暗く濁ったスプライトの眼球が頭から離れない。逃げ出すようにアセルスはその場を離れ、助けを求めるように城内を歩き回る。しかし人の姿は陰さえも見えず、散策すればするほどに城への困惑は深まっていく
濃染めの紫に覆われた蔓の回廊。巨大な蕾を刳り貫いた伽藍堂に作られた洋室。聳え立つ刺草の城の内部には夥しい数の薔薇が蔓延っている。
無数の財宝を孕む宝物庫があった。月下に咲く花を思わせる刀、表面に銀河の蠢く腕輪。曰くめいた代物がごろごろ転がる宝の山にあって宝物庫の最奥部に積まれた明らかに場違いな土産物の山が目を引く。安っぽい桃色の包装紙にくるまれた直方体で、「リージョン名物金魚の干物」と記されている。横面を見ると「オルロワージュ様御用達」という印と商品の安全性を証明するために「私がつくりました!」という吹き出し付きで生産者の写真が掲載されている。
「ヨノメ、ヨチコ……?」
生産者の名前を読み上げて首を傾げる。どう考えても財宝と一緒くたにされるものではない大量生産の土産物だ。よくよく目を凝らしてみれば他にもおかしなものがちらほらと見受けられた。汚らしい字で「めてるむみあ」と刻まれた樫の杖が飾られていたり、王文青と墨痕倫理に記された将棋の駒箱や一見して手製と知れるちゃちなつくりの銅細工が見える。銅細工を手に取るとどうも「S」と「O」が組み合わされた装飾のようだった。何度となく磨かれてきたのだろう、黒ずんではいるが傷一つなく輝いている。計算してみると金魚の干物土産の数は全部で2300にものぼり、収集者の仄かな狂気が垣間見えた。
棺の並ぶ一室があった。蓋を開けてみれば中には美しい女性が死んだように眠りこんでいる。隣の棺もその隣もみな当たり前のように乙女を閉じ込めて鎮座している。時が進むことを拒否するかのように眠りの中に墜落し続ける乙女たちを、棘を奇妙に肥大化させた薔薇が縛る。しかし葬られているのは死者ではない。棺に眠る乙女たちの心臓は鼓動している。儚く震えるその皮膚に思わず手を差し伸べたアセルスは、突如蠢いた薔薇に驚いて飛び退く。気のせいだったかもしれない。薔薇が動くことなどある筈もない。しかし……。この城はどこかおかしいような気がする。突然消えた麗人に窓辺を訪う小妖精、そして棺に眠る乙女たち。
「誰か……誰かいないの」
弱々しく呟きながらアセルスは歩き続ける。どこもかしこも薔薇だらけだ。避ける足場もありはしない。足を進めようとするのなら必ず薔薇を踏みしめなくてはならない。美しく綺麗な薔薇をしかし土足で踏み躙り、捩れた葉脈から薔薇の血液がほろほろと零れていく。
ちらほらと花弁が散る。押し潰された花弁があまりにも醜い螺旋を描く。
庭園があった。白い薔薇が群生している。城の大半を支配する薔薇の紫とは違う無垢の純白。嗜虐的な紫とも赤色の攻撃性とも違う、平和の象徴たる白色にアセルスは束の間の安らぎを感じてほっとした。
「薔薇……が好きなのかな。ここの人は。いい趣味だよね……一応。度が過ぎてはいるけど……」囁いて、アセルスは首を振る。「いや、やっぱりどう考えても悪趣味だ……」
しゃがみ込んで薔薇の花を撫でていると、庭園に吊られた名前も知らない鳥の剥製が突然「ゲゲゲ」と喋り出した。
「ホント、ホント。本当のことを言うよ。武器は装備しないと意味がない! どんな剣を手に入れたって、使えなけりゃ役には立たない! ホント、ホント、本当のことを言うよ……」
「な、なんだぁ……?」
「ホント、ホント。本当のことを言うよ。失ったものは取り戻せない。忘れたことは思い出せず、記憶はけして戻らない! それがこの世の掟だよ! ホント、ホント、本当のことを言うよ……」
不気味に囀る鳥に後ずさると何かにぶつかってアセルスは更にわっと飛び上がる。振り返ると白い巻き毛の男が立っていて、鋭く舌打ちをしながら鳥の剥製を睨みつける。
「奴らの言うことに耳を貸すな。
「え……? あなた、な」
どん、と重たいものがぶつかる感触がして、口にしかけた疑問が遮られる。氷を押し当てられたような痛みに思わず俯けば、巻き毛が手にした剣が自分の腹腔を刺し貫いていた。
「あ……」
驚愕に顔を上げると、巻き毛は詰まらなそうな顔でアセルスを見下ろした。アセルスが伸ばした腕を事もなげに躱して男は剣を抜き、軽くアセルスの胸を押す。アセルスは倒れこみ、そのまま気を失う。
とふ、とふ……と滴り落ちる乙女の血。水で膨れた袋を針でつついたように、肉の詰まった体から止めどなく血液が流れ出る。
その血の色は赤では無い。人間の身体を巡る血潮、鉄の匂いを漂わせるあの鮮血の紅とは違う。
その血の色は蒼では無い。妖魔の持つ妙なる虜の血、魂さえも書き換えるあの蒼の血流とも違う。
その血の色は
乙女の血を薔薇が喰らう。水面に落ちた雨粒がさっと波紋を生むように、純白の薔薇が一瞬にして暗く染まっていく。
乙女の血に悪意は無い。征服欲も支配欲も欠けている。──しかしそれでもなお、乙女の血は邪悪である。雪薊の血液が薔薇と言う薔薇を浸食する。
妖魔の城の歪な薔薇が乙女の血液を卑猥に啜る。舌を滑らせしつこく舐め上げるように音を立てて吸血する。そしてまた牙を剥く乙女の血が薔薇を見る間に覆い尽くしていく。純潔の白を穢して渦巻き、薔薇と言う薔薇の一切を己の色で染め上げる。
薔薇が血を喰えば乙女の血もまた薔薇を喰うのだ。共食いの様相を呈して
乙女の血は邪悪である。赤でもなく蒼でもなく人でもなく妖魔でもないその血の色の名は|雪薊《スノウシスル。この世でたった一人の絶滅の色。孤独と退廃と放埓の色。
ここに乙女の血が流される。滔々と流れ、静かに床を滑る。その血を見て、高みから妖魔の君が一人囁く。──血は紫か。答えるものはなく、なおも乙女の血は流れ続ける……。
また時が過ぎる。微動だにしない乙女の肉の裡側で小さな泡がぷちりと弾け、蠢く内臓器官が肉の糸を粘つかせながら身を捩る。
凍り付いた心臓が奇妙な鼓動を刻み始めた。
アセルスの全身が操り人形じみて痙攣する。青白い電撃に撃たれたように右腕が大きく震え、鍵盤を跳ね上げるかの如く五指が暴れる。
乙女の肉は仮想の熱量を取り込んで見る間に膨れ上がると己の腹部にぽっかりと空いた傷口に群がった。汚らしい汁を互い違いに擦り付け合い絡み合い、傷と言う傷を嘘で塗り固めてしまう。
ううん、と寝言を言うように悶え、アセルスが再び目を開ける。見覚えのある景色、しかし紫に染まった薔薇の庭園。ぬるぬると滑る掌に疑問を覚え見つめてみれば紫色の不気味な液体が滴り落ちる。
「なんだ……これ……」
ぼんやりと呟いて思い出すことは謎の巻き毛と腹に刺さった剣の記憶。……ああ、そうだ、自分は確かに……。いや……死んではいない。おそるおそる覗いた自らの腹。穴こそ空いてはいないものの鋭い裂傷そして傷口から溢れ出る紫色の……これは。
貫かれ、しかし思いのほか浅く、けれども確かに刻まれたこの傷から零れ落ちるこの色はこの液体は、いや、そうとしか考えられない、けれどもそんなことあるわけがない。
「なんだ、これ……なんなんだ……!」
上擦った声が焦りを更に助長する。
夢を見た、と思う。自分が死ぬ夢だった。けれどもそれは夢だった。夢だったはずなのだ。だというのにまた自分は夢を見ているのだろうか。今度もまた死ぬ夢だったのか。……いや違う。自分は今ここにいる。夢の場所と今いるここは訳の分からない因果で結ばれている。
巻き毛の男が自分を刺した。気が付けばこの傷があり、この……血がある。体の奥から滲み出るこれは血液以外には考えられない。
助けて、とアセルスは言う。掠れた声で他人を求め、惨めに喘いで嘆きを上げる。依然として醒めない悪夢に震えだした歯の根をそのままに、よたよたと頼りない足取りでアセルスは歩き出す。
どうしようもなく脅えていた。何かが怖くてたまらなかった。自分には理解できない何かが起きている。自分自身が知らない間に何か別のものに変わってしまっている。
「あ、あ……」
よろけた足が絡まりアセルスは無様に転ぶ。勢いよく顔面から倒れこみ、打ち付けた鼻っ柱がつんと熱くなった。
……ああ。
……自分はいつもこうだ。
何一つわからないまま追い立てられ、おどおどと逃げ回らなけりゃならない。
顔も知らない両親のことで「親なし子」「貰われっ子」だのと馬鹿にされ、さんざ殴られた。自分が何をしたというわけでもないのにただ生きているだけで迷惑だと言われているような気がする。
ここから抜け出す方法を誰も教えてはくれない。自分が誰かを殴ってしまったのならああどうぞ殴り返してくれとアセルスは思う……。失礼なことを言ったのなら謝りもするし悪いとも思う。しかし自分を悩ませる問題はどんな時だって自らの与り知らぬところ、自分の手では触れられない場所にある。「両親がいない」と蔑まれしかし自分はどうしたらいい? 今更のように両親を生み出すことはできないしかといって卑しく媚を浮かべて同級生に取り入ろうとも思えない。
いつもそうだ。
世界は自分を祝福してはくれない。
その証拠にみろ、今もこうして自分は見知らぬ場所で孤独に震えているではないか。体の奥から湧き出る紫の血の由縁も知らず、力なく無様に倒れこんでいる。
「ふざけるな……!」
こみあげる嗚咽を懸命に飲み込み、力の限り掌を握りしめると掌に薔薇の棘が突き刺さる。
それは恐ろしいほど心地の良い痛みだった。
痴愚の笑みを浮かべてアセルスはなおも強く掌を握りしめる。更に増していく痛みが意識を覚醒させる。ぎちり、と掌の中で何かが爆ぜた。広げると手の肉が醜く裂け、汚らしい穴が空いていた。
傷口からはやはり紫色の血が流れている。ぐ、と歯を噛みしめてアセルスは再び棘を握りしめる。ぎちぎちと棘が手の中で炸裂する。
「痛いな……」
アセルスは昏い微笑みを浮かべて拳を握る。心の奥底でじりじりと燻るちっぽけな怒りが痛みによって勢いを増し、混乱と恐怖が激情に染まっていく。追い詰められた鼠が狂気に涎を零しながら爛々と眼をぎょろつかせて牙を剥くように、か弱い乙女の魂が燃え盛る怒りに焼き焦げていく。
手を握る。
棘が刺さる。
痛みを糧に目覚めた獣が子宮の海で静かに唸る。
──訳の分からないことを訳も分からずに押し付けられ、はいそうですかと頷いてたまるか。
「ああ、うんざりだな……!」
吐き捨ててアセルスは立ち上がる。
◇
やがてアセルスは“王”と出会った。
目覚めた時隣にいた緑髪、自分を突き刺した巻き毛、そして橙色の外套を羽織った見知らぬ男と侍女たちに囲まれて悠然と玉座に座る硝子細工のような美貌の持ち主。
辿り着いたその場所で、玉座についた麗人はこちらを見下ろして静かに尋ねた。
「名は?」
答えるのが当然だとでも言わんばかりの態度にアセルスは首を傾げる。
「私はアセルス。でもね、人に尋ねる前に自分で名乗るのが礼儀だと思うな」
「この無礼者!」
巻き毛が叫ぶがアセルスは意に介さず爪先で床を軽く叩く。気丈なその態度に「ふむ」と王が満足げに息をついた。
「アセルスか。人間にしては気の利いた名前だな。気も強い。いいことだ」
予想もしない褒め言葉に「む……」と押し黙り、アセルスは俯いて年相応の恥じらいを見せる。他人に褒められることなどは久しぶりでどう反応していいのかわからない。
(いや……相手に呑まれちゃいけない。私は誘拐されてきたかもしれないんだ)
アセルスは気を取り直すために自分の右頬を捻る。目の前の王が面白そうに目を細め、余裕綽々なその態度にアセルスは僅かな苛立ちを覚える。
「そろそろ名乗ったらどう?」
問いに答えるように「うむ」と王が頷くと、取り囲む侍女たちがうっとりした表情で手を祈りの形に組み、代わる代わる宗教的な文言を唱えるかのように法悦と語りだした。
──魅惑の君。
──無慈悲な王。
──薔薇の守護者。
──闇の支配者。
──美しき方。
──裁きの主。
──ファシナトゥールの支配者。この針の城の主。
──妖魔の君。オルロワージュ様……。
「……妖魔。そうか……。でも私には関係ない。家に帰して」
「先ほど庭で見なかったのか? そなたの血は紫だ。そなたはもはや人間ではない」
「嘘」
「セアトの剣で串刺しにされた、その傷はなぜ無い? そもそも、我が馬車に轢かれてそなたは死んでいた。そなたが蘇ったのは我が青い血の力。妖魔の青と人の赤、二つの血が混じりあいそなたは生き返ったのだ。紫の血の半妖としてな」
「私が……」
「かりそめにも我が血を受けし者、それなりの物事を身に付けてもらわねばな。……イルドゥン」
イルドゥンと呼ばれた緑髪が感情の篭らぬ声で答える。
「……ああ」
「イルドゥン。この娘、そなたに任すぞ」
「イルドゥンでは力不足では? 何かの時に醜態を晒すことも」
セアトが不服そうに口を挟むと、橙色の男がイルドゥンを庇う。
「イルドゥンの身のこなしの素早さ、剣さばき、どちらも十分だ。セアトよ、お前ごときが口を出すことではない」
「半妖……」
アセルスは茫然と呟いた。
「ラスタバンの言うとおり、妖魔の力を教えるのはイルドゥン一人で十分だ。だが、まずはその汚らしい格好を何とかしてくるのだな」
オルロワージュはそう言い放つと取り巻きと共に消え、あとにはイルドゥンだけが残った。
汚らしいと言われたことにも気づかず、アセルスは突然告げられた真実に動揺を隠せない。
「妖魔……半妖……青い血……紫の血……」
「いい加減現実を受け入れろ、半妖。たかだか血のいくらかが入れ替わったに過ぎん。行くぞ」
「どこへ?」
「血のめぐりの悪い娘だな。オルロワージュの言葉を聞かなかったのか? 根の町の仕立屋へ行く。お前の服が仕立ててある」
無遠慮に告げるイルドゥンにアセルスの頬がぴくりと引き攣る。
「……」
「聞こえなかったのか? ついて来い、半妖」
「……嫌だ」
「なんだと?」
「嫌だって、そう言ったんだ! ……なんだ、あなたたちは! こっちは死んだだの半妖だの言われて混乱してるんだ! 人の気も知らずに勝手なことばかり言って、よくもまあそんな偉そうにしていられるね! ……運命って奴はいつもこうなんだ! こっちが望んでもいないことばかりを押し付けておいて、肝心なことは何一つ教えずに知らん顔をしてる! もううんざりなんだよ!」
叫んだ直後、イルドゥンの腕が無造作に伸びアセルスの顎を掴んだ。そのまま持ち上げ、ぎりぎりと締め上げる。
「……言いたいことはそれだけか、小娘」
冷たく睥睨するイルドゥン。
「う……」
「俺はついて来いと言ったんだ。お前の言葉など聞いてはいない。お前はただ馬鹿のように俺の後をついてくればそれでいい」
圧倒的な暴力に身動きを奪われながら、しかしアセルスは気丈に睨み返す。
「い……や……だ……」
「もう一度殺されなければわからんらしいな」
次第に強まる力に骨が軋む。
「あ、あ……」
「跪いて命乞いをしろ。私は惨めな弱者ですと頭を垂れ、卑しく慈悲を乞うがいい」
「嫌なものは嫌だ……。どちらかが謝るというのなら、お前が私に謝れ……!」
「俺がお前に謝るだと?」イルドゥンが眉を顰める。「解せんな。なぜこの俺がお前になぞ頭を下げねばならん」
心底から不思議そうなイルドゥンにアセルスは拳を固め、力の限りに顔面を殴りつけるがびくともしない。だが予想だにしなかった反撃にイルドゥンの力が僅かに弱まり、アセルスは床に投げ出される。
苦しげに咳をしながらアセルスは再び叫んだ。
「それだけのことをしてるってのがわからないから、あんたたちは妖魔なんだ! 私は絶対に命乞いなんかしない。頭だって下げない。殺すっていうのなら、ああ殺せ! どうせ私は死んでるんだろう!」
大音声で吠え、アセルスは肩でぜいぜいと息をする。
イルドゥンはまるで道端の野良猫でも見るかの如く彼女をじろじろと眺めまわしたかと思うと、どこか納得したように頷いた。
「ふむ……」
「……?」
「……まぁ、そうだな。実際の所お前を殺すわけにもいかん。……となれば、仕方がない」
「なに?」
怪訝に問い返すと、イルドゥンはその場に腰を下ろしのんびりと言った。
「お前の気が変わるまで傍にいるよりほかはない。それ以外に出来ることもないのでな」
「……勝手にすれば」
不機嫌に顔を歪めアセルスはイルドゥンから離れる。どこか別の場所に行きたいと思う。ようやく手にした自由だ。頭の中を整理したかった。
「……おい。どこへ行くつもりだ。小娘」
「小娘じゃない。私はアセルスだ」
「そちらは行き止まりだぞ小娘」
「……うるさいな。私は私の行きたいところに行くさ」
「お前に行きたいところなどあるのか? ここがどこなのかも知らぬくせに」
「それもこれも全部あんたたちのせいだろう」
「ああそうだ。だが俺の知ったことではない。いいからとりあえず服を取りに行け小娘」
「絶対に嫌だ」
「そうか」
「ん……。あ……? 服……? そうか……」
「どうした」
「巻き毛に剣で刺されて服が血塗れになって、それで代わりの服があるから取りに行くって、あなたが言っているのはそういうこと……?」
「初めからそう言っている」
「あ……そう、そうか……」
「何がだ」
「それで、その後はどうするの……?」
「その後?」
「服を着替えて、その後であなたは私をどうするつもりなの……?」
「そうだな……」イルドゥンは少し考える。「特に何も考えてはいない」
「はあ?」
「まあ待て」イルドゥンが額に手を当てる。「お前は服を着替える。そして……そして、そうだな……お前の部屋がある。そこで寝ろ。とりあえず」
「何それ」
「お前も聞いていただろう。俺とてお前の面倒を見ろと先ほど言われたばかりだ。大したことを考える時間もない」
「ああ……うん。……少しだけ、あなたのことがわかったような気がする」
「ほう」
「……あなた、実は馬鹿なんでしょう?」
イルドゥンは「はっ」と小さな声を上げた。笑ったようだった。