4.「フクロウ?」
喧しい音で目が覚めた。カーテンで覆っていた窓を、カーテンをすこし捲って外を見る。薄汚れた窓から見える外にはガタガタと鉄道の通る音が響いていた。部屋にランクがあるとしたらきっとここは最低の部屋だ。とはいえ文句は言えない。漏れ鍋に泊まるのだってタダじゃないしそれに安くはない。息を吐いてまたベッドに寝転んだ。ギシギシ軋むスプリングに顔を歪めて。自分の家のベッドが恋しく思えた。
学校が―――ホグワーツのほうだ―――終業式を迎えた日、あたしはひとりぼっちの汽車のコンパートメントの中で、自分が覚えている限りのことを書き出した。つまり、ハリー・ポッターの世界についてのことだ。もう終わった一巻と二巻のことはいいとして、これからのことを中心に。
三巻、三巻は、よく覚えている。なんせ、一番よく読み返した巻なのだ。シリウス・ブラックがでてくる巻……。思いつく限りのことを書き出していたが、とくに目立った事件は起こらない。そういう年だったはずだ。
だけど問題は、いまが原作通りにことが進んでいるとはいちがいに言えないということだ。あたしは重くため息をついた。後ろから視線を感じる。誰の視線かなんて、確認しなくてもわかっている。
「トオル、おはよう。起きたなら、さっさと顔を洗って仕度をしなさい。下に降りて朝ごはんにしよう。それが済んだら、勉強をしなくては」
真っ黒というには色素の薄い、灰色の瞳をすこしだけ細めて、トム・リドルはそう言った。
ぐちゃぐちゃのスクランブルエッグをスプーンですくいながら、あたしはぼんやり考える。トムは部屋にこもっている。なにをしているかは知らない。
原作通りにことが進んでいないかもしれない、その第一の証拠というか、そういったものがトムだった。ヴォルデモートが本来持っていた良心。ハリーにくっつくはずだった善の心。それが切り離されて、日記にくっついたらしい。原作通りにいかなかったのは、つまりそこなのだ。幼いハリーを救うはずだった良心がくっつかなかったおかげで、ハリーはおじおばたちからの虐待や待遇を負の感情で乗り越えようとした。そして良心の死の真相を知ってから、その感情は復讐心に変わったのだ。
かつん。スプーンが鈍色の皿の底に当たって音を出す。先割れスプーンでプチトマトを転がしてため息をつく。バーテンのトムが食欲がないのかと尋ねてくるので、曖昧に返事をした。
あたしはホグワーツに入学して、二年ほど眠っていたから、当然授業を全然受けていない。マクゴナガル先生は、とりあえずと課題をたくさん出して、課題の習熟度を見て対応してくれるとおっしゃっていた。一年生に混ざって授業を受けるのが一番いいと思うのだけど、トムはなるべくあたしにハリーたちと同じ授業を受けてほしいみたいだった。だからトムはこうして、一日の半分を課題に取り組む時間としてあてている。授業のように簡潔に教えてくれるからわかりやすくてありがたいけど、ふとした瞬間、あたしはなんでこんなことをしているのだろう、と思ってしまう。
新学期がはじまったら、あたしはどうすればいいのだろう。トムは、あたしに責任をとれと言った。でも、ハリーの人生を変えてしまった責任なんて、途方もなさすぎてどうすればいいのかわからない。ハリーとロンの仲を取り持てばいいのだろうか? 原作通りの関係の三人に、わたしがすればいいのだろうか? それをしたって、ハリーが苦しんだ十数年間は消えない。
「だけど、このままいけばハリーは愛を知らないまま、ヴォルデモートと対峙することになる。それだけは避けなければいけない」
「愛……」
愛だって。ばかばかしい。
そう突っぱねたらトムはどんな顔をするだろう。未来のあたしに、中途半端に愛を教えられて、それから放り棄てられたトム。養い親と壁があって、学校にも友達がいないあたし。そして、愛情を知らないまま、憎しみを救いに生きてきたハリー・ポッター。どうしてあたしたちが、ハリーを救えるんだろうか。
コンコン、なにかが窓枠を叩く。ノートをまとめていたシャーペンを置いて、あたしは窓に視線を移した。茶色の羽のフクロウが窓の外にいた。あたしは立ち上がって、窓をあけてフクロウを部屋にいれる。彼は手紙を渡すと、そのまま出て行ってしまった。なにかエサだとか水をやったほうがよかったのかもしれないと思ったけど、そもそもフクロウを飼っていないあたしがそんなものを用意できるはずもない。
手紙を見やると、ホグワーツの紋章の印璽がされた封蝋で封印されていた。トムが「学用品のリストだろう」と言う。
「午後になったら買い出しに行こう。息抜きも必要だしね」
ダイアゴン横丁の騒がしさは、何度来ても慣れない。マグルの世界で言うところのショッピングモールみたいなものだろうか。息抜きで訪れるアイスクリーム・パーラーの店主は、この騒々しさは夏休みの間だけだと言っていたが。
届いた手紙は学用品のリストだけでなく、マクゴナガル教授からの今後の授業についての手紙も入っていた。というのも、先日出されていた課題を彼女に送り、学習進度を見てもらっていたのだ。課題のできは相当よかったらしい。実技の様子を見つつ、三年生の授業に混ざってもいいという許しが出た。とはいえ補習は必要になるとのことだった。学用品のリストには三年生用の教科書のタイトルが連なっている。トムはそれを見て、当然だといわんばかりにほほ笑んだ。
「変身術のレポート課題もまあいい評価をもらってる。理論がわかれば実技はそう難しくはないだろう」
フローリシュ・アンド・ブロッツ書店で、リストにあった本を注文している最中に、リドルがそう囁いた。店主が『怪物的な怪物の本』がリストにあるのを見て顔を青ざめている。ハグリッドの授業で使う教科書だ。あたしはぼんやりとした頭でそのことを思い出す。あたしの所属寮はグリフィンドールだから、ハグリッドの最初の授業で扱うヒッポグリフをお目にかかれる、そのはずだ。店主が分厚い皮のグローブをはめて店の奥に行くのを見送ってから、リドルに声をかける。
「ほんとうに? あたし、この世界にきて一回も魔法なんて使ってないよ。ほんとうに大丈夫?」
奥から店主の叫び声が聞こえる。
「さあ。ぼくだってきみが魔法を使っているところなんて見たことない。でもきみは現にホグワーツに入学できているんだし、組み分け帽子をかぶってグリフィンドールに選ばれた。誰が魔法が使えないなんて思うんだ?」
ほんとうにそうだろうか。あたしはトムの言葉になにも返さないまま、ぼんやりと考える。あの悪夢のような日から、時間は一日一日、無慈悲に流れていった。夢のなかのような曖昧さや、視界が歪んで場面が飛ぶようなことはなかった。あたしはトムと一対一で、勉強を教えてもらったり、これからのことを話し合ったりした。全部、あたしの意思、あたしの体、あたしの意識が体験したことだ。あの夢、トムを孤児院から引き取った夢とは違う。これは現実だ。どうしようもない現実の世界の出来事なんだ。
夢だったら、いきなりあたしが魔法を使えたっておかしくない。でも、実際あたしは一度だって魔法を使ったことはないのだ。
店主がロープでグルグルに縛った本を小脇に抱えて戻ってくる。本はロープで頑丈に縛られていてもなお、抵抗し続けていた。あれは確か、背表紙を撫でればおとなしくなるんだっけ。店主にそれを教えてあげようと思った瞬間、トムがそれを手で制した。
「原作では」
あたしの眼前に向けられた手のひらが、トムの言葉とともに視界から消える。
「フローリッシュ・アンド・ブロッツの店主は、怪物的な怪物の本がどうやったらおとなしくなるのか知らなかった。些細なことだけど、これ以上原作をゆがめるのはあまりいいことではないだろう」
「お嬢さん? どうしたんだい。この本なら、縄で縛ったから問題ないだろう……。そんな危険極まりないものを、ホグワーツでは一体なにに使うんだか、甚だ疑問ではあるが―――」
原作を歪める。
そんなの、もうとっくに歪んでるじゃないか。トムが言うには、あたしのせいで。
息をのみこんで、ぎゅっと握ったこぶしを離す。店主が本を受け取って、あたしはその他三年生で必要になる教科書と、マクゴナガル教授から追加で補習で使うという本を数冊催促する。怪物本と打って変わって、店主はアクシオ呪文で素早く本を呼び寄せる。すべての本の代金を支払い、重い本を抱えて外に出た。まだ買うものはたくさんあったが、こんな大荷物では歩くのもままならない。とにかく一度漏れ鍋に戻ろうということになった。
買い物中、トムはことあるごとに、あたしが三年生でどうやってハリーやロン、ハーマイオニーなどの主要人物とかかわっていくべきか、彼の考えを述べた。彼はあたしが、ハリーの凍った心を溶かすことを期待しているようだった。自分がそうだったように? でもあたしは、あの夢のなかのトオルにはなれない。
「今晩だ。ハリーがマグルのおばを膨らませて、漏れ鍋にやってくる」
魔法動物ペットショップのなかで、あたしはクルックシャンクスと思しき猫を見かけた。あたしも猫が飼いたかった。もといた世界でもそう。でもあたしの養い親は、あたしがペットを飼うのを許してはくれなかった。トムも同じだ。学校の奨学金では、ペットをじゅうぶんに養うことは難しいとトムは言う。あたしを諭すような言い方が、へんな話だけど養い親に似ている、と思った。
「きみはハリーと仲良くならないといけないんだ。わかるだろう?」
漏れ鍋に戻って、部屋に荷物を置いたあと、一日のはじまりと同じように、食堂で夕飯を食べた。バーテンのトムは、長く使っていなかった魔法道具を貸してくれた。あたしが大きな荷物を抱えて歩いていたのがかわいそうに見えたらしい。魔法道具はショルダーバッグで、見た目以上に容量があって、重さも一定に保たれるというものらしかった。とはいえ、もう今日みたいな買い物はとうぶんしないだろう。ホグワーツで使うと告げると、トムは嬉しそうに笑った。
バーテンではないほうのトムは、どうやらバーテンのトムが苦手らしく、あたしが彼と話すようなときは部屋にいるか、もしくはじっと黙っているかのどちらかだった。食堂にはめったに下りてこないし、もしあっちのトムから逃げるときは食堂でバーテンダーのトムのそばにいよう、と思った。
ゆっくり夕飯を食べたあと、部屋に戻る。買った荷物を整理しながら、トムと二三言会話をする。そんなことをしている間に、夜が更けた。そろそろ寝よう、と思った瞬間、隣の部屋から物音がした。
「少し前に従業員が隣の部屋の窓を開けていたみたいだから、多分フクロウが来たんだろう」
「フクロウ?」
誰の、と言いかけた瞬間。階下が少し騒がしくなった。
トムはなにも言わなかったけど、あたしは原作で書かれていたひとつのことを思い出していた。ヘドウィグはハリーが着くよりもはやく漏れ鍋に到着していたという記述を。
「ハリーが来たんだ」
あたしは思わずつぶやく。でもトムはやっぱりなにも言わないまま、物音がした隣の部屋をじっと見つめた。