赤い弓の断章   作:ぽー

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第十話

 単純なことだ。

 痛ければ、腹が立つ。殴られれば、殴り返したくなる。人はそうして前に進んできた。そして私も、元は人だった。消え去ったはずの感情が、怒りを契機に蘇生していく。

 ゴッドハンドだの何だのと、イリヤスフィールの声を聞き流しながら、私は体の状態を調べた。一度喰らった攻撃は効かないだの、なんだのと。戦える。頭の中は、怒りで気が触れてしまいそうだったが、今はまだどうにか冷静を保つことが出来た。

 干渉莫耶を構えた。狂人が迫っていた、守らなければならない。

 生々しい切断面から、いまだ熱い血液を迸らせながら、バーサーカーは飛び掛ってきた。

 無骨な斧剣を振りかざして迫ってくる。イメージしろ。足を痛めたバーサーカーは深追いできないだろう、一振り目、二振り目でいなして――斧剣が迫ってきた。投擲したのか。隕石のように風を切って、やってきた斧剣から身を捻った時には、逃げ出すことは出来ないほどに敵の接近を許していた。己の足が、いうことを聞かなかった。

 その分厚い鉄の五指に、握り締められた。

「そのまま握りつぶしてもいいけど、どうする? 食べたい?」

 本気か冗談なのか、少女の声を判別する暇はなかった。

「が――あ」

 悶絶するほどの力がこめられた。ありえない音がした。胴体の圧縮が、血液と内臓に逃走を促す。口から、はらわたが飛び出そうになった。私は弓を取り出した。自動的ともいっていい動きで、カラドボルグを打ち出した。

 衝撃と轟音が巻き上がって、煙のために視界が失われた。私は立て続けに何かを撃った。いくら撃っても、握力はいささかも鈍っていかない。バーサーカーは、カラドボルグクラスを零距離でぶつけられても無傷を誇る。怖気が走り、終わる、と思った。これ以上締め付けられれば、私は上下を二つに分けられて無様をさらすことになる。それはまさに、無様以外の何物でもない。

「が――はっ、あ! あああ!」

 矢を解き放った。銀色の矢は少女に向かって疾走した。

 私は放り投げられることもなく、握り締めたまま巨人は走った。埃の向こうで、少女の前で仁王立つバーサーカーは怒りでさらに巨大化したように見えた。

 私は握り締められたまま、少女の前に掲げられた。

「ふん、どうしようもないくらい、惨めな抵抗ね」

 イリヤスフィール。

 なんと残酷なことをいう少女なのだろう。

 私はこの何度目かの再会に、痛みを超えた懐古を覚えた。だから、笑うことが出来たのかもしれない。

「惨めでも、いい」

「負けても?」

「勝ったことなど、ないさ」

「無様な人生だったのね」

 ただ、零れ落ちたその言葉が、ふと、人生の大半を物語っているような気がした。

 惨めで、戦い続けたが、本当に得たかったものは何一つ得ることが出来なかった。

 そんな人生だった。

「やっちゃいなさい」

 命令が終わると、握り締めた己の腕ごと、左腕で私を殴りつけてきた。

 握力もさらに強まった。私はその攻撃に甘んじていた。痛みも、損傷もとんでもないものだったが、それ以上に忸怩たる思いがこみ上げてきた。敗北にではなく、意味のない人生にでもなく、今、それを肯んじた自分にだった。

 私の人生を、馬鹿にしていいのは、私だけだ。たとえそれが、イリヤでも。

 痛みが消えた。これは、何らかの状態に陥る、最後の段階だろう。邪魔な感覚が消えた、としか思わなかった。

 魔力の割合を変更した。回復と戦闘を五対五に振り分けていたのを、三と七へ。畳み込むべきなのだ、と理屈が怒りを後追いで擁護する。脚部を損傷しているバーサーカーは、やはり衰えている。勝機が潰えたわけではないのだ。

 打撃の隙を見出す。一つ、二つ目で私は魔力を迸らせた。左腕が雑草のように、完全に潰れてしまっているのに気付いたが、構わなかった。

 魔力回路が緑光を放つ。設計素材は、ただ木と鉄である。

 枷が、巨人の両肘にはめ込まれた。さらにそこから、木は伸びて塔を作る。バーサーカーは怯まない。その前に私を殺せばいいと、頭突きをかましてきた。脳天が揺らいで、私は、それでも痛みを覚えなかったので、笑うしかなかった。その名の通り、暴れるしか戦闘方法を持ち得ないバーサーカーは、ゆえに異変に気付くのに遅れた。はすにまっすぐ、枷の上に据えつけられた刃は、よだれをたらしている。

「断罪の首、革命の朝――“マリー”――」

 トン、という呆気なさで両肘は落ちた。

「……は?」

 理解に苦しむと、少女の呟きが静けさを続かせなかった。

 フランス、王国貴族を刎ね続けた断頭台の中で、かの女のそれを断った一台は、悲哀と絶望を吸い上げ、宝具の域にまで上ったのだ。

「ギョティーヌ……なんで? なんでアーチャーごときが……どれだけの宝具を」

「ありったけだ」

 ギロチンは否定を許さない。ギロチンは切るだけだ。大人しく枷に嵌れば、そこで全ては決する。鉄の守りのバーサーカーとて、定義を覆せるわけではない。

 しがらみから解放された私は、束の間膝をついて、すぐに立った。吐血は無視した。服の赤みが少しだけ濃くなるだけだからだ。左腕だけは、もうどうしようもないだろう。弓を構えることさえ、出来ない。

 両手を失ったバーサーカーは、しかしその目に戦意を失わずに、突進してきた。両腕がなかったとしても、頭と牙があれば、と思っているのか。私が勝機だと感じている以上に、相手も考えているのだ。ありがたかった、一歩進むことさえ、今は気だるい。

 跳躍して、バーサーカーの頭上を取った。魔力の割合をさらに変えた。もう、攻めるだけだ。どうせ長くはない。

 ブロークン・ファンズムが、色とりどりの閃光の尾を引いて空を滑った。全て着弾した。真っ赤な火炎が、闇を消し去った。

「喰らう、がっ、いい――!」

 世界は、赤い色が好きだ。

 真っ赤な絨毯の敷かれたこの場も、私の血、狂人の血が合わさって濃度を増していく。爆発も手伝う。この後も、さらに吸って、もっともっと鮮やかに染まるのだろうか。そんなことを考えた。私はほんの少しの冷静さを取り戻した。

 ただ宝具をぶつけるだけでは致命傷にはならない。強力な一撃さえあれば、倒すことが出来る。例えば、セイバーの剣のような、大出力のシロモノだ。エクスカリバー、またはカリバーン。

 立ち上がった錬成のイメージは、すぐに打ち消すことになった。

 想像して、手に甦るのは、生々しいまでの人を貫いた感触だった。そして、今際の言葉。

 ――多分、そういうんじゃないかって思ってました。

 痛々しいまでの笑顔と。

 ――予想、当たりました。悲しいけど、やっぱり私が先輩のこと、一番よく知ってるんだと気付けたし。

 怯えに震える手と。

 ――はい、許してあげちゃいます。

 多すぎる想い出。

 今ならば、あのとき流せなかった涙を流せるような気がした。戦っている最中に、感傷に浸っている自分は滑稽だった。

 私に、あの剣を振る資格はない。

 セイバーの剣である。それを、私は桜を切るために用いた。私にはもう使えないのだ。例え、使えば勝てるとしても、これだけは使えない。家族殺しは、馬鹿みたいに重い罪だから。

 また一つ、戻らなければならない理由が増えた。戻って、セイバーに謝らなければ。くるとき、彼女に別れを告げなかったのは女々しさを自覚したこともあったが、私の出る幕ではないと思ったからだった。間違っていた、私は、彼女に謝らなければならない。まだだ、まだある。

 もちろんのこと、私は桜についても決着をつけなくてはならない。彼女が、彼女のまま生きられるように、私はサーヴァントという今の己の分を超えてでも、働かねば。こみ上げてくるものがあった、私はこんなチャンスに気付いていなかった。

「戻らねば、ならない」

 討ち果たそう。

 思考を頭から追い出して、ただ前を見つめた。刀剣の爆撃はバーサーカーの足を止めてはいる。が、しとめるには遠い。残存魔力は、もうそれほど残ってはいない。あと何度倒せばいいのかは、考えないことにした。

 私は決定打の空想を抱えたまま、接近した。煙の向こうで、バーサーカーが腕を振り上げる。早いが、両腕を切断されたぎこちなさはなくならない。干渉莫耶を、右手と、口にくわえて私は突貫した。岩石のような拳を払いのけ、ヴァジュラを用いて焼き尽くした太ももをを薙ぎ払った。巨体が、揺らいだ。錬成図は、狂わない。

「クルト」

 弧が、全身を地面に固定した。

 第一。曲剣は肉体を拘束する。

「アルマシア」

 影を刺した。

 第二。短剣は精神を拘束する。

「デュルムダリ――」

 そして輝石の第三は、真っ黒な刀身を翻して、バーサーカーの肩口に突き刺さった。

 巨漢は、吼え声を上げる。鼓膜が震え上がる。苦痛と怒りのその声は、心地よくさえあった。

 切れ込んだ傷口の深さは、十センチといったところだ。切開するのは、これからである。

 肩に乗りあがり、傷口に直接手を翳した。山と積み重なった設計図を、片っ端から吐き出した。

 グラーシーザが傷口を押し広げた。スクレープが鎖骨を砕いた。肺にまで達したのはデュランダルだ。爆発がバーサーカーを内部から焼いた。ベガルタとモラルタが脊髄に楔を打ち込んだ。リュシング。草薙剣。もはや、バーサーカーは割れんばかりだった。

 最後の一撃、ラビリスの斧は、完全に敵を両断した。

 あらわになる、壮絶な匂いと具体性。真っ二つになった肉体が、再び一つに戻っていく様はさらに壮絶なものだった。起き上がってバーサーカー、その赤い瞳で私を見つめてきた。

 私は呟きながら、立ち向かった。

 バーサーカーよ。神話の魔神よ。私は貴様に何の恨みもないが、貴様にも同じように恨みなどないのであろう。千億の日々の果てに我らがこうして殺しあうということを、誰が夢想しえたのだろうか。いや誰にもわかるまい。だれにもわからない力を、人は運命と呼ぶ。運命。皮肉なものだ。私が彼女に召還されたのも、彼女に再び会えたのも、あの男を見逃したのも、全てか細い糸にて巡らされた運命だったのだ。

 そう。私がここで倒されるのも。

 何かが吹っ切れた。足が、もう動かなかった。離脱する直前に、拳で殴りつけられたのだ。やはり雑草のようにしなびてしまった。

 魔力の、底がこぼれてしまわないようにしている栓を抜いた。力が、溢れ出てくる。二度とは戻らない生命の源である。

 バーサーカーの接近は、ロー・アイアスで止めた。桃色の開花、春にはまだ遠いというのに。

 花びらが全て潰される前に、必殺の手段をひねり出さなくてはならない。

 天啓のように、一本のシルエットが浮かんだ。思いついた瞬間に、これを作ろうと決めた。

 その姿を、私はこの目で見た。美しき煌きを、幾何学に彩られた眩い赤を。

 見た。打った。響きを聞いた。骨子の解明はそれで済んでいる。背骨から先端に至る美しさ。イメージして、身震いした。

 魔力がわずかに足りない。もはやとうに、肉体維持に魔力はほとんど使っていない。それでも足りないということは、投影しきった瞬間に、この身は崩壊するということだ。 あといくらもないのは知ってはいるが、私は勝たなくてはならない、戻れなくても、戻るために。

 制約を越えるために思いついた打開策は、実に莫迦げたことだった。何某への冒涜とも思えるほどに、考えは常軌を逸している。なんという詭弁か。だが他に道があるのなら、誰であれ示してみるがいい。鳴り止まない嘲笑を全て呑みこんで、私は鎚を振り下ろそう。

 鉄のようなバーサーカーが、ロー・アイアスの包みの何枚かを、布のように裂いた。

 時はない。他に方法もない。成そう。それしか出来ない私だからこそ、やるしかない。遠いいつかの夜、打ち合わされた闇夜の火花を覚えている。あの、見惚れてしまうほどの輝きを。

 エミヤは武器を複製する。さらに正確に言うのなら、剣製の男は、剣をよりよく製せらる。

 ゲイボルグは槍である。

 自嘲した。それを破ろうというのだから、命知らずにも程があった。

 マナとオドと意志の風が走る。

 この場に至ってなお、自分の考えが自分で信じられない。私はバーサーカーの一撃により、思考能力を失ったのか。あの武器を曲げて、呼ぼうなどと。彼の魂を騙して戴こうなどと。弾けたヒューズを弾けたままに、私は魔力を迸らせた。

 頭脳に衝動が渦巻いた。今にも決壊しそうな倫理を、意志で捻じ伏せ、さらにイビツに歪めてしまう。限界。思い起こしただけで果てを超えた。骨子を解明することと、素体をひねり出すことは次元が違う。私のこの身を形作るほとんどの細胞が反対をした。肉も骨も頭脳も、なしてはならぬと異を唱えた。ではなぜ、私は模倣をやめはしないのか。

 震える心臓よ。

 断固として、心臓だけが吼えていた。

 崩れろと、毀れろと。しかし断固として、決意は曲げぬ。心臓よ。そのまま燃えろ。

 バーサーカーが四枚目の花弁を突き破った。残すは三枚。

 英霊エミヤは刀剣の男だった。私という存在は、剣を起源に生き、あるがままにしか投影できない出来損ないである。魔力の分だけ、武器を生む。自己限界を省みず、それを破って槍を作るということは、魔術師としての地平を越えるということだ。

 ここで、私の最大の詭弁が始まる。槍が難しいというのなら、それを剣として呼べばよいだけ。

「ゲイボルグ」

 毀れた。激痛はしとどに濡れた。全身をあるがままに生み出せば魔力が足りないというのなら、必要最低限で戦おう。槍。その穂先、断ち折れた先端のみが転がっているとして、果たしてそれは槍と呼べるのか。

 私はそれを、剣と呼ぼう。

 英霊エミヤは、こうして、詭弁を弄して短剣、ゲイボルグを召還する。

 難しいことは何もない。この体は、ただ鋼のみを細胞にして造られているのだから。

 赤くて熱い短剣を、掌が傷つくのも省みず、しっかりと握った。

 数歩よろめいて、振りかぶり灰色の胸に殴りつけるように刺し込んだ。

 呪いが侵入していく。千とまではいかないが、棘は、一箇所のみを目指して突き進んだ。

 破裂する音が聞こえた。

 刹那、心臓は確かに止まった。そこはかとない満足感に、私は声を漏らした。

「やれば、できるものだな。まったく、手際は極上に悪いが」

 もはや枯れ果ててしまった声だった。

 再び灰色の鼓動が甦るのと、私の全てが枯渇するのは全く同時だった。ロー・アイアスは、もう残すは二枚しかない。その維持に、私のなけなしの力は涸れてしまった。

 終わったのだ。全て出し切った。もう、何も残ってはいない。

 五回。その数、私の命をぶつけた量だ。あとは、凛たちが勝手にやるだろう。私は叩き潰されるだけだ。

 もう、何も残ってはいない。

 それでも、私はなぜか立ち上がることに成功した。思考は、限りなく澄んでいた。もうひとつのことしか考えられなかった。

「なんで……」

 イリヤ、君がそれを言うのか。私が、聞きたいというのに。

 まだ私は遣り残したことがあるというのか。しかし立ったとして、何が残っている。

 凛から吸い上げる魔力も、この期に及んではもう体の維持に全て費やしている。戦う力はない。存在するだけで一杯だった。バーサーカーは、幾度目の死を乗り越え、再び立ち上がろうとしている。新たな心臓は力強く脈打っているだろう。

 唐突に、光が失われた。

 視力が消えたのだ。魔力で構成された肉体は、すでに欠落をきたすほどに根本がえぐられている。時間はもうない。

「終わりよ! バーサーカー! さっさと消して!」

 馬鹿ね、と聞こえた。確かに聞こえた。せっかく渡したのに、使わないで終わる気?

 この耳が、はっきりと聞いた。

「そうだったな」

 私は、赤い宝石を飲み込んだ。

 溶けていく、澄んだ一滴の魔力。その瞬間、誰にも、負ける気はしなかった。

 飲み込んで、溶けて、熱いものがドロリと体に広がっていった。

 魔力。一撃分。

 宝具など、呼べない。剣を一振り、生める程度の量。十分よね? という彼女の声が聞こえたような気がした。

「ああ、そうだな」

 生きた暴風が血を吐きながら突っ込んできた。満身創痍の二人である。ならばどちらかが死ぬのは必至。だが十を越える命を携えて来臨した神と、矮小な一しか持たない私とどちらが消し飛ぶか、これほど単純明快な命題もないであろう。

 消えるのは、私だ。どう足掻こうともはや私の敗北は決まっている。ともすれば、あと一度。一度だけ。そう、決めた。

 体の内より吹き上がってくるものがあった。意志の風だ。決意の、熱だ。同じように、弾けて、飛び出たのは血だ。何色なのか、もはや見えぬ目では何色なのかすらわからない。彼女に似合う、赤だったらいいと、思った。

 運命なのだ。呟いたがもう聞こえない。私はただ錬成する存在となった。生み出すものとなった。この世界、思っていたより愉快であった。だからわずかに名残惜しい。

 セイバー。

 下らないしがらみに囚われないで、もう少し話せばよかった。女々しい後悔でしかないが、セイバーはセイバーのままだった。あるいは、見ているだけで良かったのかも知れない。

 凛。

 彼女に何もいうことはなかった。勝つだろう。それだけだ。私たちにもう言葉はいらない。

 衛宮士郎。

 誰も殺さない、そう叫んだのを、私は忘れない。それが真実ならば、きっと何にでもなれる。私がなれなかった者にすら、なれるだろう。もしかすると、そのために私はこの時代へ来たのかもしれない。

 感傷は終わった。

 全ての世迷言と雑念と名残惜しさを振り切って、私は前進した。

「体は」

 未来永劫苦しむ体は鉄と硝子。

 三千世界の地獄を歩む、理想に死んだ哀れな鍛冶師。

 今ここで、役目を果たすためにその道を歩いてきたと思えるのなら、嘗め尽くした辛酸も投げられた石もあらゆる恨みも血も骨も後悔も、まるで塵芥のように消え去るのか。

「剣で出来ている」

 私に敗走はなかった。私が理解されることはなかった。

 私はいみじく独りであった。勝利でさえ、私を癒すことはなかった。

 破壊にのみ費やされたこのような生涯に、意味を求めるのはおこがましい。

 だからなのか、この身が消え去る瞬間。俺は彼女を助けたということで、古の――それこそ、地平線のように遠い――借りを返そうと――そのことに、意味があるのだと思いたかった。

 唯一無二の剣製だった。

 残りわずかな魔力で生み出せるものなど、その中で目の前の暴力を殺しきるものなど――ああ、この手触り。確かにこれだ――ただ一つしか思い浮かばない。この剣で、足りぬわけがない。

 かつてエミヤと呼ばれた、男の、魂の最後の一滴。もはやこれ以上どうするというまでに、命が凝縮された一振り。

 遠坂。お前から貰ったものだったな。

 宝石を埋め、今も君の魔力が生きているその剣の名は、アゾット。

 最後の花びらが散った。バーサーカーが拳を振り上げた。

 踏み込んだ。私の叫び声はどんな声なのか。衛宮士郎よ、貴様に届いたならば、腑抜けた結果は許さんぞ。

 決然。刃先を、自分の腹に突き刺した。もはや痛みすら分からない。やつを殺すためには、この剣では威力が足りない。魔力が枯渇したのなら、この身を構成する血液に求める以外にない。血を吸え、肉を喰らえ。魔力を満たせ。アゾット剣。遠坂。もう、何も考えられない。

 血に濡れた刃を腰だめにした。最短距離を行った。斧剣が当たったのか、当たらなかったのか、まだ当たってないだけなのか。わからない。ただ、この手に、わずかに食い込んだ手ごたえだけは、確かだった。

 解放。魔力の奔流。血流は燃えるように熱い。バーサーカーの腹から裂けた、溶岩のような血を浴びながら、けれど止まらなかった斧剣の直撃を受け、私の全ては潰えた。

 全てが消えていく。消えぬものもある。君たちの顔。感慨に充ちた日々だった。

 君たちは勝つだろう。たとえ横にいる男がどれだけ未熟で甘い奴だったとしても、それなりに使える男だ。君ならば上手に使い切るだろう。負けはしない。

 さらばだ遠坂、セイバー、この時代。

 紅茶を淹れる約束が果たせずに、君は怒るだろうが、なに、幕引きにしてはそれなりであっただろうよ。許して欲しい。

 ああ。この臨終の際。

 私はなぜか彼女の前に立っていた。守人は倒れ臥し、少女は孤独に私の前に。どんな手違いでこの舞台が整ったのだろう。

 殺意など湧くはずがない。私はただ、気が狂ってこう残しただけだった。

「体に気をつけてな」

 彼女の赤い瞳が見開かれた。綺麗だ、と思えた。

 そして世界から途切れて、巨大な器に滑り落ちる夢を見た。


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