……どうしてもダメなのか。バーサーカーを、どうにかしてから、そうだ、家に来たっていい。いやもう、なんだっていいこの際。殺し合いなんて、ことは」
「覚えていてね、シロウ。いつかはわたしとも殺しあうし、誰かとも殺しあう。その時になって、手を抜くなんてことはやめてね。自分の命より敵の命が大事なんて、嘘だもの。嘘は嫌い。嘘は綺麗じゃないもの」
「嘘なんかじゃ……!」
「わたしを殺すのは、あなたがいいわ。その終わりは、きっと許せる現実だから」
言い残して、少女は雪の降り出した道の向こうへと、妖精めいた可憐さで姿を消した。死に対して、少女はどこまでも正直で、自覚的だった。
しばらく立ち尽くすことしか出来なかった衛宮士郎が、ビニール袋を持ち直して道を歩き始めるまで何分かかったのか。積もりそうもない、ちりのような雪だった。武家屋敷に向かって坂道を登っていく。ぼんやりと虚ろな表情で、私は問われた。
「……アーチャー、お前」
「なんだ」
「俺、お前がイリヤを、襲うと思った」
「お前が邪魔をするだろう。それに、ここは人目につきすぎる」
「本当に、それだけか?」
「他に何がある」
「……いや」
我ながら、もっともらしい言い訳だと思った。嘘をつくのがえらく上手いなと、今回の現界は自分に対してしばしば驚く。
門をくぐると、すぐに私は衛宮士郎から離れた。まっすぐに凛の部屋に向かい、わざわざ実体化してからノックをして、という面倒な手続きを経てから部屋へと入った。
「どうだった?」
「どうもせん。教会に行って墓を見舞ってきた」
「そう」
出る前と同じように、凛は本に視線を落としたまま答える。ページの厚みは、変わっていなかった。
しばらく、会話が続いた。間桐慎二の処遇について、まだ決めかねているようだ。記憶を消して放り出すのが一番楽なようだが、衛宮士郎が許すはずもない。彼女と一晩語ったとき、責任を取らせる、と頑なに主張し続けたそうだ。
「このままだったら、いつか士郎は死ぬわ」
「迷っているのかね。僭越かもしれんが、君の考えを当ててやろうか」
「もったいぶらずに言いなさいよ」
「聖杯戦争が決着したら、衛宮士郎の記憶を抹消しよう」
「なによそれ、ひどい話ね」
「そうだな」
凛は、否定も肯定もしなかった。いつもなら、二つ三つと冗談をいって、それから沈黙がやって来て、私はこの場を辞去することになる。それを望む声が胸の内にあることを意外に思いながら、私は口にした。
「イリヤスフィールに会った」
隠し立てすることでもない。私は率直に言った。
流石に、凛はぎょっとした顔で本を取り落とした。
「明後日の夜。この屋敷に襲撃をかけると堂々と言い残して去っていった」
「……マジ?」
「嘘ついて何になる」
「知ってる。けど、聞き直したくなるのが人間の性ってものでしょう」
「逃げたくなったかね」
「はん。逃げたくなった時は、立ち向かえ、ってね。遠坂家の家訓よ。いま、決めたけど」
そっか、とうとうバーサーカーか。呟きながら、口に手を当てる。
朝から、遠坂凛という少女の雰囲気がおかしいことには気付いていた。気が抜けているというほどではないが、生気をあまり感じない。衛宮士郎との会話のせいだとは思ったが、聞く気にはなれなかった。
このままではバーサーカーに殺されるだけだろう、ということだけははっきりしていた。そして、本調子ではないとはいえそれに気付かないほど、彼女は鈍くはないということだったらしい。
「走ってくる」
「……」
「わかってるわよ、一秒だって、もったいないってことは。でもね、走ってきたらスッキリするの。それが多分、今のわたしの最優先事項」
彼女が浮かべたぎこちない笑みに、私は皮肉に肩をすくめて返した。戻ってきたときには、いつも通りの力のある彼女に戻っているだろう、と確信を持って。
夜までこの屋敷で待つのではなく、逆にあちらに乗り込む。
作戦とは言いがたいが、それ以外に道もない。
屋敷では戦いにくいし、周りにも被害が出る。なにより、藤村大河と間桐慎二もいるのだ。戦うにはあまりに足手まといが多すぎる。
だがこれが奇襲になるなどと、楽観に浸ることは到底出来そうもない。私たちが先んじて攻め込むことを、イリヤスフィールが予想してないはずがない。虎口に飛び込むことには変わりがなかった。
セイバーの回復は遅れている。宝具を使用するための魔力は、まだほとんど溜まっていない。戦力は私を主として、どうにか地の利を得ようというところに作戦は落ち着いた。ライダーについては、話さなかった。不確定な戦力に期待することは足元を掬われることになりかねない。
もう、今は月が昇った。私はいつものように、屋根の上。
静けさは、まるで街が海にでも没したかのように思える。
足音が近づいてくるのを、私は知っていたが見向きもしなかった。彼女と顔を合わせるのは、いつも月の下だという気がする。偶然にしては、やけに綺麗だ。
「アーチャー」
いつも、見下ろすように立ったままだった彼女は、今日もそれを崩そうとしない。
それが、心地よかった。
「勝てますか」
毅然として、折れようもないほど澄明な声だった。私は、しばらく答えなかった。声の余韻が全て消え去ってしまうまで待ってから、ようやく口を開いた。
「勝つ」
「そうですか。それならば、何の問題もない」
二人とも笑わなかった。二人に、笑顔はいらない。二度も殺し合ったサーヴァント同士、馴れ合いは主人に任しておけばいい。彼女なら、きっとそう考えるだろうという予想は、崩された。
「なにか、あったのですか? 貴方から感じる力が、若干変わったように思えます」
「変わっただと」
「険が取れてます。少し、柔らかくなったということです」
それは君もだ、と言葉を返さなかったのは、ひとえに自分の変化を受け入れないがためだった。衛宮士郎が、私に影響を与えることなどない。殺さないという叫びが、私に届くことなどない。この身は、既に滅んでいる。
「聖杯など、求めるな」
セイバーは私の目から視線をそらして、無言のままこの場を後にした。
馬鹿なことを言ったと、後悔に似た気持ちに襲われた。
月だけが見ている。世界も、見ている。
私には、何も見えなかった。