凰鈴音にとって、織斑一夏は不思議な男だった。
最初の出会い。
小学校に転校し、まだ日本語を上手く話せなかった鈴は、からかいの対象となった。
からかい――無自覚な悪意。
嘲笑、侮蔑、罵倒、自分を取り巻く全てが自分を否定するという、地獄。悪夢であればどれほど良かっただろうか。
すり切れるだけの日々。すがるものもなく、ただ延々と自分が摩耗していくのを自覚するだけの日々。
織斑一夏がそれを断ち切った。
『何ダサいことしてんだよ、お前らッ!』
かっこよく啖呵を切って――からかっていた男子たちと大乱闘。
小学生同士の喧嘩なんてたかがしれている。途中で先生がストップに入り、後ほど男子生徒たちは両親に連れられて家まで謝りに来た。これでよし、と先生は言った。
何もいいわけがなかった――悪意をぶつけられてきた事実は消えない。教室で常に鈴は怯えていた。いつ、また、始まるのかと。この静けさは嵐の前触れに過ぎないのだと、そう確信せざるを得ないほどに追い詰められていた。
だが、一夏は鈴に話しかけ、遊びに誘い、彼女が独りぼっちにならないよう手を尽くしてくれた。
そうやっていつの間にか彼が隣にいることは当たり前になっていて。
明るく笑う、なんていう当たり前の行為が、やっと、当たり前に戻ってきて。
本来の快活さを発揮し、誰とでも打ち解けられるようになって。
やる時はやるけれど、普段は抜けている彼をしばいたりしながら。
中学生になってからは弾などの友人も新たに交えて、日々を過ごしていた。
ずっとそれが続くと、思っていた。
仮に途絶えたとしても、元に戻れると――思っていた。
「今のところ専用機を持ってるクラス代表って一組と四組だけだから、余裕だよ」
「なんだろう俺、そのセリフ三千回ぐらい聞いたことある気がする」
朝イチでクラス
よく分からないが自分ではない自分がそれを聞いたことがあるというか己の同位体が耳から謎の液体が垂れるほどに聞いたというか世界線をカウントするほうが馬鹿らしくなるというか。
怪電波を受信して勝手にテンションが下がっている一夏に、雑談に興じていた女子たちは揃って首を傾げた。
とはいえ、対抗戦へのモチベーションは高い。
得られる情報は得ておくに越したことはない、と判断した。
自分の頬を張り気分を切り替えて、一夏は口を開く。
「俺ともう一人が専用機持ち……でも他のクラス代表だって、代表候補生レベルのはずだ。量産機相手でも油断はできない、むしろ俺の方が格下だよ」
「正しい認識ですわね。わたくしも同意見です。残念ながら機体性能の違いが戦力の決定的な差ではないということですわ」
「四組代表の情報は既に集めているぞ。四組の専用機は、日本製のフラグシップモデルである『打鉄』――その後継機としてデザインされた『打鉄弐式』、だが……未完成らしい」
「てことは専用機持ちは俺だけか。ますます無様は晒せないな」
セシリアの言葉と箒のデータ。それを聞いて、一夏は拳を握る。
条件が有利であることは、決して勝敗を確実なものにはしてくれない。
最後にモノを言う、勝利への意思――今の織斑一夏にはそれが備わっている。
話を振っていた女子がその様子を見て、やっぱかっこいいなあ……と小声で呟いた。
箒が彼女を見てむむ……と唸っていた、その時。
「あら、よく分かってんじゃない一夏! それと専用機持ちは一組と四組だけって――その情報、古いよ」
なんか三千回ぐらい聞いたことのあるセリフが響いた。
懐かしい声。思わず勢いよく振り向いた。
ツインテールの少女が一組教室のドアに、片足を立ててもたれかかっている。
不敵な表情と唇の隙間から覗く八重歯。突然の乱入者に、一同は目を白黒させることしかできない。
「り……鈴かッ!?」
だが一夏だけは、瞬時に彼女の名を記憶から弾き出し、叫んでいた。
その反応に満足げな笑みを浮かべ、彼女はドアから背中を離して教室の中に踏み込んでくる。
「久しぶりね一夏。本日付でIS学園の二組に通うことになったわ。中国代表候補生、
「せ、宣戦布告って……」
「言ったでしょ、情報は常にアップデートされるものなのよ。二組の代表、専用機持ちになったの。そう簡単に優勝はできないから」
「まさか、それって」
「そう! このあたしよ!」
芝居がかった言い草だが、それは場の空気をあっさり制圧してしまうほどには機能していた。
箒もセシリアも、まず驚愕が先行していまいち思考を回せない。
「……知り合い?」
そんな中で。
一組の人混みの、実は中央で自席に座り文庫本を読みふけっていた少女。
世界最強の再来、専用機持ち、日本代表候補生。
東雲令が顔を上げた。
「あ、ああ。幼馴染っつーか。箒は小四の終わりで転校しちゃって、鈴は小五の頭に転校してきたんだ。あ、鈴が転校してくるのってこれで二回目なんだな」
「なるほど」
どうやら知り合いかどうかを確認するだけだったらしく、東雲はそれきり興味を失ったように、視線を活字に落とした。
「スカしてるわね~、東雲令。アンタじゃなくて一夏がクラス代表って聞いたときはたまげたわよ。まあラッキーだったわ。一夏、軽く揉んであげるわよ」
「……そうか」
露骨な挑発。
クラスメイトらも、さすがにムッとせざるを得ない。
だがそれを成せるだけの実力を、肩書きが証明している。
そんな中で。
「――それは、楽しみだ」
渦中の人である一夏自身は、口端をゆがめていた。
彼は強敵を歓迎する。いかなる敵が相手でもやることは変わらない。積み上げたものをぶつけて、築き上げたものの真価を問う。やることは変わらない、それ以外にない、彼にはそれしかない。
いつだって自分は挑戦者であり、自分の全てを投げ出すようにして価値を証明するしかない。
だったら、戦う相手は、越えるべき壁は、高い方がいいに決まっていた。
「…………一夏、アンタ、そんなキャラだっけ?」
「キャラじゃねえよ。俺は心の底から、お前との戦いが今もう楽しみで仕方がない」
鈴の声色には困惑が色濃く込められていた。
それを気にもとめず。
かつて。
確かに幼馴染であったはずの。
よく見知ったはずの。
恋い焦がれていたはずの。
だけどまるで別人のような少年が、瞳の中で炎を燃やしている。
「俺はどんな戦いであれ死力を尽くす。お前の全てを喰らい尽くして糧にして、
「……ッ、アンタねえ、ISを動かして一月たってないトーシロだからって、言っていいことと悪いことが――」
「だから軽く揉んでやるなんて考えてんのなら、今すぐその考えを捨てろ」
既に空気を掌握しているのは鈴ではなかった。
彼は気炎を立ち上らせ、まっすぐに自分を見ている。彼はかつての優しい色の瞳ではなく、燃えさかる両眼を銃口のように向けてくる。
鈴は知らずのうちに一歩退いていた。
「俺は――お前を倒すぞ」
「…………ッ!! やれるもんならやってみなさいっての、バーカ!」
そう言い残して。
まるで逃げるようにして、鈴は一組教室を大股で出て行った。
クラスが数秒静かになって、それからぽつぽつと話し声が再び咲き始めた。一夏に向けられる熱い視線は、先ほどよりも増えていた。
「……一夏さん、折角の幼馴染との再会だというのに、もう少し語るべきことはありませんでしたの?」
セシリアは嘆息して、すっかりバトルバカになっている彼を小突く。
「あー……そうだな。ちょっと、張り切りすぎた。後で謝んねえとな」
頭をかいて、一夏は自分の言動を反省した。
いくらなんでもこれはない。向こうの宣戦布告とてほぼ顔見せだった。そこにいきなり闘志全開で返したら、普通におかしいと思われる。
何か好物――中華料理には飽き飽きと語っていたから、和食でも――作ってやろうか、と詫び方を模索する。
「おさななじみ」
その時、突然箒が間抜けな鳴き声を上げた。
何事かと彼女の顔を見て一夏はギョッとする。箒は能面のように無表情であった。
「おさななじみ」
「え、あ、うん。まあそうだな、お前がファースト幼馴染だとしたら、あいつはセカンド幼馴染だ」
「一夏さん他に言い方ありませんでした? もう喋らないでください」
セシリアはぶっ壊れた箒の肩に優しく手を置く。
幼馴染だからという大義名分で隣のポジションを維持していた箒にとって、これは青天の霹靂であった。
衝撃に脳の機能が一部停止しても仕方があるまい。
「――凰鈴音が転校したのはいつだ?」
何かやばいこと言ったかな、と首を傾げている一夏に、背後から東雲が問う。
いつの間にか文庫本を鞄にしまって、彼女は椅子の上で身体ごと一夏に向いている。
「えーっと、中二の終わり、かな」
「では、凰鈴音は日本にいた際、ISの操縦を学んでいたか?」
「いや全然。俺と一緒に普通に学校に通ってたぜ」
「……なるほど。つまりISの訓練校に通っていた期間は、最長でも一年になる」
一同、ハッとした。
肩書きと経歴が釣り合わない。あくまで単純計算ではあるが、一年の訓練期間で専用機持ちの代表候補生になれるのならば、上級生は全員そうなっている。
それはおかしいのだ。明らかに何かの誤作動が生じている。
原因を推測しようにも答えは明白だった。
「
「天、才」
あの東雲令が、断言した――
それは少なからずの衝撃を教室に振りまいた。
「専用機持ち、ともおっしゃっていましたわ。そこに至るまでのレースは、まず代表候補生の枠を勝ち取ること、さらに代表候補生になってから専用機を与えられるほどの評価を受けること……一年足らずというのは驚異的ですわね」
「そう、なのか。セシリアはどれくらいかかったんだ」
「わたくしは三年かかりました――なので二年キャリアが長い分、わたくしの方が上ですわね」
「……お前、結構負けず嫌いだよな……」
いきなり子供みたいな理屈を言い出したセシリアはさておき、一夏は東雲に視線を返す。
彼女はいつも通りの無表情だった。
思わず他のクラスメイトらは、固唾を呑んで師弟の会話に耳を傾ける。
「勝率は低い」
「ああ、想定通りだ」
「手も足も出ず敗北することもあり得る」
「ああ、知ってるさ」
「――足を引きずり血を吐き、それでも勝利へ手を伸ばすことを諦めない覚悟は?」
「――できてるよ」
一夏はニィと笑ってみせる。
東雲は眉一つ動かさず、しかしはっきりと頷いた。
「当方も凰鈴音の専用機に関するデータを集める。本日放課後より、凰鈴音を仮想敵とした訓練をメニューに組み込む……篠ノ之箒、助力をお願いしたく思う」
「おさななじみ」
「今の箒さんは大変な時期なので少し放っておいてあげてくださいな」
「委細承知。ならばセシリア・オルコット」
「承知しましたわ。中国が奇々怪々な特殊兵器を代表候補生の専用機に積み込むとも思えません、ある程度傾向を絞って、いくつかパターンを組んでおきましょう」
流れるように打ち合わせは進む。
その様子を見ている他の生徒も理解する、この四人はいいチームなのだと。一人エラーを吐いて動かなくなっているがまあそれはご愛敬だ。
「――勝つぞ、織斑一夏」
「ああ……!」
一年一組。
クラス対抗戦に向けて現状、最も高いモチベーションと優れた環境が整備されたこのクラス。
唯一の男性IS乗りが波乱を巻き起こすことを、誰しもが肌で感じ取っていた。
(何よ、あれ)
二組の教室で授業を受けながら、鈴はほぞをかんでいた。
板書を取っているフリをしているが、ペンは一切動いていない。
(あんなの知らない。あんなの知らない。あんなの、あたしが知ってる一夏じゃない)
自分を肯定してくれた。唯一無二の光だった。
自分が守ってやらなくてはならない、どこか抜けた少年だった。
放っておいたらふらふらと迷子になっていそうな、自分や弾が手を引いてあげることが必要な庇護対象だった。
唐変木でお人好しで巻き込まれ体質で天然たらしで。
だから学園に入学することになった経緯で彼がどんなリアクションをしたのかも分かるし、相当不本意だったろうと分かる。
クラス代表にもいつの間にかなっていて。
そういう風に、自分だけが置き去りにされた状況で周りがどんどん進み、しかし何故か結果的に事態の中心に居座っている。
鈴にとって一夏とはそういう、危なっかしい少年だったのに。
(分かんない。あいつ、何があったの? どうしてなの? あたしが知らないところで何があったの?)
彼は自分の両足で立って、決然と宣戦布告を受け、さらに宣戦布告し返してきた。
やる時はやる男だった。でも、違う。こうじゃない。あんな風ではなかった。
戸惑いは困惑に変わり、困惑は苛立ちへと変換される。
知らない。彼を知らない。ずっと隣に居てくれて、ずっと隣に居たのに、彼は自分の知らない間に自分の知らない彼になっていた。
それが根拠なく鈴を苛立たせる。感覚が訴えている。そこに自分の知らない存在の影響があることを感じ取っている。
(――あたし、ただもう一度、アンタと馬鹿みたいに笑い合いたいだけなのに)
そうして苛立ちは怒りへと膨張する。
筋違いであることを理解しているのに、感情が言うことを聞かない。
それは、
バキリと、握っていたペンの折れる音が響いた。
(怪文書パートのノルマを達成できなかった自分は)未熟です…
次回
15.東雲式必殺技講座