僕はどこにでもいるいたって普通の高校生を自称しておりました。いや実際、僕は高校に通っていたのですから、高校生というところに嘘偽りはまったくございません。しかし「普通の」という部分が問題らしく、どういうわけか周りの人に君は変人だと言われました。これはこれは不思議なことでした。
僕はまったく普通の人間で、そりゃ多少は他人と会話が噛み合わないこともありましたから、そういう意味で感性は少し独特かもしれませんが、僕はいたって普通のことしかしていなかったのでございます。さっきから普通普通連呼するだけじゃどういうことかまったく分からないぞと怒られてしまいそうですが、普通の事というのは普通であるがゆえに説明の難しいものなのです。
しかしそんな僕を狂わせてしまうものが一つだけありました。その前の席替えによって僕の前の席に移動してきた女子――失礼、
またご令嬢は毎朝微妙に異なった髪型でいらっしゃいました。大体の髪型は編み込みなのですが、そこに
僕はその頃恋人との別れを経験していました。かなしいことと思えばかなしいし、かなしくないことと思えばかなしくないことでございます。あるいは本当にかなしくないのかもしれませんし、かなしいと認識するのを無意識くんが拒否しているのかもしれません。でもそんなことはどうでもいいことです。僕は彼女の髪型をみるとき、そのすべてにひれ伏して、ああ、打つ手なし! すべての悩みは泡と化します。すべての悲しみは灰と化します。
そんな僕はある日電車に乗っていました。いつもどおり車両に乗り込み、いつもどおりつり革を掴み、なにかもいつもどおりでした――その瞬間までは。といいますのも僕の隣に一人のご婦人が――といっても三十歳戦後なのですが――が乗り込んできまして、なんとその方の香りが別れた恋人に似ていたのでした。それまでかなしみというかなしみを感じたことがなかったのにもかかわらず、瞬間、恋人とのあらゆる記憶が一斉に蘇り――最近の研究によると匂いは五感の中で最も記憶と結びつきやすいとか結びつきやすくないとか――僕の目頭は一気にカッと熱くなってしまったのです。要するに僕は泣きたくなりました。
しかしなんというかなしみ、まぶたは涙でいっぱいになるのに、一向に涙くんから「堰を切ろう」という意思を感じ取れないのです。泣くことは気持ちをすっきりさせることにつながるとどこかの本で読みました僕は「がんばれ」「したたれ」「表面張力仕事するな」と脳内で念じましたが、無意味でした。結局僕はよく分からない不愉快さに耐えきれず、最寄り駅の二、三駅手前で一時下車しました。僕の最寄り駅はお世辞にも都会とは言い難く、各停電車しか停まらないので、僕が下車した駅もほとんど人のいないひっそりとした駅でした。
外の風にあたると、少し気持ちが落ち着きました。次の電車が来るのを待っていると、左の肩をとんとんと叩かれました。振り向くと、そこには、僕がかつて付き合っていた女の子が立っていました。
「ひさしぶり。」
と彼女は控えめな声で言いました。そこで僕も、
「ひさしぶり。」
と言いました。
会話はそれきり途絶えてしまいました。彼女の気持ちはどうだか知りませんが、僕は会話を続けようという気持ちがありませんでした。付き合っていたといっても過去の話だし、むしろここで中途半端に会話し、意気投合し、また好きにでもなったらかえって面倒なことになると解っていたからです。ですが、これは僕の勘違いでしょうか、自意識過剰でしょうか、彼女はこころなしか楽しそうに見えたのです――不思議なもので、会話がない方が、逆に当時付き合っていたころの空気を思い出すような気がしました。
「最近、どう?」
最初に口を開いたのは彼女の方でした。
「楽しいよ。」
僕は目を合わせずに答えました。
それからまた会話が途絶えました。数分後来た電車に乗って、僕たちは最寄り駅に着きました。ふと振り向くと、ああ、過去の自分が恋に落ちたのは道理だ、かわいらしくてうつくしい女の子がそこに立っていました。僕はとっさに手を取ったり抱きしめたりしたくなりましたが、僕のような不浄の人間に許されていいわけがありませんので、きちんと抑えました。
「君は最近どうなの?」
「楽しいよ。高校でもバレーやってるんだよね。そういえば何部入ったの?」
それからは少しずつ話が弾み、この人と一度は恋をして一度は別れたということがどこか遠い出来事のように感じられました。僕はなんだか急に気恥ずかしくなって駆け出しました。それから振り向くと、そこには僕の前の前の前の恋人が立っていました。
「あれ、ユカは?」
「過去の恋人の話をするのは論外だけど、未来の恋人の話をするのもタブーだからね?」
彼女は眉をひそめました。眼の前に立っているかわいらしくてうつくしい女の子を見て、そうか、僕は今この人と付き合っているのか、と思いました。なんて幸せなことでしょう。不浄の身に余る幸福。
「いや、ごめんごめん。なんか僕が、君のような人と付き合えているって、実感が湧かなくて。」
「んーん、それらしい言葉は言えるんだけどね。」
僕は彼女の手を取りました。
「えっ、えっ、なに、ちょっと。」
――声で分かりました。この人は、僕の初恋の人。そして僕が人生で好きになった相手で、唯一付き合うことのできなかった人。初恋は実らない、とはよく言ったものです。
「いや、ごめんごめん。なんかぼーっとしてて間違えちゃった。」
「ええ、本当に大丈夫? 私、きみとは付き合えないからね?」
「いい。友達として仲良くしてくれたら、それで。」
今まで付き合ってきたどの子も、僕は心の底から愛していました。けれど、どうでしょうか。付き合うことができなかったから
「――うそつき。」
彼女の顔が曇りました。
「え?」
「うそつき。」
「なにが。」
「今の今まで、私のことなんて忘れてたでしょ?」
「まさか! そりゃ常に考えてるなんてことはなかったけど、時々不意に思い出すことはあったよ。」
「もしそれじゃだめだったら?」
――いや、何も言わなくていいよ。彼女は目をつむりました。
本当にこの子は、かわいらしくてうつくしい顔をする。
「私のこと、好き?」
出っ歯気味の歯を見せながら彼女ははにかんだ。
「もちろん。」
「じゃあ、ずっと愛するって誓える?」
――僕は一瞬躊躇った。誓いという言葉は少し重たい。でも、僕だって一つのものをなるべく長く愛していたいし、そのためにならどんな努力だって惜しみたくなかった。愛の深い人に憧れていたのかもしれない。
「分かった。君に誓うよ。」
「良かった。じゃあ、そういうことでよろしくね。」
彼女の言葉に違和感を覚えるや否や、突然、地面から髪――いや、
その時初めて、僕は自分が狂ってしまったのかもしれないと感じた。脳はずっと「素敵だ」という言葉しか発していなかった。それしか持っていなかった。
ついに、この御髪は僕の首に巻き付いてきた。さすがに少し苦しかった。けれど必死に御髪をほどこうとして、そのときに思ったことはただ一つ、「これで念願の御髪に合法的に触ることができる」ということだけだった。しかし力及ばず、そのまま僕の意識は遠のいていった。
――この世界のものとは思えないほど、美しい終劇でした。