夕食を終えて。
IS学園生徒らはクラス単位で定められた時間にお風呂に入ると、いよいよ消灯時刻を目前としていた。
「今年の騒ぎは、例年と比べて特段にひどいな……」
教員用の風呂時間は短く、露天風呂を満喫するにはやや不足していた。
それでも多少は気分転換になったと、千冬は浴衣姿で廊下を歩きながら呟く。
「そうですね。一学年にこれだけ騒ぎの種が詰まっているのって凄いですし! いやホント勘弁して欲しいんですけどね~……」
隣を歩く山田先生もまた、肩を落とし全身で疲労を表現している。
「とりあえず私は、岩盤浴に行ってきます……水分を抜かないと……」
「水分……?」
「織斑先生には分からないかもしれませんが、私はすぐにむくんじゃうんですよ~! 体積が……見た目の体積が……ッ」
ぶつぶつと恨み言を連ねながら、山田先生は岩盤浴場への道を歩いて行った。
首を傾げ、千冬は自分の頬を少し触った。むくみなどという現象とは縁がなかった。
(……不要な物質は即座にナノマシンが分解・転換するから、か……)
自分の手を見つめて、千冬は寂しそうに笑う。
生涯、弟には隠し通すつもりだった。出来る出来ないではなく、そうしなければと思った。背負うのは自分だけでいい。血塗られた運命を知らずに育って欲しかった。
存在が千年の旅路の果てに完成した
(だが、あいつは乗り越えた。それすら糧にして、上へ上へ、ただ前を向き続けている……)
あの時。
周囲に居る人々は、一も二もなく一夏の本質を受け止め、受け入れた。
ひたすらに眩しい光景だった。千冬は涙ぐみそうになる自分を必死に律していた。
だって──
今でも思い出す。
自分と弟の一挙一動を観察する人々。白い合金で埋め尽くされた箱庭。解放された後に見てしまった失敗作達。ずっと無機質だった研究者達が、束の機嫌を取ろうと愛想笑いする光景。
不愉快だった。人類の発展のため、という題目が形骸化していることを、これ以上なく理解した。
だから、束と二人で、全部消した。
なかったことにした。
一切合切を破壊して。
あらゆる痕跡を消して。
関わった人間や存在を知る人間を消去して──
それでも過去は、自分ではなく弟を追いかけてきた。
(……まだ若いつもりだったが。感傷に浸るとは、私も歳だな)
深く息を吐いて、千冬はゆっくりと手を握りしめた。
「──教官?」
「ん、ああ……ラウラか……」
立ち尽くしている間に、いつの間にかすぐ傍にラウラが居た。
呼び名を改める余裕すらなかった。
久しぶりに下の名で呼ばれ、ラウラは微かに頬を赤く染める。
「何をしている。消灯時間が近いぞ」
「ハッ……はい。その、良ければ少し、お話をと思いまして……」
千冬は面食らった。
思わぬ提案だった。臨海学校において、生徒の方から夜の語らいを──それも、最近は愚弟に熱を上げていた少女から──誘われるとは。
「……まあ、少しならいいぞ」
「ありがとうございます」
言ってから千冬は後悔した。
教師として常に肩肘を張っているからか、こうした誘いに素直に乗ることができなくなっている。
どうせこの後は部屋に戻って、一夏にマッサージをさせてビールを飲むぐらいしかやることがないのだ。ならばもっと夜遅くまで生徒とガールズトークに励んでも良かったかもしれない。
(ええい……何を悩んでいる……教師として、次の時代を切り拓くことだけに注力すると誓ったはずだ。それだけの舞台装置に徹すると。そして何より、
千冬は頭を振った。
自分らしくない悩み方だと自覚していたからだ。
「教官?」
「いや、なんでもない。それで話とは何だ?」
「はい。今更と言えば今更なのですが──」
ラウラは数度、周囲に誰か居ないかを確認した。
それから千冬に顔をそっと寄せ、声を少し落とす。
「教官が一夏の残り湯を愛飲しているというのは本当ですか?」
「それが公式ネタみたいな風潮本当に止めないか?」
千冬は強く歯噛みしながら、全身で拒絶を示した。
風華チルヲの功罪は大きい。
「──で。一体全体何の用件だ」
「ハッ……ここのところ、一夏……教官の弟の訓練に関して、新たな方策を打ち出せればと思いまして、是非相談に……」
「嘘だな。貴様が私に嘘をつくときはやや右手が震える」
思わずラウラは自分の右手を押さえた。
それからハッと千冬の目を見た。
「ああ、勿論、今のが嘘だ。
「……ッ!!」
フンと鼻を鳴らし、千冬は辺りに視線を巡らせる。
「曲がり角に篠ノ之とオルコット。反対側には凰と更識。おまけに天井裏にはデュノアか……随分と大層な布陣を敷いたな。目的を話せ」
「……言うことは出来ません」
「ならばこちらから当てよう。私をどこか別室に送る……例えば、お前の引きつけが成功すれば一夏を部屋から連れ出す。或いは長話に持ち込み、私が酒を飲んで潰れるのを待つ。やりようはいくらでもある。とにかく最終的な目的は、一夏がいる部屋から私を排除することだ。違うか?」
「────」
ラウラは努めて平静を保った。唇も自然体のまま、何のことやらと首を傾げてみせた。
しかし。
「当たりだな。視線のブレが5倍になり、心拍数も上昇。発汗作用も働き始めた……何より今の会話を聞いて、天井裏のデュノアがびくりと肩を震わせたぞ」
「……教官自身が嘘発見器と言い張るおつもりですか。さすがにそれほどの芸当ができるとは思えません」
「そうか? お前はそう思っていないみたいだが?」
言葉が言い切られると同時。
千冬が神速で踏み込み、ラウラに手を伸ばす──だが空を切った。即座に背後へ飛び退いたラウラは、浴衣の袖から暗器を射出している。
「
己の右腕を縛る細い光の糸を見定め、千冬は舌打ちした。
かつての教え子らしからぬ小技。ラウラの本気度がうかがえる。
動きに刹那の制限。途端、箒と鈴が飛び出した。
(左右からの挟撃! 策を講じているとは思ったが、まさかこれは──!?)
確認すれば、ラウラ以外のメンバーは片耳にインカムを付けていた。
間違いなく
箒と鈴の突撃を受けて、リアルタイムで生徒らが行動を起こす。天井の板を外したシャルロットが捕縛用のワイヤーアンカーを千冬の左足に巻き付けた。
「小癪な!」
思い切り引っ張るが、既にアンカー部を手放したらしくシャルロットとラウラはその場から離脱している。
同時、コンマ数秒縫い止められた左足に二方向から弾丸が殺到、空中で炸裂すると粘着性の樹脂をばらまく。
「トリモチランチャーだと!? どこからそんな代物を持ってきたッ!?」
両足を封じられ、千冬は珍しく狼狽の声を上げる。
狙撃してきたのは廊下の両端を陣取っているセシリアと簪だ。
二人は絶えず耳元のインカムに指示を飛ばしている。どうやら指揮官と副指揮官であるようだ。
(いや──いやいや、私の弟への夜這いだろうッ!? ここまでするか、こいつら!?)
狼狽している暇はない。左右から箒と鈴が挟撃を仕掛けている。
千冬は両者の気質をよく知っていた。
(ここで手数を減らすッ!)
人類最強は僅かな挙動だけでも、人類最強である。
ギリギリのタイミングでトリモチを脚力で剥がし、そのまま跳び上がる。狭い廊下の中、左右へ逃げることは出来ない。
(そのままぶつかって同士討ちしろ!)
しかし。
廊下の中央で箒と鈴の視線が交錯した。
「
「
な、と千冬は口を半開きにして呆けてしまった。
激突の寸前、箒は滑らかに身体を後ろへ倒し、スライディングに近い体勢へ移行する。
鈴の小柄な身体は微かなステップで箒の脚に乗り上げ、即座に箒は片足で彼女を蹴り上げた。
「ここで落ちてもらうって言ってんのよ──ッ」
眼前に鈴の顔が迫っていた。
空中で片腕を取り、軍式拘束術を発動させる。
(あたし一人で押さえられるとは思ってない! だから……ッ!)
(追撃!)
(激流ッ!)
(封殺ッッ!!)
即座に近接戦闘装備に切り替えた箒、シャルロット、ラウラが空中へ加勢に来る。
完全に千冬の予想を凌駕していた。
三方向からの攻撃が迫る。鈴に腕を取られ、拘束され、身動きの取れない状態。
(獲ったァ──ッ!)
勝利を確信し、鈴が唇をつり上げた。
しかし。
「舐めるなよ小娘共──ッ!」
制限されていない片腕で鈴を弾き飛ばし、向かってくる三人を片足であしらう。
そのまま天井に片手をつくと、弾くようにして一気に地面へ下りた。
驚嘆の半ばに、それぞれ散開し再ポジショニング。千冬を取り囲む形で代表候補生らが得物を構えた。
「……六対一とはいえ。生徒相手にここまで有利を取られるとはな」
私も衰えたものだ、と彼女は苦笑する。
「個人の練度も、連携も、十二分以上に磨き上げた──認めよう。お前達はまさしく黄金世代であり、一人一人が国家代表の座に手をかける逸材なのだと」
そう言って、千冬は自分を見つめる生徒らを見渡す。
「これが授業の模擬戦なら。或いは、データ取りのための訓練なら。このまま私は本気をセーブし、お前達が一矢報いるようなチャンスを与えても良い。そう思えた」
一同、思わず呆けたように口を半開きにした。
特にラウラの驚愕はひどかった。まさか千冬が、このようなねぎらいの言葉をかけるとは。
しかし。
「だが──弟を渡すことは、断じて認めん」
同時。
「フン。やはり劣化しているか……かつての4割もいかんな」
一瞬だった。その変化に気づけたのはセシリアだけであり、さらに彼女がそれを自分の幻覚でないと確信する前に、もう瞳の色合いは元に戻っていた。
「私らしくもないが……あえて言おう」
空気が激変したのを、誰もが肌で感じ取った。
明確な死の予感。箒と鈴の感覚が最大音量で警鐘を鳴らし、戦場を俯瞰するセシリアの天眼が敗北を確定した未来として見据えた。
「──私は、七手で勝利する」
直後、千冬がアクセルを踏み込んだ。
距離を殺し、一瞬で箒を壁に叩きつける。
「一手」
初動で近接戦闘の最難関を潰し、他の面々が反応する余地も与えない。
即座の切り返し──最速で反応した鈴に対して、振り向きざまに完璧なカウンター。突撃のために半加速をかけた姿勢で、鈴が廊下に転がされる。
「二手」
次に狙いを定めたのは近いラウラとシャルロット。
状況をまだ飲み込めていないラウラに対して、浴衣姿とは思えぬ身体捌きで距離を詰める。
ぎょっとして、ラウラは後退しようとし、天井裏からシャルロットが支援する。
「ラウラ早く退いてッ」
「あ、ああ──違うッ!
「三手」
ぎしり、と軍仕込みの戦闘機動が制限された。
ラウラは自分の右足を見た──先ほど剥がされたワイヤーが、今度はアンカー側を重りにしてラウラの身体に取り付いていた。
(いつ、の、間に──!?)
「四手」
そのまま千冬は腕力のみでラウラを真上へ打ち上げた。
虚を突かれ、シャルロットは動けない。そのままラウラが天井板を突き破り、シャルロットに激突。
木片と共に二人の身体が落ちてくる。
「五手」
結果には頓着せず、千冬は迷うことなくセシリアの方向へと加速する。
(……ッ!? 先にわたくしを潰しに来た!?)
改造したトリモチランチャーの弾丸を再装填しながら、セシリアは直線の廊下を真っ直ぐ突き進んでくる千冬に照準を定める。
発砲。直撃コース。
しかし千冬は右手を突き出すと、優しく、撫でるようにして──
「な、ァッ──!?」
超絶技巧に驚いてる暇はなかった。
距離を詰めた千冬相手に、セシリアはライフルを振り上げる。発砲をフェイントとした、銃身を斧のように振るう近接戦闘。
「六手」
するりと、銃身が千冬の身体を滑った。
篠ノ之流が誇る絶対的な受け流しの技術。勢いのままに両腕でライフルを奪い取り、セシリアを地面に叩きつけながらターン。
コンマ数秒後には膝射の体勢で、銃口が反対側の簪に向けられている。
「……ッ!?」
「七手──」
トリガーが優しく引き絞られ、二つの弾丸が交錯した。
千冬の耳を掠めたトリモチランチャーが壁に着弾する。世界最強は一切そちらに気を取られることなく、トリモチ塗れになった簪を冷徹に見据えていた。
「ふっ……カウント通りにいかなければ、どうしようかと思ったぞ」
死屍累々の廊下を見渡し、千冬は不敵な笑みを浮かべる。
ここに、決着はついた──織斑一夏の貞操は姉によって守られたのである。
「くっ……今回は負けましたが、いずれ第二第三の私たちが貴女を倒します……!」
「敗者の戯れ言は聞いていて楽しくないな」
六人を引きずりながら、千冬は自室へと戻る道を歩いていた。
無様な敗北者六名を肴にしよう、あるいは彼女たちの前でマッサージを受けようという目論見である。
どんな顔をするだろうかと嫌がらせを真剣に楽しみにしている間に、一夏と千冬の部屋にたどり着く。
「戻ったぞ」
ガラリと、千冬は扉を開けた。
その姿勢のまま凍り付いた。
「あ、千冬姉おかえり。先に東雲さんが来てたからさ、マッサージ先にやっちゃってるぜ」
「……んっ♥あっ♥あ♥んぉ♥……りゅ♥……んふ♥ふぉ♥……りゅっ♥……ふぁい♥……ぁあ♥……えぁ♥ひぅう♥ら♥らめぇっ♥ひああぁあっ♥オオォアアア♥♥♥あひっ♥あああああっ♥♥ひああああああああッ♥あっ、あっ♥はぁっ……はっ♥はっ♥あ゛ーっ♥♥イキたくない♥イキたくないのにぃ……♥♥」
布団にうつ伏せの状態で、『世界最強の再来』が部屋中に響くような嬌声を上げていた。
マッサージの過程で浴衣も半分はだけており、背中が大胆に露出している。
突然のCG回収を前にして、千冬たちの両眼から光が抜け落ちた。
「何で…………何で私を差し置いてマッサージを受けてるんだこいつはァ──ッ!!」
世界最強は吠えた。
そうして最後の夜は更けていく。
誰彼構わず騒動に巻き込まれ、騒がしくも温かい時間が過ぎていく。
嵐の前触れだと、誰が気づいていたのだろう。
時間は巻き戻せないと、何人が本当に理解出来ていたのだろう。
臨海学校宿泊先から遠く。
遠く、遠く──遠く。
水平線の向こう側で、光の翼が噴き上がる。
「『
「擬似第三形態『
「高速演算開始……完了。織斑一夏撃破時の損耗率14%。規定値に到達」
「全体経過、必要値の116%と定義。戦闘訓練を終了する」
「──私は『零落白夜』を討ち滅ぼす」
最後の夜が明けて。
最後の朝が、くる。
次回
77.最後の朝