保健室に連れ戻されたあたしは、マダム・ポンフリーと呼ばれた養護教員にさんざんお小言をもらって、「あと今晩だけ入院しなさい」と言われた。二年近く眠っていたのだから、なにか支障があるだろうと言うのだ。濁った色の苦い薬を飲まされて、あたしはベッドを囲うカーテンを閉めた。ずっと眠っていたわりには、体は普通に動くし、胃も正常に作動して、空腹を訴えている。
マダムはあたしが薬を飲んだのを見届けたら、「石から目覚めた生徒たちの面倒も見なければ!」とあたしを置いてドタバタと忙しそうに歩き回り始めた。
「石……」
「バジリスクのことだ。知ってるだろ」
トムの言葉に、あたしは小声で頷く。たしか、トムが原作で操っていた蛇のことだ。秘密の部屋。ハリーポッター第二巻。映画は見ていないので、そのビジュアルはわからないけれど、知識のうえではぼんやりと覚えている。そういえば、目が覚めたときにマダムが話していた『ジニー・ウィーズリー』にも、心当たりがあった。主要人物の家族で、秘密の部屋ではトムに操られた被害者でもあったはずだ。
「あなたが、やったの?」
あたしは震える声で尋ねた。そうだ、トム。彼は日記に閉じ込められたトムなのだ。まさしく、ジニーを操って、この事件を巻き起こした張本人。
だけどトムは静かに首を横に振った。思わぬ否定のサインにあたしは顔を顰める。
「違う。分霊箱として切り離された『トム』と、きみと過ごした時期の記憶を切り離してつくられた『良心のトム』は別物だ」
「分霊箱、」
「魂を切り分ける魔法のこと。……ぼくが作られたのは四年生のときだった。十五歳のとき。それまでぼくは日記の中で意識もなく、ただ『そこ』にあった。だけど、五年生のとき……」
トムは一瞬、口を閉ざす。それからあたしを見た。伺うような、不安そうな色が瞳に映っていた。どうしてそんな目をするのだろうとあたしが腑に落ちない顔をすれば、トムははっとなにか気づいたような、それから失望したような顔をした。
あ、と思った。
見た覚えがあったのだ、あの顔に。そう、あれは、夢の中で、あたしに叱られるんじゃないかって、クローゼットの中に隠れていた、あのときのトムの一緒の顔。そして彼は、思い知ったんだ。あのときトムに、あの言葉をかけてくれたのが、あたしだけどあたしじゃないってことに……。
それからトムは表情を無くして、言葉を続けた。
「ぼくは人を殺した」
「……」
「ぼく、というか……トムだね。きみとの記憶を切り離したぼく。『原作』通りに彼は殺人を起こした。そして……魂を切り分けたんだ」
嘆きのマートルのことだ、とあたしは思い出した。あの女子トイレ、そう、トムの日記を拾ったあの場所。あそこは、女子トイレという札がかかっていた。あそこで日記を拾ったということは、まさしくあそこがマートルが死んだ場所なのだ。
「……原作?」
ふと、トムの言葉に違和感を感じて、あたしは呟く。原作? こいつ、今原作って言った?
「一番重要なのはそこだな。今説明するよ。……日記に分霊箱として本体の魂が宿ったとき、ぼくはようやく意識を持った。だけど二分されたんだ。分霊箱として別れた、五年生のときのトム。そして四年生のときにきみとの記憶だけを切り取ってつくられた良心としてのトム、つまりぼく。日記に二人はいられなかった。ぼくはもうひとりのぼくに追い出された」
「追い出された……」
「仕方ないさ。あっちは分霊箱だからね。……追い出されたぼくは、なんとかしてきみを探そうとした。もはやきみが『戻ってくる』なんて信じられなかったしね。少女のきみを探せば、トム・リドルは元に戻ると思ったんだ」
だけど実際にはそうはならなかった。原作では、少なくともそうだったはずだ。
「本体がヴォルデモートとして魔法界を混乱に陥れていたそのとき、ぼくはずっときみを探していた。それしかないと思っていたんだ。きみに流れる時間の流れが、ぼくのそれと違うことには気づいていた。だから探しても探しても見つからないんだと思っていた。……でも違ったんだ。そもそもきみとは、住む世界が違った」
「どうして、それに気づいたの」
「気づけたのはつい最近だ。ほんの数年前。気づいたらきみを見つけていた。無理やり結びつかれたって感じだったかな……、確かにそれは、きみのほうからぼくにサインを送ってくれた、という感じだった」
数年前、という言葉にあたしは「あの夢、」と声をあげる。二年前の夏の前に、小学五年生のときに見た夢。まさしく、トムを引き取って、養育する夢! すべての元凶となる夢を見たのも、たしかその頃だったはずだ。
「そうか、夢を通じてきみはこの世界に来てたのか……。ぼくはそれから、きみを通じてきみの世界を見た。原作っていったのも、そういうことだよ。ぼくはきみを通じて、この世界がきみの世界では『ハリー・ポッター』という物語であることを知ったんだ」
あたしはごくん、と生唾を飲み込んだ。じゃあ、彼は知ってる、正しい歴史を。進むべき道を。この世界はどうなったのだろう。どうなって壊れたのだろう。あたしは知るのが怖くなった。あたしのせいでそうなったって言われたら、誰だってそう思うだろう。シーツを頭までかぶって、耳をふさぐ。トムは静かな声で「トオル」とあたしの名前を呼んだ。
「逃げたって何も変わりゃしない。ぼくはね、トムの中に戻りたいんだ。なによりも彼が、きみと過ごした記憶を無くしたまま、このまま生を終えるなんて哀れで仕方ないんだ。きみも、そう思うだろう」
「……」
沈黙のまま、あたしはトムの言葉を静かに聞いた。耳をふさいでも、彼の声は不思議とあたしの耳に届いてくるのだ。そうか、これが、繋がってるってことなのか。あたしがトムとの夢を見て、それを契機にあたしとトムは不思議につながったのだ。だからトムは、あたしを通してあたしの世界を知った……。
「眠れば、家にかえれるかな」
ぽつりと呟く。トムは呆れたような声で、「ぼくがきみをつなぎ止めてるから、無理だろうね。帰ってもらっちゃ、困るんだ。きみには責任をとってもらわないと」と言う。
「それって、そんなのって、あたし、しらない……だって、こんなことになるなんて、知らなかったんだから」
「そうやって逃げるのか! お前、無責任な言葉くれやがって、そのせいで人生狂ったやつがいるんだぞ!」
「しらない! しらない、あたし、しらない!!」
シーツごしにくぐもるあたしの声に、マダムが「静かになさい! 消灯時間は過ぎているのですよ!」と声をあげた。ああたしはぎゅうと強く目を閉じて、枕に顔を押し付ける。トムがあたしを叱りつける声だけがいやに耳に届く。なにもかもいやになって、あたしはとにかく意識を手放してしまおうとした。
「ぼくはな、ぼくっていう良心はな、ほんとうはハリーポッターくっつくはずだったんだ! ヴォルデモートが期せずして作り上げた分霊箱のハリーにくっついた彼の魂のかけらに、良心があったんだよ!」
*
あたしはグリフィンドールに組み分けされていたらしい。トムと夢を通じて繋がったことで、何度かこの世界に来ていたらしくて、そのときにホグワーツに入学して、組み分けも行ったそうなのだ。だけど結局あたしにとってそれは夢のことで、夢から覚めればこちらの世界のあたしはいなくなる。けれどトムはなんとかしてあたしを繋ぎ留めたくて、結局身体だけこちらに置き去りに、意識は元の世界に戻るといった形になっていたらしい。おかげであたしは二年近くも寝過ごしていたことになっているのだけれど。
トムは、あたしが眠る前に言っていたことを、蒸し返すことはしなかった。まくし立てた、という自覚があったらしい。その話はあとで、ゆっくりしようと言っただけだった。あたしとしては、もう二度としないで欲しいと思うし、さっさと元の世界に戻して欲しいとも思う。けれどいつか向き合わなきゃいけないときが来るのだろう。その日を思って憂鬱げに、あたしはため息をついた。
二年も眠っていたわりには体に異常もないということで、マダムはさっさとあたしを保健室から追い出してしまった。苛烈なひとだと思う。石にされていた生徒の看病もあるのだから仕方ないとは思う。あたしは全く知らないホグワーツ城内を、真新しい制服を身にまとって歩いた。行き交う生徒が、あたしの顔をみてこそこそとおしゃべりする。ずっと眠りこけていたということは、学校の生徒中が知っていることのようだった。
「ほっといてくれればいいのに」
「無理もないさ。とは言え今はタイミングもいいんじゃないか? なんせホグワーツの怪物が退治されたあとだからね」
そちらのほうにみんな意識が向くだろうとトムは言いたいのだ。確かにそうかもしれない。生き残った男の子、ハリーポッターがまたやったのだと、みんな口々に噂するのだろう。
主人公の名声の高さに感謝しながら、あたしはトムの道案内で大広間にたどり着く。昨日からなにも食べていなくて、お腹がペコペコなのだ。バジリスク騒動で授業はないし、まずは朝食をとって、あたしはマクゴナガル先生とこれからについて話し合うということになった。一番の問題は、三年生に進級できるかどうかということらしいけれど、そうなる前に家に帰りたいというのが本心だった。
グリフィンドールの寮の席の、端っこのほうにあたしは腰掛けた。突然現れたあたしの姿に、誰も気づいていないようで、あたしは小さくため息をつく。オレンジジュースが注がれたグラスだけを手に取る。他にも、カリカリのベーコンだったり、みずみずしいサラダだったり、色々な料理が並んでいたけど、なんだか食欲が湧かなかったのだ。料理たちは、あたしが来る前からここにあったけど、いま作ったばかりと言われても納得してしまうほど出来立てのようで、これが魔法かとあたしはなんだかいまさらながらに納得した。
「朝、あんまり食べないのは、この頃から変わってないんだね」
「……」
トムが静かに呟く。自分に言い聞かせるような声色に、あたしはなにも言えなかった。かれは、あたしの中に、未来のあたしを探してる。それで贖罪になるなら、いくらでもそうしてくれればいいと思った。責任なんて、どう取ればいいのかわからないのだから。
ふと、大広間の喧騒が一瞬病んだ。コソコソというささやき声が、さきほどよりずっと強くなる。みんなの視線を辿って見ると、大広間の扉の入口のところに、ひとりの男の子が立っていた。くしゃくしゃの髪に、丸いメガネが特徴的な、逆に言えばそれ以外には特徴がない男の子。みんなの視線に、一瞬戸惑ったような顔をして、それからなんでもないような顔を取り繕って、奥の席へ向かっていく。
ハリーだ、とあたしは思った。直感的に、きっとかれがハリーなのだと。トムを見れば、あたしの考えを読んだように、「ハリーポッターだよ」と言った。
「ハリーポッター!」
ハリーはこちらに来るのだろうかと食事を再開したそのとき、赤毛の男の子があたしの横を走り去って、ハリーに近づいていった。その声の大きさにびっくりして、フォークを皿の上に落とす。いまや大広間中の注目はハリーと、あの赤毛の男の子に向けられていた。
きっとあれはロンだ、ロン・ウィーズリー。ひょろっと背が高くて、鼻のうえにそばかすがちょんちょんとあって、赤い髪の毛の男の子。でもそれならどうして、他人行儀にハリーを呼ぶのだろう。彼らは親友のはずなのに。
なぜだかいやな予感がした。トムはしずかに彼らを見ていた。あたしは断罪されている気分だった。
「いもうとを、ジニーを! たすけてくれてありがとう、」
ロンの言葉に、ハリーは困ったような顔をした。あたしはそのとき、見たのだ。ハリーの首元を飾る、エメラルドと銀色のネクタイを!
「トム、」
声が震える。トムはなにも言わなかった。ただ視線で彼らを指し示した。見ていろ、と言いたいのだ。あたしは視線を彼らに戻す。ロンは、顔を彼の髪と同じくらい真っ赤に染めて、ハリーに向かっていた。
「きみは、スリザリンだけど、お礼は、言わなきゃ。どういうわけがあったにせよ、きみのおかげでジニーは助かったんだから」
「……礼を言われるほどじゃないよ」
そう言って、ハリーはロンから離れようと背を向けた。「待てよ!」ロンが声を張り上げる。ハリーは足を止めた。
「ぼくら、友達になれると思う。昨日もそう言ったよな、」
「……」
「その言葉に嘘はないって、今も言えるぜ」
「ちがう、」あたしはようやく言葉を発した。ハリーはそれからスリザリンのテーブルに行って、席についてしまった。即座にプラチナブロンドの髪色の男の子がハリーに近づいて、彼に気安く話しかけている。ロンは呆然と立ち尽くして、それからしずかにテーブルに戻ってきた。
ちがう、ちがう、ちがう! こんなの、あたし知らない
トムはあたしを見た。「こういうことだよ」と言う。その声色はあくまで落ち着いていた。だけどあたしの心は焦るばかりだった。これがあたしが起こした責任だって言うの? ハリーがグリフィンドールに入らずにスリザリンに入って、ロンやハーマイオニーと親友になれない世界!
「ぼくという良心が本来ならば、ハリーにくっつくはずだったって、きのう言ったね」
トムが動揺するあたしに向かって言う。
「その良心は、確かにあってないようなものだったけれど、でもそれはハリーの暗い幼少期を救う光でもあったんだ。叔父と叔母からの虐待、甥っ子との格差、いじめ、理不尽な仕打ち……。どうしようもない暗闇の中で、唯一かれが『彼』であれるための支えだったんだ。どんなに惨めでも、前を向こうっていう、強い心……」
「いまの、いまの彼は? どうしてああなってしまったの?」
「代わりの支えを彼は自分で作ったんだ。復讐心という形に変えて。そしてそれは、両親の死の真実を知って更に大きく育った。……かれがスリザリンに入ったのは、ヴォルデモート亡き後、彼の配下だった死喰い人たちに復讐するための手段に過ぎない」
トムの言葉に、あたしははっとなってスリザリンのテーブルに座ったハリーを見た。……ドラコ・マルフォイだ! 四巻で、父親がヴォルデモートの配下だったことがわかった、彼だ。彼に関する暗い噂は、作中でもいくらでも出てきた。すこし調べれば、ハリーにだってわかることだろう。スリザリンはヴォルデモートの出身寮で、数多くの闇の魔法使いたちを輩出している。
ハリーはドラコと笑い合っていた。だけど、その笑顔は本物だろうか? ……わからない。わかることは、彼はあたしの知ってるハリー・ポッターではないということだ。復讐心に囚われて、それだけが彼の生きがいになっている、生きるしるべになっている……あたしが! あたしが彼をそんなふうにした!
「あたし、あたし、なんてことを……」
思わずあたしは大広間から出て行ってしまった。耐え切れなかったのだ。ハリーと共にいないロンの姿を見るのも、ドラコの隣に座って彼に笑いかけるハリーの姿を見るのも。だってあんなふうにしたのはあたしなんだから。全部、あたしのせいなんだ!
耐え切れなくて、廊下に座り込むあたしの横に、トムはそっと寄り添った。あるはずのない温もりを感じて、あたしはまた涙を流す。今度は心底後悔しながら、あたしは泣いたのだ。訳も分からずにこぼれた涙じゃない。
どうにかしなければいけない、とぼんやり思った。でもどうやって? なにも知らなかったことにして元の世界に帰れれば、どんなに良いことだろう。
けれどそれは許されないのだ。許されてはいけないのだ。だってここでは、ハリーは生きている。トムがそうだったように、ハリーは……。
「救うんだ、トオル」
トムがぽつりと言う。
「きみがハリーを救うんだ。無責任な言葉でも、ぼくはずっと救われた。それだけはきっと確かだ。それだけしかなかったんだ。……大丈夫、きみとハリーはよく似ているよ」
寂しそうな声色だった。トムはきっと泣きそうなのだとあたしはぼんやり考えた。だったら彼の顔を見てはいけない気がした。トムの泣き顔を見るのは、あたしじゃないトオルの特権だと思ったのだ。
あたしは一生それにはなれないのだ。彼は救いと言ったけど、あたしは彼を救えなかった。
「ぼくときみが似ているのと同じ、」
そんなの嘘だ。あたしは冷たい廊下の上で、心底そう思った。