日が昇り始めた早朝。
一夏はうんとノビをしながら、朝焼けの空の下、浜辺を歩いていた。
(……いい朝だ)
水平線の微かに上で、朝日が眩しく輝いていた。
柔軟体操をした後に軽く砂浜を走る。まだ級友らは起きていない。早朝のトレーニングに励む生徒らも今日ばかりは休んでいる──だが、一夏は休むわけにはいかなかった。
(朝風呂を使えるって臨海学校のしおりには書いてあった。使わない手はないな)
追いつきたい相手が、余りにも遠すぎるから。
一秒でも足を止めたら、彼女は二度と手の届かない所まで行ってしまいそうだから。
(…………俺も、いつかは)
走りを止め、息を整えてから、両足に力を込める。始めるのは今までとは違う猛スピードでの疾走。
無言で砂浜を全力疾走し、一夏は考える。
彼にとって到達するべき領域はいくつかある。
第一。代表候補生のレベル。試合では上手く戦えているが、結局は一発限りの奇策に頼っている面が大きい。もっと地力を伸ばし、真正面から太刀打ちできるようにならなければならない。
第二。国家代表のレベル。東雲令相手に二割の確率で勝利できる、日本代表の姿は今でも思い出せる。彼女のように、徹底的に差を詰めて、工夫一つで逆転できるようなレベルまでたどり着かなければならない。
第三。
(いつかは……二人が居る場所に。二人と、真っ向から戦えるように……!)
決意を新たにし、海辺で朝日を浴びながら彼は一人で走り続ける。
──その姿をじっと観察している少女がいるとも気づかずに。
(大胸筋が凄いことになっている……もうあれはおっぱいなのでは? だが、当方の方がおっぱいは大きいな……日差しによる錯覚で当方より大きいようにも見えるが、いいや! 当方の方が! おっぱい大きいな!)
そんなところ張り合わなくていいから(良心)
愛機のカウントを受けて、一夏は足を止めた。
繰り返していたのは200メートルの全力疾走。数十秒のインターバルを挟みながら行われるそれは、彼の身体をこれ以上なく酷使していた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」
荒く息を吐きながらも、持ってきたスポーツドリンクの水筒がある岩場へと歩く。
昨日仲良くなった従業員の厚意を受けて、あらかじめ用意していたグレープフルーツベースのドリンクにハチミツやアミノ酸、塩分補給用に天然塩をブレンドした特製ドリンクだ。
「む。走り終えたか。ドリンクだ」
「あぁ……ありがとう……」
岩場に腰掛けていた東雲から水筒を受け取り、一夏は特製ドリンクを一気に流し込んだ。
ぬるめに保温されていた水分が身体に染み渡る。
走りながらも、浴衣姿の東雲がやって来て水筒のすぐ傍に座り込んだのは見えていた。
「おはよう、おりむー。精が出るな」
「おはよう、東雲さん。そうでもないさ。東雲さんだって、随分早起きだ」
「少し事情があってな」
ふーんと聞き流そうとしてから、彼女の瞳が微かに揺れていることに気づいた。
首を傾げてどうかしたのか? と問えば、東雲は頭を横に振る。
「何でもない」
「本当かよ……そういやさっき、従業員さんが言ってたぜ。昨晩仕込みをやっておいた朝食用の具材が減ってたってさ」
「ほう。炊事場に盗みに入るとは、随分と無作法な奴がいたものだ」
「だよなー。ところで、俺は東雲さんがやったと睨んでるんだけど」
即座に東雲は顔を背けた。
余りに露骨な態度を見て、思わず一夏は頬を引きつらせる。
「心当たりのある反応じゃねーか。もう確定だろ」
「ない。断じてない。そんなことをするほど当方は卑しくない」
「ふーん……まあ俺は怖くて盗み食いなんて出来ないな。バレた時のことが恐ろしすぎる」
「ほう、おりむーがそこまで怖がるとはな…………ちなみにだが、まったく当方には関係のない話だが、バレたらどうなるんだ?」
「やってるなコレ」
確信を抱いて詰め寄るが、何処吹く風とばかりに東雲は動じない。
それどころか正面から弟子を見つめ返すと、滔々と言い訳を並べ始めた。
「仕方ないだろう。空腹に耐えきれなかったのだ……一学年分もあったのだぞ? 多少の減りは目をつむって然るべきだろう」
「盗み食いしといてこんな図々しいことあるんだな。いいから謝りに行こうぜ。さっきはああ言ったけど、実際二人分とかなら減ったって問題ないだろうし」
「そうだろう。せいぜい食べたのは1クラス分程度だ」
「1クラス分??」
数秒絶句した。
痛恨の激ヤバやらかしである。
「1クラス分って……1クラス分って、やばくね? え、だって1クラス分ってことは、30人分ぐらい? 30人分ってことは……1クラス分だぜ?」
一夏は完全にキャパオーバーしていた。
誰がどう考えてもつまみ食いの範疇に入る被害ではない。れっきとした営業妨害である。料理漫画における主人公への妨害行為にも等しい。
1クラス分の朝食を収めたという腹を撫でながら、東雲は息を吐いた。
「最高だったぞ」
「何が!?」
言うに事欠いて勝利宣言と来た。
この師匠は一体何を考えて生きているのか、改めて不安になる。
「ていうか、その身体にどうやって入ってるんだ……本当はもっとこう、ぶわっと膨らんでそうだけど」
一夏は両腕を広げて、これぐらいあればおかしくないとアピールする。
ちょっとしたアドバルーンぐらいの大きさで、それぐらいに広がるにはゴムゴムの実を食べる必要がありそうだった。
「……おりむー。一応補足しておくが」
「うん?」
「まっとうな人体はそんなに膨らまないぞ」
「まっとうな人間はそんなに盗み食いしねえよッ!?」
言い返すも、東雲は遺憾極まりないとばかりに頬を少し膨らませている。
この世間知らずを通り越して馬鹿の頂点に手をかけつつある師匠になんと言ったものか、一夏が頭を抱えていると。
「そんなに心配なら確認するといい。当方は既に食物の消化を終えているぞ」
「へ?」
意識外を突く接近──既に熟達した代表候補生と遜色ないレベルの一夏でさえ、近づかれてから気づいた。目と鼻の先に東雲の首筋があった。背中を向けて、彼女はほぼ密着状態で彼にすり寄っていた。
「ほら」
「ちょ、あっ──」
手を取られ、されるがままに腹部に腕を回し、身体を抱き寄せるような姿勢。
いわゆるあすなろ抱きの変化系である。
「…………ッ!?!?!?!?」
鼻筋に彼女の優美な黒髪が触れて、思わず一夏は腰を退きそうになった。
遠いと、それでもいつか並び立ってみせると目指していた少女と、これ以上なく密着している。
(ど──どういう状態だよコレ! 意味わかんねえ……! 頭がフットーしそうだ……)
頬が熱い。ひどく熱い。
自分は今とんでもない顔をしているだろうと自覚し、一夏は彼女が前を向いていることだけが救いだと思った。
「おりむー」
「な、なんだよ」
名を呼ばれ、返事をする。それだけで声が震えた。
一方で東雲の声のトーンに一切の変化はない。
自分だけが意識しているのではないか、と考えただけでも思春期男子としては恐ろしいモノがあった。
「これ…………すごく、恥ずかしいな」
「え?」
必死に視線を真上へ上げていた一夏は、ハッと顔を下げた。
黒髪越しに、彼女の耳が赤く染まっているのが見えた。
(しの、のめさん……もしかして。もしかして、照れ──)
「失礼。冷静な思考ができない状態なので、少し冷やしてくる」
腕を振り払い、東雲は猛然と砂浜を疾走した。
「え? は、ちょっと東雲さん!?」
そのまま見事な飛び込みで海に突入すると、あっという間に遙か彼方へ泳いでいってしまう。
バシャバシャバシャ! と派手に水しぶきが上がって、けれどすぐに水しぶきですら水平線と同化していった。
「……………」
一夏は自分の手を見た。
さっきまで腹部に触れていて、彼女の熱が伝わっていて──自分も少し頭を冷やしてから帰ろう、と一夏は思った。
朝食を食べ、IS学園臨海学校は主目的である新装備試験運用に入ろうとしていた。
午前から夜にかけて一日を費やし行われるこの試験は、専用機持ちは特に大量の装備をこなさなくてはならないハードな代物である。
「大丈夫? ラウラ、ちゃんとご飯食べた? 相当厳しいって話だけど……」
「心配しすぎだ。必要な分の栄養は摂取してある。むしろ食べ過ぎた生徒が吐かないかが心配だぞ」
専用機持ちは集まって、IS運用用のビーチを目指し歩いていた。
四方を崖に囲まれた特殊スペースは元より機動兵器実験用にISを用いて切り出されたらしく、特殊なルートを歩かなければ中には入れない。
教師の先導に従い、生徒らがぞろぞろと歩いている中。
「あら? 令さんはどちらに?」
「ッ」
いるはずの人物がいないことに気づき、セシリアは首を傾げる。
その名前を聞いて、一夏の肩が跳ねた。
「む、知っているのか?」
「……あ、ああ。いやなんか……朝、凄い勢いで遠泳しに行った……」
「はぁ? 新装備実機テストだって忘れてんじゃないの? あたしも忘れたことにして泳ぎに行けば良かったー」
鈴が頭の後ろで手を組みながら文句を言う。
一夏はそれに取り合う余裕がなく、今朝の逢い引きにも等しい行いを忘れるべく必死に頭を振っていた。
「やたら挙動不審だが……一夏、令と何かあったのか?」
「な、何もねえよッ」
態度が『何かありました』と雄弁に物語っていた。
少女たちから浴びせられる疑いの視線に顔を背け、一夏はズンズンと大股で訓練用の岩場へ歩き出す。
が、動揺が身体に出た。
「あっ」
慣れない砂浜ということもあってか、脚がもつれた。
そのまま受け身も取れず、ドッターン! と派手に転び、砂煙が上がった。
「……………………」
「…………ブッ、ブッハハハハハハ! ヒーッ! あんたばっかじゃないの何もないとこで転んで! なっさけない! それでも専用機持ちなの!?」
唖然とした表情で仰向けに倒れている一夏を見て、鈴が腹を抱えて笑った。
「あんたほんとおバカ! なーにやってんのよ唯一の男性操縦者──」
笑いながら、彼女は一夏の元へと歩み寄り。
途中で小石を踏んでバランスを崩し、ビッターン! とうつ伏せにすっ転んだ。
「…………」
「…………なんか言いなさいよ」
「かける言葉がねえよ」
うつ伏せのまま鈴は低い声を出したが、一夏は目をつむって首を横に振った。
「あの、何を遊んでいるのですか?」
「エリートである心構えがまるでないようだな」
「流石に擁護できない」
セシリア、ラウラ、簪があきれ果てたように嘆息する。
いつまで倒れているつもりだ、と二人に手を伸ばすべくかけよって。
バターン! セシリアが真後ろから飛んできたビーチボールを頭部に受け、もんどり打って転がった。
ズルベッターン! ラウラがバナナの皮を踏んで流麗な軌道を描き倒れた。
ドンガラガッシャーン! 簪がウィンドウ操作を誤り空中にIS用装備を展開してしまい、機械に巻き込まれながら横凪ぎに吹き飛ばされた。
三者三様のぶっ倒れ方を見て、思わず箒とシャルロットが真顔で立ち止まる。
「えっ何だコレは」
「分からない……ハンター試験でも始まってるのかな……」
うつ伏せの姿勢からセシリアは身体を横に起き上がらせると、優雅に肘を突いて手を顔に添える。
「あら失礼な。わたくしコケたわけではないです。ちょっと寝そべってるだけですわ。メガミマガジンのピンナップ用です」
「無理があるだろそれは」
「恐ろしい空間だな。本当に脚がもつれたぞ」
「滑りやすい。とても滑りやすい。だから仕方ない」
「お前らは別だよ。なんかもう別問題だよ。ここ変なパワースポットなのか?」
立ち上がれば、候補生らはとんでもないドジを踏みまくった事実をなかったことにするべく空を見上げた。
「ほら、なんとなく磁場が狂ったっていうかさ。身体が危険信号を発して意識とズレた? 的な?」
「的なって自分で言ってるぞお前……」
一夏の言い訳を切って捨てて、箒は嘆息する。
無理があったかとぼやき、砂を払ってから一同は歩き出した。
まったく全員揃って何をしていたのか、と一夏は呆れながらも笑った。
それはごく普通のありふれた日常で。
それは一夏がずっと続いて欲しいと願う平穏で。
だから、安寧が破れるのにはさしたる前兆などないことを、誰もが忘れていたのかも知れない。
超高高度より接近アラート。
聞き取れたものは僅かだった。
超スピードで物体が移動し、摩擦に大気が燃える音。
機械仕掛けの装甲が停止の反動に軋む音。
誰かが何かしらの反応をする暇もなかった。
隕石が砂浜に降ってきた、と勘違いする生徒もいた。
爆発じみた砂煙が上がり、浜辺の中央から円状に烈風がまき散らされる。
咄嗟に顔を庇った一夏たちが恐る恐る手を下げたとき、ソレは悠然と浮遊していた。
────
「え?」
IS、だった。
誰がどう見てもそれは、IS──超兵器インフィニット・ストラトスだった。
「何だ、これは」
箒の呆然とした声は全員の内心を表していた。
流麗なシルバーの装甲が全身を覆っている。
バイザーは真っ赤に染まり、絶えず何らかのエラーコードを表示しているのが見えた。
そして何よりも、光を凝固させたかのような翼。
実体のない熱量集合体が、この場において最も
違う──自分たちが知っているISと、何かが、否何もかもが違う。
根本の微かなズレから全部が狂ってしまった完成形を見たような違和感。
「──
他には何もない。
いつも通りの仲間達。いつも通りの騒ぎ。いつも通りの光景。
ただ一点、残酷なまでに眩い、銀色の天使だけが違った。
【OPEN COMBAT】
敵意を感じる暇すらおかずに、愛機が勝手に装甲を顕現させた。織斑一夏の全身が純白の鎧に包まれる。
乗り手の意志を飛ばして行われる緊急展開。その行為が眼前の天使を、より憤らせるとも知らずに。
「──『白式』ッ!?」
「零落白夜の反応値、予測ラインを大幅に超過──迅速な殺害を推奨、実行する」
日常が反転する。
最後の日常が、終わる。
「世界はまだ滅びには至らない。私がそうさせない。私が世界を守る」
「何、を……ッ!?」
「世界を滅ぼす因子は私が滅ぼす。彼女が存命するこの世界を私は守り抜く。故に──」
翼が広がった。青空を埋め尽くし、かき消すようにして
砂浜を照らし上げる極光は、罪を暴く荘厳な神の裁きにも似ていて。
「──滅びろ、
世界を救うために。
英雄が、立ち上がった。
臨海学校にあと7話もかかると判明してガン萎えしてしまった
他と比べて長すぎるだろ劇場版か?
まあ劇場版みたいなもんか……
次回
78.銀翼の救世主