赤い弓の断章   作:ぽー

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第九話

 鉄が意志を持ったかのような頑強さだった。

 月の光を背負い、縁取られたそのシルエットが禍々しく揺れている。暴力という熱が、体中から茹で上がっているのだ。

 少女が小さくさえずった。背中まで流れる銀色の髪が、月明かりにさらに白く輝く。比すれば人形のように小さく見えるその子を、豪腕の中に優しく抱きかかえて、直上の鉄骨から飛び降りた。着地の重圧に耐え切れず、石畳やプレートがばりばりと砕け散った。

「もうバカ。もうちょっと静かにできないの? このウスノロ」

 無邪気なその声と相まって、どこまでも非現実的だった。だが無駄な瞬き一つ許されはしない、超常の敵である。その砲塔のような腕から少女は軽やかに地上に降り立つと、スカートの端をくいとつまんでお辞儀をした。

「こんばんは。いい夜ね皆さん。殺し合いにはぴったり」

 ふふふと笑みをこぼしながら、くるりとその場で回転をしたり、下から覗き見るような仕草をしたり、少女はどこまでも無邪気だ。ただその背後。殺意で武装した悪夢との落差が、まるで地獄絵図に等しい惨たらしさを見せつける。

「出て、アーチャー」

 実体化する。同時に、固まっていた衛宮士郎を押し退けてセイバーが前へ出た。凛は辛うじて呑まれてはいないようだ。

「二度目の万が一だな」

「ごめん、今は笑えないわ……やばっ。アレ、無茶苦茶だ」

 くっと歯を食いしばりながら、凛はポケットに手を忍ばせつつ言う。

「バーサーカーのマスターね」

「ええ。はじまして、リン。お兄ちゃんは二度目だけど、名乗るのは初めてね。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言えばわかるでしょ?」

「アインツベルン――」

 私に覚えはない。ないのなら、それまでだ。私は過去の検索の一切を断ち切って、数少ない魔力を体内で練り上げることに意識を統一する。セイバーの手が柄を掴むのが見えた。

「じゃあ、はじめましょ? やっちゃえ、バーサーカー」

 いざ殲滅戦。

 ただ走る。それで橋が揺れた。一歩踏み出すたびに、巨大な建造物が衝撃にたわむ。

 巨人は大地を踏み荒らす。立ちはだかる存在全てを力任せに蹂躙する。狂戦士は、傷さえ付かない鋼の具現。鈍色の破滅が暴風をまとって肉迫する様は、どこか世の終わりを思わせる。それを断ち切るように、銀緑の剣が敢然と飛び出したのは、どこか示し合わした劇のようだった。

 私はその激突を見届けようとは思わなかった。

「凛」

 有無を言わさず抱きかかえると、そのまま私は踵を返して路面を蹴った。新都側まで、五十メートルほど。爆発音と剣戟音に追われるように、私は橋上から退避し終えた。

 この傷ついた身に残された魔力で、到底勝てる相手ではない。セイバーが打ち合う剣戟音がまだ聞こえる。同じく負傷している彼女と共に戦ったとしてもなお分は悪く、さらに足場はこれ以上ないというほどに味方してくれていない。

「ちょっとっ! アーチャー誰が逃げろって――!」

「このまま逃げる。新都に隠れ家のようなものはないかね」

「見捨てろっていうの!」

「正しくその通りだ。反対かね。ではあの魔物と打ち合えというのかね。いや、いいタイミングだった。セイバーが飛び出したあの瞬間にしか逃走は叶わなかっただろうよ」

 口論の最中にも、橋の上では激突が続いている。魔力と暴力が荒れ狂い、一撃毎に真下の水面が爆ぜる。鉄骨で編まれた巨大な橋も、悲鳴と共に崩れていく。

 抱えられたまま凛はいった。

「戻って」

「正気か。あれはただの英雄などではない、神性の魔物だ。あれを御するには万全の力が」

「御託は聞きたくないわ。私は、戻れと、命令したの」

 赤い、糸のように私を包んでいた令呪の力が、太さを増した。縄は、拒めば綱にも鉄鎖にもなってこの身を拘束する。今はまだそうしろと体に食い込む程度だった。されに凛は腕を振り回して暴れ、私はやむなく彼女を下ろした。

「逃げるなら、あの二人も連れてよ」

「愚昧か、君は。あの立ち位置は絞首台のそれだぞ」

「わかってる」

「わかっていない。力だけ見れば、あのサーヴァントは紛うことなく最強だ。あの道は逃げ場がなさすぎる。一度攻めを受ければ横にいなすことも飛び越えることもできない」

「わかってる」

「……どうしてもか。どちらにしろ、二人とも敵であることを忘れていないか」

「言ったはずよ。敵として扱うのは、明日からだと。今日は、まだ敵じゃない」

 拳を握り締め、そのまま凛を昏倒させて退避しても良かった。してやろうか、と半ば本気で考えたがその躊躇わない瞳に魅入られて、どうでもよくなった。私はため息と共にその考えを消し去った。

「……マスター。いつか、君のいうところのその心の贅肉が、君自身を押しつぶすことになるぞ」

「ごめん、それもわかってるわ」

「……もういい、謝るな。言ったはずだ。君は君の思うまま、私を行使しろと――つかまれ」

 反転してもう一度橋を――橋だったものを目指した。

 

 

 

 幅は三歩、脇に逃げ場はない。一直線に続くだけのその舞台は、戦闘を綱引きに似た単純な力任せに変えてしまう。剣――セイバーの位階を冠していたとしても微細な要素でしかない。身にまとった技量は死に至る時間をわずかに延長させる程度のメリットしか持たない。

 だが彼女は生きていた。

「生きてる!」

「しかし、無事というわけではなさそうだな」

 私の目にははっきりと血濡れの背中が見えていた。橋のほぼ中央、驚くことに一合目を打ち合った地点よりほとんど移動はしていない。なぜだ。この状況での戦う術は、じりじりと後退する他はないはず。私は地を蹴りながら考えた。憤懣が溢れ出るまで、大した時間はかからなかった。

 彼女は、倒れ伏した衛宮士郎の、盾なのだった。

「――アーチャー」

「……案ずるな。肩が揺れている。まだ死んではいない」

 火花を飛び散らせながらセイバーは持ちこたえているが、打ち砕かれるのは時間の問題だった。ジリ貧などではない。決死だった。文字通り死が決まっている。バーサーカーの攻撃は避けなければならない。その正答に反し、踏みとどまる代償は直死だった。引き分けているわけでも、持ちこたえているわけではない。まだ、死んでいない。それだけのこと。

 橋。届くまで残り地を二蹴り。

 そこで、咆哮と共に振り下ろされた斧剣を受け止めたセイバーが、とうとう打ち払えずに硬直した。直後に、まるでボールみたく吹き飛んだ。カンとそれこそ物のような音を立てて鉄骨に埋まる。振りぬかれたバーサーカーの左拳が、血に濡れていた。

 怒りは、足にこめた。

 最後の一蹴り。身を縮め加速は弾丸のように。

「アーチャー離して――Vier Stil Erschiesung……!」

 腕を解いて凛が跳んだ。空中。ポケットから取り出した宝石が、呪文が風に乗るのを皮切りに、セイバーにトドメを刺そうと腕を振り上げるバーサーカーに殺到した。

 ダメージは皆無だった。魔力の風はバーサーカーの肉体に負け、霧散した。

 けれど、確かにそれで狂戦士の動きは束の間止まった。かすかな隙。弓。矢。イメージは、直進し弧を描きたゆたいながら波状する三つの白銀。

「アロゥ」

 放たれた矢の目的は、凛の魔石と同じようにダメージではなく足止めでしかないが、十分だった。一の矢は宝石の蒸気に紛れてバーサーカーに直撃し、二本目の矢は石畳を貫き通し、彼我の間に亀裂という少しばかりの猶予を作りあげる。

 ぼちゃんぼちゃんと、水に砕けた石が落ちる音に混じって、少女が嬉しそうにささやいた。

「あら、リン。尻尾を巻いて逃げちゃったから、まだ犬並みには賢いのかと思ったけど――うふふ、あなたのその出来損ないのアーチャーで挑むの?」

 凛も私も答えはしなかった。無駄な言動は死ぬ。無駄な呼吸も死ぬ。気を抜けば死ぬ。死は目前。主のセリフを遮らないために、ひととき殺意を押し留めているだけなのだから。

「くっ、あ」

 めり込んでいたセイバーが、背後で落ちた。声を出せるということは、消えずにまだ残っているということ。凛が一歩二歩と下がりセイバーの元に。そのさらに五歩後方に衛宮士郎。逆に前方、ワルツのステップを踏む少女までは三十歩。バーサーカーは、穿たれた亀裂を一つ挟んでいるだけだった。

 道は狭く、逃げ場がない。

 この一方通行の隘路はどこまでもバーサーカーに味方していた。スペースの狭さで逃げ場が失われているのが致命的過ぎた。左右に活路なく、後に退く他ない。しかし鋼鉄の突進の前では、セイバーほどの剣捌きがあったとしても精々数分持ちこたえることしかできない。衰弱している私に、あの斧剣の威力を和らげることなどもはや出来ない。ならば私は、私の仕事をするしかなかった。

 イメージする。怒号。振り下ろす斧剣がタイルを舞い散らせる。突進は弩級。こちらの魔力は不足。投影は間に合わず直撃を受ける――

 まともにやり合うことは、自害とそう変わらない。ならば答えは一つしかない。ふと笑いたくなる。それを押さえ込んで、私は糸を引きつつ言った。

「ふむ。まぁ、こんなざまでは出来損ない呼ばわりも仕方がないが」

「アーチャー」

 凛がレイラインを通してきく。私はただ肯定を伝えた。

「うん。どうしようもない出来損ないよね。その上わたしのバーサーカーは最強だもの」

「ほう。確かに強力だが、最強とはよくいう」

「間違いなく最強よ。そこにいるのは普通の英雄なんかとはわけが違う。神界を揺るがしたギリシャの大英雄なんだから」

 凛が息を飲み、一歩さらに後ずさりした。糸。

「――ヘラクレス」

「そう、あなたがどこの何かなんてどうでもいいの。純粋に格が違うのよ」

 赤い瞳は、当然のことだと、勝ちも真理も全て握っているという自信に輝いていた。

 ヘラクレスは神意を授かったギリシャの伝説。否、世界の伝説。

 彼女の言うとおり、そこに転がっている無様な男の成れの果てが、挑んで勝てると思うなど、私自身不遜であると思えてしまう。今度は、はっきりと笑いが出た。

「なにが、おかしいのよ」

「そうだな――なんでもないことだ」

「余裕ね。それとも、バーサーカーの力に毒されて頭が触れちゃった?」

「いや、そちらが毒されることはあっても私が毒されることなどありえない。笑えたのは、本当に私的なことだ」

「かわいそうに、リン。あれ、本当に頭がおかしくなっちゃったようよ」

「そうかしら? 何もわかってないのはあなたの方じゃないの? イリヤスフィール」

 中々いいハッタリだった。心地よいまでに度胸が据わっている。そのせいで私の笑いもさらに興が乗った。笑いつつも、糸にだけは、神経を張り詰めさせておく。

「ふーん。わからないけど、まぁいいわ。もうすぐ死ぬんだから」

「死ぬ? いやいや、されど私も英霊の端くれだ。ただの人に殺されることなどありえないよ」

 糸。切れるまで残り一呼吸。

「……なにをいってるの? さっきから」

「確かに私は傷つき、そこのヘラクレスに比べたら出来損ないだ。しかしこの場での論点は違う。そう、誰がサーヴァント同士で戦うと約束したのかね? 私は勝てる相手と戦うのだ。つまり――」

 さきほど放たれた矢は三本。

 炸裂したのは二本。

 数式は、見落とすほどに簡単だった。

「君だ」

 遅延信管糸切断――流星弾解放。

 初弾の爆煙に紛れ、真下に放たれたのちに糸で停止を強制された三つ目の白銀は、己の使命に回帰した。流星のように。橋の下をくぐりぬけ、矢は少女に向かって殺到する。サーヴァントにとっては牽制程度の技でも、とかく人間に対処できるシロモノではない。バーサーカーでは無傷でも、あの少女では跡形もなく吹き飛ぶだろう。

 バーサーカーが吼え声と共に後ろに跳んだ。巨体を無視した速さだった。身体のキャパシティは、それだけで一つの神秘を思わせた。怒涛のような脚力の末、巨人は主人の危機に間に合うが回避は叶わない。少女を抱え、自前の背中をそのまま盾として矢を受け止めた。

 隙としては、申し分ない。

「凛!」

 私の叫びに呪縛を取り外した凛は、セイバーと衛宮士郎を抱え上げて駆け出した。

 勝機など、おこがましくて言えはしない。この機会はあくまで逃走を許された類だ。

 つがえる。アロゥ三連。イメージはそのまま現実世界に投影され、三つは三つとも岩盤のような背中に吸い込まれる。これもまた、時間稼ぎでしかない。

「まだか」

「くっ、もうちょっと!」

 二人を担いでの逃走は遅々たる駆け足だ。凛は懸命に走ってはいるが、出口まで未だ半分も達していない。

 さらなる時間を。私は魔力を振り絞った。手の平に掴みきれないほどの矢の束を生み出す。その数三十。丸太のように束ね上げたそれを、打ち起こし引き分ける。

「この意が覆ることはなし――八連八章八朔六韓輪」

 八は左右に挟み撃ち。

 八は上下に噛み砕き。

 八は真っ直ぐ砲撃し。

 六は光輪合わさり捻れ飛ぶ。

 私のイメージがそぐわぬなど天地が揺るごうとありえない。離れはそのまま必中の意味だ。

 矢の駆動は風を巻き込んで、笛の音を鳴らして私のイメージをそのままなぞらえる。ことごとくがバーサーカーの背中に直撃し、覆いかぶさるような閃光が橋の一角を埋め尽くした。

 城壁さえ根こそぎ砂埃に変えてしまう矢の嵐。されど狂戦士にどれほど効き目があるのか。恐らく、傷一つすらつけることは敵わなかっただろう。

 煙が晴れる、その前。最大の咆哮が夜に木霊した。主を襲った敵を断罪せしめんとする、バーサーカーの迸った殺意の声だ。

 魔力はこのあとの剣製を考えればもう余剰はない。そんな最後のタイミングで、凛の声が届いた。

「いま――抜けた!」

「よし」

 とはいえ残存魔力が剣製に間に合うか。素材構成を一部簡略化し、精製工程を二段階飛び越えた。

 骨子は捩れる。骨子は狂う。矛盾を包括したカラドボルグはワンランク、グレードを落としつつもこの手に重みを覚えさせた。

 鉄柵を踏み台に、上空へ高々と跳躍した。橋の構造は中央上に車道があり、左右一階下に歩道がある。つがえて、狙うは橋中央の鉄骨が弧を描いている頂点。繋がりを断絶させた後に鉄板を貫き、爆風にて柱をへし折る。

「偽・螺旋剣」

 貫通力最大。鉄筋も石畳も紙細工のように蹴散らしながら渦巻く矢は着弾した。崩壊は火柱と水柱をうち立て、爆風は絶え間なく鉄と鉄と石と石を壊し尽くし、橋は赤く燃えさかり瓦解していく。コンクリートで組み合わされた、未遠川の巨大な渡しは、二度と戻らぬ屑鉄と石くれになって川の底へと消え去っていく。

 着弾直後の橋上に、バーサーカーとイリヤスフィールの姿はなかった。崩落に巻き込まれた、と考えるのは楽観に過ぎる。あくまで、橋は逃走するためだけに落としたのである。

 兎も角、命は果たした。私は赤い外套を翻し、凛の元へと走った。

 

 新都中心部を少し南に下がった辺りのショッピングモール。そこからワンブロック入り込んだ路地裏。

 二人を抱えているにも関わらず、私が彼女の元へと戻った距離は相当なものだった。そこに到着して最初に目にしたのは、顔を真っ赤にして、息を上げている凛の変な顔だった。額の汗はだらだらと首筋にまで垂れているその格好に、私は顔をしかめた。

「バーサーカーからは逃れたとはいえ、なんとも、見苦しいぞ凛」

「ああ、もう……今は、話せない」

 アスファルトの上に座り込んだまま、口を開くのも億劫のようで、深呼吸を繰り返してまともに戻るまで、結構待ったような気がする。

「ああ……ほんっと疲れたんだから……風の属性を付与したからって、人間二人抱えて全力疾走だなんて、金輪際ゴメンだわ」

「落ち着いたかね」

「ええ――さて、傷の手当て手伝って頂戴。わたしがセイバー、あなたは衛宮くん。結構血を流しているから急がないと」

「む」

「あら、もしかしてセイバーの方がいいの? 変わってあげましょうか? うふふ」

「マスター、楽には死ねんぞ」

 いいながら、鎧と衣服を剥がされていくセイバーから顔を背け、私は衛宮士郎の手当てに入った。

 服を裂いた。傷口は深く胴体の奥まで届いていて、まともな治療が必要に思われたが、それにしては出血が少ない。手をかざすと、はっきりと異物の感触があった。鞘は、ここに脈動していた。

 聖骸布の一部を千切って傷口に当てた。破いたシャツをそのままぐるりと包帯代わりに巻いて、止血のためにかなり力を入れて縛った。それで一応の治療は終わった。聖者の骸を包んだ布は、あるだけで死を遠ざけさらに魔力の透りを清純にする。同じく聖なる属性を持つ鞘の活動も、さらに強まるはずだった。

 私が、衛宮士郎の命を助けているという事実に、湧いて出てくる感慨は後を絶たなかった。

 過去、殺し尽くした時代に思いを馳せてみる。命を取捨選択する権利など誰にもないはずなのに、どちらかを選ばねばならない袋小路に立った私は、歴史にそぐわなかったマイノリティというそれだけで、男も女も老いも子供も目が見えぬ耳が聞こえぬ隔たりなく、斬った。

 その元凶への憎悪だけで存在をつないでいた私が、一度見逃しただけでなく今また傷ついた身を治療までしている。一突きすればそれで終わるというのに、私は、なぜ。

「アーチャー、終わった? 包帯が足りないならこっちに布が残ってるけど」

「……いや、終わっている。水を汲んでこよう」

 考えるまでもない。この、少女のためだ。

 路地裏から街の中へ。夜の静寂はどこへ行ったのか、あたりはパトカーと救急車のサイレンと、燃え上がる大橋の断末魔に色めき立つ人々の気配で、まるで戦争のように騒がしい。テロだの、過激派だのと周りから聞こえてくる的外れな声。犠牲を問う声。愚痴。さらには上空を飛び交うヘリコプターのプロペラ音。それらを拾いながら、私は雑踏の合間を縫ってバケツ一杯の水をどうにか手に入れた。

「深夜だっていうのに、かなりの騒ぎになってるようね」

 バケツを手渡すと、凛は布を浸してぐいとねじり上げながら言う。

「ああ、こうなればイリヤスフィールも迂闊には動けまい」

「どうあれ、今日はここでホームレスね。万が一が二度も起こったんだもの、油断はならないし。重傷者二人背負って川を飛び越える真似もこの騒ぎじゃ出来そうもない。ほとぼりが冷めるまで、少なくとも明朝までは路地裏生活者を気取りましょう」

「ところで凛、私の状態だが」

「ストップ。この場でそんな話をする気?」

 服を剥いで、少女の身体についた血糊を丁寧に拭い落としていく。そこでようやく、私はセイバーが気を取り戻していることに気付いた。

「気がついたか」

「つい先ほど」

 躊躇いなく衣服を纏わないままのセイバーから目を逸らした。腕の白さが、少し目に付いてしまった。傷口はなさそうだが、中身のほうは想像以上に損傷を受けているだろう。

「助力を頂いたようだ。シロウも私もそのお陰で生きている。かたじけない」

「マスターの意向だ。私にとっては何ほどのことでもない」

「恩に着ます。この借りはいずれ返すと、我が剣と真名に誓いましょう」

「覚えておこう」

「ほらほら、もうそんな武者っぽい話は終わって、今は身体を休めなさい」

 寝ろという凛。シロウが気になるというセイバー。

 しばらくあーだこーだと言い合い、明日までは敵ではない、衛宮士郎は助ける、危害を加えるようなら助けない等々が聞こえた。その上で、霊体に戻れないというのなら睡眠を取るのがベストの方法だとダメ押しをすると、渋々とはいえ観念したのか、セイバーは再び眠りに落ちた。

 そこでようやく、静けさが戻った。外の喧騒はまだ消えはしないが、路地裏までくるとそれも大分殺されている。

 凛ははぁとため息を吐きながら言った。

「どうした、何か気になることでもあるのか」

「うーん、あんだけ派手にやらかしたから、多分他のサーヴァントなりマスターなりに捕捉されただろう、って。まぁ手間が三つか四つは省けたんだからそんなに落ち込むこともないんだけど」

「ああ、それに収穫がなかったわけではない」

「ふん、例えば?」

「学校というのは、戦争並みに橋が陥落させられても問題なく運行される場所ではないだろう」

「ああ、そっか。明日は学校休みね、ってそれのどこが収穫なのよ」

「……本気で言ってるのか? 張り巡らされた結界」

「あ」

「まぁいい。君も疲れているのだろう、セイバーへ向けた言葉は自分にも当てはまるのだぞ」

「……うん、衛宮くんの身体を拭き終わったら、私も寝るわ」

 セイバーのはだけた服をつくろうと、体をずらして次は衛宮士郎の腕に布をあてがった。

 凛が衛宮士郎の身体を手当てする。それだけのことで、妙な違和感がまた顔を出す。どうにも居づらい気持ちになり、そのまま霊体化しようと考えたときに、躊躇いがちに凛が口を開いた。

「感謝してるわ。命令は、確かに無謀で理不尽だったけど、あなたは何とかしてくれた」

 こちらを見ずに、没頭するように衛宮士郎の腕の血を拭う。それは献身というより、どこか悔しくて八つ当たりをするような仕草に見えた。

「礼を言われるほどのことではない。万全でなくても何とかなる片手間の用事だったよ、あれは。結果はどうあれ、戦闘自体にはメリットはなかったが」

「違う。メリットはあった」

 手が止まった。振り向いて、彼女にしては不自然なほどに自然な笑みを浮かべて、言う。

「わたしが、貴方の力を信頼できるようになったってこと――わたしたち、いいタッグだと思った」

 だからありがとう。そういって、また笑う。

 私は、妙に気恥ずかしい心持ちに襲われて、あさってのほうを向いた。

「……言ったはずだ、私たちは最強だと。それを証明するのに何の問題がある」

「あれ? 顔が赤いわよ。あれれれ、もしかして照れてるー?」

「む」

 手を口に当て、何がそんなに嬉しいのか、くししーとやけに癇に障る笑い。

 ふんと、私は鼻で笑って言い返した。

「ああ、そういえば凛。今日君を抱えてみてわかったんだが、君は心の贅肉とやらは十分蓄えているのに、如何せん身体の肉付きは少々不足気味だと思う。特に胸」

「――へ?」

「どう見ても平均を下回っていたぞ、あのさわり心地は。せめて人並みにはなってほしいものだ。図星か、なるほど自覚はあるようだ」

「あ、ちゃ、ちょっ」

「ふむ。なんだ気にしていたのか。それはすまないマスター。だが事実なのでどうしようもないな。まぁいい、そろそろ私は霊体に戻る。どうにも魔力が枯渇気味でね、しばらく実体化は控えるよ」

「ちょっと、待ちなさいっ! あんたっ! ぶっ飛ばす!」

 中々小気味がよい。思う存分笑って、彼女の振り上げた拳を避ける意味も含めて、私は霊体へと戻った。


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