他に選択肢はなく、その他になすべきこともまたない。
戦うだけである、と私は二度三度と頭の中で繰り返した。まるで怯えに言い聞かすような行為に、わずかばかりの躊躇いを自覚しながら。
セイバーと衛宮士郎を家に運んでから、私は凛の部屋を訪ねた。日付は変わっていた。夜は沈殿していた。宿命だけが、渦巻いていた。彼女は明かりもつけず、椅子に座って暗闇に自分を溶かしていた。
「なにやら、元気がないな」
「……ノックくらいしなさいよ」
「したと思ったが」
私は明かりのスイッチをつけて、腕を組んだ。振り向いた彼女は、何か嬉しいことがあったみたいに笑った。目を細めて、白い歯が眩しかった。その表情が静かに消えてしまうまで、私は黙って見つめていた。
ふうというため息の後に、彼女は口を開いた。
「アーチャー、アンタどれだけ消耗してるの?」
「かなり、としかいえんな」
「そう、そうよね」
固有結界は発動させるだけで、私の魔力の数割を持っていってしまう。ギルガメッシュを打ち滅ぼそうと打ち出した刀剣とロー・アイアスも含めて、消費した魔力の総計はあまり考えたくはなかった。
バーサーカーは、ある意味ギルガメッシュより手強い。私と、全く同等に近い能力を持つ黄金王とは違い、ヘラスの大英雄は真の一のみを持つものだ。百二百の複製は、たった一つの真正に敗退する。神に招聘された灰色の大巨人に、アンリミテッドブレイドワークスは意味を成さない可能性が高い。
状況は抗い難いほどに逼迫し、逡巡する猶予さえない。
時間は一秒刻みで進むわけではない。同じリズムで、そのときに近づいていくわけでもない。加速度的に接近していく運命への目撃は、いまだかつて誰にも止めることが出来なかった運動だった。
その車輪に、遠坂凛は飲み込まれかけている。
「このままじゃ負けるわ、わたしたちは」
「誰に?」
「誰に、って。決まってるじゃない。バーサーカーよ」
「そうか。そうだな」
「……何か手があるの? だから、そんなに落ち着いて」
ああ、と私は頷いた。
「言って。何でもいいわ。何でも」
「克己。今まで、君がたゆまずに続けてきたこと」
揺るぎない勝利への確信だけが、針の穴をも通す。
万に一つしかないのなら、その一つを死ぬ気で信じればいい。二つも三つもないのだから、逆に信じやすいというものだ。それについて一番よく理解している少女が、答えを見失ってしまっているということは、何よりも悲しいことだった。そしてその原因が自分にあるということも。
電灯が二度三度点滅して、一瞬だけ全ての光と影が入り混じった。私は言った。
「凛、私は君の強さが嫌いではない。それに守られている、やさしさも嫌いではない。ま、つまりだ。私がもっている遠坂凛のイメージを、壊さないでくれ、ということだ。端的だろう?」
「……どういう意味よ」
「変わるな。君は君のまま戦って、遠坂凛は遠坂凛として勝つのだ。他の誰になることもない。君は、ただそれだけで十分すぎる人格だ」
それは最大限の信頼の証のつもりだった。嫌いではないのだ、彼女の、立ち向かう勇気と、優しさ。それを押し殺す冷徹さまでも含めて。
視線が交差して、秒針さえ語らない沈黙の中、魔術師はさきほどの強がりとは違い、本物の笑顔を見せた。
そうだその笑顔のためなら、と。バカみたいに陳腐な言葉が脳裏をよぎる。
「だが、本心だからな」
「え?」
「なんでもない。こっちの話だ」
彼女を勝利に導くことができたなら、あとはもう何も望まない。むしろ私のような間違った存在は、彼女の人生に染みすら残すことなく消えるべきなのだ。この世界は彼女らのものであって、決して私のものにはなりえない。もはや復讐すら放棄した私には何もない。ただこの身は鉄に戻り、今まで通りにゆっくりと錆びていくだけ。
そのために、何度でも、闘争の炉に火をくべよう。
「さて、主の機嫌が元に戻った所で、考えようか」
「そうね、諦めでもなく、無謀を期すわけでもない。作戦を」
「作戦の背骨は同じ考えだと思うがね」
「待って」
凛の顔が固く強張った。私は待たなかった。
「今から、アーチャーはバーサーカーに決闘を挑む。君も、それを考えていたのだろう? 命令をくれ」
「……違う、時間はまだあるんだから。アーチャー、行けばアンタは」
「希望で事実を捻じ曲げるな。時間はどこにもない。数字はいつも人を惑わすものだ」
また、電灯が点滅した。そろそろ交換が必要なようだ。確か蔵に積み上げているはずだった。もし帰ってきて、まだ衛宮士郎が変えていなかったのなら、そのときは私が取り替えよう。
光と影が入り混じる。それに追いやられたように、少女は口走った。
「アーチャー、今の状態でバーサーカーと一騎打ちをして、勝てる見込みは?」
「やってみなくてはわからん」
「それでも、今より魔力があったのなら、だいぶ違うんでしょう?」
「それは、そうだ」
「わたしは、マスターよ。勝つためだったら、なんだって協力、するわ」
途端に耳鳴りに似た緊張が部屋に満ちて、秒針が復活した。カチカチというリズムが心臓の鼓動よりかすかに早いので、急かされた鼓動はいつもの律動を乱す。急に部屋が窮屈なまでに狭く感じられ、ふと、この狭い部屋の空気は、全て私たち二人で呼吸し尽くしてしまったのだろうかと、わけのわからない理屈が飛び出した。
ちらついていた電灯が、完全に消えた。
凛はこちらを見ていなかった。視線は畳の編み目を数えているようだった。私は足を踏み出していた。一歩、二歩と歩いた。彼女の目が私の足を避けて、段々と俯くようになる。
椅子に座ったままの少女は、もはや真下を見ているだけであった。いつもは強靭な精神を宿している体躯も、押せば倒れそうなくらいに華奢で、か弱い。
彼女の頭に手をやった。それ以外どうしたらいいのか、わからなかった。一瞬でも、抱きしめてやりたいと思ったのはとんでもない罪だろう。
指先で髪をかき乱してやった。
「宝石を、一つもらおう。いま君に出来ることといえば、精々そのくらいだな」
途端に少女は、馬鹿、といって顔をくしゃっと歪めた。
私たちには、私たちの守るべき誇りがある。戦友は肩を並べる。戦友のためになら死ねる。戦友同士は、ひたすら前だけを見続ける。そこに男女の情が介在する余地はない。
ルビーを手渡しで受け取った。触れた指先が、熱くて、決心が緩みかけたが間もなくさらに固くなった。電灯が生き返る。マスターが命令を下した。
「行きなさいアーチャー。イリヤスフィールの暗殺を命じるわ。ダメだったときは、バーサーカーに、なるべくダメージを与えるの。朝まで士郎とセイバーは動けない。貴方が時間を稼いで、二人の時を稼ぐの」
「承知した」
「ここは守りにくい場所よ、だから最悪なのは、貴方が私たちの逃げる暇を得ることなくすぐにやられてしまうこと。朝まで、何とか時間を」
「ああ、承知したといった」
「それじゃ」
背中を向けた。別れの儀式は終わったのだ。これ以上は無駄なことで、心の贅肉でしかない。だが、時に無駄なことが必要な時もある。彼女と、そしてきっと私にとっても、今がその時だったのだろう。
「わたし、紅茶が飲みたい」
「紅茶か」
「飲みたい」
「わかった、また、明日の朝にでも淹れよう」
振り向いたが、凛は背中を向けたままだった。小さな背中が私に、声を。わずかに震え、わずかに憂い、そして強かった。
「楽しみに待ってるから」
「いってくる」
静かに障子を閉めると、私は廊下を歩いて庭へと出た。月は雲に翳っている。今生の別れには相応しくない。
戻ってこようと思った。
庭に出ると、いるはずのない男が立っていた。
上半身に包帯を巻いたままの格好で、門にもたれ込んで私を待ち構えていた。
「アーチャー、俺はお前が嫌いだ。だから帰って来い」
「……わけがわからんぞ」
「嫌いだから、帰って来い」
「阿呆かお前は」
言ってから、膝をついた。私は理屈に欠けた愚かな行動に、苛立った。その未熟さで、彼女らの足を引っ張るのではないかと思うと、さらに苛立ちは増していく。だがそこに自己嫌悪の暗い陰がないとは断言できない。
「絶対に、死ぬな。負けてもいいんだからな、けど、帰って来い」
「意味をわかっていってるのか?」
聖骸布をゆっくりとほどいて、拳に巻いた。何重にも繰り返し、分厚い塊にしてしまう。祝福とも呪いともつかない力がとぐろを巻いていた。この力に、衛宮士郎は耐えられるのだろうか。耐えるだろう、と自然に思った。耐えられなかったのなら、死ぬだけだ。今とあまり変わらない。
結界概念で凝縮された右拳で、私は衛宮士郎の体を貫いた。
「う? あ?」
わけがわからない、とばかりに士郎の目がこちらを向いた。痛みはあるだろう。私はそれを無視し、傷ひとつなく精神と体を切開した拳を、さらにえぐりこんだ。
硬い感触には、まだ遠い。呻きとともに、両腕が私の顔面を殴りつけた。
「が、あ」
少年の意識が遠のいていくのと比例して、その体内の核に近づいてくるのがわかる。私の髪の毛を引っ張り、引っかく手。構わずに、私は男の体内に押し込んで、えぐりぬいた。
「あぅ、ぐ」
そしてたどり着く。確実にそこの存在する概念を、力をこめて握り締める。
「あ、ああ、ああああ!」
「気付け、衛宮士郎。貴様はただ、生み出すものに過ぎん。極めて見せろ。最強は、常に自分のイメージに他ならない」
「――あ」
抵抗が消えた。死んでさえいなければどうでもいい。虚ろに、二つの目が見上げてきた。
「お前は、ゆくがいい。理想の最果てを目指して走れ。理想は選ぶことを許さない。お前は、この先、もう何一つ選べない。あれかこれか、ではない。あれもこれも、だ。ただの一つの失敗も、ほんの少しの取りこぼしでさえも、お前を壊してしまうだろう。全てを救え。今のお前の覚悟はたかが知れている。しかし、誰も助けてくれない、砂漠の放浪に似た人生を歩むがいい。後ろを振り返ることなく、種を蒔け。妄信だけが、お前の牙城なのだから」
男の中から腕を引き抜いて、聖骸布を再び纏った。衛宮士郎の顔は見えない。気がついているのかどうかも確かめずに、私は言葉を切った。聞いていなければ、それはそれでいいだろうと漠然と思った。私も気の迷いで言っているのだ。
気の迷いが長じて、私は余計な一言も口走ってしまった。
「桜から、目を離すな」
そして私は走り出した。もう言い残すことはなかったからだ。遣り残したこともない。右手にルビーを握り締めた。彼女に命をもらった時の、あの学校の廊下のそれよりは小ぶりで、こもっている力も少なかったかが、フラッシュバックは私の意志を強固に固めた。
赤い線を刻まんばかりに疾走する。夜を飛んだ。アインツベルンの森まではすぐだった。暗い、鳥の呻きも聞こえない森を、ただ駆けた。罠らしいものも何一つなかった。来い、と誘われているようなものだ。
門の前に立つと、迷うことなく扉を押した。白い扉の向こう、白い少女と黒い怪物が私を待ち構えていた。
「待ってたわ、アーチャー。ふーん、よく一人で来たわね。捨て石か、可哀想」
圧迫は異常過ぎた。受け流すために、目の前にいるのは、ただ大きい男と小さい女だと、ただそう考えた。または黒と白。わかりやすい。どちらか一方を倒せばいい。ややこしいことは何もない。それだけだ、ひどくわかりやすくなった。簡単なことだ、と笑いたくなった。黒い悪夢も白い地獄も、嫌というほど渡り歩いてきたのだ。
「捨て石などではないさ、勝つのだからな」
口に出して確固たるモノとした。耳にすれば、その覚悟はより一層固くなると、信じたかったのかもしれない。
シャンデリアが震え上がった。
鉄が意志を持ったかのような頑強さで、巨人は大地を踏み荒らすだろう。咆哮は、人を殺せる。斬る、という言葉が当てはまらない一撃は、私を文字通り消す。当たれば、の話だ。
狂戦士ヘラクレスは、傷さえ付かない鋼の具現のようだった。
しかし我は、その鋼さえ断ち切る血潮の剣。
ならば切り捨てる。泰山によりて我は真の剣と化す。
頭の半分を殺意で埋め、残り半分に水をかけた。ふっと白くなるほどの闘志の外に、冷静に戦況を見据えている自分もいた。戦いというのはそういうものだ。全身に熱をいきわたらせるのは、最後の瞬間だけでいい。戦う前から焦ってたとしても、それには何の意味もない。
近距離。迷う必要などなかった。私はその場に踏みとどまった。バーサーカーからすればこの距離はもはや王手だが、私の矢があの肌に傷をつけることを期待するのは浅はか過ぎる。宝具を撃ち出したところで、バーサーカーの反応を想像すれば致命傷は難しい。
イリヤを討つのも至難だった。果たして、目前の魔人がそんな隙を与えるだろうか。
凛はああ言ってはいたが、ここでバーサーカーを取り逃せば十中八九彼女たちは死ぬだろう。力の差は歴然としすぎている。止めるのではない。殺すしかない。ならば、接近戦だった。
懐に潜りこむにしろ、第一合だけは正面より打ち合わねば成らない。
それがどれほどの困難か、背筋に怖気が走る。その怖気すら消えたのなら、私は正気を逸したということなのだろう。
剣製。魔力が迸る。回路のうねりは、まるで氾濫した大河のようだった。
手に干将莫耶を呼ぶ。
弓手が、神代の最強の武芸者を向こうにして、真っ向より打ち合いを挑む。笑えるではないか。死地など散々くぐってきた。死した今、何を恐れるものがあろうか。
「離れていろ。巻き添えを食うぞ」
「優しいのね。グチャグチャにしてやろうかと思ったけれど、いいわ。バーサーカー。なるべく形を残したままにしてね。凛にプレゼントするの」
「私も、同じことを考えていたよ」
「やっちゃえ」
怒号と共に肉迫した。
必ず帰ると約束した。不意にそれが甦った。紅茶を淹れると、約束したこと。
迫り来る斧剣の前に、しかし約束は白く遠くなった。