赤い弓の断章   作:ぽー

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第五話

 彼女に何かを言おうと思った。今なら言えると、そう思っていた。

 けれど知っていた。そんな素朴な願いが、叶うはずもないのだ。

 居間は、一万本の牡丹が手折られた時のように赤かった。壁一面を染め上げた血の赤は、生き生きとした絵画のようだった。なんて、言葉にできない絵だ。遠坂凛は、長剣を構えた言峰綺礼の前で、腹を裂かれて転がっていた。生きている。傷は深くない。私が混乱したところで、何も出来ない。

 凛はこんなところでは死なないと、信頼するしかなかった。怒りたかった。走り出したかったが、私にはもう手段は残されていない。ただこのまぶたを閉じないことしか、出来ることはない。

「イリヤ……逃げ、て」

 凛が呻いている。

 凛。

 何も出来ないとは知っていても、私は強く思った。

 もう一度殺すぞ、言峰綺礼。

「アインツベルン製の聖杯……我が命題の礎となってもらうぞ」

 言峰綺礼の体が流れた。イリヤは身動きが取れなかった。ようやく、逃げ出そうと体を翻した時には、男の体は回りこんで小さな腹に当身を打ち込んでいた。

「あ」

 そしてスクリーンが暗転した。膝の上の少女の体がピクンと痙攣して、気を失い、ため息を吐いた。手を当てる。気絶しているだけだった。

 もうそれで外界の情報を得る手段は消えた。不意に、凛と話すことは永久に出来ないのだと悟った。

「馬鹿な。私は、何を期待していた」

 私が己の無力を嘆くのは、百や千で足りるのか。私は少女を抱きかかえたまま、呆然としていた。

 終幕の無頓着さには慣れていたはずだった。この世界は懐かしくて、甘すぎた。ずっと待っていた消滅を間近に控えているとしても、この期に及んで未練が出る。私はもっと凛と話したいと思って、手を伸ばそうとしたところで、手段も機会も失われた。おあずけにも、慣れていたはずだったのに。

 私は何をすることもなく、座っていることしか出来なかった。言峰はそれほどの時もかけずに、柳洞寺に辿り着いて結末をこじ開けるだろう。私はもう傍観者としか参加できない。後はもう、最後の戦いの終焉を待つだけだ。

 心が屈辱で満ちた。

 衛宮士郎は、罰を受けている。自分が生きていることは、誰かの確率を奪った挙句のことでしかないと、思い知らされている。私もそうして、苦悩した。あの地下を忘れることは出来ない。人は人を家畜にすることが出来る。それさえ知らないで、安穏と生きてきたことは罪以外の何物でもない。戦い続けていくには動機が必要で、多ければ多いほど脱落を許されなくなる。使命ともう一つ、一生前の今日、私は罪悪感で身を鎧った。

 衛宮士郎はそこから前に進もうとしている。私は覗き見が精一杯。腕の中の少女を救うことも出来ない。感情の、逆鱗とも呼べる触れてはならない箇所を、おぞましい感触の何かがざらざらとなで上げた。腹の底から不快さがこみ上げてきた。イリヤは言った、私が歩いてきたから、衛宮士郎が前に進んだのだと。理解と納得とは、別だった。私はずっと殺そうと思っていた相手に、重大な敗北を喫しようとしている。間違っていた私にも、押し通すべき信念はあるのだと、頑なに信じていた。それを失ってはもう何も、塵芥さえ残らないと、怖れた。

 気を失っていたイリヤが、むずがって身じろぎした。長いまつげが痙攣して、ふっとまぶたが開いた。同時に、スクリーンも復活した。スピーカーが風の音を届けた。葉が擦れる音。空気が軋んで、圧縮していく音。ここはもう、決戦場。柳洞寺境内。

「どうやらここまでね」

 そういった少女は暗い瞳で、どこか諦めている風だった。

「何がここまでなんだ」

「聖杯が、呼び起こされるの。あの男は、きっと私を起動させるわ。そうすると、わたしはもう聖杯となる……ランサーが破れたわ。残されたのは、セイバーとイレギュラーだけ。そのどちらかの命を吸って、ホーリーグレイルの輝きは満たされる」

 終わりがやってくる。

 ことここに至って、最後の一戦が残されるのみ。使命に疾走した騎乗兵。愛に殉じた魔術師。唯一刀を貫いた侍。暴風のような狂戦士。ケルトの蒼い槍兵。引き絞られたまま、放たれることのなかった弓兵。血で血を洗った戦争も、今はもう二人の王を残すのみとなった。そして、神に仕える悪と、一人の少年が。

 本当の終わりは、もうすぐそこまで来ている。

 少年は階段を登ってやってくるだろう。理想と命を救うために、ここが地獄と知りつつやってくるだろう。最終決戦に、地獄ほど相応しい場はないだろう。

 境内は静かだった。

 いくら見上げても見飽きない月面と、竹の声だけがあった。

 黄金の鎧に身を包んだ、ギルガメッシュが立っていた。一瞥して、残忍な笑みを浮かべるだけだった。言峰綺礼も、目を閉じているだけだ。

 どこにも温かみはなかった。二人がいるのではない。一人と独りがいるだけだ。私に似ている、と思った。私も似たようなものだ、と。孤独を目の当たりにするといつもそう思う。孤高に生きるということは、傍には誰もいなくなるということだ。

 きっとそれは間違いなのだ。

 やがて打ち壊される静けさがしばらく続いた後に、言峰綺礼は区切りをつけるように言った。

「時間だな」

 振り向いて、こちらに歩いてくる。言峰の手が伸びる。

 その手が完全に届く前に、小さな体は私から離れて数歩駆けた。たんたんと軽い足取りだった。くるくると回って、やや遅れてついていく白銀の髪が、神秘的な軌跡を描く。

「黙ってたんだけど」

 いたずらっ子は舌を出す。

「……あなたは、受肉してもう一度生きることができる。聖杯の淵にいたままなら、魔力を得るだけであなたはもう一度肉体を得ることができるのよ」

「……嘘をつけ」

「嘘じゃないから、約束してね。わたしに何があっても、じっとしてて。絶対ね。約束なんだからね」

 自分の胸が切開されそうだというのに、心底嬉しそうに少女は笑った。

 世界がどれだけ私を傷つけても。

 彼女は私に味方する。

「開け」

   そして笑顔を浮かべたまま、その胸に穴ができた。

 バクッと、お世辞にも丁寧とはいえない音が響いた。ゴブゴブと血の流れる音。イリヤの薄い胸板に、大きな亀裂が生まれていた。

「あ」

 ぽっかりと空いた穴、少女はきょとんとしていた。

 変化は一瞬だった。輝いた。白いものが溢れ出した。イリヤの悲鳴すらかき消した。彼女の中から、取り返しのつかないものがどんどん溢れ出して行く。蛇口から水を流す程度の呆気なさで、イリヤの命が失われていく。流出する白と対照に、少女の純白は奪われて、黒く染まっていく。

「イリヤ!」

「約束……」

「馬鹿か――」

 大河を繋いだような奔流が、私を含めた全てのものを押し流さんとあふれ出した。スクリーンもスピーカーもすぐに消えた。見ると、私の体がどんどんと剥げていた。この流れは、純粋な、力なのだ。全てを壊す暴力が、あんな小さな体から、あんな小さな体を壊しながら触れてくる。

 それを前にして、ここで、ただ座していろというのか。そんなこと、できるわけがないだろう。

 呪文を呟いた。だが剣製はならなかった。この世界は、私の世界ではないからか。

 私から剣を取り除いたら、もう何も残らない。だったらやれることは一つしか残らないではないか。

 止まらない流出を押し退けて、源に歩いていった。圧力に何度も転びそうになった。熱い。この熱さは、そのまま彼女の命の熱だ。涙してしまうほどに、熱い。失うわけにはいかない。堰き止めるために、私はここにいる。きっと、そうなのだ。

 そっと彼女を抱きしめた。

「シロウ!」

 突き殺す程の勢いで、力が胸を貫いた。それでも、勢いは私の体より後ろに流れはしなかった。この体で、穴を塞ぐ。わかりやすい。ぶちまけてしまいそうになる悶絶の吐息を、飲み込んで、少女の頭を撫でた。

「やめて! わたしはもういいんだから!」

「何が、いいんだろうな」

「無茶よ!」

「さて、そうは思わんが」

 なまじ精神だけでできている今の私だからこそ、壊れの限度が存在しない。果てなく、壊れていく。それは死に続けるということと、かなり近い。熱かった。この痛みを受けるのは、私一人でいい。

 こんな薄弱な少女に、味あわせるなんて考えられない。

「……あなたは、受肉してもう一度生きることができる。聖杯の淵にいたままなら、魔力を得るだけであなたはもう一度肉体を得ることができるのよ」

 その言葉は、私の耳に届いていたが、胸には届かなかった。

「それは、いいな」

「失ったものを取り戻すことができるし、凛とももっといれる」

「彼女に紅茶を、淹れる約束してたな」

「シロウがどうなっていくか、結末まで見ることができる――あなたが一番望んでること!」

 私は一瞬だけ、その夢を見た。もう一度この時代に、生きる夢だ。

 夢は夢のまま、終わらせるのが美しい。

 いい音がして、それが私の背中をゲイボルグが突き破った音など気付いた時には、さすがに戦慄した。槍兵よ、立ちはだかるか。だが、ここは通せないのだな。私の体に穴が開いても、彼女の命を押さえ込み続けた。釘剣と、破呪の短剣、日本刀、私の背中を貫いていく。それを、最後の一枚で押しとどめている。私の背中は、無様に拡張していく。膨らみ続けて破裂などしたら、最低の醜態だ。

「あなたがそんなことをしても、意味ないのよ! セイバーとシロウはきっと勝って、ここから」

「その前に、君の命が全部流れ出ない保証はない」

「わたしは、どっちみち数年しか生きれない。力が全部流れ出して聖杯が完成しても、でも上手くいけば数ヶ月は生きれるわ。それに比べてあなたは魔力を補給さえすればずっと……」

「御託は、もう終われよ」

 かき抱いた。バーサーカーの斧剣だけは、私を攻めなかった。彼女はそれを、知っているのだろうか。

 意識が朦朧としていく、なんて段階は元よりない。最初に食らった一撃で、私はもう眼が見えなくなっている。それが絶え間なく、私の体に圧力を加えている。貫かれている。後ろに、こぼれていないことだけはわかる。イリヤの命を溢すことがあるのなら、それは私が、完全に終わったときだ。話す言葉も、なにを話しているのかすらはっきり把握していない。

「長生き、しないとな。楽しいことなんて数え切れないほどある」

「あなただって、楽しいこと、全然知らない」

「じゃあ、私の代わりに、頼む」

 ああなんと愛しい命なのか。か弱さに怖れた。すぐに折れてしまいそうなくらいに、少女は弱いのだ。それが愛しい。命は、かくも弱い。心の底から守りたいと思った。

 だから衛宮士郎、来い。

 衛宮士郎。私は貴様が来るまで、耐えると決めた。私の限界が到来するまでに辿りつけたのなら、そのときは貴様の勝ちだ。だが間に合わなかったのなら、貴様の負けだ。こんなところで敗北するのなら、私のように未来永劫苦しむことになると知れ。

 わけのわからない理屈だと、笑いながら、縋るしかない一つの絆。

 それだけを信じて、意識さえ撹拌されていく。

 呟き続けて、抱きしめて、何時間が経ったのか、私はとうとう幻聴を耳にした。

 とても眠たくて、誰だかわからないけれど。多分、正義の味方でもきたんだろう。

 遅刻にもほどがあるが、まあいい。あれはいつでも、遅れてくるものと相場が決まっている。


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