8月も終盤。
容赦なく降り注いでいた猛暑のピークが過ぎ、夕暮れにはわずかに秋の気配が混じり始めた頃。
過酷を極めた地獄の夏合宿を経て、3日間の完全オフを終えた薬師高校野球部の面々は、グラウンドに戻った瞬間にその「異変」を自らの肉体で感じ取っていた。
「……おい、なんか体が軽いっていうか、勝手に動くぞ」
「打球の音が違う。今の、芯外したはずなのにフェンスまで行ったぞ!?」
選手たちの口から次々と驚きの声が上がる。基礎体力の徹底的な底上げと、限界を超えた反復練習。
泥にまみれ、己を追い込み続けたあの濃密な1ヶ月が、彼らの肉体を根底から作り変えていたのだ。
ブルペンでは、投手陣がその変貌を最も鮮烈に示していた。
「シュッ」と空気を切り裂く風切り音が、以前より一段と鋭く、重く響く。
まずは三野と翔希だ。数え切れないほどの投げ込みが、彼らのフォームから不要な力みを削ぎ落とし、洗練されたメカニズムを完成させていた。
「いいバランスだ、北原。力を抜いているのに、指先にかかる感触が今までと段違いだろう」
落合が表情を変えず、淡々と、しかし確かな手応えを込めて告げる。
「はい……。今まで必死に腕を振って出していたキレが、今は置いた足を軸に回転するだけで、勝手に指に掛かってくる感じです」
翔希は自分の右手の感触を確かめるように、じっと手のひらを見つめた。
ストレートの質。
落合が課した「真っ直ぐを磨け」という宿題の答えが、渡辺の構えるミットを激しく突き上げ、乾いた爆音を響かせている。
だが、その二人以上に、現場の空気を凍り付かせるほどの劇的な進化を遂げた男がいた。
「真田、次だ。受けてやるぞ」
雷蔵が自らキャッチャーマスクを被り、ホームベースの後ろにどっしりと腰を下ろす。
「……うっす。お願いします」
真田俊平が、静かにマウンドの土を踏みしめる。
これまでの真田は、天性のセンスと地肩の強さに頼り切った、いわば独学の我流フォームだった。
しかし、この夏、落合によるバイオメカニクスに基づいた緻密な指導と、それを支えるための走り込みが、彼の身体の中に一本の「理」を通した。
セットポジションから、無駄のない流れるような始動。左足が着地し、捻り上げられた体幹から溜まったパワーが爆発的に指先へと伝わる。
放たれた白球は、打者の手元でまるで意思を持つ「生き物」のように鋭く変化した。
「――ッ!?」
雷蔵のミットの中で、ボールが凶暴に暴れる。捕球した瞬間、ミットを突き破らんばかりの衝撃が左手に走った。
「……おい、今の。シュートか?」
雷蔵が驚愕の声を漏らす。捕球位置が、想定よりもボール2個分は内側にズレていた。
「いえ、自分では真っ直ぐを投げたつもりなんですけど……」
真田自身も、自分の指から放たれたボールの威力に戸惑ったような表情を見せる。
横で見ていた落合が、珍しく顎髭を撫でる手を止め、その瞳を見開いた。
「……フォームが理にかなったことで、出力のロスが限りなくゼロになった。その結果、元々彼が持っていたムービングの特性が、圧倒的な球威と共に極限まで引き出されたわけだ。……これは、手が付けられんぞ」
もはや「打たせて取る」だけのボールではない。強引にねじ伏せる「魔球」への覚醒。
「ハハッ! 面白くなってきやがった!」
雷蔵が豪快に笑い飛ばし、立ち上がる。
「いいか野手陣! 投手がこれだけ進化してんだ、てめぇらも置いてかれんじゃねえぞ! 次の秋、他校の度肝を抜いてやるからな!」
「「「しゃあ!!」」」
夕闇迫るグラウンドに、地鳴りのような咆哮が響き渡る。
稲実に完敗し、涙を飲んだあの夏の日。絶望の淵にいた薬師高校は今、最強の武器を携えて、再び産声を上げようとしていた。