ムゥの宝箱   作:西風 そら

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4 コーラとゴーヤ茶

コーラとゴーヤ茶・3

 

 

「先週はなんか、大変な現場に居合わせちゃったみたいですね」

 

 トーンの切り屑散らばるマンションの一室。

 目の前に出された異様な香りを発する液体を眺めながら、福田は、ああ、と返事をした。

「なに……これ?」

 

「ゴーヤ茶。カヤちゃんが最近健康オタクでさ。他にもシイタケ茶やらタンポポ茶やらに棚を占領されてる。少し持って帰りませんか?」

 高木は話しながら、両手に二つのカップを持って部屋の奥へ歩いた。

 そちらでは彼の相棒の真城が、年季の入った大机に張り付いて、カラー原稿を塗っている。

 

 彼らは原作(高木秋人)と作画(真城最高)を分業する二人一組の、亜城木夢叶(あしろぎむと)という漫画家だ。

 福田やエイジと同じく、ジャックの主力連載を担っている。

 福田より三つも年下のくせに、高木の方は妻帯者だ。

 

「サンキュ、シュージン。漫画家なんか不健康極まりないんだから、色々考えてくれてんだろ。文句言ったらバチが当たるぞ。福田さんすみません、これ塗っちゃいたいんで、作業しながら聞かせてください」

 

「いや、こちらこそすまんな。原稿あがって一段落のタイミングを見計らって来たつもりだったんだが」

 

 高木が戻って来て、福田の向かいのソファに座った。

「で、話って何でしょう? 先週の編集部の騒動は伝え聞きましたけれど、俺らには関係なさそうですが?」

 

「うん……」

 福田はどういう切り口で話そうかと、言いよどんだ。

「最初に言っておくが、お前らにとって気持ちのいい話じゃないんだ」

 

 高木は不安な顔になり、真城は表情に出さないが黙々と色ペンを動かしながら耳を傾けている。

 

「そして、さっき高木が言ったように、お前らには直接関係ない。だけれど耳に入れて置いた方がいいと思ったんだ」

 顔をしかめながら苦い茶をすすり、福田は先週遭遇した編集部の事件から話し始めた。

 

 

「ずいぶんエキセントリックな子ですね。まあでも俺も、俺の原作に石沢が絵を付けるなんて話になったら、原稿抱えて逃げ出すかもしれん」

 

 高木の言葉に奥で真城がククッと吹き出した。

 石沢ってよく分からんが、二人の共通の知り合いなんだろう。

 

「福田さん、その子と直接話したんですか?」

 高木が茶を継ぎ足しながら聞いた。

 

「ああ、カラオケボックスでな。ロゥになる度にアニメソング聞かされながら。お陰で『CROW』一期から四期までの挿入歌、フルで聞かされたぞ」

 

「ははは・・」

 

「これを見せられたらロゥになるのも理解してやれたんだがな」

 福田はスマホを取り出し、あらかじめショートカットに入れておいた記事を呼び出して差し出した。

 

「あ? これ……」

「知っているか?」

「はい、『PCP』がリアの事件と被ったりしないように、毎日大まかなニュースはチェックしていますから。それにこの記事、遊栄社の名前が入っていたし」

 

「なになに? シュージン」

 奥の机で真城が騒ぐ。

 

「真城は知らないのか?」

「ああ、サイコーには、こういう濁ったの見せたくなくて」

 

 昨今の漫画家は、物知らずではやって行けない。

 ピンポイントの情報を得るにはインターネットが便利なのだが、これが諸刃の剣だ。

 ついうっかりエゴサーチなんぞやっちゃった日には、作品に支障をきたすどころか、破綻させて立ち直れなくなった作家も……なんて、怖い話も聞く。

 福田も自分なりに気を付けてはいるのだが、高木というフィルターを持っている真城を、ちょっと羨ましく思った。

 

 高木がスマホを持って行って彼に渡した。

 

「ぐげ!? 何だよこれ、子供のラクガキ?」

 

「これでも遊栄社の『ジャリーズランド』に掲載された、歴(れっき)とした商業作品なんだ」

 

「嘘だろ??」

 

 渡された液晶画面には、コマ割り漫画の画像が何点かと、それに対する批判記事が表示されている。

 漫画は一見、西洋の歴史物っぽかったが、幼児ウケだけを狙ったような下ネタの下品な絵で埋め尽くされていた。しかもかなり雑だ。

 

「これがなんでニュースになるの?」

 

「これ、ある国の神話上の英雄の話なんだけどさ、見ての通りのお下劣漫画で、内容も神話関係なく、ただ茶化しておちょくって終わってんの。それだけなら質の悪い作品ってだけで済んだんだけれど、間が悪いことに、その国から来日中の超有名アーティストが、その神話を礎(いしずえ)にした宗教の敬虔(けいけん)な信者だった」

 

「うへえ」

 

 高木は要約が上手いな。福田は記事の解説は彼に任せる事にした。

 

「更に運が悪い事に、そのアーティストと一緒に来日した子供がジャリランを買って来て、子供経由でこの作品を見たらしい。そんで『子供に何て物見せるんだ!』って怒り狂って」

 

「あちゃあ」

 

「そのアーティスト真面目な人だから、『子供向け雑誌』ってのが怒りのツボだったらしい。

更に『自分の来日のタイミングで発売するとか、ケンカ売ってんのか』とまで言い出して、怒りのツィッターに信者&自称有識者が油を注いで、大炎上」

 

「うーん、後半言いがかりっぽいけど……所変われば大事にしている物は違うもんな。怒りはごもっともなんだろう。うわっ『国際問題に発展か?』とまで書いてある?」

 

「その辺は誇張だと思うぞ。大使館レベルで動いたって話はないし。でもアーティストが影響力のある人だったからね。次の号で謝罪文が入ったよ」

 

「…………」

 真城は口を結んで暗い顔になった。小学生のイタズラ頭脳戦漫画を描いている自分達だって、常にその筋からのバッシングは受けている。

 

「作者の人は?」

「遠藤メンデル先生って中堅作家。昔からジャリランでこんなんばっか描いてる人みたい。福田さん、知ってますか?」

 

「俺もよく知らない。今は謹慎中らしいけれど、雑誌としては付き合いも長いし、ほとぼりが冷めたら復活させるみたいだよ。それは雄二郎さんから聞いた」

 

 机の所の二人は他人事ながらホッとした。

 そりゃ勿論、発表した作品の責任を、作家はとらねばならないのだが、これまでの積み重ねもこれからの未来も全てオジャンにせねばならぬ程の大悪行にも思えない。

 

「それで……」

 福田は、ここからが本題と、指を組んで座り直した。

「この作品の担当編集が、件の久祖(きゅうそ)って新人だったんだ」

 

 

 

コーラとゴーヤ茶・4

 

 再び数日前のカラオケボックス

 

 福田がスマホの記事を読んでいる間、白シャツはまたタブレットを操作して、今度は『CROW』のエンディングを唄っている。物悲しくなるからそのバラードはやめろ。

 

「僕の為に動いてくれたその先生は、調べる途中で気になる物に行き当たったと、その記事を教えてくれたんです。記事には書いていないけれど、この作品の担当者は久祖(きゅうそ)さんだと」

 

「ふむ、確かにこれを見たら不安になるわな。でも今回の企画とは関係ないだろ? お前の作品もお下劣にされてしまうと心配になったか?」

 

「関係、大アリなんですよ」

 白シャツが勢いよく立ち上がったので、落っこちたマイクが〈〈ゴン〉〉といった。

 

「ボクの小説は、この神話の英雄が活躍する話なんです!」

 

「・・!!」

 

「現代社会の主人公が古代の神々の世界に迷い込んで、彼と出会って親友になり、二人で協力して様々な困難に立ち向かう……って話です。神話も僕なりに調べて、脚色して取り入れています」

「………」

 

「たまたまだと思いますか?」

 ……たまたまだと思う方が、能天気だわな……

 

「それに先生に言われて気付いたんですが、小説サイトでこの英雄の名前を検索したら、僕の小説がトップに来るんです。マイナーな人物ですから」

 

「お前、だけど……」

 

「・・なんだ、そうか、そういう事だったのかって、頭の先から力が抜けました・・」

 

 隈をつくった目をうるませながら白シャツはソファに突っ伏し、芋虫みたいに丸くなった。

 

「よくよく考えたら、僕の小説なんて、大した数字も取ってないのに・・・ランキングにも入った事ないし、誰もしおりを挟んでくれないし・・・浮かれちゃって、バカみたい・・・・」

 

「お、おい、しっかり、気を確かに持て! そうだ唄え! 今度は『CROW`s SKY』が聞きたいなっ! ほらほら!」

 

 

 

 マンションの一室。

 冷めたゴーヤ茶のカップを両手で握って、高木は大きく息を吐いた。

 

「福田さん、優しいな」

 真城が奥の机で規則的なマジックの音を響かせながら言う。

 

「そうか? お前だって多分、目の前であんなに小動物みたいに震えられたら放っとけないぜ」

 

「久祖さんの思惑は、汚名の挽回……でしょうかね」

 顎に指を当てながら高木が言った。

 

「その英雄が日本人の子供と仲良く活躍する話を、今度はちゃんと神話に基づいて真面目に展開させれば、世間に対して反省アピールは出来るでしょうね。あわよくば、例のアーティストに許しの言質(げんち)を貰えれば、万々歳って所かな」

 

「少年漫画を地で行く筋書きだな。シュージン的にはどう思う?」

「俺だったらそんなご都合な筋は考えない」

「へえ」

 

「そもそもこういう記事って、一部の奴らが誰かをつるし上げる材料を見つけては、騒ぎたいだけなんだ。世間が忘れるまで放っとくのが一番なんだよ。下手にほじくり返すのがもっとも良くない。どんなに良作を載せても、あげ足取りしかされないと思う」

 

 亜城木夢叶の連載作品『PCP』は、日常の中での些細なイタズラを完全犯罪と称して実行する小学生が主人公だ。『子供と犯罪』という言葉に過剰に反応する自称良識派に、常に目の敵にされている。原作の高木は、その辺の流れは身にしみて分かっている。

 

「そうだな」

 福田が先を続けた。

 

「これも雄二郎さんに聞いたんだけれど、ジャリラン編集部って年配の人が多いから、そういう危機感を言い出す人がいないらしいんだ。編集長が一番ネットに疎い。何か起ってから慌てて大騒ぎするのが常だって」

 

「うわぁ・・」

 雄二郎さんの社内情報ダダ漏らし具合も「うわぁ」だけれど。

 

「危なっかしい企画なのに編集部にその自覚がないって事か。確かにちょっと怖いかも。その公星(こうぼし)って子も、そういうのが分かっていたの?」

 

「ああ、さっき高木が言った事、まんまその先生に言われたらしい。最初から斜に見られると分かっている環境の中に、大切な作品を晒す勇気があるのか? 静かに書いていたサイトも荒らされるかもしれないんだぞ、と」

 

「脅すなあ…」

 高木が肩をすくめた。

 

「じゃあ何で話を受けて出版社に出向いたんだ」

 

「うん、唄い終わってテンションマックスの時を狙って、その質問をぶつけてみた」

 

 

 

「そりゃ……やっぱり夢見ちゃいますから」

 ハイテンポなサビリフレインを唄いきって息を弾ませながら、白シャツは言った。

「たとえ利用の為に適当に選ばれただけだとしても。コミカライズされるチャンスなんて一生の内にあるか無いかですモン」

 

 まあ、それは分かる。

 

「さっき言った先生。その人も、せっかくの機会なんだから受ける受けないはボクの自由だと言ってくれました。そして、不安がっている僕にアドバイスをくれたんです」

 

「どんな?」

「作画担当に気を付けろと」

「??」

 

 

 福田の話を聞いていた高木と真城も、頓狂な顔をして首をひねった。てっきり最初に契約書を確認しとけとか、編集者との折衝のコツとか、そういうのを予想していたのだが。

 

 

 その時の福田もそんな顔をした。

「作画担当って、編集部側が決めて用意するんだよな?」

 

「はい、作画に誰を宛がってくれるかで、編集部のこの企画への本気度が測れるって」

 

「………」

 なんか、漫画家側からしたら嫌な言われ方だけれど、その通りではある……

 

「一番安心していいのは、遠藤メンデルだって言われました」

 

「なっなんで??」

 言っている奴の意図が分からない。

 

「編集部が、企画の危なっかしさもちゃんと踏まえた上で、それでも世間に対して真摯な反省アピールをしたいなら、遠藤メンデル以外考えられないって」

 

「ああ……」

 確かに、そうかも……

 

「そして次に安心なのは、ジャリランのレギュラー作家。次はベテラン編集が大事に育てている新人。大切な手持ちの作家を使ってくれるのなら、この企画も丁寧に扱ってくれる。万が一の時にもそれなりに守ってくれるだろうと」

 

「むぅ……」

 画力とか実績とか二の次なのか。

 

「赤信号は、ジャリランに関わりのない作家を外部から引っ張って来た場合。何かあったら、泥だけ被せられて簡単に打ち捨てられるだろうって」

 

「いや、そんな言い方……」

 

「もし外部作家が来たら、全力で逃げろと言われました」

 

 

「…………」

「…………」

 

 そこまで聞いて、高木と真城は止まってしまった。

 言っている事が飛躍し過ぎじゃないか?

 編集部だって、大切な掲載枠の一つをそんなに雑に扱いやしないだろ?

 何か変だ。

 編集サイドに対する、その頭からの不信と敵意・・

 

「なあ、その、公星君にアドバイスしている先生って……」

 

 高木が腫れ物に触るように、そっと聞いた。

 奥の真城は色ペンを握りしめて、口をギュッと結んでいる。

 

 

 

「七峰透さんです」

 

 恐々聞いた福田の質問に白シャツは小さな声でサラッと答え、またタブレットに手を伸ばした。

 

 

 

 

コーラとゴーヤ茶・5

 

 キュッと音がして、奥の机の真城が色ペンに蓋をしている。

 今の心情で原稿を続けちゃいけないと判断したんだろう。

 高木が恨めしそうに福田を見た。

 

「だから最初に気持ちよくない話だって断ったろ?」

 空のカップを罰悪く弄(いじ)くりながら、福田は肩をすくめた。

 真城の七峰嫌いは予想していたが、いやはや本当に心底毛嫌いしてんだな。

 

 七峰透……

 去年の夏にジャックでデビューした若手漫画家。

 投稿時から画力構成力共に新人離れしていると定評があり、難なく連載枠をもぎ取った。

 中学生時代からの亜城木夢斗ファンという事で、最初は二人になついていた。

 が、漫画の作り方で二人にダメ出しされると態度を豹変させ、それ以来わざとネタを被せて来たり、何かとネチネチ絡んで来る。

 

 大の編集者嫌いで、漫画は漫画のエキスパートだけで作ればいいと豪語している。

 場数を踏んだベテランならともかく、頭でっかちのルーキーがそれを振りかざしたって、イタいだけなんだがな……と福田は思う。

 

 漫画家だった亡き叔父との思い出を大切に、叔父と同じ土俵での漫画作りに真剣に取り組んでいる真城からしたら、尚更許せない物があるのだろう。

 

 七峰の連載は、亜城木夢斗を意識しすぎて迷走し、自滅してしまった。

 今は遊栄社系列の月刊誌にポツポツ描いていると聞く。

 

「それで福田さん、俺ら的には、えっと、どうしたら……」

 高木が身構えながら聞いた。

 オーバーワーク気味の真城を余計な事に巻き込みたくないんだろう。

 

「いや、特にどうとも。情報として知っておいた方がいいと思っただけだよ。何も知らずにうっかり関わって、いきなり七峰透に行き当たっても、嫌だろ?」

 

「ああ……」

 高木は不安そうに真城を見た。

 

「うん、ありがとう、福田さん。中途半端な噂で入るよりも、こうやってちゃんと知っておいた方がよかった」

 真城が明るく言ったので、高木もホッと肩を降ろした。

 

「結局その企画、どうなるんです?」

 

「このままじゃ流れるだろうな。原作者が嫌がってるんだから、どうしようもない」

 

 高木は口を結んで鼻から息を吐いた。余計な情報さえ入らなければ、その子は選ばれた事を素直に喜び、つつがなく漫画化に踏み出せたろうに。

 

「放っとけばいいんじゃない?」

 真城のサクッとした言葉に、二人は振り向いた。

 

「賞に投稿とかじゃなく、たまたま拾われただけで、積極的にプロになりたい訳でもないんだろ? 

そもそも中井さんが外部作家ってだけで、あいつに言われたマニュアル通りに逃げ出すなんて、自分が無さすぎるよ。俺は同情しない」

 

「ああ、そうだな」

 福田があっさり肯定したので、ドキドキしていた高木は胸を撫で下ろした。

 

「真城も高木も、本当に、奴には関わらない方がいい」

 

 

 土産に渡された大きな紙袋を下げてマンション玄関を出た所で、福田は今一度、五階の灯りを見上げた。

 これでまあ大丈夫だ。

 真城はああ見えて、人一倍、情にほだされやすい男だからな。万が一この件に関わって七峰透とブチ当たったら、ムキになって対抗しようとするのは目に見えている。

 あらかじめ奴が絡んでいる事を伝えておけば、最初から関わろうとはしないだろう。

 

 何せこの件は厄介だ。

 どのくらい厄介かというと、話を最後まで聞いてしまったら、絶対に放っておけなくなるくらい、厄介なのだ。クソ忙しい連載作家が関わるモンじゃない。

 そんな面倒くさい目に遭うのは俺一人で十分だ。

 

 

 カラオケボックスの話には、まだちょっとだけ、続きがある。

 

 

「いくら外部作家だからって、七峰に言われた通りに逃げ出すなんて、相手に対してあんまりだと思わないか?」

 真城が言った疑念を、当然福田だってぶつけていた。

「中井さんだってあんな外見だけれど、結構ナイーブなんだぞ。それにお前さんは知らないだろうけれど、あの人は……」

 

「知っていますとも! 『hideout door(ハイドアウトドア)』の中井拓朗さん!!」

 白シャツがスイッチの入ったマイクを抱えたまま凄い勢いで立ち上がった。

 

「悪魔に魂を売ったがごとし神域の点描! 肉筆時代最後のいぶし銀!」

 

「ほ、ほお……」

 知らない所で凄い呼ばれ方されてたんだな、あの人。

「取りあえずそのエコーを切ってくれ。耳に来る」

 

 『hideout door』は、蒼樹紅(あおきこう)原作・中井拓朗作画の、彼の唯一の連載作品だ。

 蒼樹が美人女子大生だった事もあり、ノリに乗った中井の作画は福田が嫉妬を覚える程の絶品だった。アンケートが取れずに打ち切られたが、単行本が一部マニアの間で謎の高評価を博していると聞く。

 

「じゃあ何で逃げ出したんだよ?」

 

「僕、小学生じゃないですよ? 『全力で逃げろ』を本当に走って逃げる事だなんて思っていません」

 白シャツは、氷水だけになったコーラをすすりながら言った。

 唄い終わった直後だから饒舌なターンだ。

 

「中井拓朗の名前を紹介されて、心臓をギュッと掴まれたような衝撃を受けました。この人があの神絵師の! って。そして一瞬夢見ました。この人なら大丈夫なんじゃないか? もう何もかも忘れてこの人に描いて貰っていいんじゃないかと」

 

「おう、俺はそれで良かったと思うぞ」

 

「でもやっぱりダメでした」

「なんで??」

 

 ストローをガジガジかじりながら、白シャツはグラスの底を見つめる。

「あの人……久祖さん、あの人は、この企画の意図を打ち明けようとしていたんだと思います」

「え?」

 

「でも、話し始める度に、ハゲの上司の人が大きな声で遮って…」

「………」

 

「ああ、これは本当にヤバイヤツだ、ヤバイからこんなに必死に隠そうとしている。僕だけじゃなく、中井拓朗にも隠そうとしている……」

 

 白シャツの顔がまた青ざめて来たが、フラフラしながらも振り絞るように喋り続けている。

 

「その瞬間、背筋がざあっと冷たくなりました。僕はプロを目指して努力して来た訳でもない。ただコミカライズに憧れて、ふわふわした気持ちでここに来てしまった。そして、神絵師の中井拓朗をこんな危ない事に巻き込もうとしている。この人にこの後、後ろ指を差されてあざ笑われる黒歴史を作ってしまうかもしれない。ダメだ、これは絶対にダメだ!」

「………」

 

「ダメだと言っても、あの上司の人は契約書類を出して話をどんどん進めようとする。怖い、阻止しなきゃ、やめさせなきゃ! 気が付いたら原稿を抱えて走り出していました」

 

「………」

 いかん、適当な相づちが出て来ない。

 

「新妻エイジを巻き込むなんて、もっともっとダメです・・」

 

 その辺りでさすがに電池がきれて、白シャツはぷしゅうとしぼんだ。

 

「・・あの、福田さん・・」

 

「なんだ?」

 

「中井拓朗と新妻エイジに、僕が本当は二人とも大好きなんだって……逃げたのは僕の考え無しが原因だったから……だからごめんなさい…って、伝えて貰えないでしょうか」

 

「お、おう、分かった、引き受けよう」

 

 白シャツはそこで初めて、隈の出来た瞳に正気を戻して、安心したようにソファにうずもれた。

 

 ああそうか、逃げ帰らずに路地で雨に打たれていたのは、中井とエイジにその一言を伝えたかったからなのか。

 

 

 

 

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