少年に掴まれた肩がきしきしと痛む。このときあたしは、なんで夢の中なのに痛みを感じるんだろうとぼんやり考えていた。そういえば、靴ズレをした左足の小指……。ああ、もう、どうなっているの?
腕を振り払って、逃げればよかったんだと思う。だけど不思議とあたしは少年の前から立ち去ろうという気になれなかった。異性に名前で呼ばれたの、はじめてだったんだ。それなのに、不思議と懐かしい感じがした。ずっと自分のことを、そう呼んでいた男の子をあたしは、知っていた気がしたのだ。
「思い出せないのか? お前! 自分から戻ってくるとか言っといて口だけなんだな」
「戻って……」
―――トム、あたし、あたしきっと、あなたを幸せにするから!! もう一回戻ってくるわ!! トム、だからそれまでどうか、
ぼんやり頭に浮かぶ風景。あたしを見ている赤い瞳の少年。ひとりぼっちで立ち尽くす……、
「まさか、あんた……トム?」
あたしの中で、なにかが弾ける。少年が不安げな顔を一転して、それからほっと笑った。そしてあたしの頬を両手で思い切り抓ったのだ。
* *
君の中では夢だったけど、とトムは前置きをそうした。今でも夢だと思ってるよというあたしの発言は無視である。あたしは未だヒリヒリする頬に顔を顰めながらトムに向き直る。
トムは、あたしが夢の中で引き取ったあの九歳の姿からだいぶ成長したらしい。大人びた視線も仕草も、表情も、なにもかもがあの頃と違った。でもトムは、トムだという。
「あのあとぼくは元いた孤児院に連れ戻された。きみとの生活に希望を見出していたぼくには、とてつもない苦行だった。鳴りを潜めていた盗み癖も再発したぐらいだし……。そしてホグワーツからダンブルドアがやってきた」
「ホグワーツ?」
あたしの言葉に、トムが「それはあとで説明するよ」と制す。あたしは仕方なく引き下がるけれど……でもホグワーツって、物語の中の学校のことでしょう?
ハリーポッターというシリーズの中に出てくる魔法学校。それがホグワーツ、そのはずだ。あたしは五巻まで読んだだけだけど、それにしてもその名前はあまりにも有名すぎだ。
「きみがいない時間、ぼくには苦痛すぎた」
「……寂しかったの?」
「バッカじゃないの、そんなわけないだろ。愛だのなんだのを恋しがる年でもなかった。そうじゃない、きみが最期に余計なことを言ってくれたおかげでだな」
「トム口悪くない?」
あたしの言葉を無視してトムは続ける。最期に残した言葉とか言われても、とくにピンとはこない。トムのことを思い出したというのも断片的で、そういやそんな夢見たな~ぐらいのものだ。そんな昔の夢の続きをまた見るなんて器用だなとか思ってるぐらいだし。
「『いいひとになって』」
「……そんなこと言ったっけ」
「言ったとも。ぼくはその言葉にずっと苦しめられてきたんだから」
ぼくは生まれつき自己顕示欲が強かった。トムはそう語りだす。それが彼をずっと苦しめてきたのだという。
トムはホグワーツに通うことになった。ホグワーツでは四つの寮に別れる。そう、確かそういう設定だった。本の中と寸分違わない設定にあたしは眉をしかめたけど、トムはそんなの気にもとめずに話を続ける。トムが入ったのはスリザリンだった。生まれによる選民思想が渦巻く魔法界の縮図。トムはそこで生き残るために『いいひと』をやめた。
「そうすればそうするほど、ぼくの心は壊れていくようだった。きみと暮らしたあのあたたかい日々を、思い出すらも消えてしまうようだった。それは裏切りに等しかったんだ。だってぼくは心のそことでは信じていたんだ……『いいひと』でいればきみが迎えに来てくれるって……」
でもそれではダメだった。
だからトムは日記を作った。そしてそこに、あたしとの生活を、その思い出をすべて書き記した。彼の良心を、『いいひと』になりたいという気持ちをすべてそこに残して、彼は心を閉ざしたのだという。
「ぼくは、トム・リドルの良心だ。日記に託された、きみとの思い出」
「思い出……」
「でもそれじゃあいけなかった! ぼくは日記についてちゃいけなかったんだよ!」
トムが「あ~~~~~~! きみが余計なことをしてくれたおかげで~~~~~~~~~~!!!!!」と叫んだ。その声の大きさにあたしはびっくりして、手に持っていた日記を落とす。衝撃でページが開けた。一ページ目の中表紙に記されていた文字。『T・M・リドル』……。トム・M・リドル……? ここがホグワーツで、トムがスリザリン生で、孤児ってことは……。
「あああああああああ!!!! あんたって!!!!!」
あたしはトムから一歩後ずさった。人差し指をつきつけて彼を凝視する。心臓が早鐘を打った。頭に浮かぶひとりの名前が、あたしに恐怖のサインを送り続ける。やばい、やばい、やばい! 思えばそういう要素はあった。孤児院暮らしで、黒い髪に深い瞳の色、でもたまに光の角度で赤く光る瞳。どこかすれた感性に、大人びた仕草。美しい顔立ち、そしてこの日記!
「よぉ~~~~~~やく! 気づいたのかこのスカポンタン! お前があの『トオル』とほんとうに同一人物なのか怪しいところだよ!」
確かにあっちのトオルも結構抜けてたところがあったけどさ、とトムはフンと笑う。その蔑むような目線! やめて~~夢の中のちっちゃなトムを壊さないで~~~……可愛げのあるあの子に戻って……。
「日記に良心のぼくを閉じ込めたトムは、順調に闇の道に進んでいった。そして彼はなってしまったんだ。……ヴォルデモートに」
トムがその名前を―――確信をついたそのとき、廊下の向こうからひとの足音が聞こえた。それにはっとしたようにトムは「はやく日記を隠せ!」という。あたしは混乱しながらも、ポケットの中に日記を隠した。「生徒はまだ外出禁止と言ったはずです!」
廊下の向こうからその声が聞こえた。そう、目覚めたとき保健室で聞いた声だ。振り返るとそこにいたのは、エメラルド色のドレスローブを着た女の人だった。いかにも厳格そうな顔立ちの年老いた女性である。そうだ、あたしは気づいたらここにいただけの部外者で、あたしの後ろにいるトムなんて今世紀最悪の闇の帝王! さぁーっと青くなる顔にあたしは今更、夢の中のはずなのに痛みを感じたことを思い出した。
これが夢じゃなかったら? そんなありえない『もしも』を思い描いて、一歩後ずさる。だれかたすけてくれ、と祈るように目をつぶったとき、目の前の女性からありえない言葉を聞いた。
「おや―――あなたはミスフジワラではありませんか! ようやく目が覚めたのですね」
「―――え?」
女性はあたしに駆け寄ると、いたわるようにあたしの肩を抱き、あたしに視線を合わせるように少し膝を屈んだ。
「入学式のあと、突然倒れてずっと眠っていたのですよ―――。原因不明の昏睡状態に、聖マンゴも匙を投げたほどで……。ダンブルドア校長があなたがいつ目覚めてもいいように、保健室のベッドでいることを許可してくださったのですよ」
「入学式? ええっと……その……あたし……記憶が……」
ホグワーツの入学式といえば―――あのオンボロ帽子をかぶって行う、組み分け帽子のことだろう。そしてダンブルドアという名前が出てきて思い出した、もしかしてこのひとはマクゴナガル先生だろうか。きっちり結われた白髪の髪型も、清潔なエメラルドカラーのドレスも、丸めがねも言われてみれば彼女の特徴を捉えている。
あたしはトムを振り返った。彼はあたしの耳元で囁く。「ふつうのひとには見えないだろう。ぼくにはもう、それだけの魔力は残っていないから」
ではなぜあたしにはトムを見れるのだろうか。その疑問を問いかけるよりも前に、マクゴナガル先生があたしの手を引いて、「目が覚めたならなぜマダムを呼ばないのですか! 彼女も突然ベッドがあいて心配してることでしょう」と言う。保健室に連れ戻されるのだろう。あたしはそれにおとなしく従うしかなかった。
思いがけずにこの世界にあたしの居場所があることがわかったけれど、トムの言っていたことに不安しかない。それにトムの正体……。まさか、あたしが夢の中で引き取った哀れな孤児の少年が、かの闇の帝王、ヴォルデモートの幼いときだったなんて、だれが想像できるっていうの? そんな安い脚本の小説、探せばいくらでもあるだろうに。
そしてトムは言っていた。『きみが余計なことをしてくれたおかげで……』と。つまりあたしがやったことで、またなにか、この世界に変化が訪れたのだろう。若い日のヴォルデモートが、この日記に良心の彼をひっつけたように。
あたしがしたことは、そんなに悪いことだったのだろうか。めぐり合わせが悪かっただけで、トムはあんなに苦しんで、記憶を閉じ込めるしかなかったのだろうか。もっと他に、彼の幸せのために可能性は開かれていなかったのだろうか……。
あの夢の中、確かに記憶はおぼろげだけど、あたしは確かにトムの幸せを想っていたんだ。だってすごくかわいそうだったから。あのまま放っておけば、彼はどんどん不幸になっていくようだったから。まだまだあたしたちの生活は、これからだと思ったから……。
首だけ振り返って、トムの顔を見た。でもきっと、かれが求めているのは、大人の姿で、彼と一緒にすごしたあたしなのだ。あの夢の中、あたしは一度だってあたしの意思で行動することはなかった。あたしがしたことは、別れ際に彼に言葉をかけただけ。
「それがぼくを苦しめたんだよ、よく覚えておくんだ、トオル」
あたしの思考を見透かすように、トムがあたしに声をかける。あたしはその冷たい声色に心臓が底からぞっとするような感覚を覚えた。
「きみはきみの行動に責任を負わなきゃいけない。ヴォルデモートを生んだのはきみではないけれど、生んだ一因となったのはきみなんだから」
トムの言葉に、あたしはふ、と足を止めた。自分の行動に責任が生じることに気づくには、あたしはまだ幼かった。瞳からぽつりと涙が溢れる。―――トムはそれを冷たい目でじっと見つめていた。
マクゴナガル先生が、足を止めたあたしに振り返って、あたしの名前を呼んだ。あたしはTシャツの首もとの襟で涙を拭って、震える声で返事をする。足を一歩踏み出せば、靴ズレを起こしたところがじくりと傷んだ。
ああ―――ここは夢の中じゃない。いまさらそんなことに気づく。どうしようもない現実の世界で、あたしはあたしが起こしたことの責任を負わなきゃいけないのだ。