流浪の民   作:オラウータン

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5.震えててどうするの

慣れないベッドで眠り続けるのは確かに苦痛以外の何物でもない。お世辞にも眠り心地がいいとは言えないマットレスは少しかび臭い。寝つきが悪かったりするといつも悪夢を見る。今夜もそうだった。隣の部屋の物音に過敏に反応してしまい、なかなか眠れなかった。ハリー・ポッターがいる。あたしの泊ってる部屋の隣に。そう意識すると、なんだかへんな気分になってしまうのだ。この世界に来てから、ずっとトムと一緒にいた。ハリーだって、ホグワーツにいた短い期間の中でも、姿を見かけたのは二回や三回じゃなかった。『ハリー・ポッター』の作品のキャラクターの近くにいて、その存在を感じるのは、いまがはじめてでもなんでもない。なのに、あたしは隣の部屋で寝ているであろうハリーのことを意識してしまった。

トムのせいだ。トムが一日中、まるで呪いかのように、あたしにハリーを意識させるようなことを言うから……。

 

 

だから悪夢を見たのだ。あたしは夢の中で幼い姿になっていた。テレビにうつるかわいらしい動物たちを見て目を輝かせていた。

養い親はどうしてもペットを飼うことを了承してはくれなかった。あたしはあのころ猫がどうしても飼いたくて、子猫譲りますという張り紙が貼ってある家を見かけるたびに、そわそわして心臓がどきどきと高鳴った。あの家のインターホンを鳴らして、子猫をくださいと言えたらどんなにうれしいだろうか。迷っている間にも、自分以外の人間に子猫を奪われてしまうだろう。そんな気持ちがぐるぐる体のなかをめぐって、胃のしたのあたりがなんだか重く、気持ち悪く感じたのだ。

 

「ねえ、お願い。ちゃんとお世話するよ。勉強もするし、家事も手伝うもん。ねえ、お願い」

「だめだ。生き物はいつか死んでしまうんだよ。トオルが死ぬよりずっとはやく。わたしはもう、自分より先に大事な存在が死んでしまうのは見たくないんだよ」

 

養い親はそういって、あたしが子猫を飼いたいというのを突っぱねた。次の日になって学校にいくと、子猫をあげますという張り紙は無くなっていた。誰かに先を越されたのだ。あたしは養い親の理屈は、自分勝手で、自分本位なものに感じた。

あの頃は。そうだ、あのころは……、今よりもずっと養い親と会話をしていた。彼のことをパパとすら呼んでいたのだ。彼のことを、自分のほんとうの父親だと思っていたから。

夢の場面が切り替わる。ヘッドライトがいびつに割れているシルバーの車の前で、横たわる女の人の姿を見とめる。

 

「トオル、」

 

あたしがつぶやくと、トオルの姿は黒猫にかわった。でも彼も死んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

また喧しい音で目が覚める。線路を走る鉄道の音。この騒音で、ハリーも目覚めたのだろうか。時計をみやると、十時を過ぎていた。寝過ごした。朝食の席で、ハリーと接触できると思っていたのに。こんな時間では、ハリーももう食堂にはいないだろう。トムも起こしてくれればよかったのに。あたしは大きなため息をついた。

 

「トム?」

 

ベッドから体を起こして、部屋を見渡す。そして、異変に気付いた。トムがいない。

トムはたいていあたしのそばにいるけど、必ずそうしなきゃいけないわけじゃない。幽霊みたいに半透明の体で、あたしから離れて好きな場所にいける。かと思ったら、姿を完全に消してしまうことだってできる。あたしが寝てるときなんかは、たいてい姿を消しているみたい。でも朝になったらいつも姿をあらわすし、あたしが寝過ごすようだったら起こしてくれるのに、今日はそうじゃなかったから、あたしは少し不安になった。

 

「トム、」

 

靴を履いてベッドから降りる。胸がいやにざわめく。トムがあたしのそばにいないだけで、どうしてこんなに心細くて、世界に取り残された気分になるのだろう。バスルームや、クローゼットの中を見る。別にトムのことが大好きっていうわけじゃない。それどころか、いっときはあたしをめちゃくちゃな世界に連れてきた張本人で、元凶だったから、憎んでいたときもあったくらいなのに。

トム、と呼びかけながら、部屋の扉のドアノブに手をかける。頭にぼんやり浮かんだのは、けさ見た夢。黒猫が死んでいる姿。いやな夢だ。

ドアノブをひねる。金属がこすれあう音がいやに耳につく。扉から顔を出して廊下を覗いたけど、トムの姿はない。どこへいってしまったのだろう。

 

「なにしてるの?」

 

投げかけられた声に、一瞬動きが止まる。不審な姿を見られてしまったと思い、少し恥ずかしいような気持ちで声のほうに振り返った。すいません、人を探していて。そんなふうに弁解しようと思った声が、喉元でつっかえて、止まる。あたしは言葉を失った。そしてそれが悪手だったと思い知った。

そこにいたのはハリー・ポッターだった。正真正銘、くせ毛で眼鏡をかけた少年。額に傷がある。本物の彼だった。

 

 

 

 

 

 

まさかハリー・ポッターが漏れ鍋にいるなんて思いもよらなかった。なんていえばたぶん、彼は気分を害してすぐにこの場から立ち去るだろう。原作のハリーならしない行動だが、おそらくこのハリーならするはずだ。なんせ彼はもう二年間もスリザリンの生徒たちに囲まれて暮らしているのだ。スリザリンの生徒の多くは、純血を重んじるような名家の出が多い。イギリス魔法界の純血主義一族におおく見られる傾向として、誇り高いということがあげられる。トムはそういっていた。誇りしかないのだ、彼らには。長い間純血を保ちそれを継承していくことだけを目的として生きてきた人種だ。純血の誇り、一族の誇り、名家としての誇り、魔法界貴族としての誇り。それが彼らを形どるすべてなのだという。

このハリーは原作のハリーではない。そうなるには欠けているものがあった。それがトム・リドルの良心なのだ。足りないものは補わなければいけない。その要素はなんだろうか。トムは両親を殺し自分を不遇の目に陥らせることになった闇の魔法使いたちへの復讐心だと言った。それはハリー自身の誇りともいえるのではないのだろうか。

 

ハリーを食堂に誘うのは、案外簡単なことだった。ホグワーツ生徒という共通点で世間話をしていると、寝過ごして朝ごはんを食べていないという話をハリーがした。きわめて幸運だったと言わざるを得ないが、おかげであたしは気軽にハリーを食堂に誘うことができた。

だけど、彼との会話はあたしにとっては難関だった。会話のひとつひとつが彼との関係を構築するにあたって、重要な要素となるのだ。下手なことを言って、彼に嫌われでもしたら、トムの計画はすべて破綻する。だけど、そうやってしどろもどろに言葉を選んでいれば、ハリーも不信感を抱いていく。正直言って、トムがそばにおらず、あたしに助言をくれないこの状況は、あたしにとって愛悪の状況というよりほかになかった。

食欲がわかず、オレンジジュースとサラダだけが眼前に並ぶ。ハリーは信じられないような目であたしのサラダを見つめた。彼は成長期の男の子らしく、トーストだとかカリカリのベーコンだとか、おいしそうな朝ごはんを注文していた。

 

「女の子って、ほんとに食べないよね。それだけで足りるの?」

「もうお昼も近いし……、それに、あまり朝は食べないほうなの」

 

わたしが答えると、ハリーは思い出したように笑う。

 

「スリザリンの女子なんか、小さい口でちまちま食べるんだ。いったいなにが美味しいんだろうなって思うけど、ドラコもテーブルマナーくらいは知っておくべきだ、なんて小言を朝から言うんだ。まいっちゃうよ」

 

ドレッシングのかかったサラダを混ぜるフォークを握る手が止まる。スリザリン、ドラコ……。ハリーの口から飛び出るそれらの言葉が、そんな優しい声音でつむがれるとは思わなかった。口もとが不自然に震える。針の筵、まるで晒されている気分だ。原作から乖離しているのはあたしのせいだって、頭のなかでトムがあたしを詰る。

 

「……きみはグリフィンドールだった、よね」

 

ハリーの言葉に、下がっていた頭が上がった。出会ってから、あたしはハリーに所属寮を告げていなかった。なのになぜ、彼はあたしの寮を知っているんだろう。

 

「有名だもん。一時期はぼくより有名だった。グリフィンドールの眠り姫、ってね。王子様のキスで目覚めるもんだって、みんな噂してたよ」

「キス? そんなばかな、」

「ばかばかしいよね。誰も実践したひとはいなかったと思うよ。マダムがそんなうわさが流れ始めてから、医務室にくる元気そうな生徒たちへの警戒心が跳ね上がってたから」

 

ハリーの話に相槌を打ちながら、あたしの心臓はバクバクと高鳴っていた。うるさいくらい。だって、まさか、ハリー、ねえあなた、なんでそんなあたしのこと知ってるの? 医務室で寝こけてただけのあたしを。

フォークの先でプチトマトを転がす。弾力のある実だけど、ふいに力をいれてしまって、フォークの先がトマトに刺さった。透明な赤い汁が少しだけこぼれ、フォークの先を汚す。

 

「どうして、あたしのこと、そんなに知ってるの」

 

ばかばかしい、問だった気もする。ホグワーツでうわさが流れたら、それを知らないで過ごすことのほうが難しいだろう。あたしはそんな噂のひとつで、ハリーもだから知ってた。それだけだ。あたしはもうハリーを見ていられなくなって、うつむいた。ハリーの答えを聞きたくなかった。

だけどこれは現実で、耳をふさぎたいようなことからも、全部逃げられない。ハリーは困ったような声音で、なんでもないように言った。

 

「ぼく、よくケガをしたんだよ。それで医務室に何度か入院してたんだ。きみが眠るベッドからは遠かったけど、きみがいることは知ってたんだ。だから、」

 

だから、だから? その次はなんだろう。続きを待ってたけど、彼は結局答えなかった。

 

 

 

 

 

 

遅い朝食の時間は三十分たらずで終わり、あのあとあたしとハリーの間にろくな会話は生まれなかった。ハリーは比較的あたしにたいして好意的な態度をとっていた、と思う。典型的なスリザリン生のように、グリフィンドール生のあたしを目の敵にするような発言もなかった。学校で彼がその態度を維持してくれるとは、あまり思えないけれど。

あたしとハリーの部屋は隣同士だから、部屋の前まで一緒に行こうと誘ってくれた。ついでに、このあとダイアゴン横丁でも一緒にまわらない? なんて誘えれば、トムは大喜びしたことだろう。だけどあたしはハリーにそんなこと言えなかったし、ハリーもあたしにそんな誘いはしなかった。たぶん、ハリーは、スリザリンの生徒に、あたしと一緒にいるところを見られることを怖がっている。それがハリーの、スリザリンで生きていくための処世術なんだろう。少し前のあたしだったら、なんて失礼なやつだって思ったかもしれない。都合のいいやつだって怒っていただろう。でもいまは、そんな気持ちにすらなれない。

部屋の前にたどりついて、ハリーが自分の部屋のドアの前に立って、あたしに笑いかける。じゃあね、また。そんな言葉とともに、彼は数秒後には自分の部屋に入ってしまう。そうしたら、彼と話す機会は、もうないかもしれない。

でもなにをすればいいんだろう? わからないのよ。だってあたし、トムと出会うまで、クラスの男子とだってまともに話したことなかったのに。

 

「ねえ、ハリー」

 

声が震える。なにを言えばいいのかわからなかった。だけど不思議と、ある言葉が頭のなかに浮かんでた。トムの言葉。あたしとハリーが似てるって、

 

「あたしも、あなたと同じなの」

「……なにが?」

 

ドアノブに手をかけたハリーが、訝しむようにあたしを見る。指先が震える。ぎゅうと手を握り締めてごまかす。震えててどうするの。なんにもならないわ。

 

「あたしも、両親がいないの」

 

 

ハリーはなにも言わなかった。ただあたしをじっと見つめた。やってしまった。だけどもう戻れない。あたしの口は止まらなかった。あの日、クラスメイトの前でさらし者にされたときは、貝みたく閉じて動かなかったのに。

 

「だから、ハリーと話してみたかった。だって、だって……みんなにはわかんないでしょ。ほんとの親がいるみんなには。誕生日にお祝いをくれて、あたしたちの成長を祝ってくれて、なんでも甘やかしてくれて、転んだら困ったように笑って、傷の手当をしてくれる、あったかくておおきな大人の手。あたしたちは知らないでしょう」

「トオル」

 

トオル。ハリーがあたしの名前を呼んだ。あたしの名前を。心臓がぞくぞく震えた。二の腕に鳥肌が立つ。ハリーはあたしを見ている。あたしもハリーを見た。

 

 

「あたし、あなたの孤独がわかるわ。あなたもあたしの孤独がわかると思う」

 

 

それだけ言って、あたしは息を吐いた。大きく。あたしを見たまま固まっているハリーを後目に、部屋に入る。とたんに体から力が抜けていって、膝から床に座り込んでしまった。ああ、なんてこといったの、あたし。

ふと顔をあげる。ドアから直線上の位置に、朝から姿が見えなかったトムがいた。

 

トムがあたしを見ていた。赤色の瞳があたしを見ていた。

 

 

「そう、そういうことだよ、トオル」

 

よくやったと言いたげな声色に、あたしは小さく息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 


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