0.「悪い子じゃないもの。」
学校なんてろくなもんじゃない。
十一歳になる年の、夏の前にあたしはようやく、そのことに気づいた。
誰もいない家に帰ってくることにはとっくの昔に慣れてしまっていて、あたしは玄関を無造作に開けてまた鍵をしめて、靴を脱ぎ散らかしては自分の部屋まで一直線に歩く。ドンドンドン、と感情に任せて床を踏み鳴らすけどそれを咎めるひとは誰もいない。
いらだちは募るばかりだった。部屋の扉を蹴破るように開けて、床にランドセルを叩きつける。衝撃で中のものが出てきて、その様にまたいらいらが募った。舌打ちしたり、うーうーと唸ったり、地団駄を踏んだり色々やって、それから虚しくなってベッドに倒れこむ。枕に顔を押し付けたら、不思議と涙がこぼれてきた。
目をつぶるといろんなことを思い出してしまう。
たとえば女子たちの視線。くろぐろとして澱んだ半目。悪意とも無関心とも取れる醜い色。あいつらはあたしを悪者にしたかったのだ。わかってる。あいつら、いつか殺してやる! 女子ってこわいよな、とかコソコソ話してた男子たちも、最初っからあたしが悪いって決めてかかってたクソ教師も!!
ああ……もうなにもかもいやになってしまう。
学校があたしにとって、いいところであった記憶なんて一度もない。あたしは他の子と同じようにができなくて、周囲に馴染むことができなくて、友達がいたこともなくて、ひとりでぽつんと、教室の隅にいるような子供だった。だけどあたしは、それが自分のせいだなんて思ったことはなかった。あたしが馴染めないのは、他の子たちがあまりに子供っぽすぎるからなのだとずっと思っていた。ばっかみたいにキャアキャアぎゃあぎゃあ騒いで、そんな低能な連中と、どうやったって折り合いはつかないと思っていたのだ。
だから、ほんとうは今日、ああやってさらし者にされて、それでもあたしは、あいつらを返り討ちにできると思っていた。口で言い負かせて、それだけの知能があたしにはあると信じて疑っていなかった。
だけど実際、あのときあたしは脂汗をにじませて、口はぱくぱくと水槽の中の金魚のように、空気を吐き出すばかりで言葉が紡げずにいた。頭がまっしろだった。みんなの視線があたしを射抜く。冷たい瞳たち。しんどい、と思った。心が底から冷えていって、涙が出そうになった。
なにも……なにも言えなかったのよ。それだけ、自分を信じていたけども、どうにもならなかった。あたしはあたしが自分よりも劣っていると思っていたにんげんたちに負けたのだ。
目からこぼれてくる涙は、悔し涙なのだと思う。友達がいないことなんて、全然どうだって思ってない。みんなから嫌われてることも、あたしのほうがあいつらのことを嫌ってるんだから、ぜんぜん今更。それよりも、あたしはあんなめに合わされて、それで負けてしまった自分自身の不甲斐なさに、あたしはひどいショックを受けたのだ。
ずんずん沈んでいく心に比例して、あたしは枕に頭を押し付けるように、涙をそれで拭う。疲れきった思考のなかで、明日からどんな顔をして学校に行けばいいのだろうと、ぼんやり考えた。
* *
意識が浮上したとき、灰色がかった風景を目にした。あたしは視界と同じくぼんやりとした意識の中、なんとなくこれが夢だなと感じた。森のように、やせ細った木が建物の周囲を覆うように生えている。夢の中だから、感覚はないはずだ。だけどあたしは不思議とここを、寒い場所だと思った。
これが夢だと感じたのは、不明瞭な視界や、不思議な雰囲気を感じ取っただけではない。あたしはあたしという意識がぼんやりあるのに、体はあたしの自由には動いていなからだ。意識の向こう側で勝手に体が動いている、という感覚。夢を見るとき、度々ある現象だった。
夢の中であたしはどうやら、きゅうくつでかしこまった服を着ているみたいだった。スーツだ、灰色の。ネクタイらしいものはしていない。ワイシャツは一番上のボタンを開けている。パンツスタイルではなくスカートで、肌色のストッキングに少しだけ高いヒールの靴は、この寂れた空間にあっていないように思えた。
(ここはどこなんだろう……)
考えるあたしをおいて、あたしの体は目の前の寂れた建物に足を運んでいた。かつかつかつ、と真っ直ぐに。石造りの大きな、それでも学校かと思うと小さい建物は日本の建物とは違う雰囲気を醸し出していた。
からんからん、とあたしの体が建物のベルを鳴らす。建物の奥からとんとんとん、という足音がして扉が開かれた。
「こんにちは、連絡していたフジワラと申しますが」
「ああ! ああ、はい、どうも。わたしはコールと申します。ここの院長をやっております」
とにかく上がってくださいな、とコールという女性はあたしを建物の中に招き入れた。入ったとたん、それまで寂しい風景だったのが嘘のように、子供たちの声が耳に入る。でもあたしの体はそんなの気にもとめないみたいに、コールさんのあとをついていく。
事務室だという場所に通されて、あたしはコールさんが出したお茶を飲みながら、コールさんと話をした。
「里親希望ということでしたが……」
コールさんはあたしが出した書類を見せて、なにやら訝しげに目を細めた。里親、というぐらいだからここは孤児院なのだろうか。あたしはまだ年齢のうちでは小学生で、養われる立場なのにここの子供を引き取るなんて、おかしな夢だと思った。怪しまれて当然だと思ったのに、視界がぼんやり揺らいだのち、コールさんはあたしを連れて事務室から出ていった。夢だからそんなものなのだろう。
コールさんが連れていった先は食堂だった。あたしは扉の窓ごしに中を見る。ちょうどごはんどきらしい。銀の盆に乗せられた、けして裕福ではないが、それでも粗末というほどでもないまずまずの料理をみやって、確かにここは日本ではないのだな、と今更なことを考えた。
ふと。そのとき。
あたしはなにかを見つけたみたいだった。
ごはんを前に、ぎゃあぎゃあわいわい騒ぐ男の子や、ぺちゃくちゃおしゃべりに興じる女の子たち、そのテーブルの、少し中央から外れて、端っこのほうで、静かにスプーンを口へ運ぶ少年。
あたしは「あ、」と声を出していた。それがあたしが出している声なのか、それとも体を動かしているあたしが上げている声なのかはわからなかった。
ただ、心の底から、頭の奥から、「見つけた」という感情が、もくもくと湧いてきたのは確かだった。
「あの子……」
「はあ? ええと……」
コールさんはあたしの指す少年を見て眉を顰める。「トムですか?」
トム、と呼ばれた少年を、あたしは注視した。美しい少年だった。白い肌は青みがかって、どこか病的な色に見える。大きな瞳も、それを縁取るまつげも、少年特有の中性的な美しさを醸し出していた。薄い色の唇から除く赤い舌がきれいなコントラストで映えていて、教室のどこにだって、こんなに美しい存在はいないだろうと思えた。
「あれはトム、トム・リドルというんですが……確かに他の子に比べりゃあ、見目もいいし大人しいけど、それだけ厄介な子なんですよ」
「ええ、ええ。」
あたしはコールさんの言葉が耳に入っているのかいないのか、わからないほど力強くなんども頷いた。
「大丈夫、悪い子じゃないもの。大丈夫よ」
それからまた視界が歪んだ。萎んでいく景色のなかで、あたしは俯瞰的にあたしの体を見た。大人の女性がそこにいたが、それよりもあたしがどこか悲しげに、懐かしげに、扉の窓ごしに少年を見つめる、不思議な瞳の色を、あたしは見つめていた。
「はじめまして、トム。今日からあなたの親代わりになることになった、トオルよ。トオル・フジワラ。よろしくね」
あたしの目の前には、あのときの少年がいた。前にみたよりも、きれいな服を着せて貰えて、でもしかめつらというのか、無表情は変わらなかった。光の角度で赤く見える不思議な瞳は、あたしのことを訝しげに見上げていた。
「親代わり?」
「そう。所詮はホンモノにはなれないもの」
突き放したことを言うのだな、と他人事のように考える。だが少年はそうは思わなかったらしい。どこか含んだ笑みを浮かべて、「へえ」と言った。
「あなたはぼくを引き取って、なにをするの。親代わりなんて言って」
「なにを? 普通のことよ。いっしょに食事をして、いっしょに本を読んで、いっしょに時間を過ごす。買い物に出かけてもいいし、あなたが行きたい場所へ出かけてもいい」
「……そんなの、あの孤児院でも他人といっぱいやったさ」
冷たい目だ、とあたしは思った。だけど『あたし』はにっこり笑って、「それがね、そうでもないのよ」と言う。少年もあたしも、同じように首を傾げた(いや、あたしはできなかったけど)。
それから視界がゆがんで、場面が移り変わる頻度が多くなった。都市郊外のアパートの一室で、あたしと少年は一緒に暮らした。朝はあたしが作る、卵料理が一品とトーストが二枚、それにスープ(ちなみにインスタント)。午前中はそれから、部屋の掃除をしたり家事をしたり、少年はリビングのソファで本を読んでいた。お昼は少年が作ることになっていて、あたしはそれを背後から見て、手伝ったりもした。午後は買い物にいったり、少年の読みたいという本を買い与えたりもした。猫を飼い始めてからは昼下がりに、リビングの陽のあたる場所で日向ぼっこをすることも多かった。夜はあたしが作る日本食だった。
「トオル、このコメびちゃびちゃ! 食わせるんだったらちゃんとつくって!!」
「炊飯器の水量のとこが掠れてわかんないんだよ~ごめんて」
「信じらんないなぁもう! そんなんでよく里親になれたな!」
ハシが慣れないのだろうスプーンでお米を食べる少年の姿が、大人びている普段のよりもずっと自然体に見えて、あたしは笑う。これはほんとうに、あたしも、それからあたしの体を動かしているあたしも、はじめて行動が一致したことで、なんだかすっかりこの夢に慣れてしまったなあと思った。
また視界が歪む。
怒り狂った女性と、その女性に手を握られて、無愛想な顔をしている男の子がいた。男の子のほおには引っかき傷や叩かれたようなあとが残っていた。女性は男の子の母親だろう、彼女は怒鳴り散らして、それから帰っていった。
あたしもなんとなくどういうことなのかわかって、女性に向かって頭を下げ続けていたあたしは女性の姿が見えなくなると、そっと踵を返して部屋の中に戻る。
「トム」
少年の名を呼ぶ。電気のついていない部屋からは、少年の気配がしない。「トム、」
あたしは慌てた様子でもなく、寝室へ向かう。飼い猫がクローゼットの前で座っているのを見つけて、ああ、と思った。あたしは「あはは」と笑って、猫を抱き抱える。
「見つけた」
クローゼットを開けると、そこにはトムがいた。三角座りで、身を縮めて、顔を膝に埋めている。だけどきっと、泣いてはいないのだろうなとあたしは思った。この子は強い子だから。
「……怒らないの?」
少年が、顔を膝に埋めたままあたしに問いかける。かすれたような小さな声だった。あたしは言った。
「確かにね、きみが悪い。だけど怒らないよ。ともだちを叩いて、あなたを怒るのはあなたの親の役目だから」
「あんなのともだちじゃない」
少年は鋭い声をあげる。「それに、ぼくに親はいない」
「そうだね」
「そうだよ、だからあんたがいるんだろう。トオル」
そのとき少年が顔をあげた。赤い瞳がらんらんと輝いて、あたしをじっと見つめていた。なにかに縋るような目だった。はじめてそのとき少年は、迷子になったような、そんな子供独特の弱さをあたしの前に見せたのだ。
彼はもしかして、あたしに叱って欲しかったのかもしれない。他人に暴力をふるった自分を、親代わりであるあたしに。そうすることで、どこにでもいるような普通の親子になりたかったのだろう。
あたしはそうするべきだと思った。彼が心底哀れだったからだ。だけど『あたし』はそれをしなかった。ただ少年のことを、そっと抱きしめた。
「親代わりには、きみを叱れないよ。トム」
「……なんで」
「しょせんはきみの親じゃないからさ。最初にいっただろう」
「じゃあなんで抱きしめるんだよ」
やめてくれ、と少年は細い腕であたしを突き飛ばそうとした。だけどあたしも一応大人だから、そんなのびくともしない。それよりもずっと、少年を抱きしめる腕の力を強くして、少年に言うのだ。
「わたしがそうしたいからだよ」
そのとき、少年がはじめて涙を零した。どうして泣いてるの、とあたしが尋ねると、少年はわかんない、と返す。こんなのはじめてだ、とも言った。あたしは少年を抱きしめる力を少し緩めて、彼の顔を見た。赤い瞳が少しだけ黒に戻り、そこからぼろぼろと涙がこぼれ落ちている。呆然としたような少年の顔を眺めて、あたしは言った。
「きっとね、ようやく気づいたんだよ。わたしに叱ってほしいと思ったことが、きみがわたしにきみの母親であって欲しいと感じているってことに。そして、きみと同じ年頃のこどもはみんな、こうして親に叱られて、それから抱きしめられて、そんな当たり前の光景を、もう何回も繰り返してるんだって、そんな違いにはじめて気づいたんだ。そして思ったんだよ、「寂しい」って……。そういう感情を……人間らしい感情を、きみは、トムははじめて……」
「……」
「トム、それを悔しいって思ったなら、不幸に身を置いちゃだめだよ。幸せになりなさい。いい人になりなさい、」
「いいひと……」
「いいひと。そう、だってそうなったあなたはずっと、ずっと楽しそうだったから」
また視界が歪んだ。
あたしはあたしの姿を、再び俯瞰的に見つめていた。
あたしは道路に倒れていた。少しへこんだシルバーの車の前で。あたしの体を中心に、血だまりが広がっていく。
痛みはなかった。そもそも、あたし自身があそこにいなかった。
あたしの胸の中で、小さな毛玉が覗く。飼っていた猫の姿だった。彼を庇って轢かれたのだろうか。黒い毛玉のそれも、あたしと同じように動かなかった。死んでいたのだ。あたしは彼を救えなかった。
あたしはふとあたりを見た。
そしてそこで、立ち尽くして動かない少年の姿を見つけた。
―――ああ!!
あたしは思わず少年のほうに近寄る。だけど少年はあたしのことをわかっていないようで、あたしが血を流して死んでいるのを、呆然と見つめていた。
「どうして! どうしてトオル! あんたがここで死んだら少年は、トムは! トムはどうするのよ! あのこかわいそうだよ!! ねえ!!! ねえったら!!!!」
雑踏が、少年も、あたしもおいて、死んだあたしの死体を囲んだ。ざわざわといろんなひとの声がする。うるさい! やめて、トムの声が聞こえない! かわいそうな少年の、あの子が!
「やめてえぇええ!!!!!!」
ぐい、と意識が引っ張られる。あたしはもうわんわん泣きじゃくりながら、少年のほうへ、手を伸ばした。空を切ると知っていても、彼に触れて、彼を抱きしめずにはいられなかった。
「――――トム!!!」
最後に少年が―――あたしのほうを見た。目を見開いている。あの赤い目があたしを見ている!
あたしは叫んだ。声の限り。でももう声がうまく出せない。かすれそうなって、潰れたような声で、それでもあたしは叫ぶ。彼に伝えなくては。彼を置いてはいけない。だから―――、だから!
「トム、あたし、あたしきっと、あなたを幸せにするから!! もう一回戻ってくるわ!! トム、だからそれまでどうか、」
―――ぷつん、と意識が途絶えた。
* *
壮大な夢を見ていたような気がした。目が覚めれば朝の四時で、風呂にも入らず夕飯も食べず、あのまま眠っていたことに気づく。べっとりとかいた汗に顔をしかめて、あたしは身を起こした。
「……どんな夢だったっけ」
不思議とそれが思い出せない。けれどあたしはなんだか、誰かをどこかへ置いてきてしまったような、そんななんとも言えない、焦燥感にも似た気持ちを味わったのだった。