赤い弓の断章   作:ぽー

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第四話

 いい水が汲めた。

 魔術師は水を大事に扱うが、この家は特に質がいい。代を重ねた、古い井戸水を汲み上げているのだろう。元々の土の匂いや味が殺されていない、生きた水だった。

 日が完全に昇るのを見届けると、私は屋敷の台所に戻り、どれほど整理が行き届いているのか確かめた。とはいうものの破壊された部屋を修繕したのだから、物色などとは今更な物言いでもある。物はそろっていた。ある程度の整理もされていた。ただあるだけではなく、しっかりと考えられた配置でもあった。マスターの性格にしてはまともなものだと感心した。

 しばらくはあれこれと道具や具材を見回っていたが、やがて紅茶をみつけた。

 名のある中国紅茶で、上品な香りのたつファーストフラッシュの一品物だった。フォートナム・アンド・メイソンの銘柄を見て、私も生前淹れたことがあると、思い出した。体はさらにしっかりと覚えているだろう。缶の蓋を開け、香りを確かめてみる。芳醇な香りだった。蒸らす時間は、四分もいらない。

 時計を見る。そろそろ、彼女が起きてきてもおかしくない時間だった。もう朝とは呼べないが、召還を果たした次の日なのだから、体力も魔力量も大幅に削られているのだろう。そう考えたら、自然と水を火にかけていた。しばらくすると水はグラグラと揺れだし、カップとポットに注いだ。蓋をして香りを閉じ込める。時間を計りだしたとき、上の階の扉が開く音がした。寝たろうがようやく起きたのだ。

「日はとっくに昇っているぞ」

 言って、私は彼女の寝起きの顔を見てさらに付け加えた。

「また、随分とだらしないんだな、君は」

 熊でも殺すのか。目は剣呑に垂れ下がって、眉間の皺が威嚇じみている。返ってくる皮肉もどこか気だるげだった。頭が痛いのか、しきりにコメカミに指を当てていた。さもありなん。魔力切れの影響はやはりあるようで、体調はベストの二割くらいとみた。

「なるほど、本調子ではなさそうだな。昨夜は元気だったが、睡眠をとって疲れが出たのだろう。――ふむ。紅茶で良ければご馳走しよう」

 頭の中で計っていた時間も、ちょうど頃合の針に達していた。温めておいた陶器のカップに紅茶を注ぐ。最後の一滴が落ちるまで辛抱強く待ち、ソーサーに乗せて渡した。新茶の儚い香りが、束の間辺りに満ちた。

「……まあいいけど。疲れてるのは事実だし、飲む」

 体が覚えているままに淹れたので、味に関しての自信は曖昧だ。以前に紅茶を淹れたのも、気が遠くなるほど昔のことなのだ。

 そういう理由で、味の具合はどうかと、聞こうかとも思ったが喉を潤した彼女の表情を見て、私は言葉を飲み込んだ。どんなひねくれ者でも、美味い物を口にすれば自然と頬が緩むものだ。

「……ちょっと、なに笑ってるのよ、アンタ」

「なに、感想が聞きたかったが、その顔では聞くまでもないと思っただけだ」

 気に障ったのか、カチャンとカップをテーブルに置く。カップの縁で茶は波立ち、少量の香りが死んだ。

「勿体ない。熱いうちに味わった方がいいぞ。私が気に障るなら消えているが」

「ごちそうさま、結構よ。わたしは茶坊主がほしくてマスターになった訳じゃないわ。貴方もね、頼みもしない事をする必要はないわよ」

「そうか。確かに、私も茶坊主になったり後片づけをする為に契約した訳ではない。君がそう言うのならば、これからは気をつけよう」

「ええ。わたしが求めているのは戦力としての使い魔よ。家事をこなすサーヴァントなんて聞いた事がないし、する必要も特にないわ」

 よく言う、と思うが内心にとどめる。片づけを命じたのはどこの誰かかな、と指摘しようと思ったが、寝起きの彼女に楯突くのはどうやら間違った選択のように思えたので伏せておいた。

「それより――貴方、自分の正体は思い出せた?」

 迷うことはしなかった。首を振った。やはり、危険な橋は渡るべきではない。わかった、と答えるマスターに、消えゆく紅茶の香りほどの申し訳なさを抱いた。

 それから半刻ほどを、サーヴァントに関する彼女の不鮮明な認識についての説明に費やし、偵察も兼ねてということで外出することとなった。

「貴方の呼び出された世界を見せてあげるから」

 語弊を指摘はしなかった。生きた世界だった。怨嗟の砂漠に埋没しこそすれ、在りし日の何かは残っている。いま思い出せと言われれば閉口するが、紅茶の淹れ方のそれと同じに思える。

 ともあれ外出することになったのだが、いつまで経っても彼女が言おうとしないので、痺れを切らして私のほうから切り出した。支度を整える彼女に言う。しかしどうも失念してるというよりは、思いつきもしないという風だった。

「え? 大切な事って、なに?」

「……まったく。君、まだ本調子ではないぞ。契約において最も重要な交換を、私たちはまだしていない」

「契約において最も重要な交換――?」

 ぶつぶつとしばらく呟くが、眉間のしわがどんどん深くなっていく。

「……君な。朝は弱いんだな、本当に」

「――あ。しまった、名前」

 ようやく気付いたのか、ポンと手を打っていう。

 召還者と被召還者との間を繋ぐのは契約と魔力交換さえあれば十分に済む。しかしそれはあくまで形式上のものでしかない。互いが意識を保ち、共に戦うこの状況ではそれでは足りない。結局はマスターと呼ぶことになろうと、名前も知らないというのは存外に味気ない。

 私の指摘に「下らない」と切って捨てるならば、真正の使い魔のそれだが、彼女は告げてくれるだろうと、妙な期待を抱かせてくれるものがこの少女にはあった。にじみ出る人柄だろうか、ともかく、今までの失念ぶりは寝惚けのせいにしておいてもいい。

「それでマスター、君の名前は? これからはなんと呼べばいい」

 彼女は一瞬嬉しそうに微笑み、だが隙をさらすまい思ったのか、すぐに仏頂面に戻って、面倒くさそうに言った。

 声が響く。唇の動きが、ひどく緩慢に思えた。

「わたし、遠坂凛よ。貴方の好きなように呼んでいいわ」

 遠坂凛。

 三つのことを耐えた。呻くことと、たたらを踏むことと、叫ぶことだった。

 頭の中が急速に白くなった。

 痺れを覚えることは耐えれなかった。そして震えていた。動揺を、なんとか表に出すことはなかった。

 遠坂。どうして俺は思い出せなかったのだろう。そんなにまで、化石となっていたのか。

 思い返せ。節々に、彼女らしさが表れていたではないか。

 意志の強い瞳。明晰さ。寝起きの悪さ。力強くも不器用な個性。どれもこれも、遠坂を象徴するものばかりで。

 対面したときの不可思議な動揺も、妙な感慨も、すべて合点がいった。

 手足にまで麻痺が及んだ。指先が、痛い。

 まぶたが震えかけた。幸い、私の涙腺は遠い昔に死んでいる。表情を強引に笑わせて、誤魔化した。

 芋づる式に、死んだはずの記憶たちが息を吹き返した。かつての己。かつて戦った聖杯戦争。家。家族。冬木の町。みんな。

 一度のまばたきで、震えは去った。目頭の熱さだけがいまだ離れない。涙腺が死んでいて、本当に良かったと思えた。

 遠坂、久しぶり。また会えるなんて思ってもみなかった。口には出さずに呟いた。

 そう、お前は意外に恥ずかしがり屋で、いつもすぐに顔を赤くしてたっけ。それもまた、口に出すのは許されなかった。

 はにかんだ君の顔を、私は俺だと告げれないまま、見つめていった。

「それでは凛と。……ああ、この響きは実に君に似合っている」

 遠坂と呼ぶことさえ、私には許されていない。だが、彼女は目前に居る。

 吐息と声。

 自分の口から出たものに、自分でも驚くほどの、感慨と、万感が含まれていた。

 


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