たとえばその時、獣は一匹の魔王だった。
元はといえば一幅の影絵、幼い子供が母を待つ寂しさに掌を遊ばせて生まれた一匹の犬畜生。儚い燈火を透かして写し出された影絵の犬が何の因果かすっと浮かび上がって命を持った輪郭の化け物。
獣には重さがない、厚みもない。ただただ漆黒の形を持ってひらひらと空間を泳ぐ犬の異形は自らの姿を思い通りに変えることができた。
壁から抜け出し、音もなく地に四足を踏み出したその後はふんふんとその場の匂いを嗅いで歩き出す。
生まれたばかりの獣には目的もなく本能さえも欠けていて、空腹を感じることもない影絵の身体では生きるためのなにものをも必要とせず、したがって獣には何かのために生きようだとか生きるために何かをしようという感情がまるで芽生えない。ひたすらにあてもなく匂いを嗅いで回り、無音の歩行を惰性に続け、いつしか獣は魔王になった。
魔王。旅をすればその内にさてこのけだものはなんだろうという妖怪やら悪魔やらがちょっかいをかけてくる。なにしろ獣は影絵なのだ、意味もなくぺらぺらしているし正面から見れば少し間抜けで笑ってしまう。面白半分に剣を突出す者がいて魔法で捕えようとする者がいて、しかし影絵の身体にはいかなる力さえ受け付けずあらゆる敵対者は仰天してしまう。この獣は一体なんだ。どれほど攻撃してもまるで平気にしている。こいつはとんだ獣に出会ったものだ。興味をひかれなおも付きまとう相手に獣も流石にやかましいわとでも思ったのか、尻尾を鋭い槍へと変えて一突きにする。影の槍は見事に心の臓を貫いてしつこい敵はあっという間に息絶えた。
たとえば光を奪うことで影絵の犬を消そうと企んだものがいた。光がなければ影はできない。これで奴もおちゃのこさいさいだと高を括った相手が余裕綽々なのも束の間、光があろうがなかろうが依然として存在し続ける影絵の犬に驚愕する。なんというこっちゃ、それではあまりにもずるくはありませんかと涙ながらに訴えはするものの獣からすればそんなことは知ったことではなく影の剣で一薙ぎにされる。
そんな風にして寄ってくる妖怪悪魔を切っては捨て切っては捨てとしている内、いつの間にかになんだかすごく強い影絵の獣がいるらしいよやばいらしいよと噂は広がった。戦いを挑まれることはさらに増え、けれども同時に獣を認めるものその強さを慕うものがどこからともなく煙のように現れ一つの集団を形成していった。実際、ただ強いと言うだけで憧れる、尊敬する、崇拝するという単純思考はどこにでもやたらといて、そういう考えのやつは大体が「強い奴の近くにいて自分もその影響にあやかりたいよ」というコバンザメ根性でいるものだから有象無象が雲霞のごとく集まり気づけば獣は魔王になっていた。
獣は魔王になった。名前の知らない部下がたくさんできた。知らない誰かが獣のために城を建ててくれ、銅像を造り、あなた様を神として崇めたいのでどうか玉石宝石を奉納させて頂きたいと頭を下げる。
獣は完全に調子に乗った。なにしろ今までは自分が何のために生きているのかもわからずうすぼんやりとしていたものだから、突然降って湧いたこの賞賛の嵐はまさに劇薬。誰かが獣は強いと褒めてくれる。褒められるということは大変に気持ちの良いものだ。なぜならそれは存在してもいいと許されることであり、存在を認められることだったからだ。ひらひらと頼りない自らを恥じるというほどではないにせよどうも確かでないと感じていた獣は「魔王サマ!」と歓声を上げられるたびに嬉しくなって尻尾を振った。
影絵である、ということは自らを感じられない、ということである。自分自身というものが存在していると言っても自らの身体に触れることさえできないのだから。もちろん前足で「ていていっ」と首の付け根辺りを蹴ることぐらいはできるし影の形を変えればそれ以上のこともできるけれどなんといっても影絵は影絵、そこには厚みがない。熱もなければ匂いもない。感触があると言っても非常に頼りない薄絹がゆらゆらと揺れるような触感ばかりで、ああ俺はここにいるんだと信じられるような要素が獣の形には欠けていた。だから魔王となった獣には魔王を称える声がことのほか心地よく、溺れるように獣は魔王に染まっていった。たくさんの敵を殺した。
サキュバスというとても淫靡な部下ができた。牡鹿に似た角を持つ彼女たちは豊満な肉体を持ち男たちをたぶらかしては殺すのだという。性というものを獣はまったく理解してはいなかったもののサキュバスはとにかく柔らかいしいい匂いがするしで大変気に入った。サキュバス達はサキュバス達で獣をちやほやと甘やかしまくり両者は片時も離れずに組んずほぐれつしていた。
「魔王サマ超カワイー!」「魔王サマ抱っこさせて!」「魔王さま、お手!」
彼女たちの望むことはなんでもした。毎夜のように繰り返される後背位。権勢を守るための殺戮。血を流せば流すだけ魔王の影は色濃くなってその輪郭を確かにする。血に濡れて影はひくつく陰部のようにしっとりと濡れるのだった。
魔王は死ななかった。生きていないから死なないのかもしれない。自分の命のことなど魔王にはわかりはしないし、誰も教えてくれなかったのだ。それは仕方のないことだろう。ただ命を一つずつぷちぷちと踏み潰していれば別の命が魔王を褒めてくれた。魔王にとってはそれが全てだった。もしそれがおかしいこと、倫理から外れた道だと言うのなら誰でもいい、この犬っころに伝えてやればいいだろう。お前はただの影でしかない、ただ存在していると言うだけで生きてはいないのだと。
何年何十年と時は過ぎ、睦みあう淫魔たちも入れ代わり立ち代わり変わっていく。腹の下で嬌声をあげる女を見下ろしてある時魔王はなんだかこの娘は昨日のことは違うような気がするなぁとくんくん匂いを嗅いでみる。すると彼女は荒く息をつきながら「どうしたの、わんちゃん?」と魔王の首の辺りを撫ぜる。お前はいつからここにいたのかと魔王は静かに尋ねる。昨日の女とは違う。一年前の女とも違う。あの女たちは一体どこへ行ったのか。
サキュバスは嫣然と微笑んで答えた。
──そんなことどうだっていいじゃありませんか。気持ち良ければそれが全てでしょう?
そうなのかもしれないなと魔王は思う。頂に上り詰めた女が法悦のため息とともに愛を囁き、感謝の言葉を述べる。
ああ俺はここにいる。女は俺を求め、必要とする。俺は確かにいま、ここにいる。
時が経つ。瞬く間に時は過ぎ、百年の月日が流れる。魔王の後宮で女たちは夜伽の声を上げる。愛は安らかに語られる。
けれども、魔王はやがて思うのだろう。何かが違うと。こんなことを続けていても、何も変わりはしないのだと。昨日の女は一年前の女とは違う。千の女を抱いて千の愛を交わしても、それは次の日には失われていく言葉だ。
魔王はしだいに飽きはじめる。快楽の園に倦み、城を離れることが多くなる。
魔王が乙女と出会ったのは丁度そんな頃で、彼女はその日も間抜けに口を開いたまま時計塔を見上げていた。
ぼおん、と鐘が鳴る。どこまでも遠い音色で時の調べが街に響き渡る。錆びついた鐘の内側に古びた舌が鈍く叩きつけられ、時が刻まれる。乙女は時計塔の下、人々の行き交う路地からぼんやりとそれを見つめている。赤毛をやぼったく後ろで編み、そばかすの残る頬を寒さに赤く染め、少し眠たそうな目をしている。朝からずっと、まんじりともせずずっと眺めている。
魔王はそんな風に時計塔に見惚れている人間を見るのが初めてで、物珍しさに気を惹かれてくうんと鼻を鳴らして乙女に擦り寄った。
「ああ」と乙女は言った。「犬だ」
呟いて乙女は魔王に視線を落とし、しゃがんでその背に掌を落とすと、「ふは」と短く息を漏らして笑った。乙女が魔王に対して見せたのはその反応だけだった。街中に突如出現した影の化け物に住人達が逃げ出していくなか、乙女は動揺一つ見せず再び時計塔を眺めだした。
魔王は乙女を観察し始める。一時間が過ぎるとまたぼおん、と鐘が鳴って、彼女は「ああ……」としみじみ呟く。「二時ね……」 三時になれば三時ねと彼女は言い、四時になれば四時ね、と言った。それ以外のことは何もしていなかった。
夜が来て日の帳が落ち、時計塔の鐘が七度ならされると乙女は小さく声を震わせる。
「夜だわ」
そうしてほろほろと涙を零し、ふるふると顔を振って、長い長い溜息をついて傍らの魔王に話しかけた。
「どこへ行くの、おまえ? 昼間っからずっとここにいるけれど」
余はどこへも行かぬ。しばらくお前を見ていることにした。魔王が答えると、「ふうん」と興味なさそうに相槌を打って乙女は惨めったらしく鼻を啜った。
魔王は乙女の傍にいる。乙女は飽きもせずに時計塔を見つめてばかりいる。
半年が過ぎた。乙女と魔王は時々少しだけ会話をした。
お前は何をしている。
時計塔を見ているのよ。
何のために時計塔を見ているのだ。
そんなの、決まっているじゃないの。
ほう。
時を数えるためよ。
ふむ。
時計というのはそのためにあるのよ。
魔王は少し考える。
……時を数えてどうするのだ。
尋ねると、乙女は一瞬目をつむり、おずおずと語りだした。
あのね、時間というのは、本当に、気が付くといつの間にかに過ぎてしまうものでしょう。今日経験したばかりのことが、たとえば懐かしい人に出会ったり、嬉しいことがあったりしても、明日や明後日になればその心が薄れてしまって、いつかは忘れてしまう。大切だったことも何でもないことになって、飽きてしまう。だからあたしは時を覚えていたい、だから、時を数えているの。
お前は一体何を忘れた。
さあねぇ。そんなこんなも、きっと忘れちまったのかもしれないわ、あたし。
ふへへ、とふがいない顔で乙女は笑う。
魔王と乙女は同じ時間を過ごし、しばらくの間ともに暮らした。短いながらに言葉を交わし、何気ないことをつらつらと話し合う。たいしたことではない。明日の天気や目の前を横切る虫の名前といった他愛のない話題だ。愛を交わすのでも快楽を得るのでもない。それでも同じ時を過ごす二人にとって、その言葉はやがてかけがえのないものとなるのだろう。
時の流れの話をしよう。
時は常に進み続け、巻き戻ることはけしてない。いつかこの世のすべては過去になり、物語になってしまう。あらゆる熱量は失われ、握りしめたはずの体温はむなしく掠れ散っていく。この世に真実は残らない。残るのは人々によって語られ、解釈の加えられた言葉、物語だけだ。
時間とはそういうものだ。物語とはそういうものだ。
たとえばこの魔王が自らの物語の結末をどう望んでいたにせよ、時が進めばやがて物語は結末を迎える。そしてまた時の流れの物語はいつでも、陳腐で、ありきたりで、くだらない終わり方を迎えるようにできている。乙女は死ぬ。
世界のすべてはありふれて、乙女は死を語り出す。なぜといって乙女が時計塔に魅入られてしまったのは自らが不治の病に冒されていたからだし、時を数えているのは死ぬまでの一日一日を数えていたからだ。人間の中で彼女だけが魔王を恐れなかったのもそれは当たり前の話、いつか死ぬと知っているのなら魔王だろうが神だろうが大して変わりなどありはしない。
朝、目を覚まして乙女はああ生きているとそう考えてぶると身震いをする。昼になれば昼でもう一日が半分過ぎてしまった恐ろしいと心細くなるし、日が落ちて暗くなればまた一つ生きていられる日が消えてしまったと哀しくなって乙女はどうしようもない孤独を感じる。だからたとえそれがわけのわからない黒いもやもやした影の犬っころであったとしても魔王が側にいてくれて乙女は少しだけ嬉しかったのだろう。最後の日に乙女はとうとう自分の秘密を打ち明けて魔王にお別れを言った。さよなら。
時の流れの話をしよう。
これから先何千年と生きるであろう不死の化け物である魔王は初めて死を考える。乙女は明日死ぬのだという。死んで、いなくなって、これまでのように時計塔を眺めたり魔王の言葉にいい加減な相槌を打ったりすることはもうないのだという。
いつか失われてしまうものがこの世にはある。たとえ何年生きようとも、いまここの乙女は二度と還らない。なんとかその事実を飲み込んだ魔王はぐると腹の底で低く唸るとこう思うのだった。
──この女を喰わねばならぬ。
魔王はもちろん、そう思った瞬間にあんぐりと口を広げ乙女の身体に噛みついた。乙女は悲鳴を上げたかもしれない。けれどもその時の魔王にはもう乙女の声や言葉は聞こえておらず、ただ失ってしまうという衝動に駆られるまま乙女の肉を夢中で咀嚼するのだった。
牙の間に女の神経が挟まってびよんびよんと跳ねていた。舌でこそげ取ろうと舐め上げる、脊髄が痺れるほどの冷たい甘さがこみ上げる。乙女の腹に顔をうずめて内臓から骨からとかく構わず噛み砕いてするりと飲み干し、ぐえ、といじきたなくげっぷをする。
食べていくうちに魔王の身体は次第に厚さを持ち始め、影の身体が見る見るうちに膨れ上がっていく。魔王の身体は受肉する。その肉はもちろん乙女の肉であり、かつては乙女の身の内を流れていた血の流れを纏って魔王はようやくこの世に質量を持つ。
もう、乙女と語らうことはない。頭の悪い乙女の間抜けな台詞を小ばかにすることも、寒さに震える乙女に身を寄せるふりをする必要もない。乙女を食らい、乙女と一体化することで魔王は乙女という一つの永遠を手に入れるのだ。二人は一つになり、再び魔王は一人になる。
喰う者の悲しみと喰われるものの悲しみが一つになって、混じりけのない狂気が生まれた。いつの間にかに魔王は静かに笑い出し、両手を広げて我が身を確かめる。魔王はいつしか人の姿をしている。人形のように整った顔をして、しかし男でも女でもない。艶やかな影の髪をぬるりと垂らし、見るもの全てを魅了する蠱惑の瞳を輝かせ、魔王は淡々と歩き出す。
──余は死なん。余は我と我が身を永遠とし、そして望む全てを永遠にするのだ……。
街を立ち去る魔王が一度だけ後ろを振り返ると、また一つ時計塔の鐘がぼおん、となった。
◇
星を視ていた。
安っぽい強化硝材でできた天窓を透かして見る夜空は夢幻、途方もなく広がる無数の星々が瞬いている。
雑多な機械の群れに取り囲まれ無闇やたらと狭苦しいその場所は魔王の住む星に唯一存在する『駅』であった。ここではないどこかを目指す旅人を迎える場所、何処からか来る異邦人たちの集まる場所、別世界との架け橋となる『駅』──星間船発着場。
駅の内部ではあらゆるものが忙しない。さきほどから辺りをうろついている山高帽の小太りはしきりに汗を拭いながら謎めく宗教文言を唱えては口ごもり、壁際に蹲る螺子巻き猿たちは甲高い音を立てて両手の打震鐘を叩きつけている。赤ら顔の機関士たちはといえば、なにがそれほど苛立たしいのだろう、罵声まじりに整備士に指示を出している。
騒がしい。
魔王はきっと口を閉じ、世界との決別を誇示するかのように面を上げ空を見る。夜は静寂を湛えている。きらびやかにまたたく星たちはしかし、生きる苦痛を叫ぶことも死への恐怖を呪うこともなく、ひたすらに沈黙を守り続けている。
「星を見ているのでございますか」
声をかけられ振り向くと、緑色のかっちりとした制服の男がニコニコとうすら寒い笑顔を浮かべていた。
「ここから見える光景にあなたの求める星があると良いのですが」
「星間船にのればあらゆる場所に行けると聞いた」
「もちろんでございますお客様。そこに
問いに魔王はしばらく考えてこう答える。
「余は花嫁を所望している」
「なかなか浪漫に溢れる願いでございますね」
制服の男──星間船発着場の駅員は大げさな仕草で感心して見せる。
「たとえばそれはどのような花嫁で?」
「永遠の花嫁だ。美しく、穢れなく、けして失われることのない恋人のことだ」
「ほほう」
駅員は面白そうに笑うと腰に提げた鞄をごそごそと探り桃色の小冊子を取り出した。『星間ガイドブック 9807年度版』と記されている。
「これはお客様に無料でお渡ししている記念品でございます。こちらを手に取り、まずはヨウマと念じながら指をページに滑らせてみるがよろしいでしょう」
言われたとおりにしてみると、自然にページが捲れだした。開かれた小冊子は真っ白だったが、「ヨ、ウ、マ」と唱えた途端に印刷が浮かび上がる。掌の中の記事にはこう書かれている。妖魔。
「お客様のことでございます」
不意に言われ魔王が顔を上げると、駅員がまっすぐにこちらを見ている。
「この星でお客様は確かに魔王と呼ばれてはおりましたが、星間世界においてはあなたのような存在は一般に妖魔と呼称されます」
「余が、妖魔か。自身の存在のことなど考えたこともなかった。そうか。余は妖魔というものだったのか」
「妖魔。性別を持たず、美しい姿を持ち、変わることなき永遠の命を持つもの。あなたの求めるものは、おそらくあなたと同じ妖魔と呼ばれる者でございましょう」
「では、その妖魔のいるところへ迎え」
「かしこまりました。それでは次便、星間船アルメファル、ファシナトゥールへ参ります。発車までもうしばらくお待ちくださいませ」
駅員は鞄から小旗を取り出すとさっと振る。するとどこから合図を確認したのか、ぎしりと巨大なものが軋み気配がし、そこかしこから猛烈な蒸気が噴き出し始めた。
駅員に案内され発着場を進むと前方にゲートが見えた。手前で立ち止まり、周囲を見回すと横に案内板らしき表示と『おとな一枚』『こども一枚』という押しボタンがある。少し考えたが自らの人生経験というものを考えて魔王は迷わずに『こども一枚』を押し込む。ガガ、と何かが絡まるような音がして機械が券をはき出したので何気なく手に取りまじまじと観察する。大きな文字で『こ ど も』と記され、その下に小さな文字で『まいごにならないようにきをつけましょう』とある。
駅員は少し困った様子で魔王を見ていたが、「何か出たぞ」と言われ慌てて「はい、はい」と返事する。
「そちらが搭乗券になります。ゲートのここ、ああ、そう、その隙間です──に通してください」
スリットに券を通すと、バチリと音を立てて丸い穴をあけられた切符がゲートの先に飛び出した。何かの傷跡のようだった。券の穴から発着場を覗いてみるととても狭い世界に見える。くるり、掌で切符を翻し袖に仕舞い込むと魔王は黙って駅員の後を追う。ゲートをくぐり、船に架設された梯子を上り、いよいよ船に乗り込んだ。座席についた覗き窓から下を見下ろすと先ほどの駅員が能天気な笑顔を向け手を振っている。
「お客さまは旅に出るのでございますね」
駅員の声は不思議によく通り、まるで耳元で囁かれているような気さえする。
「自分の求めるもののため、今いる場所を捨て、まだ見ぬ荒野を目指す。──お客様、差支えなければ最後にお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「名前?」
尋ねられ、魔王は僅かに戸惑う。魔王には名前が無かったのだ。
星間船はまもなく発車しようとしている。柱の掛け時計がこちこちと時を刻み、ついに短針と長針とが出会い、ジリリ、とやかましく発車の鐘が鳴る。
記憶のどこかで時計塔の鐘が鳴る。ぼおん、と低く、遠い記憶の音がする。
──オルロワージュ。
ふと、口をついて出たその言葉に魔王は少しだけ驚き、それからふむ、と小さく唸り納得する。
「オルロワージュ。余の名はオルロワージュだ」
告げられた駅員はぱっと顔を輝かせた。
「されば、オルロワージュ様。あなたの行く旅路にどうか幸運がありますように!」
そっと手を上げて答えると駅員はなおもぶんぶんと手を振り、見えなくなるまでずっとこちらを見送っていた。