赤い弓の断章   作:ぽー

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第六話

 胸を冒されながら、なぜなのかはわからないが、私は戦いの場を見ることができた。

 イリヤがそうしているとは、思えない。偶然なのか、はたまた幻なのか。少年の視線の中に、私の意識が埋没していく。

 セイバーがギルガメッシュに向かい、衛宮士郎は言峰綺礼と対峙した。

 最後の戦いだった。

 全てが決する戦いだった。

 始まりの合図は、一体なんだっただろう。

 剣製は非力だった。想定は矛盾を孕んでいた。原本への冒涜のような模倣は、とうてい聖杯の力に太刀打ちできるものではなかった。

 膝は、屈しなかった。

 無数の触手が全天を覆いつくして迫る。わずかな隙間を切り裂いて駆け抜ける。全てを避わしきることはできず、太ももをおぞましい瘴気が撫で上げた。目の冴えるような鮮血を、振りまいて、少年は止まらない。

 油断も傲慢もない、言峰綺礼の投擲した黒鍵が迫った。同時同発の未熟なフェイクは、半分を相殺した。その間隙を目で見てかいくぐれるほどの力はない。ただ勘に身を任せて転がり込んだ地面には、剣の影はなかったという、偶然。それが本当に偶然なのかどうか、誰にもわからない。

 戦いは、熾烈を極めていた。

 憎悪と諦念で染め上げた言峰綺礼の言葉。償え償え。無意味だ無意味だ。死。闇。ただ、私たちにはもはや届かなかった。私はただ白痴のように立ち尽くしていた。イリヤを抱きしめたまま、私は何も考えなかった。駆けていく少年の姿を追った。私は、頬を伝った何かの熱さに痺れた。

 重い夜の帳、それは破られない。鳥の囀りのような剣戟の響き、溢れる吐息、怒声さえ消えつつある。しじまに私は戦慄した。今ここには、相応しい音楽すらない。衛宮士郎の感情が伝わってくる。怒りと悲しさに、壊れてしまいそうだった。

 衛宮士郎の投げる出来損ないのスクレープが、おぞましい暗黒を潰す。憎悪の雨に罅を入れる。距離が消えつつある。男は触手を掻い潜り、言峰の腕を浅く切りつける。肉迫する。それでも、やはりわずかな隙を黒い力が、撥ね退けて叩き伏せた。飛来した黒鍵が士郎を鞠のように吹き飛ばした。直前に生み出した概念がなければ跡形もなく消えていただろう。肩に穴が空いた程度で死ぬわけがない。立て。立った。

 立ち上がりながら、感情がさらなる幅を持って伝わってきた。教会の地下で、命を飼い殺された彼と彼女ら。悲しくて、痛い。他にも、もっとたくさんのことが寄り合わさっていく。橋の上。消え行く命。そして、セイバーへの想い。

 それがゆっくり怒りへと変わっていく。立った。私はいつか見たことのあるようなその背中に魅入っていた。

 そこで気付いた。鳥肌に背筋が悶えた。既視感は全力で私を打ち据えた。理想を持った男の背中は、そんな風なのだな。私のいつかはお前だった。あの時の私は、そんな背中をしていたのだろうか。駆けていく後姿は、いつか憧れた何かの欠片を、原石のままに。

 突き進んだ。叫び声を挙げていた。不意に嘆いた。運命を、砕いてしまいたかった。行け、お前の正義を、貫き通せ。地平の彼方では、理想も後悔も尽きない。運命を、砕くのだ。暗い夜を、越えていけ。

 丸ごと飲み干してしまおうと、粘性の悪がのしかかってきた。数千本の触手が生えた。しかし、それが士郎に突き刺さることはなかった。手の平の中で、大きな熱と光を蓄えた、熱が毀れた。

 にわかに光。鞘は、湖面と一緒に佇んでいた。

 アヴァロン。

 魂は、ここにある。

 全ての罪は目を背けずにはいられない。輝かしさの前で、罪業はさらけ出されて、聖杯の鞭も、言峰も、私も、時すら、止まった。

 少年の足が地を蹴った。両手に握り締めたアゾット剣が鈍い光を放った。

 あたりが光に包まれた。

 

 

 

 その小さな頭を、もう撫でることはできなくなると思うと、妙な気持ちになって苦笑いがこぼれた。

 決着を迎えて、彼女の体からはもう命は溢れ出てはこなかった。出でよ、という意志がなければ動きはしない。私は、朽ち果てた自分の状態を確かめることもなく、イリヤの頭を撫で続けた。彼女はぽろぽろと泣いていた。

 聖杯の外、私は衛宮士郎とセイバーの姿を見やった。セイバーも、英雄王に勝利を収めて、ここにいる。二人で言峰綺礼の、吹き飛ばされた右足に止血を施していた。少年は、敵を殺さなかった。死ぬことを、許さない。これからも、その道を、選択してしまったのだ。

 二人が何を話しているのか、それを聞こうなどと、無粋なことは思わなかった。最後に残された、わずかな時間だった。別れの時は確実に迫っている。

 手当てを終えると、セイバーは剣を携えて、向き直った。

 別れというのなら、私もそうだった。  セイバーは今から、聖杯の怨念を絶つ。それは聖杯戦争の終結を意味し、同時に私の終わりを指す。

 王が、ゆっくりとこちらに歩いてきて、剣を構えた。勝利と、終わりとを告げる剣閃が今から発せられる。

 振りかぶって、振り下ろされた。山の上から、街の全てを照らすほどの光だった。

 私は覚悟を決めていたが、なぜか、最後のところで剣は振り切られなかった。まるで時が止まったかのように。

「止まってるの。止めちゃった」

 私の腕の中で、イリヤは呟いた。

「なにを」

 そこで気付いた。この世界に、私とイリヤ以外の人影があらたに三つも増えていた。

 三人はそれぞれ椅子に座っている。

 私を待って、座っている。

 悪戯っ子の女の子が、泣き笑いの表情で言った。

「聖杯は、願いを叶えられる。今だけ、きっと偶然だけど。いいでしょ? シロウ、お別れが慌しいのは、嫌だって思ったでしょう」

 涙を拭いて、イリヤはさあと私の背中を押す。

 言葉が見つからなかった。

 たたらを踏んで、私は、セイバーの前に立った。あまり理解が追いついていない。

 目を合わせた。澄んで、綺麗な瞳だった。虜囚のような暗い影がない。彼女に救いが訪れたということなのか。

 私たちに言葉はなかった。何を話せばいいのかわからなかったし、何より恥ずかしさが先に立っていた。

 だから私はもう、去ろうとした。背を向けようとした私に、セイバーは溢すようにいった。

「アーチャー、あなたはやはり」

「言うな。それだけは、言わないでくれ」

 それをいわれたくないから、立ったのだ。もう一度彼女のほうに向き直った。

 セイバーは、口元にほんのりと笑みを浮かべていた。

 私も、笑えた。不器用だが、けれど確かに笑えた。

 恥ずかしさに出た笑いだった。こんな、みすぼらしい男になってしまった。夢がどこへ行った。ただ、ボロボロに朽ちてしまった男が一人、出来上がった恥ずかしさに笑った。  不意にセイバーの手が伸びて、私の手首を掴んだ。

「立派です」

 彼女も笑った。私と違い、それは柔らかい笑みだった。

「あなたは、強くなった。本当に、立派です」

「ああ俺は、ずっと、君にそういって欲しかったのかもしれない」

 また、笑えた。

 今度の笑いは、決して恥ずかしさを誤魔化すためのものじゃなかった。

 ありがとう。そしてセイバーはにっこり笑って薄らいでいった。

 セイバー。いったのか。果たして君は救われたのだろうか。昔、客観的には見れなかった。愛した君を忘れないことだけが、俺に出来る全てだったから。

 思い出した。君はそうして笑っていった。だったら、疑うべくもない。その微笑を、君ごと信じればいいだけだった。

 

 

 

 二つ目の別れは、衛宮士郎とだった。

 その顔を、改めて見た瞬間だった。言い知れぬ感情が私を揺さぶった。ふと、頭に電撃が走った。失ったわけではない。悠久の時、己と他人の血反吐の果てに抱いた憎悪と後悔は、真実で、失われたわけではなかった。

 駆け抜けた。その短い距離を、全力でもって駆け抜けた。遅かったのだろうか、それともまだ私は英霊の力を保持していたのか。衛宮士郎は一歩も動かなかった。静止した時の中、突き出した私の拳が、確かに衛宮士郎の顔面を捉え、貫いていた。

「ははは」

 感触は、どこか歪だった。確かに貫いた拳を、私は見やった。透過し、実態すら消えかかっているその手。衛宮士郎は瞬きもせずに私を見ていた。ただすり抜けてしまった拳を、私は引いた。

 殺せはしなかった。殺意は、本物だった。だが時が――いや、理由などいい。それほど悔しさはないのだから、どうでもいいという投げやりな気分に任せて、私は笑うしかなかった。さっきから、笑ってばっかりだ。

「アーチャー、お前」

「ああ、小僧。お前を殺してやりたかったが、そうもいかない。なにせ拳がなくなった。いや、残念だよ」

「ああ、そうだ。お前は俺を殺せなかった。俺の勝ちだ」

「生意気、言いやがって」

 本当に、笑うしかない。

 この憎悪が、衛宮士郎に向けてのものではないとだけは、わかる。ほぼ全て、己に向けたものだ。あるいは、怒り以外の、口にすることすら恥ずかしい、ある種の劣等感からの子供っぽい気持ちなのかもしれない。

 私はこうして、いつまでだって、この道を選んでしまったことを後悔し続けるだろう。すっきり綺麗に忘れるなんて、奪った命の数が許さない。そして、こんな思いをするのは私だけでいい。

「勝ったからには、責任を取れ」

「ああ」

「お前は、生きて、そして死ね。間違っても、分を超えたことはしないことだ。死んでもなお戦おうなどというのは、傲慢という犯罪だ。命の合間に、出来ることだけを、しろ」

 頷いてから、衛宮士郎はいった。

「一つだけ、教えてくれ」

「なんだ」

「生きてる間に、全ての人間を助ける方法を、お前は知ってるのか?」

 殴られたような衝撃だった。腹が痛い。私は大声を上げて笑った。

「知るか」

「こっちは、真面目に聞いてるんだ」

「ああ、だからなお更笑えるのだ」

「わ、笑うな!」

「……そうだな、魔法使いにでもなったら、できるんじゃないか」

 冗談半分で答えたのだが、案外それこそが正解なのかも知れないな、とぼんやり考えた。

 ひとしきり腹を抱えてから、私は息を正して言う。

「一つだけ、約束しろ。間桐桜の人生は、お前が面倒を見るんだ。他の何が出来なくてもいい。最後まで正義の味方に憧れ、その身を滅ぼすことになったとしてももう私は何も言うまい。ただ、桜のことだけは、お前が最後まで見てやるんだ。私にできなかったことを、お前に託すのは少々卑怯だがな」

「ああ。約束するよ。俺は」

「もういい、話すな。どうせ、生意気なことしか言えんのだろう――知っているからな」

 空を見たくなった。

 少年は、どこまで、いけるだろうか。

 私は、永遠という終わらない時刻の果て、それでも憎悪を忘れずにいた。

 その渦の中で捻じ曲がってしまったけれど、衛宮士郎、貴様の周りにはたくさんの人がいる。憎悪は人を動かすが、決して幸せにすることはない。それを、周りの人たちに教えてもらえばいい。正義の味方は、決して一人でなれはしないのだ。

 その言葉を口にはしなかった。言わなくても、わかるはずだ。私のような失敗作に教えてもらうまでもない。本当に、なれるのならば。

 気付いたことがある。

 守護者エミヤの最後の使命、それは英霊エミヤ自身の抹殺に他ならない。

 それは、衛宮士郎を殺すことではない。

 衛宮士郎という可能性を、昇華すること。

 英霊エミヤに殺される人々すら、破滅から救い上げるのが、私の最後の使命だったのだ。

 人類を破滅から救うため、多くの間引きを行ってきた守護者でさえ、悪ではない偽善でしかなかった。

 ここに、私は正義の可能性を見た。

 阿ることなく、自身を蔑むことなく、生きる、正義の存在を。

 めぐりめぐり、この時代、この世界。

 衛宮士郎はこの先、私を越えるのだろう。

 不完全な夢をもち、不完全な道程を歩み、最後まで後悔を抱き続け自分への殺意を消すことの出来なかった私とは違う、正しき正義の味方として。

 それがどのような形なのか、私にはわからない。

 私の使命はすでに終わったのだから。続きは、あの傷だらけの少年が見つけるのだろう。

 私が消え去っていくという事実を元に推論した、そう、仮説にしか過ぎない。もしかすると、奴もまた一つの不幸を背負うのかもしれない。

 しかし、私は可能性を見た。それだけで、満たされた。

 踵を返した。

 

 

 

 凛の声。別れに、彼女は名前どおりに凛として向かい合った。

「アーチャー」

「おめでとう、そしてすまない」

「……なにが、おめでとうで、なにがすまないなのよ」

「生き延びたことに。そして勝利を掴み損ねたことに」

「ふん、全くよ。最初に会ったときに言った言葉、忘れたの? わたしを覇者にするだなんて、出来ないことなら初めから言うもんじゃないわよ」

「まったくだな」

「この世界に、留まりなさいよ」

「最後だからといって、取り乱すな。君は、ただ君らしくあれ。出来ないことをあえて口にだすのは、遠坂凛の行動ではないぞ」

「ばか、最後まで優しくないんだから」

 言葉を探した。

「とはいえ、君は私には過ぎたマスターだった」

「そんなこというの、卑怯じゃない?」

「泣くな」

「泣いてないわ」

 また、言葉が途切れた。束の間見詰め合って、ちょうど言葉が重なった。最後の会話だった。最後まで、ちぐはぐだ。もう消えるだろう。わかる。ここが私の限界なのだ。それでも、目の前の少女の顔だけは鮮明に見えるのだから不思議だった。

「まだ、約束かなえてもらってないわ」

「ほう」

「そう、まだよ。まだ、あなたはわたしとの約束を果たしていない。言ったじゃない、後悔させるって。わたし、まだ後悔してないもの。なんであんたなんかを召還したのか、全然、納得できない」

「そうか、それについては謝るしかないな」

「謝ってももう遅いわ。わたしは必ず約束を果たしてもらう――令呪よ!」

 叫びは白い世界、終わりを迎えようという静謐の中で木霊した。

 木霊すだけで、ただ何も起きはしなかった。さざなみのように小さくなっていく彼女の声が、どこか切なく響いた。

「やれやれ全く。聖杯が消えた今、令呪の縛りなど存在しないというのに――遠坂、お前本当、肝心なときにうっかりするよな」

「うっさいわね……うるさいのよ、ほんと。最後まで」

「後悔したかね?」

「ええ、後悔した。アーチャー、あなたと会えて、本当に良かった」

「そうか、それは良かった。ならば、さよならだな」

「ええ、さようなら」

 私は彼女の頭を小突いた。彼女も私の胸を拳で殴った。

 遠坂凛と、アーチャーの物語の終わりに、ぴったりの別れだろう。

 

 

 

 偶然を装った優しさは終わった。

 イリヤは、もう泣いてはいなかった。

 この少女を、守れてよかった。見ればいい、幸せな夢を。俺は見せてやることが出来なかったが、その続きを、彼女が見れるのなら、いつぞやの虚しさがふと溶けていくのを感じた。

「わたしは、やっぱりあなたは残るべきだと思う」

「無理なことをいうものじゃない」

「わたしの命を、分けたら」

「必要ない」

「だって……あなたは何も手に入れてないじゃない!」

「最後に頼みがある。今、別れを告げた全員の記憶を、消してくれ。私の最後など、覚えていて意味はないだろう。私の言葉に力はない」

「……」

「約束してくれ」

 納得いかないように、けど仕方なげに少女は頷いた。

 信じているからだ。私の助言など、意味はない。きっと正しい道を歩むという、信頼。

 きっと、これから衛宮士郎が歩む道も果てしなく、そして辛い。この先沢山の困難が待ち受けている。

 険しく終わらない道を、けれど君と、君たちの思い出と力添えがあれば、衛宮士郎、あいつがいくら未熟でも、最後まで歩いていけるだろう。

 運命の夜さえ、越えていけ。黒い聖杯の悪夢さえ、お前ならば乗り越えていけるだろう。

「しかし、何も手に入れてないとは、辛辣だな。私がここまで身を焦がして、何も手に入れられなかっただと?」

 君に会えた。君にも会えた。君にだって、会うことが出来た。

 その凄さを、君はわかってない。

「侮るな。私は、全てを手に入れた。後悔など、欠片もない」

 だから、もういいのだ。

 イリヤはそれ以上言わなかった。

 さらば。

 最期の時。笑う私に、笑いきれなかった彼女が、何か言った。

「シロウ、見てね。シロウがなくしてしまった、一番大切だったもの」

 手を振ってくれた。

「きっと、見れるから」

 口も世界を離れていた。だから、ただ頷くことにした。

 それだけで、十分伝わるような気がしたから。

 バイバイ。

 そして時は動き出した。

 瞳を閉じたエクスカリバーの輝きに、私はさらわれた。


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