サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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幕間 零と鴉と喰う者が喰われる夜

 むかしむかしある所にイルドゥンという馬鹿者がいた。このイルドゥン、生まれついての頑固者で他人に依ることをよしとせず、たとえどれほど偉い相手であろうとも気に食わなければ頭を下げないという自分ルールを頑なに守るタチであったため一部の妖魔からはひどく嫌われている。

 たとえばイルドゥンが親友のラスタバンと一緒に針の城を歩いていると、前方から零姫がやってくる。零姫はファシナトゥールで一番偉いオルロワージュの第一の寵姫、ものすごく簡単に計算すれば二番目に偉いということになる。隣でラスタバンが女王に対するように恭しく膝をついて挨拶するのがわかったが、やはりイルドゥンはイルドゥンでしかなく、顎を若干上げさえして、しかも見下ろすような目つきをして「半月ぶりか、零姫」とぞんざいに言い放つ。

 当然のごとく零姫はイルドゥンを無視してラスタバンと語らい始めた。

「これは零姫さま。本日もご機嫌麗しゅうございます。また零姫さまのお美しいご尊顔を拝見することができ、身の震えるほどの幸福でございます」

「うむ、うむ。ラスタバンはできておるのう」

 ニコニコと微笑えむ零姫はそれからわざとらしく眉を顰めて信じられないものでも見るようにイルドゥンに視線を向ける。

「それに比べてこのイルドゥンはどうじゃ……。口のきき方も知らん原始の猿と見える」

「……」

「……まぁ、イルドゥンのことは良いではありませんか。それよりも零姫様、先だっての周遊では何やらとても珍しいものを見つけたと聞きましたが」

「ほお、さすがはラスタバン、耳が早いではないか。まさにそのとおりよ。こたびの旅行で妾が手に入れたものこそ、この食鎖の杖(チェインズケイン)──すなわち、“喰う者が喰われる杖”じゃ」

 零姫が掲げた杖に、イルドゥンは見たままを言った。

「汚らしい杖だな」

 別にイルドゥンに他意があるわけではない。ただ彼には杖がそう見えたからそう言っただけなのだ。本当に汚い杖だった。あちこちが煤け、植物の汁や怪物の体液が染み込んでいる。肝心の杖自体に施された彫刻も実に不気味で、杖の先から塚元へ向かって菌類、植物、虫、鳥、獣と様々な生き物が描かれ、頂上付近では人間と妖魔とそしてなんだかよくわからない幾何学的なものが絡み合う。実際にそれを口に出すかどうかは別として、装飾品として美しいとはけして言えない杖だった。

 手に持った杖を否定された零姫は凍えるような眼で睨みつける。

「煩いぞイルドゥン。貴様は黙って庭の隅で屈伸運動でもしておれ」

「……」

 あんまりといえばあんまりな言葉に思わず腰の剣に手を伸ばしかけるとラスタバンが慌てて耳打ちをする。

「イルドゥン。それはまずい」

「……まだ何もしていない」

「なんじゃイルドゥン、剣を抜く気か? こんなにか弱い、しかも丸腰の女性に向かって貴様は凶器を抜くのか? 野蛮じゃのうイルドゥン、実に野蛮じゃ」

 

 

 とこのようにして数多くの妖魔に嫌われ、中でもとりわけ零姫とは犬猿の仲のイルドゥンなのだった。

 出会う度に零姫はひどい罵倒を浴びせ、イルドゥンは不愉快そうに顔を歪めてラスタバンがそれを止める。長い長い時が過ぎ、いつしかそんな関係が当たり前になりつつあったそんな折、ファシナトゥールを揺るがす大事件が起きた。

 零姫が逃げたのだ。

 

 

 虜化を受けたものは主に対して隷従を強いられる。尽くしこそすれ、逆らうことなどある筈はない。だというのに零姫は──なんとオルロワージュを逆に吸血し傷つけさえしたというのだ。

 これはあってはならないことだった。オルロワージュの虜化が破られる、それはすなわち、妖魔の君の権威が揺らぐことを意味する。

 零姫の力がオルロワージュを上回った、だから虜化が破られた。オルロワージュは弱くなっているのではないか? 零姫につくべきなのではないか?

 数多くの疑念が囁かれ、ファシナトゥールに不穏な空気が渦巻く中、変わらないのはイルドゥンただ一人だった。 

 零姫が逃げたその日、イルドゥンは彼女と会っていたからだ。

 

 

 夜中にひとりでぼんやりしているのが好きなイルドゥンがその日も城をぶらついていると、城の頂上からパリーンという音が聞こえる。見上げれば、腕を十字に交差させた零姫が窓を破って落ちてくるところだった。

 零姫が軽やかな音を立てて庭に着地し、しばらくしてからオルロワージュのものとおぼしき声が高らかに彼女への愛を告げた。

 愛している、とオルロワージュは言う。しかし零姫はその言葉に背を向けて一目散に疾走するのだ。

「……何をやっているんだ、あの女は」

 うんざりしたように呟いたイルドゥンはそのまま見なかったことにして立ち去ろうとしたが、運の悪いことに零姫が丁度こちらの方へ駆けてくる。思わず顔を歪めたイルドゥンは、しかし近づいてくる零姫がうっすらと涙を浮かべているのに気づいてそっと目を細めた。

「おい」

 零姫ははっと顔を上げ、緊張したようにすっと息を吸う。用心深くこちらの様子を窺いじりじりと後ずさり、イルドゥンが「一体何の真似だ?」と呆れているとふっと肩の力を抜いて「はは」と自嘲した。

「……確かにな。これほど早く追手が待ち伏せているわけもない」

「何の話だ」

「気にするな。馬鹿には関係のない話じゃ」

「誰が馬鹿だ。……第一の寵姫が夜更けに窓から飛び出すのを目撃しておいて関係がないという訳にもいかんだろう」

「ちょっとオルロワージュの血を頂いてきただけじゃ」

「そうか」イルドゥンはどうでも良さそうに頷いてそれから「……なんだと?」と珍しく声を震わせる。

「今のは少し面白かった」

 真面目な顔で感想を述べる零姫にイルドゥンはなおも疑わしげに尋ねる。

「とすると、お前は……」

「ああ。もはや妾はオルロワージュの虜ではない」

「しかし、相手はオルロワージュだぞ」

 信じられないといった様子で言葉を濁すイルドゥンは色々なことを考えた。一体どのような方法で逆吸血を成し得たのか? そもそも虜化を受けておきながらなぜ逆吸血を行う意思を持てたのか? そして──そしてイルドゥンが最後に思うことは、彼自身が望むただ一つの事。

「お前はオルロワージュに勝ったのか?」

 零姫が明らかに「何を言っているのかこの馬鹿は」という顔を浮かべイルドゥンは一瞬鼻白むが、それでもしつこく問い質す。すると零姫は面倒くさそうに「何故そんなことを聞く?」と聞き返した。

「当たり前だろう。俺は奴に勝ちたいからな」

 真剣に答えたイルドゥンを零姫は笑う。「はっ」と鼻を鳴らし小馬鹿にさえする。腹立ちを懸命に抑えしかめっつらをしていると零姫は仕方なさそうにため息をついて答えた。

「……まぁ、絶対ともいえる奴の支配から逃れえた、奴の力を逆に奪ってやったという点を考えれば、確かに妾は勝ったと言えなくもないのかもしれん。……しかしのう。勝ったとか、負けたとか、事ここに及んで考えてみれば、妾にはどうでもよいことじゃな。だいたいが、男と女の間に勝敗という考えを持ち込むこと自体が無意味じゃろう。いかな妖魔とて、はじまりには愛するために支配したのであって、支配するために愛したのではない」

「愛?」イルドゥンは首を傾げる。「なぜここで愛がでてくる」

「まだわからんのか? 妾は第一の寵姫であることを、オルロワージュを愛することを止めた。奴の虜化を打ち破り、自由を手にするために逃げ出したのじゃ。今ここで起きたのは妖魔同士の戦いではなく、単なる痴情のもつれに過ぎん」

「そうだったのか」ようやく得心がいったようにイルドゥンは頷いた。「今までどのように奴の剣をかいくぐって吸血したのかということしか考えていなかったが、そうか。お前は逃げてきたのか」

「冗談ではなくこれは心底から言うがやはりお前は馬鹿じゃと思う」

 零姫の言葉が耳に入らなかったようにイルドゥンは「そうか……」と繰り返し、それからふと顔を上げてまじまじと零姫を見つめた。

「なぜ逃げる」

「さあな」

 冷たく答え踵を返した零姫の背中に、イルドゥンはぼそりと言う。

「零姫。オルロワージュは寂しいと言ったぞ」

「……ほお」

 押し殺した声で零姫はぴたりと動きを止めた。

「……意外じゃな。おぬしからそのような言葉がでてくるとは思わなんだ」

「俺の言葉はいつだって俺のものだ。意外も何もない」

「そうか? 言葉一つで世界は変わって見える。いま、妾には、おぬしがいつもとは違った妖魔に思えているが?」

「俺には関係のない話だな」

「そうか。ならばおぬしはそうやっていつまでも変わらぬ言葉を抱きかかえているがいい」

「零姫。なぜお前は逃げたんだ?」

「イルドゥン」零姫は小さな声でぽつりと言う。「お前は永遠をどう思う?」

「どうでもいい」

「そう思えるのならオルロワージュもどれほど幸福じゃったろうかな……。まこと、世の中と言うものはままならんものじゃ。奴の……オルロワージュの求めているものはずばり、その永遠というものなのじゃ。永遠に変わらぬもの、永遠に失われることのないもの……。そんなものを求めることは、大気の質量を求めることに等しい。浜辺の果てに広がる大海に手のひらから水を零しておいて、落としたその水の形を求めることに等しい……。だから妾は逃げることにした」

「逃げるな。戦え」

「簡単に言うてくれるな、イルドゥンよ。……それに妾は何も逃げるためだけに針の城を飛び出したのではないぞ。そうさ、ある意味では、妾は戦うために逃げ出したとも言える。言葉というのはそういうものじゃ」

「まぁ、俺はお前がここからいなくなろうがなんだろうがどうでもいいが」

「さようか。ならば妾はこれで失礼するとしよう。思いのほか、おぬしとの会話も趣深いものであった」

「そうか」

「ああ」

「最後に一つ教えてくれ」

「何じゃ?」

「先ほどの話だが……肝心なところが曖昧なままだったのでな。お前が逃げたその理由だ」

「なかなかおぬしもしつこいのう」

「お前は永遠をどう思うんだ? オルロワージュは永遠を求めている。しかし永遠を求めることは困難だ。……それでお前は? 永遠を求めることを諦めて逃げ出していくのか? それとも……」

「イルドゥン。永遠などどうでも良い、とおぬしは言った。しかし再び妾は尋ねよう。この世に永遠は存在すると思うか? 永遠はあるのか、ないのか?」

「わからん。考えたこともない。お前はどうなんだ?」

 尋ねると、零姫は顔を綻ばせて幸福そうにこう答えた。この世に永遠は存在する。

 

 

 

 

 そして次に零姫と出会った時、イルドゥンは喰う者の喰われる夜を視た。

 ある日ある夜のイルドゥンがどことも知れぬ森の中を歩いていると頭上から転がり落ちるように何かが落下する。どさりと音を立てべちゃりと汚らしい液体を垂れ流し蹲ったそれは鼻を覆いたくなるような腐臭を放つ。

 ひどく醜い生き物だった。全身が血に濡れていた。芋虫の亜種か蛆の類だろうか。もぞもぞと蠢いて「ぐええ」と耳障りな鳴き声をあげる。薄汚い、気持ちの悪い、要するにおぞましい生き物だった。初めはそう思っていた。

 しかしどうだろう、近寄ってよくよくと眺めてみれば切り取られた肉の断面、じゅくじゅくと腐れ汁の滴るその様子にはどうもあの血潮の駆け巡る血管とやらがぷるぷると蚯蚓のように震えているし、無残に飛び出した二つの白の枝は骨のように見える。……とするとこれは、イルドゥンのよく知るあの形なのではないか。頭と胴体とを首が繋いで、二本の腕と二本の足とがにょきりと生えたその姿を人間、あるいは妖魔と呼び習わすのではないか。どだい、元々はそんな形をしていたのだろうけれど、今ではもう腕も足も捻じり切られて四肢欠損、地を這うことすらできない畜生以下の畜生としてそれは存在している。潰れた顔面は肉団子にしか見えないし「ううう」と苦しみに呻くだけの唇は罅割れた煉瓦の亀裂にしか見えないそれでもイルドゥンは頭と胴体とを首が繋いで二本の腕と二本の足とがにょきりと生えて賤しく足掻くその形を知っているその名前を知っている。

 それは零姫だ。

 イルドゥンは口元に耳を寄せる。雨が屋根を叩くような音を立て、今や肉塊と化した零姫がぼそぼそと聞き苦しい言葉を漏らす。途切れ途切れに弱々しく、ただ音の連なりにしか聞こえぬ言葉。イルドゥンが懸命に聞き取った言葉によれば、零姫は“これは嫌なところをみられたものじゃ”と言っているようだった。あまりにも無残な様子でありながらなおも自らを失わぬ零姫にさしものイルドゥンも感心してしまい、その夜、長く長く続くその夜をただひたすらに零姫の言葉を聞き取ることだけに費やした。一言話すだけで死んでしまいそうになりながら、零姫はぽつりぽつりと静かに語り、イルドゥンは死んでいく彼女を静かに見守った。

 

 逃げゆく乙女の話をしよう。 

 ここに一人の乙女がいる。たとえ何万年生きようとも本人が乙女だと信じている限り彼女は乙女だし、実際に「その体」は乙女なのだから仕方がない。乙女は自分自身が世界で一番美しいと思っている。世界で一番正しいと、強いのだと思っている。

 そんな乙女が、ではどうして逃げ出すのだろう。最強であるのなら誰からも逃げる必要はないし、美しいのなら誰だって魅了してしまえるだろう。

 しかし乙女はこう思っている。自分は世界で一番美しく正しく強いが、それらは所詮言葉に過ぎないのだと。言葉は時の流れの中で容易く物語になってしまうものだ。どれほど美しく強かろうとも、その言葉だけでは届かぬものもあるのだと。

 逃げてゆく。彼女はどこまでも逃げてゆく。

 愛した者がいた。愛した自分がいた。愛の言葉があり、口づけがあった。愛と言う名の感情を演じて一億百億の日々を過ごし、彼の者を愛して愛して愛し続けてそれでもなお愛することを止められず愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して──

 

(イルドゥンの目の前で、芋虫となった零姫が何度となく言葉を繰り返す)

 

 愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して──、

 ──さて。

 今、口に出したこの言葉。いつかは物語になり、文字になるかもしれないこの言葉。246度繰り返したこの愛にお前はいつか飽きただろう? まさか一つ一つゆっくりと数えながら耳を傾けたのではあるまい。きっと愛を読むことを投げ出して、この繰り返しに何らの意味をも感じなくなったのではないか。

 何度も何度も繰り返していれば言葉の構成は失われ、示すところの意味がわからなくなる。もううんざりだ、飽き飽きだ、どうしようもないほどに陳腐だと考える。

 それと同じことが乙女にも起こったのだ。愛して愛して愛し続けていつか愛することに倦み果てたら、オルロワージュ、どうしてお前に微笑みかけることができるだろう。お前が以前言ったことが、今なら乙女にもわかる。だから乙女は逃げていく。

 逃げる。なぜ逃げるのか。追われているから逃げるのだ。誰に狙われてもいないのならば逃げる必要などはどこにもない。乙女の行方を数多の妖魔が追い求め、その足を掬わんと虎視眈眈と企んでいる。だから乙女は逃げるのだ。逃げて逃げて逃げ続けるのだ。

 そうして逃げている内にいつかはあいつがやってくる。妖魔の君、魅了の君、妖煌帝オルロワージュ。かつては愛したあの男が全てを切り裂く妖魔の剣をひっさげて乙女を捕まえにやってくる。乙女は世界最強だけれどもこのオルロワージュもなかなかに手ごわい。さしもの乙女のつい油断して切り刻まれて命からがら逃げだしてこの有様。世界は常にままならぬ。

 ……要するに、乙女はオルロワージュにしてやられてしまったのだ。なんとか捕まることだけは避けたものの必死に逃げるうちに足は捻じれ腕は腐って落ちた。この目でさえももうまともに見えない。あとはもう、ゆるやかに死ぬのを待つばかりとなった。

 しかしな、と乙女は言う。だからといってこのリンクーニャン、何の考えもなくむざむざ死ぬのではない。逃げると言うたからには逃げ切るだけの策がある。

 覚えているかイルドゥン。お前が汚いと言ったあの杖を。妾の持ち帰ったあの食鎖の杖を。

 そこらに転がっている筈じゃ。探して持ってきてくれ。

 

 

 捕まるわけにはいかない。どんな手段を使ってでも逃げ続けなくてはならない。そう考えたとき乙女の頭をよぎるのは、転化の法。染み渡る水が太陽に焼かれて天空へと高く上り、そしてまたいつか雨として大地に降り注ぐ。この世に産み落とされ、虚無(ぜろ) へと還り、そしてまた生まれくるいのち。転化転生法によって再現される輪廻の姿。食鎖の杖によって発動される破理の呪法。“喰う者が喰われる夜”。

 乙女の唇が杖を咥える。涎を滴らせながら、(チェイン)、そして(ケイン)、呼ぶべき呪具の名を口にする。

 

 命というのはいつか誰かに食われるものだ。あなたがもし微生物ならあなたの暮らす植物を虫が食いその虫をまた別の虫が食う。その虫はまた鼠に喰われ鼠は蛇に蛇は鳥にと食われていって獣を食らう人間の血をいつか妖魔が餌にする。食物網の頂点に立って、妖魔は支配者然と生きている。けれどもそれが一体なぜなのかは誰にもわからない。なぜ自分が生まれついての勝者なのか、誰も説明してやることができないのだ。

 食って食われて食われて食って。命を繋ぐその鎖の理を破らんとするのなら相応の報いをうけねばならず、一つの命を得るのなら一つの命を失わねばならない。喰う者が喰われる夜という術はつまるところそういうものだ。

 仙女として、妖魔として、零姫はたくさんの血を吸った。

 故に、食鎖の杖を手にした乙女がそれでも命を願うなら、どこからともなく現れたありとあらゆる被食者たちが、この時よりは捕食者と転じて零姫を食らう。

 ざわ、と森が震えた。

「見よ、イルドゥン……喰う者が、喰われていくぞ……」

 囁いた零姫の唇の端から無数の蟲が侵入し、小さな鋏でそっと舌を切り取った。腕の断面には緑色の微生物がわらわらと蠢いて見る間に肉は腐れだし、膨れ上がった膿がとろとろと流れ出していく。雀に鳩にうぐいすオナガ、なんでもない町鳥が狂ったように乙女の目玉にたかり出し、瞳の淵からそっと嘴を差し込んで眼球を刳り貫こうとする。

 乙女の腿を犬が食み、乙女の腱を鼠が舐める。少しずつ解体され骨の覗いたその体に零姫の面影などは欠片も残らず、イルドゥンの見下ろすその死体はただ骸と言う以外にほかはなかった。

 

 

 

 零姫、とイルドゥンは言う。零姫はもう答えない。目の前で喰われた零姫が本当に彼女の言うとおり転生を成し得たのかどうかイルドゥンにはわからない。そんなことができるものなのかと思う。仮にできたとして、そうまでして生きねばならないのかと思う。第一の寵姫でもあった女があれほど惨めな姿を晒し、生きながらに食われてまで逃げなければいけないものなのか。

「……大した女だ」

 珍しく感嘆の吐息を漏らし、イルドゥンは天を仰ぐ。それは祈りの仕草だった。今またこの世のどこかで新たな命が生まれることを、ただイルドゥンは静かに願った。

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