赤い弓の断章   作:ぽー

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第九話

 イリヤスフィールを狙うことは不可能だった。

 バーサーカーは鉄壁だ。隙はない、巨体は物理を捻じ曲げた速度で動く。余所見をすれば弾け飛ぶ。

 無論、他にも企てはあった。何も考えずに来るほど、私は愚かではない。

 それが成るかどうかは、知らない。ただ、やるしかなかった。

 鬼が突進を開始した。真っ白になる頭を振った。私は迎撃する。前進をもって、迎撃をする。そもそもが私は稀代のフェイカー。真実の一を扱えない私が敵を破るには、斧剣の砦をかいくぐり、至近距離での一撃を放つ他はないのだ。

 圧迫感の中、前へ行くのはどこか傾斜を登るのに似ていた。そびえる山だ。黒い、切り崩さねばならない山。死への登山道を前進した。重い。重いと感じる心を、踏み潰すように足を叩きつけた。

 吼えていた。

 筋肉が吼えていた。

 いや、この体が剣であるならば、すでにその個々は研ぎ澄まされし殺意の刃ではないのか。

「受けて見せろヘラクレス」

 我が真名。英霊エミヤ。愚かな、男の名だ。だとしても、私は、英霊だ。凡百の体を鍛えに鍛え、英霊にまで昇華した出来損ないの鍛冶師なら、貴様のその鉄の体を見事断ってみせん。

 右足大腿四等筋より下腿三頭筋を経てアキレス腱にかけてのライン、左足付け根からつま先まで、左右上腕二頭筋、僧帽筋、三角筋、腕橈骨筋。全てをあわせて、決して齟齬のなきこと流水の如く。

 強化の術こそ、最も幼い日から培ってきた私の最古の魔術である。このときのために、私はこの他に使い道のない魔術を修めたに違いない。やはり正義の味方など、妄言だ。もともと戦いを欲していた。戦いに以外にこんなもの、いつ使えるというのか。

 岩石の戦斧が振り下ろされる。

 私にただ一つの利があったとすれば、この一撃目が、頭上より力任せに振り下ろされるものだ、と知っていたことだけだ。歴然とした戦力差が明確ならば、頭上よりの一撃で粉砕せしめんとするはまさに常道の中の常道だった。

 そこしか、私の狙い目はない。この推理と呼ぶことさえおこがましいただの憶測を、信じるしかない私は限りなく薄っぺらかった。そして、それでいいと思った。薄く、どこまでも薄く、切り裂いてしまうほどに尖ってしまいたい。

 足を狙う。バーサーカーの恐ろしさは、力もそうだが、速度だ。この巨体で私よりも早く動く。足を止めなくては戦いにすらならないだろう。全ては、ここで決まるといってもよかった。

 裂帛と共に猛撃を迎え撃った。迫り来る力任せの斧剣。一合目。息の根を止める瞬間まで、結着させるべく全力を注がねば、この神の具現を殺しきることなど出来はしない。元よりある戦力差は、文字通り天と地ほどに離れている。その隙間を埋めるのは、体から絞りだす以外にないのだ。

 呼吸を止める。内臓が蠕動するわずかな誤差さえ、私を殺すだろう。心臓すら、止めたくなった。

 初合初撃。

 収縮した瞬発が干将莫耶を送り出す。

 磨きに磨いた無頼の剣である。逆に岩をこそぎ落としただけの無骨な斧剣が、頭上より圧し迫ってくる。得物が砕け散る勢いで私は連打を叩き込んだ。

 英霊の体に強化を折り重ねたスピードは、もはや私でさえ視認できない。わずかに、外してもならない。意識を打撃にのみ限定する。

 渾身の繰り返し。壱と弐の撃。参と肆の激。伍と陸を逆に構えて併せて漆。捌玖拾の隙に檄。

 秒を待たず拾度打ち込み、手の内の双剣は衝撃に耐え切れずに砕けて舞った。いくつかの筋肉も、痺れをきたして扱いにくくなる。しかし、その代価は決して高くはない。斧剣がその歩みを止めている。刹那だった、瞬きをするにも窮屈なその瞬間だけが、私に残された勝機であった。

 目前に巨木のような胴体が無防備にさらされている。心臓が冷えていく。

 痺れるような勝機の予感があった。同じくらいに、恐れる気持ちもあった。退路はない。もはや、前進するほかない。ならばせめて迷うまい。大腿より下、弾けるのを待っていた私の脚部は、爆発して神速を生んだ。踏み込んだ。一撃を与える時間はある。懐はもはや目前だった。しかし不意に、耳鳴りに似た危機を感じた。

 巨大な斧剣は右腕一本のみに操られているのだから、つまりこの耳元に迫り来る轟音は悪夢の左拳。

 鼓膜を破らんばかりの風速を、私はしゃがみこんで避わした。予感を、乗り越えた。しかしなぜか、乗り越えたという気が一つもしない。多分、殺しきるまで消えないに違いない。

 最大の勝機。乾坤一擲だった。魔力を迸らせる。脳裏には、一片の狂いもなく描かれた完璧な錬成図。目の前の巨人を、止める。否、倒す。そして、戻るのだ。

 出でよ、世界の悪と悪と悪を滅する其の名はインドラの雷撃。

「釋迦提婆因陀羅雷霆金剛杵――"ヴァジュラ”――」

 奇跡は世界を真っ白に塗り替える。まるで何百の竹をいっぺんに握り潰したような雷鳴は、鼓膜を騙し、叫び声を上げた。カンカンカンと破滅は銅鑼を鳴らして現世へ至り、黄金の棍棒を依り代に破壊の限りを尽くす。

 意志を持った蛇のように、稲妻は荒れ狂い飛び散り触れる物全てを焦がす。

 バーサーカーの両足に放たれたイナズマは、命令を遂行した。

 巨体が跪く。神の血が絨毯に染み付いた。ヴァジュラの輝きは、バーサーカーの膝から太ももを、根こそぎ焼き尽くしデロデロとした溶岩じみた何かへ、変えていた。

 並みのサーヴァントならば、もはや現世の楔を断たれるほどの致命傷だが、ヘラクレスの化身であるバーサーカー、そしてマスターであるイリヤスフィールの能力を併せれば回復することもできるのだろう。

 事実、いまだバーサーカーの目には力が満ちている。電撃は内臓さえ炭化させてしまうはずだが、しかしやつがこれしきで死なないことなど、知っている。この程度で死ぬならば、なんぞ苦労があろうか。驚きなどない。その左拳があろうとなかろうと、はなから私は足を狙う気だったのだから。

 横へ避ける力さえ奪っているならば、それで十分である。

 かっという、痛い感覚は世界とリンクしたときのものだ。まぶたの裏に描かれる、次に扱う私の得物。重々しく、血なまぐさく、熱い。

 あらゆる力、あらゆる魂。英霊エミヤはそれら全てを模倣する。

 現れる、ズシリとした重み。

 男は、誰よりも強かった。黄土の史上、最も強いと謳われた。男には何の野望もなく、何の憂いもなく、ただ人を殺したいと、強い者と戦いと、願い続けていた。敗れ去って血があふれ出し、死する際に願ったことすら、どこまでも戦いたいと、敵の首を取りたいということだけだった。男は、握り締めた己の武器に、その呪いを残して冥土へ逝った。

 それが今甦る。

 千里を走り、刎ね続けた首の数は、その血で大地が染まるほど。刺突の槍、斬る剣、穿つ角。

 何があろうと首を断つ。呪いの証の、方天画戟。

 人中の鬼。武器は、今またその魂を宿す。

「その首級貰い受ける」

 赤い柄に、赤い布を巻いていた。まだ足りぬ、と叫んでいるようだった。更なる真紅に染め上げよ。

 熱いものが宿り始める。方天画戟だけでは、それ自体はただの強力な武器でしかない。黄泉より、その男の魂を憑依させるための媒体でしかない。

 刺し斬る戟が、赤く輝いた。

 柄の一部がぶくぶくと沸騰し、塊になり、心臓のように鼓動を始めた。手に痛み。柄から生えた牙が私の肉を貪り、血より魔力を得る。心臓が、全体に魔力を巡らしていく。  比喩ではなく、武器が吼えた。おぞましい欲望は清らかすぎる殺意に彩られている。

 ずるずるずると、むさぼるように私の魔力を吸い上げながら、叫びながらそのときを待つ。おぞましさも、醜さも、無骨さも、反面、力強い、美しいとさえ思えるほどに、純粋な殺意の固まりだった。

 ならばゆけ。声に出していった。私の魔力など全て枯らして構わない。貴様があの敵を刎ねる力があるのなら。

 私は死の代名詞であるその名を叫ぶ。

 武人、解放。

「殺して殺す、いつかの虎牢――リョ・ホウセン――」

 突進した。膝を突いたままのバーサーカーは、右手の斧剣を振り上げて迎撃を狙う。

 しかしそれが及ぶはずもない。

 全身。余す所なく、首を刎ねるためだけに動く武器。

 槍であろうと月牙であろうと尾の穂先であろうと持つ柄であろうと、吼え声であろうと。

 戟とは名ばかりのこれは、戟に擬態し、それ自体が生きているものの如く振る舞う一匹の魔物である。望むのならば剣であろうと矢であろうと鞭であろうとその身を変え、首を刎ねるまで動き続ける。かの武器に攻めて生き延びる手段など、城を築くか離れるのみである。

 二千年分の血の飢えを、魔物は欲してうねって走る。

 飛来する斧剣を邪魔だとばかりに、幾重にも分裂した尾で絡めとり、吼え声に対しては吼え声で破り、遅れて伸びた防御の腕を一の月牙が開いて呑み、方天画戟――奉天餓撃――は狂いに狂う。

 激突。硬質の音は、月牙が弾かれた音だ。バーサーカーの皮膚を、方天画戟が突き破れないでいる。最強の武人を以ってしても、相手は神をも弑する神の子であるゆえに刻々と荷が勝つのか。

 腕力は、徐々に刃を殺しだした。

 一進一退となることは、すなわち負けだ。一息に突破せねば、自力で負けてるこちらが死ぬ。

 魔力。ありったけだった。振り絞った。

 再びの、魔物召還。人中の鬼だけで足りぬというのなら、馬中の鬼も、呼ばねばならないのは、道理である。

 恐らく、真にそう呼べたのはこの主従のみ。人馬一体の称号は、鬼と鬼によってしか、やはり叶えられなかったのだ。

 招来する。並ばれることのないその伝承。千里を行き、千里を飛ぶ。敵を踏み潰す。いななきは、万の馬の戦意を消す。

 黄昏色の風の伝承。

「駆けろ、嘶脚千里赤――セキト――」

 もはや声もかき消される。一本の宝具に召還された二つの魂は、溶け合い、莫大な力を吐き出す。

 一筋の閃光は、もはや止める術もない。刃が首筋を捉えたまま、私とバーサーカーの巨体を引き上げ、縦横無尽に駆け回る。

 朱を帯びて暴れ狂う、まるで龍。階段も床も柱も、砕き、抉った。

 私自身も無数の浅手を負った。バーサーカーは、喉笛に傷が生まれかけているだけだ。  鉄の腕が、包み込んだ刃を千切って片方の月牙に手を伸ばす。かすかに食い込んだ刃を、引き抜こうというのか。まだ。まだだ。

 千里を行く馬が暴れ狂う。広野を、荒野を、と叫び、荒れ狂う。こんな狭い空間に閉じ込めるな。大地を返せ。天空を返せ。八万里の世界を返せ。重力を裏返し、天井に激突した。重荷が邪魔だと、落ちつつ、激突し、再び力を弱め、もう一度天井へ突撃する。まだか。

 この一撃で刎ね飛ばすことが出来なければ、バーサーカーの懐で私は留まることとなる。一撃をまともに受けてしまうのだ。そもそも、この戦い自体が幾重にも重なる賭けだった。オッズは己が全てのもの。容易く消し飛ぶわずかな魂だ。

 螺旋を描いて宙を飛んだ。錐揉み状に落下し、階段を抉り飛ばした。さらに飛翔。天井を再び打突した。衝撃は、今まで最重だった。

 狂人の咆哮。これを待っていた。月牙が伸びる。バーサーカーの、咥内に突っ込んだ。中から、破る。即座に噛み砕かれたが、砕かれたその穂先までもが、方天画戟であった。食道より蠢き、弾けた。喉笛から鮮血がほとばしった。餌を喰らうように、穂先がその傷を押し広げ、延髄を絶つ。天地が逆転する。最高の加速が生まれる。耳鳴りのする落下。加速。魔人魔馬の腕力と脚力を加えた彗星のごとき一撃は、確かにトドメとなった。鮮血が私をさらに赤くする。穿たれたクレーター。少しの間を置いて、落ちてくるものがあった。とうとう狂人の頭蓋は胴体より飛翔したのだ。

 ずどん、と重々しくバーサーカーの頭部が床に落ちた。間を置かず、方天画戟が崩れ落ちた。武人とその愛馬は死力を尽くした戦いに満足したのか、一時光って灰と化す。またいずこかでの戦場を夢見て発った。

 勝利。しかし勝ったという喜びも、生き延びた安堵もなかった。ただ、いつまでも消えない悪寒だけが、今も膨らみ続けている。

「凛」

 世界が流れた。錯覚だと思った。世界は水平を流れる。

 時計の音が鳴った。カチリ、という音だ。聞いたような気がした。時計などどこにもないというのに。

 熱いものが口から出てきた。遅れて、自分の体が壁に埋もれているということに気付いた。口から出たものが、血だと、気付いたのはさらに遅かった。

「あ?」

 なぜ、自分は吹き飛んだのか。そう察したのは、ダメージの深刻さを訴える痛覚より少し早いくらいだった。

 足が、地に着いた。私は、さらに血を吐いた。

「誰も、一回殺したら死んじゃうなんて言ってないわ。うふふ、あわてんぼなんだから」

 幼い少女の声は、あまりよく聞き取れなかった。目前の、首のない巨人の体から伸びる腕が、地面に埋もれた自分の頭部を掴んでいるさまにただ目を奪われていた。そしてその先の、私を見据える、鋼の頭蓋の赤い瞳が。

「もうー。ほんとグズなんだからバーサーカー。こんな奴に一回でも殺されるなんて」

 あと十回しか生き返れないじゃない。クスクスと笑う少女の声。今度ははっきりと聞こえた。私の骨が、砕ける音も、ともに聞こえた。

 頭部を接着した巨人が、やってきた。敵は十命の神であった。

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