赤い弓の断章   作:ぽー

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第二話

 目の眩むような白さの中で、私は立ち尽くしていた。

 空間は、広さも、高さもどこまであるのか見当すらつかないほどに、白かった。どこまでも広大なのかもしれない。実は身の回りにまとわりついているだけの、狭さなのかもしれない。それでも私は見上げて、目を落とした。どうにかして、この白さから目をそらそうと、灰色の世界しか築けなかった私には、この白色の純粋さ加減は、酷に過ぎる。

 あれから、どうなったのか。私がバーサーカーの腹にアゾット剣を突き刺してから、消え去って。

 完全に、どうしようもないほどの損傷だった。意地や気持ちだけでどうこう出来ないほどの、ダメージなのだ。だがなぜ私は、未だに記憶を保ったまま、意志を持ち続けているのか。体に傷もない。

 いつもならば、そのまま根源へと渦巻き戻り、次の時代へと飛ばされるのだ。一刻の猶予もなく、一分の情けもなく。

 一つの仮説を立てた。今この世界は聖杯の内部なのであろうか。

「正解よ、半分」

 白い世界の一部が、急に縁取られた。そして初めからそこにいて、白い色で隠れんぼをしていたかのように――そして今やめた――イリヤスフィールという名の少女は現れた。

「イリヤスフィール……」

「ここは聖杯に落ちる前の一番最後の段階。あなたは縄一本でひっかかっているようなものよ」

「なぜだ?」

 そのなぜという言葉が何を指しているのか、私にもよくわからなかった。彼女が聖杯であることは知っている。私がそういう状態であることも理解できた。だが、問わずにはいられなかった、ひたすら。

 少女は笑みさえこぼさずにいった。

「バーサーカーは負けたわ。シロウの生み出した剣と、それを握ったセイバーに。完全に消えちゃった」

 驚きはなかった。ささやかな安堵を得ただけだった。

「なぜ、私を残している。完全に消えたということは、バーサーカーもいないのだろう?」

「わたしに、バーサーカーの転落は止められない。ライダーもアサシンもよ。アーチャー、ただあなた一人だけ、わたし側に留めておくことができるの」

「なぜだ?」

「わたしがあなたを知っていて、あなたがわたしを知っているから」

 すべて知られている。私が何者なのか、どういう存在なのか、誰だったのか。

 初めて、イリヤは笑った。

「なんだか、ちょっと驚きね。あのシロウが英霊にまでなっちゃうなんて」

「イリヤ、俺は」

「今ね、外は夜。バーサーカーが消えた後、シロウはわたしを家にまで運んできてくれたわ。助けてくれるみたい」

 自分も、いつかそうしたことがあるような気がした。確信はない。過去はあまりに遠すぎる。

「今ね、何を話そうかたくさん考えてるわ」

 その場でくるくると回りだして、はしゃいだ。今目の前の子は、純粋に少女で、ありのままの楽しみを受け止めようとしている姿でしかない。

 イリヤ。懐かしくて、心の中だけでももう一度呟きたい。イリヤ。

 他愛もない会話は、会話とはいえなかった。私は聞き手にまわって、始終頷いているだけだった。それでも満足だったし、彼女にとっても十分だったろう。どれほどの時間そうしていて、私は静かに佇んだ少女の面が、いつの間にかまったく落ち着いてしまっていることに気付いた。

 重大なことを告げるときの、あの不愉快な間がしばらくたゆたった。

「これは、気づいているかどうかわからないけれど。あなたは今、一切何の守りもない存在になっている。無防備で、わたしの前に立っている。それは、あなたの全てを、あなたが気づいていないことまで含めて、全部、知ることが出来るということよ」

「じゃあ君は、私のみすぼらしい人生を、全て見たのだな」

 その小さなあごがコクンとうなずいて、赤い目が細められた。

 視線が、私を麻痺に陥らせる。

 不意に、記憶が洪水のように流れてきた。私は白い世界から、あらゆる過去へと飛び立った。のた打ち回らずにはいられなかった。罪と悔悟がとろけあった。

 今回の、凛に召還されたときから始まる、聖杯戦争だった。またたく間に過ぎ去っていった。私の過ごした年月と比べれば、やはりまばたき程度の長さでしかないのだ。

 いつかの破滅、殺戮、守護という名の排斥。私の体は、何の意味もなく赤いわけではない。とある国の、とある村。いつかの時代の、いつかの生活。山河も海も血に染めて、マジョリティとマイノリティに振り分けて、世界の要求のままに私は剣を振るい、殺し続けた長い長い日々。目を背けたくなるような時代だからこそ、一番長い間私は見続けなくてはならなかった。

 記憶はさらに遡上していく。

 桜とかわした最後の会話だった。呆然としそうになった。あらためて見る、己の所業は傲慢以外の何者でもない。桜を救う機会はいくらでもあったのだ。もう殺してしまう以外ないところまで追い込んだのは、紛れもなく、私自身だった。

 切嗣との別れの間際だった。

 二人とも、なんと幸せそうな顔をしているのだろう。誰にも罪はない。その男と、少年の間にかわされた会話には、純粋な情以外、何も介在していなかった。

 それから後、積み重ね続けた修行は、つらいものだった。血反吐で池を作りながら、私は前へと進み続けていた。その先に、何かがあると信じていた。平和を願った心が私の足を運び続けていた。守護者になるか、という問いに対しての愚直な答えは、切嗣との思い出さえ含めて裏切った。

 過去が帰ってくる。

 焼け野原。思考は消えていった。原風景だった。黒い聖杯が立ち上って、人がたくさん死んだ。

 それだけの、原風景。

 回想はそれで終わりだった。私は水の底から浮かび上がるに似た、浮遊感を得た。

 思い出すだに、みすぼらしい人生だと思う。

 記憶に上がるのは、悲しく辛い記憶がほとんどだった。だが違う。安らかな日々もあったのだ。他愛のないことで笑った生活があった。思慮の足りなかった私は、それがもう二度とは戻らない日々なのだということに、とうとう気付けなかったのだ。家族がいた。暖かくて、いつも俺を包んでいた。けれど、それを壊してしまったのもまた、私だった。

 喜びと、その落差によるさらなる悲しみ。

 白い世界に戻ったときには、いつの間にか椅子に座っていた。イリヤも、小さな椅子に腰掛けている。向かい合って、私たちは見つめあっていた。どういう理屈か、私はたったいま、今まで歩んできた全道程を振り返ったのだ。

「なにか、気付いたことがある?」

「なにか、だと?」

「あなたが見た自分自身の記憶。けれど、そこに足りないものがあるのよ」

 彼女の問いに、すぐに答えられる気力が私にはなかった。かなりの長い時間を沈黙で押し通した。少女はずっと待っていた。私は、逃げ場のないこの世界の中で、慈悲と後悔にまみれながら、答えた。

「わからない」

「本当に?」

「ああ」

「あなたの人生で、絶対的に欠けた記憶が何なのか、本当にわからない?」

 私はかぶりを振った。

「そう……やっぱり最初から、壊れていたのね」

 彼女が何を指して話しているのか、皆目見当がつかなかった。私が何かを忘れているという。失ったものは数限りないが、忘れてしまった、という彼女の言葉のニュアンスとはいささか違う。もうこの段階、全ては終わっている、わからないものはどうでもいい、と私には思えた。だが、意味がわからないにも関わらず、どうしてこんなにも罪悪感に苛まれるのか。

「わたしは今からあなたに質問をするわ」

「どうしてそんなことをする」

「……本気で聞いてるの? 馬鹿ね、もー。そんなだから迷ってしまうのよ。大きくなっても、中身は全然子供なんだから」

 子供の笑顔ではない、どこか大人びた仕草で笑うと、私は妙に安心できた。

 椅子から立ち上がって、イリヤは一歩こちらに向かって歩を進めた。

「ねえ、どうしてあなたは、衛宮士郎を殺さなかったの?」

「どうして、だと」

「ずっと、それを願っていたのよね。あなたはそれだけを妄信して、戦い続けてきた。長い時間、長い時間……でも、なぜ唐突に局面に立って、放棄したの?」

 さらに一歩、近づいてくる。

「それは」

 答えるには難しい質問だった。脳裏に、輝き鳴り響く剣閃と、それを追い越していく小さな背中が見えた。月が照っていた。背中は、果てを知らないようにどこまでも階段を登っていく。

 私の心を見透かしたように、赤い目は閉じられた。

「そっか、アーチャーは、シロウに憧れちゃったんだね」

 頭を、殴られたような気がした。

 打撃は、重くて早かった。早すぎて、何がぶつかったのか私には、理解が難しい。

「目の前を走っていく、無垢で愚かな背中に、まだ穢れていなかった昔の自分と、届かなかった遠い理想の、二つを重ねて見てしまったのね。アーチャーは、そこに希望を抱いた」

 ――私は自分でも不思議なほど自然に、その男に凛の命運を託した。

 ――駆け上がっていく小さな背中、私が切りつけた傷もそのままに。

 ――ただ一途に、山門へと消えていく。

 あの思いが、間違いなはずがない。

 一歩。二人の世界が、加速度的に狭くなっていく。

 彼女は、私のあらゆる苦悶も、思考も、葛藤も、口の端で切り捨てた。

「でもそれは勘違いだから。貴方は気付いてないけれど、中身のおおくの部分が壊れてしまっている。たくさんの要因が、立体的に重なったのね。不完全な召還、同時代への再臨、そしてセイバーに受けた一撃」

「壊れている、だと?」

 一歩。

「貴方が自分殺しを諦めるなんて、ありえない事象だから。昔の自分に憧れるなんて、なおさら」

「そんなことはない!」

 立ち上がって、腹の底から声を出していた。否定の声だった。心の奥底から否定しているとは断言できない、上ずった声だった。

 私は一体誰を弁護しているのだろう。

 白い世界は無様な声を無限の鷹揚さで隠してしまった。私はまた、椅子に腰を下ろした。

 彼女の言うとおり、私は今回の聖杯戦争、一番初めから間違っていたというのか。

 あの凛の召還から。この時代に来たときから。セイバーに見惚れ、この腹を断ち割れたときから。

 そしてそれら全てが合わさって。

「セイバーの一撃は、かなり大きかったようね。再構成されるときに、あなたの内面要素がいくつか書き換えられてしまっている。そのせいであなたは極度に不安定に陥ったの。己の、抱いた憤怒の炎までもが弱まってしまうほどに」

 一歩。

「違う、私は全てに納得していた」

 声だけは反論していた。納得してはならないと、私の中のもっとも薄っぺらい部分が頑強に抵抗していた。

 哀れな男に対して、少女は、深い慈愛の笑みを浮かべた。

「わかってるわ。あなたは真摯だった。ずっと、考えていたもの。いいの。誰も責めてない。ありえない解だったけど、でもそれが正しかった。あなたはシロウを殺しても、決して救われることはなかったんだもの」

 私は気を失いそうになった。眼球が瞼の裏に張り付きそうになった。

 気持ちが蒼然していく中で、震えだけが止まらない。私はもう、何もわからなくなった。

「終わらない夢を追って、それを見果てないものにしてしまって、終わらせたくなって、でも終わらせられなくて、壊れてしまって、もうどうにもならなくなって――でも、立ち止まらなかったのね」

 最後の一歩。二人の間には距離も、隔たりもなかった。

「大変だったね、シロウ」

 その、一言。ちょっとした一言が、抗い難いほどに、食い込んできた。

 私は涙を流していた。感情なんて、殺してしまったと思って、しかし何度も揺さぶられている。

 この言葉にだけは、勝てない。

 彼女の前でだけ、私は少年のままだった。

 柔らかい手の平が、私の頭に。

 すがりついて、嗚咽を漏らした。涙の熱さを、もはやほとんど忘れかけていた。

 手の平のぬくもりで、眠りについた。


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