1.「やっと見つけた」
中学生になって、四月もすぎてあっという間に五月になり、それももう終わろうとしていた。あたしは相変わらず周囲からは浮いていて、友達もいなかった。それを気にすることはないけれど、今でもたまに、小学五年生の夏の前のことを思い出しては憂鬱になる。
けれど同時に、あの憂鬱げだった日に、不思議な、とても長い夢を見ていたという記憶もあるのだ。
その記憶に思いを馳せるたび、どこかに誰かを、おいてきてはいけない誰かをおいていってしまったような気がする。それを思い出すたびに、心臓が早鐘を打つ。焦燥感があたしを襲う。はやくどこかへ帰らなくてはいけないような、不思議な感覚。でもいったいどこへ帰れと言うのだろう……。
……帰る場所なんてどこにもないというのに。
誰もいない家に辿りつく。黒色の、指定のスクールカバンから鍵を取り出して玄関の扉を開けた。電気の点かない廊下をじっと見つめて、ため息を零す。
あたしに母親はいなくて、ずっと父親と二人暮らしだった。その父親も、仕事で忙しくて、家には中々居着かない。あたしが寝る頃に帰ってきて、あたしが起きたころにはもう家にいない。あたしを養うためだってわかってるけれど、ときどきやり切れなくなる。もうずっと父とまともに顔を合わせていないのだ。
それ以上にやり切れなくなるのは、あたしがこんな性格なのは、周囲と馴染めないのは、みんなと同じができないのは、……母親がいないからだと、そう思われることだ。担任の顔にも、よく書いてあった。片親だから。そうして説教をやめて、大きくため息をつくのだ。お父さんに連絡しておくから、いつなら大丈夫なの、と聞かれて、仕事だからずっと家にはいないといえばまたため息をつく。
―――あたしがダメな理由を、他人に押し付けんじゃねえよ!
自室の部屋の扉を開ける。もう癇癪で物を投げつけるような年でもない。カーペットの敷いてある床にスクールカバンを置いて、制服を脱ぐ。動きやすい部屋着に着替えてからベッドに倒れ込んだ。いやなことがあるとすぐ寝っ転がるのは昔から変わってない癖だった。
リビングに行けば、夕飯代が置いてあるだろう。あたしが小学校を卒業したとたんに、父は夕食を作ることをやめた。もうあたしが外でひとりでごはんを買ってこれる年齢になったからだ。あたしもそれが合理的だと思う。食べない日もあるし、作るだけ無駄なのだ……。
カバンの中に入れっぱなしの課題のプリントの存在を思い出して、あたしは「あ」と声を出す。それを片付けてしまおうと思ったけれど、一度ふとんに寝かせた体は重くて、天井を見つめているといつのまにか瞼が落ちていた。
* *
「あれっ」
ぱちり、と目を覚ます。視界にうつったのは、やけに広くて、それから高い天井……?
それからあたしはすぐに目が覚めてしまった。だって、ここ、あたしの部屋じゃない。ぜんぜん知らない場所なんだもの。
起き上がって周囲を見渡した。あたしのベッドのスプリングはこんなに固くないし、清潔感のある白いシーツでもない。夏前だからブランケット一枚だけだ。服は寝る前と同じだった。部屋着にしてるスウェットにTシャツ。でもベッドの四方はまるで、学校の保健室のように白いカーテンで覆われていた。
学校の保健室?
あたしはベッドから降りる。あたしのものなのかわからない革靴がベッドの脇にそっと置いてあった。やけにホコリがかぶってたような気がするけど、いいや気にしない。そっとカーテンの隙間から外を覗いた。
やっぱりここは保健室のようだった。けれどあたしの学校のではない。あそこはもっと全体的に白いし、やっぱりこじんまりとしてる。でもここは、壁は石造りだし、空間も広い。学校の保健室にベッドは三台ぐらいが限度だと思うけど、ここにはその倍以上は置いてある。
ひとの声に視線を移す。「―――ジニー・ウィーズリーが見つかったとは本当ですか! ベッドを開けなくては……」女の人が……エプロンドレスを着た外国人の女の人が、また女の人と話している。片方の女の人はエメラルド色のドレスを着ていた。時代錯誤もいいところだな、とあたしはぼんやり思った。
女の人たちがどこかへ消えたのを見計らって、あたしもベッドから出る。ここはどこなのか、考えなくてはと思ったのだ。でもそれ以上に、もしかしたらいつもの夢かもしれないとも思っていた。だから不思議と取り乱すこともなく、あたしはこっそり室内から出る。
外はもっとおかしなところだった。石造りの壁は長く、ずっと続いている。大きくて高い天井に、照明は壁にかかったロウソクや、天井から吊り下げられたシャンデリラ。壁にはたくさんの絵画が並んでいて、まるで西洋のお城みたいだとぼんやり考えた。
『生徒がこんなところでなにをしている? 今はみな寮で待機してろと先生に言われただろう?』
「わっ!」
絵画が喋った!
あたしの真横にあった、シワの深いおじいさんの絵が動き、喋ったのだ。あたしは声をあげておののき、一歩二歩と後ずさる。
『なあに? 騒がしい声』
『おや、生徒がいるぞ』
『フィルチが飛んでくる前に逃げたほうがいい』
呼応するように、次々と壁にかかった絵画たちがしゃべりだす。その、圧倒的な質量! いろんな絵画たちがあたしを見つめる。異常、異常、異常! なにこれ! 夢にしてももっとあるでしょう!
あたしは走り出した。その場から逃げたかったのだ。でもどこへ行っても絵画たちはいる。あたしが走れば走るほど、彼らはあたしを見ては口々に囁く。『生徒は寮へ戻りなさい! いまやホグワーツはどこにいっても危険なのだから』
ホグワーツ? どこかで聞いたような名前……。でもどこだっけ? いや、そんなのはどうでもいい。こいつらがいないところに逃げないと!
なにかに導かれるようにあたしは走った。石畳の廊下はごつごつとしてて走りにくい。床の材質が大理石に変わるあたりで、あたしは随分と遠くまで走ったことに気づいた。左足の小指が、履き慣れない革靴に靴ズレを起こしている。皮がむけて、血が出ているだろうか。鈍く痛む小指に顔をしかめる。
どこまで走ってきたのだろうと周囲をみる。ふと目の前に、『女子トイレ』と札がかかった扉を見つけた。ほんとうに学校みたいな施設だなと思う。別に用もないので、はやくここから立ち去って、夢から覚めようと思ったそのとき。あたしはその扉の前に、ぽつんと捨て置かれた革張りの手帳を見つけた。
「なにこれ、ボロボロ……」
拾い上げてあたしはその手帳がぐっちょり濡れていることに気づく。それに、表紙になにか刺したようなあともあった。
どうしてこんなことを、とあたしは思う。いじめだろうか。じゃなきゃこんなふうにはならないだろう。どういう意図があったにせよ、これは人的被害だ。
ここが学校なら、教師らしいひとに届けたほうがいいだろうかと、あたしは夢の中なのに真面目くさって思う。なんとなくこういうのは見過ごせなかった。自分がよく標的にされやすいからだろうか。他人事とは思えないのだ。
はやく誰かひとを探そうと思って顔をあげたそのとき。いつのまにか目の前にひとりの少年が立っていた。あたしよりも背が高くて、黒髪でとってもかっこいいひと。灰色のセーターに黒いローブ、スラックスを履いた、一見普通の学生のようで、どこかおかしな服装の……。首元の緑地に銀のラインが入ったネクタイがいやに目につく。少年はあたしをじっと見下ろしていた。
「あの、」
あたしはかれがこの手帳の持ち主だろうかと思った。それにしては、イメージと違ったのだけれど。整った顔立ちはあんまりいじめられるようなタイプには思えないし、いじめの対象になりやすい靴なんかは傷ひとつないきれいなものだった。どっちかといえば、みんなに囲まれて、いじめを扇動する側……。
「やっと見つけた」
少年は無表情のまま呟く。やはりこの手帳の持ち主で間違いないのだろう。あたしは彼に手帳をそっと差し出した。だけど彼はそれに目もくれず、なんといきなりあたしの肩を両手で強く掴んだ。
「トオル! やっと、やっと見つけた!」