赤い弓の断章   作:ぽー

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第五話

 風がやんでいる。

 川が近い分、冬木の町に風はやってくるのが当たり前のように、いつもそこにいた。吹かなければ、不自然だと感じてしまうほどに。暖流に乗ってやってくるぬるい風が、山裾から回って街を取り囲むように吹く。そういう風が、ほぼ一年中吹き続ける。それがやんだ。まるで街自体が、何かを覚悟して息を飲んでいるかのようだった。

 私は、屋根の上で空を睨んだ。上空には風が残っているのか、雲は驚くほどの早さで東の街を越えていく。時間はまだ、昼をいくらか過ぎたあたりだった。

「アーチャー」

 庭から顔を出して凛がいった。

「紅茶淹れて」

「なに?」

「紅茶。淹れてっていってるの、口寂しくて。探したけどこの屋敷、どこにもポットなかった。まあ衛宮くんらしいわね。急須でっていうのもいいけど、湯呑みはナシよね」

「何がいいたいんだね」

「さっさと取ってくる」

 袖をめくって令呪を掲げるマスターに肩をすくめてから、私は屋根を蹴った。皮肉をたっぷり含んだやり取りが、いつもの私たちのやり方だ。戦いを前にしたからといってやり方を変えてしまうほどに、私たちは脆弱ではない。

 風のない街を走って、遠坂邸から紅茶道具一式を取ってくるのは、五分とかからなかった。それでも、凛は居間で遅いぞとばかりに口を尖らせている。反論を放り投げて私は台所に向かった。

 水を火にかける。手に染み付いた動きに任せて、私は陶器を温め、茶葉をはかり、蒸らす。

 この屋敷で、私と遠坂凛が二人でいるということに、違和感を覚えずにはいられなかった。在りし日に、戻ってしまったのではないかと錯覚を起こしてしまいそうになる。その錯覚は、目覚めたときにひどく惨めな思いを味あわせる類のものだ。

「この家、広い分、人がいないと寂しいわね」

 畳に寝転がって、凛が呟いた。

 今この屋敷に、衛宮士郎とセイバーはいない。今朝、いきなりデートするといって出かけていったのだ。

 凛ははじめは呆れて、途中から苦笑を交えて、最後は蹴りだすように送り出した。彼女がそれを止めなかったのは、もう私たちにやることは残されていないからだ。ただ、敵地に乗り込み、全力で迎撃するだけ。イリヤスフィールが残した一日は、執行猶予以外のなにものでもない。

 私は屋根の上で、黙って見下ろしていた。二人の姿を見送ったあとに、遠坂凛という少女が溜め息をこぼしたことを、私だけが知っている。連鎖的に、昨夜のセイバーの顔が、泡沫のように浮かんで消えた。

「紅茶まだ?」

「ああ――入った。全く。ま、いいがね。私のほうが紅茶を淹れるのが上手い。君にその正しい判断が出来ていることは評価するよ」

「全然悔しくない」

「それも、どうかと思うがね」

 ソーサーごと受け取って、赤茶けた味と香りに口をつける。

「ん、おいしい。生前もやっぱりよく淹れてたから、こんなに美味しく淹れられるのかしらね」

「覚えていない」

「そっか」

 しばらく、紅茶をすする音だけが畳に吸い込まれていった。私はただ黙って立っていた。凛が、頑なに紅茶だけを飲んでいたからだ。紅茶以外の何かも一緒に飲み干してしまおうとしているように、私には思えた。私の勝手な思い込みかもしれない。はっきりしていることは、しばらく前から彼女が私の過去について詮索しなくなった、ということだけだ。

「ああ、そうだ。慎二にもお昼持っていってあげないと。なんか癪だけど」

 凛は紅茶を飲み干したあと、家主が作り置きしていった盆を手にとって、間桐慎二を押し込んでいる部屋へと歩いていった。ついてこいといわれなかったので、私は居間に残った。

 衛宮士郎とセイバーが出かけていったことについて彼女がどう思っているか、気にするのはあまりにも下衆だ。下らない考えを打ち消して、昨夜からまだ結論が出ないことについて考えを馳せた。

 バーサーカー。

 その存在の力を感じ取るのは、一度でも相対すれば十二分だった。

 膂力、速度、迫力、全てが桁違いといって良かった。一撃でもまともに受け止めれば、そのまま為す術もなく押し込まれるだろう。近接戦の鬼であるセイバーでさえも、息も絶え絶えに砕かれたのだ。直接対峙してみると、圧力は二倍三倍にもなる。

 マスターしかなかった。考えれば考えるほど、結論はそこに行き着く。イリヤスフィールを殺せば、バーサーカーは即座に消滅する。ヘラクレスは膨大な魔力の塊を供給されて、はじめて現界出来ている。供給の根元が断たれれば、数秒ともたずに霧散するはずだった。

 バーサーカーの突撃を誘い、その隙にイリヤスフィール・フォン・アインツベルンを殺す。私とセイバーがいれば、出来る。凛も、おそらくそう考えているだろう。戦斧を振りかざすバーサーカーをセイバーが受け止め、私がマスターに向かう。

 当然、問題はあった。セイバーが耐えられるのか。イリヤスフィールが姿を現すのか。もしものことを考え出せば、キリなどなかった。賭けは一度。私が、白い少女の心臓を射抜けるかどうか。

「飯を食わせてもらえるだけ、ありがたく思えっての」

 足音より先に、愚痴が聞こえてきた。障子が開くのを待って、私は二杯目の紅茶をカップに注いだ。彼女の怒りを収める有効な手立てとして、今の所これしか思いつかない。

「あの男の処遇はどうする気だ?」

「……さあ。このまま帰すのは論外として、記憶を消すってあたりで落ちつくんじゃないかしら」

「あの男がそれを認めるとは思わんがね」

「あの男って、士郎? ……ん。ま、ね。任しておくにはちょっと危なっかしいけど」

 凛は受け取ったカップを、勢いよく傾けた。何となくそうするだろうと思い、紅茶の温度はいつもよりわずかに低い。

「任すのか」

 火傷をしなくても、勢いよく飲めば喉は熱くなる。むせるのを我慢しながら凛はいった。

「自分が始めたことは、自分で終わらせるべきだから」

 その台詞は、今の私にとてもそぐう。

 自分が始めたことは、自分で終わらせる。確かに、そのとおりだ。

「ところで話は変わるんだけど」

 飲み終えたカップを流し台に戻しながら、何気ない風に彼女は私に聞いた。

「貴方はこの戦いを最後まで勝ち抜いたら、聖杯に何を願うの?」

「……どうしてそんなことを聞くんだね」

「いいじゃない、減るもんじゃなし。わたしもいったでしょ」

「……」

「本当は、気になってたのよちょっと。前から聞こう聞こうと思ってて」

「そうか、だが答えになってないぞ」

「ああもうグダグダしない。答えろ」

 途端に、かすかに窮屈になり息苦しくなる。

 命令に従えという、召還早々に、彼女が唱えた令呪の効果だった。

 腰に手を当て、凛は目を細める。

 彼女が一体なにを考えているのかよくわからない。

 答えるしかないということだけは、はっきりしている。

「私の答えに、価値などないぞ?」

「それはわたしが決める」

「……わかった、いえばいいんだろう」

 エミヤシロウを殺して、全てをなかったことにすること。

 当然、それを口にするわけにはいかない。だとして、他に適当なことをのたまってこの令呪の縛りが消えるかどうか、疑わしい。私の中に願いと呼べるほど、綺麗な思いが残っているかの方がなおさら疑わしいが。

 願い、それは忘れてしまったものだ。けれど字面は、けして消えないものをさす。愛する人たちとすべての人たちがただ笑って暮らせること。それさえも忘れてしまった私の中に、明日に願う思いなど残っているのだろうか。

 願う。何を、願うというのか。朽ちてなお、私の中で消えずにくすぶる、願いとは。

 答えは、口をついて出ていた。

「平和を」

「え?」

「この世に、消えてなくならない恒久的な平和を、私は願う」

 裏切って、裏切られて、最後は見向きもされなくなった無様な願いである。衛宮士郎はただ平和を願って、剣を振るって終末をまたこうして戦いで塗りつぶしている。たとえどこまでいってもこの願いだけは消えてなくならないことに、私はもう気付いていた。この結果だけは、祈ってならない。戦い続けた男は、何の価値もないただの阿呆なのだとしても、譲れない、見果てぬ夢。

 似合わないと、大口を開けて笑い飛ばす凛。私はああそうだろうなと答えて、呪縛から解き放たれた体を確かめた。手首をまわしながらいう。

「やはり、笑われたか……まあいい、他人の手による救いに意味などない。今のは、笑い話にしておこうか」

「ちょっと、笑ったからって拗ねないでよ」

「拗ねてなどいない」

「いいけどね、悪くはないと思う、願うだけなら。ただ、似合わないと思っただけで」

「知っているさ」

 誰よりも、知っている。

 

 

 

 夕方になった。私はまた屋根の上。悶々と繰り返される思考を断ち切られたのは、やはり凛の声だったが、今度は顔を出さず、レイラインを通してだった。

「付いてきて、荷物も持って欲しいし」

「なににだ」

「夕飯の食材買いに」

 私は首をかしげた。

「食材なら冷蔵庫に入っているのではないのか?」

「なんか、癪なのよ」

 ふっと湧き出ようとする、彼女の気持ちについての下衆な好奇心を、私はまた叩いて割った。

 半ば仕方なしに、私は彼女に付き従って街へ下りた。

 商店街は、何日か前よりはまだ活気が戻ってきていた。テロだ、ガスだと騒ぎ立ててても、いつかは終息に向かう。両の目は後頭部にはついていない。人は適度に忘却を繰り返して、今日と明日を生きていく。

 通りの中で最も活気のある店へ凛は足を向けた。買い物かごを手にして、野菜やら肉やらを慎重に選んで放り込んでいく。

「ねえアーチャー、あなた料理できたっけ」

 あらかたの買い物を済ませた後、屋敷への坂道を登りながら凛は言った。

「……私の料理の腕前が、今なんの関係がある」

「うん。まあ察してると思うけど」

「……」

「なによ、そこまで嫌なら別に無理にとはいわないけど。不味い料理を食べるなんて、わたしもゴメンだし」

「聞き捨てならない言葉が二、三あったようだが聞き間違いかね」

「あら、気に障っちゃった? ごめんなさいね、悪気はなかったの。忘れて頂戴」

「ああ、これが君のいつものやり方だとは重々承知だがね。知っていても黙っていられないことはある」

「ふーん、作ってくれるんだ」

「まずはそちらからだろう。どうせ大したものは出来まいが」

「言ったわね。ほえ面かくわよ」

「君がな」

 下らない戯れだった。こんなことに意味はない。お互いが嫌になるほど知っている。私たちは、殺し殺される戦争をしているのだから。ただこの程度の戯れが、許されないことではないはずだ。

 屋敷を目指して、坂道を登っていく。見下ろす景色はほとんどが夜だ。新都より西の深山はまだ明るくはあるが、そう長くは持つまい。

 門をくぐっていく。くぐり終えるのを遮るように、音と共に風が吹き荒んだ。強い風だった。朝からやんでいた分、全て吐き出そうとしているかのようだった。凛が髪を押さえる。彼女を庇うように立ち位置を変えたところで、私はそれがただの風でないことに気付いた。

 方向は未遠の川。河川敷の辺りから放射される暴風には、身悶えするほど濃い魔力が混ざっている。セイバーの魔力と、それを塗り潰すどす黒い、誰かの力。

 私は凛を抱いて、河に向かって地を蹴った。ドサリと、買い物袋の落ちる音がかき消える。

 私の言葉など空虚だ。

 忘れていた。私たちは、戦争をしているのだ。


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