歓声が
その熱量と振動は、ステージ裏の控室にまでしっかりと届いていた。
「うん……。うん……!」
壁際のベンチに腰かけて、目を伏せて息を整えていた女性がゆっくりと頷く。
薄く開いた目に翡翠の輝きが宿る。深く昏い生命の輝きが、やがて室内灯をいっぱいに浴びて煌めいた。
少し汗の滲んだ赤みがかった肌は、人の声に感応するようにふるりと震えて、それから。
「行こう、ウィローちゃん。みんなが待ってる!」
花開く笑みと共に立ち上がったアイドル──ナシコは、ステージ衣装を翻して、自分を見上げるウィローへ手を差し伸べた。
爆発的な声が二人の間に響いている。
真新しい電灯の明かりが二人の真上から降り注いで、髪に天使の輪を作っていた。
2月の初め。
今年に入って最初の公演は、2度のアンコールを受けて盛況のまま終わろうとしていた。
10時から始まり、現在は18時頃。久し振りのライブだけあって長時間の開催となっている。途中休憩を含めても6時間半歌って踊ってを続けられるのは、彼女らの体力あってのことだ。
最新のヒット曲から、20年前の曲まで、専用のサイトで公募された選曲で行われたステージは常に最高潮。
周年記念で行われるライブよりも熱の入ったそれは、人々を熱狂の渦に引き込んだ。
興行収入も過去最高となる勢いだ。全ての曲目が終了しても興奮は冷めやまぬままで、何度も二人を呼ぶ声があった。
アンコールには必ず応えるのがナシコというアイドルだ。1度目に姿を現すのは予定調和。
2度目も頻繁にある。企業側からはあまり推奨はされていないが、ファンの想いに応えたいという強い要望で通っている。
今回は、3度目のアンコールがあった。いつもは2度目で満足するか、みんな控えるのに、今回に限って満場一致で二人を呼ぶのは、このステージがこれまでとは違うと誰もが感じているからだ。
「……ウィローちゃん?」
浮かべた笑顔をそのままに小首を傾げるナシコ。
差し伸べた手を取らず、ただ自分を見上げるだけの彼女を急かすように、小さく手を振って催促する。
ほら、いこう? みんなの声に応えよう?
「アンコールに応えるのは、義務ではない」
「義務って……何言ってるの、ウィローちゃん。みんな私達を待ってるんだよ」
にこにことした笑みはステージの上で見せていたものと同じ表情。
とても……自然なものとは言えない、作られたもの。
「疲れちゃった……って訳じゃないよね。ウィローちゃん疲れないもんね」
明るい調子の声は、今この時だけのテンションだ。
ライブが終わり、家に戻れば表情を無くしてぼうっとしてしまうのがここ最近の普段の姿。
だから、アイドルでいる時の笑顔の彼女を、ウィローは無意識的に……いや、意識して求めていた。
「もういいんだ」
でも、それは強要だ。
そうあってほしいと押し付けることで、彼女に笑顔を浮かべさせているだけだ。
彼女が心から愛するアイドルという活動ならば心の底から笑っていられるのだと言い聞かせて誤魔化してきたが、もう限界だった。
「なにが?」
「無理をしなくていいと言ってるんだ」
なあなあでやってきたのは、ここでしか楽しそうにしているナシコが見られなかったから。
曲に合った時だけしか、子供の姿に戻らなくなってしまったから。
外面は可憐なのに、元の形を思い出せないくらい崩れてしまった内面をこれ以上見ていられなくなった。
「ウィローちゃんが何言ってんのかわなんないよ」
あは、と後ろ頭に手をやって困り顔をする彼女を、ウィローは黙って見上げた。
そうしていれば、だんだんナシコの表情が抜け落ちていって、普段の顔になる。
なんの色も浮かんでいない、さりとて無表情ともいえない、ただ生きているそのままの顔。
微かな呼吸が無ければ、精巧な人形が佇んでいるようにしかみえないくらいに、生命力というものが感じられない。
それを直視することを、ウィローはずっと避けていた。ともに歩んできた少女の、こんな姿を、見たくなかった。
でも、このままではいずれ、もっと悪い状況で彼女の内面が晒される事になってしまうだろうから、嫌でも止めなければならなかった。今、ここで。
「……」
「……」
お互い、それ以上交わす言葉はなかった。歓声だけが二人の間にあった。
「……楽しくない」
しばらくして。
もうファンの声も聞こえなくなって、日も落ちて、目に痛い電灯の光だけが満ちる中で……ぽつりと、彼女が呟いた。
◆
彼女にとって、アイドルとは、全てだった。
大袈裟な話ではない。そこで培った何もかもが今までの彼女を形成していたのだから。
誰かと話す方法も、誰かを喜ばせる方法も、自分が幸せの中に立つ方法も、全部そこから学んできた。ナシコという人生の一歩を踏み出せた、光の中に歩み出ることができた……それが、アイドルとして生まれたその瞬間からだった。
守りたいものを明確に感じて、戦う意味を見出して、それを芯に据えて生き延びてきた。
活動を通じて知り合えた仲間達との繋がりが、人生の全てだった。
大好きだと心から言うことができた。笑顔でいるのが自然だった。
「んぐ……」
グラスを傾ければ、カランと大きめの氷が音を立てる。
琥珀色の液体で喉を潤したナシコは、焼けるような熱がお腹に落ちていくのを、しかめっ面をしてやり過ごした。
ナシコの全て。
その全てを、終わらせた。
……本当はずっと前から終わっていたけれど。
地球を守るために外敵を殺した時からアイドルではいられなかった。
心を無くして、歌うことも、踊ることも、誰かを笑顔にすることも楽しくなくなってしまったから、終わらせなければならなかった。
ずるずると続けていたのは、それがなければナシコには何もないからだ。何もなくては、生きていけない。そんな人間になりたくなかった。自分を証明するための輝きを失いたくなかった。
でも、もう無理だ。
だって、楽しめない。楽しくない。
ファンと心が繋がらない。ステージの光が眩しすぎて、自分がどんな表情をしているのかもわからなくなって……ただ、まぶたの裏には未来への不安がずっと
「んっ、んっ、んっ……」
慣れない酒に酔う事で心の隙間を埋める。
丸々一つ失くしてしまっているから、到底埋められるものでなくとも、酩酊感に打ち震えている間はほんの少しだけ複雑なことを考えずに済んだ。
先日のライブを最後にしたいと、事務所に伝えた。
急な話、とはとられなかった。半年ほど前からナシコの様子がおかしいのはわかっていたのだという。
けれど、彼女は伝説だから。彼女を目指して芸能界へ入ろうとする若者は多かったし、目標とされることも多かったから、事務所側からは何も言えなかった。遠い存在になったから、というのは建前だろう。誰だって巨万の富を生み出すものを失いたくはなかったのだ。
『休止、という形にしましょう?』
そう提案したのは、長年の付き合いであるタニシだ。
ナシコブランドを失いたくないオーナーとの板挟みの末に出した結論がそれらしい。
アイドルが大好きなナシコの気持ちを慮ったのかもしれない。きっと少しだけ疲れてしまったのだと、また好きになる時が必ず来るのだと、そう思って。
ナシコは、否を唱えなかった。まだ少しその光に縋っていたかったのかもしれない。
……本当のところ、どうでもよかった。
一人の女の子に戻ります、と短く綴った呟きを最後に、SNSのアカウントの更新も停止した。メディアへの露出もなく、仕事関係の繋がりは全て途絶えた。
これからは、ただ現れる外敵を倒すためだけに生きればいいのだから、必要以上の繋がりはいらなかった。
「~……♪」
不幸だとは思わない。
ただ、ずっと昔みたいに戻っただけだし、目標があるのだから。
全部終わらせたら、きっと心穏やかに過ごせるようになるはず。
それまでは……。
空になったグラスの傍に沈むように寝入る。
夢は見ない。好き、という感情がわからなくて、暗闇の中でそれを探し続けていた。
震える背中に忍び寄った黒い影が、そうっと毛布を掛けて離れていく。
そうして幾日か、ナシコは酒を飲んで、眠ってを繰り返していた。
◆
「出てく、って……どういうこと?」
引き攣った笑みを浮かべて問い返したナシコに、珍しくスーツを着込んだラディッツと、ラフな格好のターレスが「ああ」と短く肯定した。
「仕事の都合だ」
「し、仕事って、なに?」
端的に伝えられた言葉の意味を正しく理解できず、人肌のグラスを握って笑顔を取り繕う。
仕事とか、意味がわからない。今までそんな話を聞いたことはないし……それって、もう、戻ってこないってこと……?
「実習も終わったし、これから忙しくなる。それにいつまでもお前の世話になりっぱなしというのもどうかと思ってな」
「そんなの……いいよ、気にしなくていいんだよ。お世話だなんて、だって、私達……」
「こっちの都合ばかりで悪いけどよ、そういう訳だ。ま、修業がおわりゃあ」
「なにいってるの……? ……なにいってんの!?」
バン、と強く叩かれたテーブルがたわんで揺れる。頬杖をついていたターレスが目を丸くしてナシコを見つめた。
何をそんなに怒ってるんだ。まるで初めて聞いたような反応だが……仕事の話なら日頃から話題に上っているからナシコも知っているはず。
とはいえ、どうせ寂しがって当たってきているだけだろう。二人はそう判断して、しばしの別れの餞別に、普段はあまりしないスキンシップをして、家を出て行った。
「……っ!」
力任せに払い除けたグラスと小皿が壁にぶつかって砕ける。
折れた箸と、つまみにと作ってもらっていたものが散らばって、それだけ。
肩で息をするナシコには得るものは何もなく、撫でられた熱の残る頭を掻き毟って、テーブルに突っ伏すだけだった。
□
「ううう、ナシコちゃんが引退しちゃうだなんて……めそめそめそ」
「めそめそー」
ソファに仰向けに沈み、顔に押し付けた枕を抱き締める灯が号泣する傍で、屈んだムラサキが同調して泣き真似をしている。
ナシコ引退の報せを知ってから三日、二人はずっとこの調子だ。これでは訓練などできず、セルの苛立ちは募るばかり。ナシコが落ち目になるのは大歓迎だが、そのせいで灯の気分が沈むのは許容できない事態だった。
「引退などしないのだろう。落ち込む必要はないはずだ」
「そうはいっても、これは根も葉もない噂なんかじゃないんですよ! 少なからずナシコちゃんがそう思っているんだってわかるんです……ううう」
引退などというのはコトを大袈裟に囃し立てたい一部の人間の描いたでたらめな未来予想図だ。実際には公式の発表で、単に少しの間休養するというだけの話なのはわかっているはずなのに、灯の気分はどん底に落ちたまま。
なにせ公式アカウントは不穏な呟きで止まり続けているし、相方の動きも鈍い。暗い想像をしてしまうのも仕方のないことだ。
「きっともう時間は残されてないんです……なのに私、全然だめで……目の前が真っ暗です……」
「まっくらくらー。あっ、枕抱いてるから?」
「……」
微妙なボケに突っ込む者は存在しない。
一つ息を吐いたセルは、これでは埒が明かないと判断し、灯のもとに歩み寄ると、すぱっと枕を奪い取った。
電灯の明かりに焼かれて「あうう」と呻く芋虫に、それでは衣装が泣くぞと一言。
乱れたステージ衣装を赤い顔で整えた灯は、ゆっくりと身を起こすと、ソファに浅く腰掛けてセルを見上げた。
「……ナシコちゃんは、私達女の子の憧れなんです」
つ、と視線がテレビに向かう。
コマーシャルの中でたおやかに微笑むジャニュアリースノーブライドのナシコは、純白の花嫁となって憧れを一身に受ける、まさしく偶像だった。
「ずっとずっと……私が生まれた時から……ううん、生まれる前から……」
爆発的に増えた『アイドル』の名を冠する職業。近年増加する志望者たち。激戦区となって、より厳しくなって、ただ可愛いだけじゃ、歌えるだけじゃ、踊れるだけじゃなることのできない高嶺の職業。
輝きを放つ画面から目を逸らさないまま、胸に押し当てた手に強い鼓動と熱を感じて、灯はその一つ一つを確かめるように呟いていく。
「……最初は、母の後追いでした。母の夢見た輝きに惹かれて、真似をして……」
それがいつしか自分の夢になった。活躍する少女達のように、自分も輝きたい、胸の中に燃える気持ちを伝えたい、広げたい、って。
澄み渡る空の青さのように、揺らめく大きな海のように雄大で、どんなに満ちて溢れても止まらない、素敵な気持ち……「大好き」を、どこまでも、いつまでも。
それが初めの一歩。東山灯の始まりだ。
両親との死別も、大きなきっかけになった。
昔に母がやれなかったことを私がやる。母の理想を私が継ぐ。
それが手向けで、墓前にたてた誓いだ。
「母が言っていました。……『結局のところ、どうしたいかは自分次第なんです。女の子なんですから、いつだってトキメキを胸に駆け抜けていきましょう!』、って」
アイドルになりたい、と伝えた時、灯の母はそう言って、それから、少し寂しそうに笑っていた。
「……そうです。だから私、全力で夢を追いかけて……」
自分に言い聞かせるように呟く彼女に、これは己の気持ちの立て直しを図っているのだとわかったセルは、黙って聞いてやることにした。勝手に立ち直るなら手がかからなくていい。それで手合わせができるまで戻れるなら……と見ている間に、どんどん灯はやる気を取り戻しているようだった。
「逆境です。燃えてきました!」
ぐっと拳を握った灯は、それを天井へと突き上げて宣言した。
本当にナシコちゃんが引退してしまう前にアイドルになって、一緒のステージに立ってみせます! ……と。
「ぱちぱちぱち!」
一人きりの拍手が灯の決意を祝福する。
現状、それが叶う夢かどうかはなかなか厳しいのが現実だ。
アイドル戦国時代といっても過言ではないエイジ760年台。過酷な競争に打ち勝つには、やはりウィングを習得するほかない。
……そうなのだ。灯は、未だに空を飛べるようにはなっていない。
"技術"ばかり磨かれて戦闘力がめきめきと上がる一方で、舞空術習得の"ぶ"の兆しもないのだ。
ムラサキという新たな同居人を得ても、それは変わらない。彼女に教えてもらおうにも、最初から飛べるように造られたムラサキには、飛べないというのがいまいちわからないのだ。
セルにしたって、今さら空を飛ぶなどという初歩の初歩をどうしてできないのかがわからない。気の存在、その流れ、運用……的確なアドバイスは送ったはずだ。才能あふれる灯ならばとうにできていてもおかしくないのだ。
だというのに灯は浮かぶ事さえできず、結果的かはわからないがアイドルにはなれていない。
何がいけないのか……。飛べないことを抜きにしたって彼女はハイスペックだ。何もしていなくてもスカウトされたって変ではないのに、積極的に働きかけても夢を叶えられないとは、なんとも不思議な世界である。自分が考えているよりよっぽどシビアでリアルな世界なのだな、とセルが受け止めるほどだ。
「諦めません……! 私、絶対にアイドルになりますから!」
「おおー、お姉さん熱血だ。私そういうの好きだよ、応援しちゃう!」
小さなサイリウムを振って文字通り応援するムラサキに、これは灯もいたく感動して「くうっ」と腕で目を覆った。早くも四人目のファンが……! 夢に向かって前進している実感に打ち震えてしまう。
「んっ、四人? 他の三人ってだれ?」
と小首を傾げつつも、内訳の一人はなんとなくわかっている。
成り行きを眺めるセルに視線を向ければ、なにかね、と見返してくる。たぶんファンの一人はこれだろう。
「一人目は父で、二人目は母です。三人目はセルさんです!」
「……」
君のファンになった覚えはないのだがね、と不満げに肩を竦めたセルは、しかし敢えて何も言わなかった。せっかく明るさを取り戻した灯に水を差したくなかったのだ。自らの技術の研鑽のためには、体中がむず痒くなるような役割も受け入れようという度量を見せつける。胸に手を当てて優雅に一礼し、「活躍に期待しているよ」と声をかけるサービスまでしてしまう。
「ありがとうございます! 期待に応えるために、もっともっと頑張りますから!」
「根を詰めるのもほどほどに、とアドバイスをしておこうか。そうだな、英気を養うために、今日は私が腕を振るってやるとするか」
「うわ、セルが夕飯作るの? やだなー、おいしんだもん。すごい悔しい」
セルの事が大嫌いなムラサキだが、彼が作る料理は舌に合うのだ。これがたまらなく悔しい。
しかもそれがちょちょいっと覚えたものだというのだから余計にだ。
負けませんよ! と対抗心を燃やして創作料理に励む灯の異常な腕前にも気づかされてしまったのでほんとにひどい。
「別に食べなくとも構わんぞ。ほら、そこに高級フードがあるだろう。存分に貪るがいい」
「殺鼠剤!」
いそいそと灯お気に入りのファンシーなエプロンを身につけつつ台所に入るセルの辛辣さは、彼もまたムラサキを好いていないことをにおわせる。お互い敵同士なのだから当然だ。セルはナシコを殺すために生きていて、ムラサキはセルが悪事を働かないよう監視するためにここにいる。それが仲良く食卓を囲もうというのだから、奇妙な状況だ。
「二人は仲良しさんですね!」
「……お姉さんは能天気すぎだね。羨ましいなー」
「その過剰な善性は称賛に値するぞ。悪意をまったく感じられんとはな」
微笑ましいものでも見るかのように言った灯は、ほとんど同時に言い返されてぱちくりと目を瞬かせた。
褒められてるのかな、と呟いているところを見るに、この少女の善に偏り切った気質は、何をどうしたら形成されるのかとセルをもってして解き明かせない永遠の謎だ。……親の教育や育った環境がよっぽど良かったのだろう。悪意に触れてこなかった、という訳ではないはずなのだが……。
手早く用意された料理を灯が運んで並べ、いただきますをして、夕食の時間だ。
「ナシコちゃん大丈夫かなー。心配だなー」
「ええ、本当に……聞きに行ったりはしないんですか? 一緒に住んでるんですよね」
「うんー……あーや、聞けなかった、かなぁ……」
あつあつのカルボナーラを掻き込んで口周りを汚すムラサキがもごもごと呟く。
様子を見に行きはしたのだ。ナシコの部屋に入ろうとしたところで勢い良く扉が開いて、ウィローが飛び出してきた。珍しく足音を立てて去っていく彼女に、勝手に扉が閉まるまでムラサキは動けなかったし、部屋に入ろうとも思えなかった。
濡れた瞳に、怒っているような、悲しんでいるようなウィローの顔など初めて見た。……すすり泣くような声が扉越しに聞こえてしまって、一歩引いたムラサキは、そのまま灯の家に戻ってきてしまった。
だから、直接顔を見てないし、言葉を交わしてもいない。けど、大丈夫じゃなさそうなのはわかっていた。
ちら、と灯を見る。衣装に汚れ一つ作らず綺麗にフォークを動かす彼女の柔らかい表情を見ていると、胸に刺さるトゲのような何かがするりと抜けて心が軽くなる。なにもナシコちゃんは駄目そうだった、などとわざわざ伝える必要はないのだ。
「でも元気そうだったよ。いつも通りだらだらしてたけど、そのうちスパッと立ち上がって何かやり出すんじゃないかなあ」
「突発ライブとかですかね! 私、急に始まったりする配信、大好きなんです。結構素のナシコちゃんも見れたりしますし、そこでしか聞けない未発表の曲もたくさんありますし!」
活動再開の兆しを身内の口から聞けて、灯は心底嬉しそうにしている。
『未発表の曲』とは、ナシコが前の世界で覚えた曲の数々だろう。ラジオの準備時間や、配信が始まる前の僅かな時間にたまに口ずさんでいるのだ。最近だとPANDORA feat.BeverlyのBe The One、少し前なら大塚愛のさくらんぼだとか、TRFのBOY MEETS GIRLなどを好んで繰り返すので覚えている人も多いかもしれない。これを公式で歌う事はない。ナシコの中では他人の曲であるからだ。ドラゴンボールに関する楽曲とはわけが違うので、カバーすることもない。
昂る気持ちにまかせて歌う灯。
「幸せ花盛り~♪」
「おー、よく覚えてるね」
「……」
ほとんど一度しか聞けない曲でも、テープにとっておいてリピートして覚える。これは灯のひそかな趣味だ。
しかしこの世界の人間にとってこれらはナシコが初出。彼女オリジナルとしかとられない。作詞も、何もかも。だから余計にアイドルとしてのナシコが伝説的に思われてしまうのだ。
「そんなに彼女が好きなのかね」
一足先に食事を終えたセルが問う。
自分が才能を認めた少女が憎き女に憧れを抱き、目下の目標と置いていることは正直おもしろくないのだ。
「はい! 大好きです!」
笑顔全開で答える灯に、セルは肩を竦めた。そう答えるのはわかっていた。大好きだという気持ちを伝えようとしてくるむず痒さに、席を立ち、皿を片しに動く。
「ナシコちゃんは、この時代を作り上げた伝説……! 彼女が現役でいるこの時間に生まれることができたのを幸せに思います。だから、なんとしてでもナシコちゃんと同じステージに立ちたい。それが夢です!」
手を止め、改めて自身の目標を確認する灯に、うんうんとムラサキが訳知り顔で頷く。灯も、それがなんだかおかしくてふふっと笑ってしまう。
今はこうして元気いっぱいの灯も、母親と父親を亡くした時はかなり落ち込んで、なにも手がつかないくらい暗くなっていた。
そんな時もナシコ達の存在に励まされた。両親の死から立ち直ることができたのも、憧れに導かれて夢を追い続けられたからだ。
気の持ちよう、心の持ちよう一つで、世界はきらめく。道は見つかるし、階段は二段飛ばしで駆け上がれる。
「ううう~、こうしている間にも、私の中で気持ちが膨らんでいきます! アイドルになりた~い!」
「あはは、このあと寝るだけなんだけどね」
「なんなら私が相手をしてやってもいいんだけどね」
ぱっと腕を挙げる彼女は、まさしく未来ある若者そのもの。怖いもの知らずの無敵さで、もしかしたらそれがセルを惹き寄せたのかもしれない。
セルの誘いを「いいでしょう!」と快諾した灯は、この後眠気に負けるまでレッスンルームで組手をした。
船をこいでいても攻撃に自動反撃する灯に、セルはますます面白いと張り切っているようだった。
◇
暗い研究室内に硬い音が響く。
机に向かい、数枚重なった紙に何かを書き連ねているウィローは、ここのところ何かに憑りつかれたように研究に没頭していた。
相方であるナシコの活動休止──実質無期限……あるいは、引退──に伴って、ウィローの活動も抑えめになっている。何かと二人でやってきたため、ウィローが動けば、じゃあナシコも、という期待を集めてしまうためだ。
活動再開がナシコの気持ち一つに任されている現状、それではまずいので、こちらも休止のようなものになっている。
『終わった話なんてしないでよ!! 何が言いたいのかぜんっぜんわかんない!!』
「……」
ペンを動かす手を止め、不意に先日ナシコの部屋で交わした言葉を思い出す。
彼女の気持ちを知ろうと歩み寄った、それだけでひどく傷つけてしまったし、傷つけられた。
投げつけられたぬいぐるみはまったくダメージを残さなかったのに、当たった部分が今も重い。
腕を擦ったウィローは、気を取り直すようにコーヒーを一口飲んで、再びペンを取ろうとして──。
「あのぅ、ドクター」
不意にかけられた声に止められた。
回転椅子を回して振り返れば、ミドリが申し訳なさそうな顔を作って立っていた。
「どうした」
「え~と、なんと申したら良いのでしょう……」
歯切れ悪く説明しようとする彼女に、膝に置いた手でトントンと衣服を叩いていたウィローは、「とにかく上においでになってくださいませんか~」と誘われるのに頷いて、白衣を脱ぎながら席を立った。
地上への道を歩いてゆけば、残すところ僅かといった場所ですでに異音が聞こえてきていた。
ロックというか、激しい曲調の……クラブか何かで流れていそうなミュージック。
「あ、ドクター! おはよー! なんかノリノリなんだけど!」
「……モモはどうした」
「お仕事してるよ?」
なぜか入り口の警備を行っているシロが曲に合わせて踊っていた。事情を知らないようだ。ここの担当であったはずのモモがどこへいったかは聞いても無駄だろう。
地上には、いくつもの車が止まっていた。
報道関係が勝手に入った、という事ではないようだ。そうであったなら姉妹達が排除しているし、そもそもセキュリティ的にアポなしで侵入できるのは一部の人間のみである。
屋外までガンガン響いて肌を震わせる音楽に、嫌な予感が高まる。
それは本宅の周りにまで広がる人々を見て確信に変わった。
「なんの騒ぎだ!」
ドレスや礼服、フォーマルな格好の男女を掻き分けて屋内へ入ったウィローは、トレー片手に給仕として動いていたモモを捕まえて問い詰めた。
「い、いや、なんかパイセンがパーティしたいっていうんで、手伝いを……!」
「パーティだと……?」
詰め寄るウィローに、仰け反りながらも答えたモモは、周囲を見渡しながらそう言った。
ロビーには好き勝手に踊る人、談笑する人、並んだ台から食事を取り分けて食べている人などがいて騒々しく、これをナシコが呼び集めたのだとしたら、いったいいつの間に、という話になってくる。
「えーっと、すみませんドクター、自分仕事しなきゃなんで……そいじゃ!」
不穏な空気を発するウィローから逃れたかったのだろう、笑顔を取り繕ったモモはスカートをつまみ上げて脱兎のごとく逃げて行った。
「……ナシコ」
仲違いしているわけではないが、ここのところ寝食を共にしていないナシコの動きを把握していなかったウィローは、それを深く後悔した。
これは尋常ではない。あれほど落ち込んでいた彼女がいきなり人を集めるなど、よっぽどおかしい。……究極の人見知りであり、人付き合いを嫌っているのに。
「ナシコ!」
目に痛い照明と耳を突く音楽が降り注ぐ中を駆け巡ったウィローとミドリは、ようやく密集する若い女たちの中に、子供の姿をした彼女を見つけることができた。
「あ、ウィローちゃん! どしたの?」
「どうしたの、ではない……これはなんだ!」
グラス片手にゆらりと体を傾けて手を振ったナシコに詰めよれば、きゃあっと高い声に囲まれる。ここにいるのはほとんどがフラワープティングのファンなのだ。ナシコを好いてもいれば、ウィローを好いてもいる。ざっと流れてくる少女達に、ウィローはひとまず笑顔を浮かべて対応した。
「みなさん、申し訳ないですが、ドクターはお時間が限られていますので……」
「そうなのですか、残念……」
「でも、二人の元気な姿が見れて安心したわ。またね!」
「うん、ありがとう! みんな、今日は楽しんでってねー!」
ミドリが割って入るのと入れ替わりに、ナシコの手を引いて抜け出したウィローは、陽気に笑う彼女の変貌を、もちろん良いものとは感じなかった。
握った腕が熱い。久々に見た子供の姿は、簡単に酒に酔えるからだろうか。赤らんだ顔をして何度も足を引っかけては転びそうになる彼女を引き寄せて抱いたウィローは、いったんこの喧騒から抜け出すために飛んで二階へ向かった。
二階には、さすがに人はいなかった。足元から強い振動が伝わってくるものの、落ち着いて話をするにはちょうどいいだろう。
……しかし、話すことなど何もなかった。「どうして」も「なぜ」もないし、大丈夫か、などとも聞けないし……。
「ね、ウィローちゃんもみんなに元気な姿を見せてあげてよ!」
「あ……」
腰を屈めて不思議そうに見上げてきていたナシコは、何も話がないとわかると、グラスを持った手でウィローを指さして、揺れるように去っていった。
「……」
足元が崩れ去るような感覚に固まる。
かける言葉が見つからなかった。ここで呼び止めなければならなかった気がした。
人々を呼び寄せたのは、そういった目的からか。荒れてはいても、どうしても他人のことを慮ってしまって、それで。
「……!」
いよいよ、精神的に危うい彼女と、それでも面と向かって話さなければと決心した。
それで仲がこじれようと、どうなろうと、すべてを話し終えるまで。
急いでナシコの後を追うウィローの決意を裏切るように、ナシコは姿を消していた。
どの人波の中にもおらず、話題にはしきりに上がっているが姿はない。
ならばと彼女の気を捉えて瞬間移動したウィローが見たのは、風呂桶の中で丸まって眠っているナシコの姿だった。
TIPS
・ジャニュアリースノーブライド
一月の雪の花嫁。そのまんま
女の子には誰にでも素敵な日がくるよ、というCM
誰にも負けない輝きがある
着ているウェディングドレスはブランシュ時のもの
・モモ
七人姉妹の八人目
稼働初期から登場しているが、ナシコがカラーシスターズを数える時に名前があがらない
ミスじゃないよ、ミスじゃ