サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第十幕 焦がれの連鎖

 美しい方でした。

 開かれた扉にいらっしゃいませと頭を下げ、現れたイルドゥン様にああ今年も若様の衣装の御注文に来られたのだろうかと頭の中でさっそく作業手順を確認していると、イルドゥン様の背後からするりと無造作に別の方が入ってこられました。イルドゥン様が二人連れで来られたのはこれが初めてだったので珍しいこともあるものねと何の気なしに視線を向け、その途端に私は雷で打たれたように痺れあがります。

 その方は随分張りつめた顔をしておられました。身につけている服は何やらひどく汚れていましたが、その色は赤でも青でもなかったために私はそれが血に染められているものとは思いませんでした。

 私は服の汚れや乱れよりもその方のお顔にばかり気を取られていました。それほどまで強い光を放つ瞳を私は知りませんでした。静かな怒りと確かな意思を感じさせるそのひとみは、達観や老成ばかりを浮かべる妖魔の目とはまるで異なるものだったのです。

「い、いらっしゃいませ。高貴な方にご来店していただき、光栄でございます」

 奥から出てきた親方が震え声で挨拶すると、イルドゥン様はつまらなそうにふん、と鼻を鳴らして「お前に命じていた衣装を出せ」とお命じになられました。

「はっ。お持ちかえりになられるのですね?」

「これに着せろ」

 隣に立つお方を顎でしゃくるイルドゥン様に親方が「はぁ……」と釈然としない顔で不承不承うなずきます。

「早くしろ」

「は、はい。ジーナ」

「こちらでございます」

 試着室に案内する私に気づかず、そのお方はじっとイルドゥン様を睨みつけておいででした。視線を察したイルドゥン様が「アセルス」と呼びかけ背中を押すと、そのお方──ああ私はようやく御名前を知ることができました──アセルス様は素早くその手を避け、「気安く触らないで」と柳眉を逆立てました。その言葉を聞いて彼女の立場をうっすら理解するのと同時に、心の奥でじんわりと広がる得体のしれない満足感がありました。……ああ、この方はイルドゥン様と対等な口をお聞きになっていらっしゃる。とても身分の高い方、高貴な方なのだわ……。

 自分でも不思議なほど沸き立つ心にふらふらとアセルス様をご案内します。足が地についていないようにふわふわとした気分です。

 屋根裏部屋について扉を閉め、アセルス様に衣装をご覧になっていただきました。

「いっぱいあるんだね」

 とアセルス様が感心しきりに服を撫でています。

 この屋根裏部屋は私が暮らす場所でもありました。自分自身の個人的な空間にアセルス様がいらっしゃるという事実に思い至り、私は瞬間的に頭が真っ白になりました。貴方のためを想い、貴方のためだけに作り上げた衣装なのです、とお伝えしたくてたまりませんでしたが、厚かましいと思われるのが嫌で言えませんでした。

 警戒するようにきょろきょろと周囲に視線を向けていたアセルス様でしたが、お着替えを手伝うべく私が近寄るとはっと身を強張らせて「あなたも妖魔なの?」とお尋ねになられました。

「滅相もございません!」私は驚いてぶんぶんと首を振りました。「私はただの人間のお針子です。高貴な妖魔の方々とは違う、卑しい身分の……」

「そうなんだ」アセルス様はほっと肩の力を抜いて、それまでとはうって変わった親しげな態度で私に笑いかけてくださいました。

「自分で自分のことを卑しいだなんて言わないでよ。あなたはちゃんとここで働いているんでしょう? それはすごいことだよ。尊敬する」

「あ、ありがたきお言葉……」

 鼻の奥がつんとして思わず涙が出そうになります。なんてお優しい方なのでしょうか。

「大げさなだなぁ……」

 苦笑いしながらアセルス様がお選びになられたのは真紅のグルタヌル風宮廷軍礼装(ラーキューズ・ドレス)でした。ドレスと名前がついてはおりますがご婦人のための衣服ではなく、平たく申せば軍服とドレスのあいの子といったデザインになります。かっちりとした作りではありましたが、軍服にありがちなごてごてとした肩飾りやボタンなどの余計な装飾を省いたシンプルな装いになっており、肩から腰にかけての中性的なラインが特徴です。

 フリルの袖にすらっとした腕を通し、襟元に黒雷紬の首巻(クラバット)を覗かせたアセルス様はまさに凛々しい青年将校といったご様子で大変お似合いでした。

「ああ、思ったより動きやすいんだね」

「関節の部分は特に手縫いである程度伸縮するように手を加えてあります」

「へえ。いいね。気に入ったよ」

「ありがとうございます!」

 私は心からの感謝に深々と頭を下げました。

 ああアセルス様は私を肯定して下さる。私を認め、私の努力に報いを与えて下さる。

 私は自然と、アセルス様とたわいのない会話をしているだけで驚くほど満ち足りた気持ちになりました。それはきっとアセルス様が女性であったことが一因かもしれません。同性であることで親しみを感じ、妖魔に対する恐怖は薄らぎます。

 私はもしかしたらその時、アセルス様を僅かながらに侮ってさえいたのかもしれませんでした。それまで私はこの屋根裏部屋でいつか現れる若君をずっとずっと待ち望んでおりました。美しいその姿を目にしたいとそう願いながら、しかし同時に吸血され虜化されることを恐れてもいました。ですが、アセルス様は女性でした。落胆と共にどこかほっとしている自分に気付きます。この方はまさか私を取って食おうなどとはしないでしょう。虜化の恐怖から逃れえた今、私は心おきなくアセルス様に跪くことができました。私の意志で、私の自由に基づき、思うさまこの麗人を眺めることができる。私にとってそれは、譬えようもないほどの快楽に思えました。

 

 

 

 

 

  

 刳り抜かれた薔薇の蕾の回廊を抜けて知らない場所に案内されたかと思ったら、では剣を持て、とイルドゥンがいきなり言ったのでアセルスは目を剥いた。一体何を言い出すのだろう。

「はぁ?」

 と首を傾げて訪ねてはみたもののイルドゥンは相も変わらず無表情のまま、そっけなく小ぶりなナイフを投げ渡してくる。思わず受け取ってしまったものの銀のナイフはぎらりときらめきアセルスは危なっかしい手つきで取り落としかけた。

「何これ」

「見てわからないのか? 剣だ」

「いや、そういうことではなくて」

 ためつすがめつ眺めてはみるもののこれまで包丁しか握ったことのないアセルスには小さなナイフが随分と凶悪なものに思え、なるべく早いところ手放したいのだが手渡された以上そこらに捨てるわけにもいかない。

「だから、何なの」

「剣だろう」

「そうじゃなくてさ」

「この区画をしばらく進んで行けばモンスターが襲ってくる。まずはそいつらと戦って体の動かし方を学べ」

「だから、なんで!」

「戦闘訓練だからな」

「戦闘訓練! 嫌だよ、そんなことしたくない!」

「なぜだ?」

 真顔で尋ねるイルドゥンにうんざりしながらもアセルスは律義に答える。

「あのね。私はただの高校生だよ。闘ったことなんてないし、これからだってするつもりはないんだ」

「それはこれまでの話だろう。今のお前はまがりなりにも妖魔の社会で暮らす身だ。剣一つ振るえないでどうする」

「だから、どうして剣で刺したり切ったりしなきゃならないの。妖魔だって、一応言葉は通じるんだし。話せば……」

 そこまで言いかけ、シュライクでは妖魔を完全に化け物として捉えていたことを思い出し、また目の前のイルドゥンを眺め、アセルスは言葉尻を濁した。

「……まぁ、話したって分かり合えないかもしれないけどさ……。でも私はやっぱり、誰かを傷つけたりしたくないし、モンスターとだって戦いたいとは思わない。なるべく襲われないように気をつけるよ」

「ふん」

 イルドゥンは大理石のように白いその顔を更に青白く染め、不機嫌そうに吐き捨てる。

「馬鹿は救いようがないな」

「どういう意味?」

 むっとして問い返すとイルドゥンは「こういう意味だ」と呟き、アセルスをそのまま蹴り落とした。声をあげる暇もなく回廊から転げ落ちていき、鈍い音を立てて地面にたたきつけられる

「痛たた……」

 打ち付けた腰を擦りながら顔を上げるとはるか高みのイルドゥンが豆粒ほどの大きさに見えた。いきなり落とされた怒りからくっと歯を噛みしめ、わなわなと震える拳を握って立ち上がる。

「何するんだ! そんな高いところから落ちて怪我でもしたら……」

 と言いかけ、アセルスは思わずぞっとする。建物でいえば三四階はありそうな高さ。そんな場所から落ちておいて体が少し痛いで済むというのは……。

「私の体……どうなっちゃったんだ……」

 恐る恐る手のひらを眺め、肉の内側でびくびくと震える紫の血管に底知れぬ嫌悪感を覚え、アセルスは目を背ける。だが混乱する間もなく間近で獣の唸り声が聞こえ、はっと緊張が全身を駆け巡った。

 イルドゥンはなんと言っていたのだったか……。そう、“戦闘訓練”だ。そう言っていた……。

 生暖かい吐息が首筋を撫でる。はっ、はっ、と荒い息が断続的に吐き出される。

──少しは骨のある女だと思ったが、所詮は人間か……。

 イルドゥンの冷酷な声が上から落ちてくる。

「イルドゥン!」

 イルドゥンは答えず、独り言を言うかのように淡々と言葉を続ける。

──殺すなら殺せ、とお前は言った。ずいぶんと潔いことだと俺は感心さえしたものだ。……しかし、それは違うのだな。あの時お前は俺と闘おうとしていたのでもなければ、俺との実力差に観念したのでもない。お前はただ投げやりに命を差し出しただけだ、。お前は何もわかってはいない。甘ったれたまま、聞こえの良い言葉をほざいているだけだ……。

「イル……っ!」

 もう一度叫んだ時には既に遅く、途方もない質量が下腹部に衝突してアセルスは紙きれのように吹っ飛ばされる。激痛に呻きながらなんとか目を開けば、身の丈の二倍ほどもある猪が圧し掛かっていた。

 バーゲスト。全身を苔に蔽われた赤目の猪犬。恐ろしい怪物が反り上がった牙をずぶりずぶりと腹腔に突き立てながらアセルスの腹を咀嚼する。バーゲストの体重に踏まれた膝が砕け、蹄で打たれるたびに内臓が弾ける。

 ぽたぽたと滴り落ちる唾液が溶岩のように熱い。

「う、ああっ……!」

 痛みと恐怖に涙を流しながらアセルスは叫ぶ。恐慌に駆られ、舌を縺れさせながら助けを求める。

「や……たすけ……助けて……!」

──助ける理由がどこにある?

「あ……」

──そうやってお前は都合が悪くなるたびに誰かに助けを求めるのか? 平和な時は素知らぬ顔で善良ぶっておいて、手を汚すことだけは他者に押し付けるのか? ……俺は、闘わない者は助けない。

「ぐ……っ」

──殺すなら殺せ、とお前は言った。ならば大人しく食われていることだ。闘う理由などお前には無いのだから。

「イ……ル……ドゥン……っ!」

 搾り出した最後の怒声は、バーゲーストが振り下ろした片足によってあっけなく途切れた。アセルスの右顔面が落下した果実のように破裂する。

 

 

 

 

 凌辱されていた。

 バーゲストは貪るようにアセルスの肉を食み、獲物を弄ぶように蹴り転がす。もはや痛みを感じることさえできず、ただ体の中に浸みこんでいくけだものの涎だけが無性に痒く感じられる。

 声が聞こえる。耳に凍った針を差し込まれるように、イルドゥンの残酷な声が天から響く。

──オルロワージュの血を享けたお前の命を、数多くの者が狙う。妖魔は更なる力を得るためにお前を襲う。人間は妖魔の力を研究するためにお前を捕らえようとし、嫉妬や妬みからオルロワージュの愛し子を損なおうと考えるものもいるだろう。たとえお前が妖魔でなかったとしても、何の理由もなくお前を殺したがる者がこの世には呆れるほどいる。

 獣の牙が乙女の柔肌を嬲る。血走った眼球がぎょろりとアセルスを見下ろして嗤う。

──殺されかける度にお前は微笑んで平和を説くのか。話し合い、分かりあい、血を流すことなく握手を交わすことができると本気で考えているのか……?

 

 

「…………」

 

 

 不意に蠢いた乙女の腕が稲妻の速度でナイフを獣の眼球に突き刺した。

 けたたましい鳴き声をあげて飛び退いたバーゲストにはは……と笑いかけ、アセルスはよろよろと立ち上がる。

「ああ……!」アセルスは鬱陶しげに頭を振って前髪を払う。「イルドゥン、あんたみたいなやつは大嫌いだ……!」

 興奮と緊張に体中が燃え上がるほど熱くなる。砕けた膝はまだ再生しきっておらず、がくがくと震えながらアセルスは煌々と眼を光らせた。止めどなく血を流しながらも倒れることを懸命に拒む。

「……確かに私は馬鹿かもしれない。世間知らずかもしれない。……でもね、ひとつ勘違いしているみたいだからそれだけは否定させてもらうよ。私はそこまで素直な人間じゃあない。何もかもはいそうですかってわけにはいかないんだ……。ああ、そうさ……!」

 アセルスは吠えた。

「闘う理由が、私にはあるな……!」

──そうか。ならどうする。

 よたよたとたたらを踏んでいたバーゲストは態勢を立て直すとこちらの様子を窺うように周囲を回り始める。餌ではなく明確な敵としてこちらをみなし、じりじりと距離を縮める。

──剣を手放したのは失敗だったな。迂闊としか言いようがない……。

「やかましい!」

 頭上のイルドゥンを怒鳴りつけ、目の前のバーゲストを睨みつける。腹立たしいがイルドゥンの言うことはまさしくその通り、徒手空拳で挑むにはこの怪物はいささか大きすぎる。

 どうする、と表情に迷いを浮かべた瞬間バーゲストが猛烈な勢いで突進してくる。慌てて避けはしたものの牙が左手を掠め鈍い音をたてて骨が砕けた。ぐ、と呻き声を飲み込み振り返れば逞しい足で大地を蹴りつけ獣が再び突撃を繰り返す。覚悟を決め決死の思いで眼球に突き刺さったナイフをすれ違いざまに取りに行く──が、ナイフに集中しすぎたあまり真正面から体当たりを食らいアセルスは毬のように吹っ飛んでいく。

 オルロワージュの血のおかげだろうか、体は再生を続けている。しかし痛みがすぐさま消えるわけではない。唇の端から血を零し「つ、うっ……!」と呻いてアセルスは硬くナイフを握りしめた右手に目を向ける。

「でも、これは取れた……!」

 ぎり、と砕けんばかりに歯を食いしばり、掠れた声を漏らして──そして、強張った両手でもって必死にちっぽけなナイフを握りしめ、前かがみの無様な格好で武器を構えた。

 息を吸う。

 前方でぐるぐると低い鳴き声をあげるバーゲストの巨体に比べると、掌のナイフはいかにも頼りない。こんなもので一体何ができるというのか──吐き気のするような状態にそれでもなお爛々と眼に闘志を燃やし、アセルスはじり、と足を前に進める。

 それでも何とかするしかない。

 自分自身の力で。

 たった一人で。

 づ、と喉の奥で何かが弾けた音がした。アセルスは駈け出していく。牙を剥きだしてバーゲストが向かってくる。

 覚悟を決めよう、とアセルスは思う。涙を流しても救われないのなら泣くべきではないし、弱音を吐いたからと言って人間に戻れるわけでもない。

 わかっているのは──ああ、よくよくと考えてみればたいしてありはしない。

 この体には紫の血が流れている。オルロワージュの血。自分を生かしているのは妖魔の血だ。砕けた筈の体が再生していく。 

 だからアセルスは真正面から怪物を受け止める。三度目の突貫。牙が内臓を突き破り、ぼとぼとと体の中身が零れ落ちていく。だがそれだけだ。これまでのように飛ばされたりはしない。気を失いもしない。痛みに滲む視界が明滅する中で、アセルスの両手がナイフをバーゲストの頭に突き立てている。

「食えるものなら、食ってみろ……!」

 口に出した瞬間にバーゲストの牙が胎の中に食い込み、アセルスは泣きだしそうに顔を歪め身をよじる。だが剣を放しはしない。ぎりぎりと鈍重な力をこめ、少しずつ剣を獣の頭蓋に打ち込んでいく。

 乙女のか細い喉が震える。その唇から漏れ出す言葉は死を望む邪悪な言葉に他ならない。血に塗れた唇でただ短く死ねと呟き、アセルスはナイフで肉という肉を削り取っていく。

 バーゲストは上体をぶると震わせたかと思うとアセルスの体を銜えたまま大きく振り回す。脇腹が引き千切れ、ぼろ雑巾のようにアセルスが転がる。ごぼ、と大量の血反吐を吐き散らしながらすぐさま立ち上がりアセルスがナイフを構える。

 襲いかかるバーゲストへ向けてナイフを振り下ろす。牙にあたったナイフが乾いた音をたてて折れる。

「折れた……!」

 動揺する間もなくバーゲストに食いつかれアセルスは倒れ込んだ。迷っている暇はなかった。ナイフで穿ったその穴に手を突き入れ、力任せに握りつぶした。ぱきりと軽い音が鳴った。指が折れたのかも知れなかった。だが知るものか、構うものか。乙女の繊手を闇雲に打ち込み、爪という爪で肉を毟る。血管を引き千切り、頭蓋を打ち砕き、脳髄に手を突っ込んで闇雲に掻きまわす。

 目の前が真っ赤になった。頭の中がみりみりと軋む。今にも張り裂けそうに胸が鼓動している。

 荒い息だけがどこまでもしつこく響いていた。自分のものか獣のものかも定かではなく、ただ生きるために抗う呼吸だけが耳を打ちつけた。

 

 

 

 

 ……こうして始まった戦闘訓練を、アセルスは嫌々ながらも続けざるを得なかった。たとえどれだけ拒んだとしてもイルドゥンは無理にでもアセルスを引き立て、獣の蠢く巣へと突き落とす。その度に傷を負い、怪我を重ね、否が応でも戦わされる。

 何度も何度も闘っているうちに、どうすれば痛い思いをせずに勝つことができるか、いかに効率よく相手を御することができるかを考えるようになる。イルドゥンは毎回小ぶりのボーイーナイフしか渡してはくれないが、小型のモンスターならまだしもバーゲストほどの大きさにもなれば流石に力不足を感じる。もっと大きな……そう、ナイフではなく“剣”があればより優位に戦えるのではないか。

 毎日のように瀕死の傷を受け、死んだように眠りにつく。朝起きてああ今日もまた血を吐いて苦しまねばならないのかと考えると暗澹とした気持ちになる。嫌になって逃げ出そうとしたこともあったが針の城から抜け出そうと試みる度にイルドゥンが現れ、「懲りないやつだな」と罰代わりに巨人をけしかけられるため、うなだれながらもとぼとぼと訓練所まででかけるのが日課となっていた。

 

 イルドゥンとの訓練さえなければ針の城での暮らしはむしろ快適ですらある。ベッドから身を起こすと侍女が既に控えており、朝食の支度から着替えまでを頼まなくても行ってくれる。世話されることに慣れていないアセルスは初め「自分でやりますよ」と伝えはしたのだが、ミルファークさんと呼ばれる侍女たちに「それでは私たちが叱られますから」と申し訳なさそうに謝られては何も言えない。私はそのへんにいる普通の女の子なのに、なんだか悪いなぁ、などと思いながら薔薇の香りのするオイルで肌を磨かれ、髪に櫛を通される。

 食事についてもそれは同様で、アセルスにとっては過剰なもてなしを受けた。人間のように食事を摂る必要のない妖魔の社会にあって、それこそ初めの日は果物や酒しか供されなかったものの、侍女たちはアセルスが求めさえすれば大抵のものは用意してくれた。

「オルロワージュ様より、アセルス様の望むものを、と仰せつかっております。何か召し上がりたいものはございますか?」

「え……ああ、うん……じゃあ、肉じゃがが食べたいです」

 そう言うとミルファークさんたちは困った顔をして首を傾げ、まったく同じ顔を突き合わせてこそこそと話し合う。

「ニク……ジャガ、とは何かしら……?」

「ニクは、肉でしょう。ジャガは……きっと地方の名前ではないかしら。ジャガという町で作られるような、ジャガ風の、そういう意味では?」

「なるほど……」

「とりあえず、書庫でレシピ集をさらってみましょうか」

「そうですね。頑張りましょう!」

「頑張りましょう!」

 という具合でその日のうちには肉じゃがが出来ていた。あまり無理はしてほしくないのだが「針の城の沽券に係わりますから」とミルファークさんたちは断固としてアセルスの希望に応える続ける。

 針の城の城主、オルロワージュが自分のことを気にかけてくれている、ということは流石にわかった。来ている服も、食事も、みな無償で与えられている。針の城に限定されるとはいえ、何不自由なく生活をさせようという考えはうっすらと感じ取れる。

 

 だからこそ、というべきか。どうしようもなく嫌で嫌でたまらないのは、やはりイルドゥンとのことなのだった。

 少しずつモンスター殺しに慣れていく自分が嫌だった。戦っている時の自分が、まるで自分ではないようで嫌だった。

 命の危機に脅かされたら誰だってそれまでの自分をかなぐり捨てて一匹の獣同然になり下がってしまうものかもしれない。けれども、バーゲストに襲われて怯えていた自分と、そのあと立ち向かい眼にナイフを突き立てた自分は本当に同じものなのだろうか。唇から零れた「死ね」というあの言葉が至極自然に感じられたのは何故だろう。

「自分が何なのか……わからないよ」

 本当は心配することなどないのかもしれない。追い詰められれば鼠だって牙を剥く。死にかけた結果、目覚めた生存本能が体を突き動かした。アセルスは自分で思っているよりも勇敢な女だった。そういうことにしておけばいいのだろうか。

 それとも真実は残酷で、一度死んだアセルスは人間だった頃とは別人で、妖魔の血が流れるこの体この心は、妖魔と同じ怪物の精神を宿しているのだろうか。

 

「私は変わっていく。望むと望まないとに関わらず……」

 独り言をつぶやきながら、アセルスは城を歩き回る。道すがらすれ違うのはミルファークさんばかりで、侍女たちはアセルスに気がつくと静かに微笑んで「こんにちは」と頭を下げる。こんにちは、と挨拶を返して、アセルスも会釈する。どのミルファークさんも同じ顔をし、手に小さな如雨露を提げ、咲き誇る薔薇に水をあげている。同じ顔に同じ薔薇、いい加減に飽き飽きしていたアセルスは、何か違うものはないのかと周囲に視線を散らした。午後の戦闘訓練まではまだ時間がある。まだ言ったことのない区画へ足を延ばしてみよう──そう考え、薔薇以外の何かを求めて四半時ほど散策を続けた結果、ようやく見つけたのは細長い葉をした雑草だった。城の隅の隅の隅に位置するこじんまりとした庭で草かぁ、と落胆に肩を下ろし項垂れていると、しゃがみこんで水をやっていた女性がふと顔をあげて「こんにちは」と言った。日光が当たるわけでもない城の中にも関わらず日差し除けのつば広帽を被ったその表情はよく見えない。だが園芸用の腕蔽いをつけ、帽子の隙間から虫除けネットを垂らしたその姿は他の侍女と同じものだったためにこの時はそこまで注意を払わなかった。だからアセルスは「こんにちは」と無造作に答え、ぼんやりとした調子で「雑草に水をあげてどうするんですか?」と問いを投げかけた。すると女性は悪意のない笑い声を幽かにあげる。

「これは風知草というのです」

「あ、そうなんですか」

 へえ、と頷いて女性の隣に腰を下ろし、アセルスはフーチ草というらしいその草を観察する。ススキに似た細長い葉が幾つも伸びている。葉の裏が表に比べれば幾分つやつやしているのが特徴といえば特徴なのかもしれないが、アセルスの目にはどう見ても雑草としか写らなかった。

「フーチ草というのはどういう意味なんですか?」

「風を知らせる草、という意味です」

「ああ、そういう……」

「細長い葉を風になびかせ、さらさらと静かな音を立てる草。大気の流れに身を任せ、ささやかに震えることで風の訪れを知らせる草……。眺めてみれば、案外に風情を感じる草ですよ」

「植物にお詳しいんですね」

としきりに感心し、覗き込むように視線を向けてようやく、アセルスは隣の女性がとても美しい顔立ちをしていることに気づいたのだった。優しく澄んだ青の瞳に、栗色の髪を豊かに波打たせ、淑女然とした淡麗な顔。楚々とした唇に穏やかな笑みを浮かべた彼女は旅人を導く木陰の精にも似て、落ち着いた美を湛えている。

「あ……」

 不意に自分が恥ずかしくなってアセルスは俯いた。あからさまに無知を曝け出していた数分前の自分が憎い。

「どうしたのですか?」

「いや、なんだか……ものを知らなくて恥ずかしいなって、そんな気持ちになって……」

「そんなことはお気になさらないでください。 アセルス様が知らないことを私が知っていることもあれば、私が知らないことをアセルス様が知っていることもありましょう?」

「そう言ってもらえると、助かります。……それと、あなたは私のことを知っているんですか?」

「アセルス様のことはこの針の城でも噂でもちきりになっておりますよ。オルロワージュ様が人間に血を与えたと」

「あの、あなたは……」

 侍女の方ですか、と尋ねかけ、違った場合は非常に失礼にあたることに気付いてアセルスは口を噤む。確かめたわけではないがこの城の侍女はみな同じ顔をしているようであるし、どうもこの女性はそうした存在とは違って見える。

「私は白薔薇と言います」と女性ははにかみながら名乗った。

「白薔薇。すごい名前ですね」

「そ……そうでしょうか……」

 上品なしぐさで頬に手を当て困惑する白薔薇にアセルスはばつが悪そうに髪の毛をくしゃと搔き雑ぜる。

「あ……ごめんなさい。人の名前をどうこう言うだなんて、本当に私はばかだ。どうかしてる……」

「アセルス様がお暮しになっていた場所では、こういった名前の方はいらっしゃらないのですか?」

「そうですね……。花の名前で言うなら、ローズとか、アイリス、マーガレットというのならあります。でも白とか赤とか、色までついて白薔薇という名前はなかなか無いですね」

「そうですか……」

 少し寂しそうに白薔薇が目を伏せたのでアセルスは慌てて「だけど、とても奇麗な名前だと思いますよ」と付け加えた。

「ありがとうございます」と白薔薇は静かに答えた。そっと顔を綻ばせた白薔薇の儚げな微笑み、見る者すべてにこの人を守りたいと思わせるようなその控え目な感謝にアセルスの胸は束の間熱くなり、会話を忘れてじっと見蕩れてしまう。

「アセルス様?」

「あ、ご、ごめんなさい」

 どぎまぎとうろたえるアセルスに白薔薇はふふふ、と優しい笑みを浮かべ、アセルスの額をちょんと、と人差指で突いた。格別痛いというわけでもなかったが、突かれたところを擦りながら照れる振りをしていると自分でも不思議なほど満たされた気持ちになった。

 

 

 

 

 人は一人でこの世に生まれ、いつか己の孤独に気づく。人は自らの身体から逃れることはできず心からも視界からも離れることはできない。手を伸ばして感じたはずの体温は束の間の錯覚にすぎず、口から零れ落ちた言語は瞬く間に物語へと変質していく。他者に伝えるため、遠い場所にこの思いを伝えんがために生み出したはずの言葉は、唇から遠ざかれば遠ざかるほどその意味を失っていく。ゆえ、真に純粋なる言葉、混じりけのない意志というものは、或いは唇の中、妖しく濡れた舌先の上にしか存在しないのかもしれない。

 人は孤独で、いかなる時もわかりあえず、どのような手段をとろうとも他者と一体になることはできない。たとえ相手を食らったとしても、融合したとしても、それは食らう前、融合前の相手とは違うものだから。

 物語はそして「それでも」と言い、また「だからこそ」と言う。

 けして結ばれず繋がることのない個々の生命はしかしそれゆえ自らの虚ろを嘆き、徒労に終わるはずの救済を求めてしまう。他者との接合を、孤独の補填を望んでしまう。

 要するに人は恋をする。そういう風にできている。

 人は支配を望み、他者を自分のものにしようと無意識に願うものだ。もし違いがあるとするならば、それは支配する側に回るか支配される側に回るかという差異に過ぎない。たとえその恋が自らが永遠に関わらないことを望むもの、ただひたすらに相手の幸福を祈り、自らはひっそりと身を引くことを覚悟したものであったとしても、ただ望み祈る意志がある以上、それはあくまでも自分に都合が良いように世界を支配する行為に他ならない。

 人は人の弱さから人を求める。半妖となったアセルスも例外ではない。

 白薔薇はどんな時であっても優しくしてくれる。妖魔の社会に戸惑うアセルスを慈しみ、肯定し、導いてくれる。獣が餌をくれる主人に懐いて行くように、あるいはおぼこ娘が女衒の甘い言葉に容易くかどわかされるようにアセルスは彼女に惹かれていく。

 思えばアセルスの人生は望まないことばかりが常であった。身の上のことはもちろんであるし、イルドゥンに強いられる戦闘訓練にしてもそうだ。

 モンスターと血みどろの死闘を繰り広げて愉しむような精神性を乙女は備えてはいない。けれども歯向かわなくては食われるだけで、けだものの牙が肉をよじる感触やいちいち体を削ぎ落とされる激痛はどうしようもなく厭わしい。仕方なく渋々と顔をあげ手渡されたナイフひとつを腰だめに構えて怪物どもと取っ組みあっているうちに激情と興奮とが平静の精神を上書きして気がつけば自分自身もまた獣同然に狂ってしまう。

 白薔薇と会話をしている時、自分は何の心配もなく自分のまま、植物や食事やらの平和な話題を口にしている。女の子らしい、脆弱で繊細なことを考えている。

 だが戦っている時はそうはいかない。鉤爪に腹腔を掻きまわされて絶叫をあげ、巨大猿に顔面を握り潰されて目の前が真っ暗になる時、腹の底で沸々とわき立つ怨念めいた衝動は花の名前を口にはしない。その衝動はただ一言こう呟くのだ。死ね、と。

 死ね、とアセルスは言う。憎々しげに目を吊り上げ、奇声と共にナイフを振り下ろして呪いを投げつける。死ね。死ね。死んでしまえ。そうでもしなければ恐怖に怯えた心はたちまちに体を凍りつかせてしまう。縋りつくべき殺意を後生大事に抱えてアセルスは獣殺しに精を出す。

 時が経つ。アセルスは少しだけ戦いに慣れる。毎日のようにどうすればモンスターを上手く殺せるか自分が傷つかないですむかを考える。もしシュライクにいた頃の自分が今をみれば、きっと邪悪を感じ狂人とさえ看做すかもしれない。戦うことに慣れ、流された血の量だけふてぶてしくなりながら、一方でアセルスは時の流れに変わっていく自らを悲しむ。

 

 ──本当は戦いたくなんかないんだ。その筈なんだ。……でも、戦っているうちにふと自分で自分を忘れて、ひたすらに相手を殺すことだけに集中していることがある。時々自分は狂っているんじゃないかって思う。初めてバーゲストと戦った時もそうだった。襲われて、怖くなって、泣き叫んでいたはずだのに、呆然としてイルドゥンの冷たい言葉を聞いているうちにかっと目の前が熱くなって、気がついたら、何が何でもこいつを殺してやろう、そんな気分になっていた。

 自分が何なのか、わからないよ。本当は私はこういうやつだったのかな。それとも、オルロワージュの血が私にそうさせているのかな。

 ──血が混じったことで人格が変わるという話は聞いたことがあります。オルロワージュ様の血ともなれば、もしかしたらアセルス様の精神をより強靭に残酷に変えてしまうことがあるかもしれません。

 ──そう……なのかな。もしそうだとしたら、少しは救われる。私のせいじゃない。何もかも悪いのはオルロワージュの血のせいで、私は全然邪悪なんかじゃあないんだと思えば気が楽になる。……でもそれは、オルロワージュに責任を押し付けているだけだし、根本的には何の解決にもならないんだ……。

 ──アセルス様は邪悪なんかではありませんわ。あなたは優しい人です。

 

 何の根拠もなくそう言って白薔薇がアセルスの体を抱く。アセルスの両目からぽろぽろと涙が零れ、体が震える。

 ある日アセルスは考えた。戦闘訓練をもっと短く済ますことができたなら白薔薇ともずっと長くいられるのではないか。もっと自分が強くなれば、自分の望むものを手に入れられるのではないか。

 力が欲しいとアセルスは思う。もともと考えていたことではあった。傷つきたくないのなら強くなるしかない。そのためにはナイフでは駄目だ。自分に必要なのは剣なのだ。

 白薔薇にそのことを相談してみると根っこの町のゴサルスの店を紹介された。普通の武器や防具はファシナトゥールには置いていない。あるとすれば、魔的な道具を扱うゴサルスの店にしかないだろうと。

 ゴサルスの店を訪い、剣が欲しいと告げると幻魔というひと振りの剣を紹介された。

「どんな剣なの?」

「なんでも斬れる剣だ。……だからといって上級妖魔が斬ろうなどとは考えるなよ。お前ごときには無理だ」

「いや、そんなつもりはないけど……。いくら?」

「人間の金はいらん。お前の命をくれ。幻魔は命三つだ」

「はぁ? 命は誰にだって一つでしょう。そんなものあげられないよ」

 そう言うとゴサルスは呆れた様子で溜息をついた。

「お前は馬鹿か? そんなことはわかってる。命、というのは比喩だ。比喩の意味はわかるか? 人間の小娘?」

「そのくらいわかるよ」

「命三つというのはだな、要するにお前のLPを3つ払えということだ」

「だからそのLPがわからないんだけど」

「LPも知らんのか。いくら人間とはいえ世間知らずにも程があるだろう」

「はいはい。わかったから、そのLPってのを教えてくれるかな?」

「仕方がないな。一度しか言わんからよく聞け」

 と言ってゴサルスが語りだしたのは以下のような神話だった。

 

 かつて、この世界は一つの塔であった。(リージョン)と呼ばれるものはこの世にはなく、ただ塔の中の各階層に多種多様な世界へと続く扉があった。

 なぜ、そんなものができたのだろう。それは一柱の傲慢な神が仕組んだことだった。平和な世界に飽き飽きした神は、数多の物語を楽しむべく様々な世界を作り出し、またたくさんの怪物や悪魔を生み出して送り込んだ。

 “その塔は楽園へと通じている”。言い伝えを信じて塔に挑んだ冒険者たちの苦しみ足掻く姿を見て神は楽しんだ。

 しかしある時一人の英雄が現れ、とうとう塔の最上階まで上り詰めることに成功する。神の圧倒的な力にも屈することなく、英雄は手にした刃で神をばらばらにしたという。

 塔は崩壊し、飛び散った無数の世界が星となって銀河にちらばり(リージョン)となる。

 英雄に敗北した神は己の思い上がりを恥じ、運命を弄ぶ代わりに冒険者たちをそっと見守ることを選んだ。ばらばらになった体にそれぞれ別の命を与え、駅員として生まれ変わった元『神』は星間船(リージョンシップ)を作り上げ、乗車賃の代わりに旅人の物語を求めるようになった。

 

「LPというのはその神が旅人に与える加護の一種だ。旅人や冒険者がその身に抱える物語に応じて神の恩恵が授けられ、たとえ致命的な傷を受けたとしても死から免れうる。冒険をすることのない一般人やたいていのモンスターはおおむねLP1で、一度で確実に死ぬ。……そうだな、お前はLP7だ」

「多いね」

「そうでもない。どちらかといえば少ないほうだ。……それで、どうする? 命を払うのか、払わないのか?」

「そうだね……やめとく。力は欲しいけど……なんだかよくわからないものをほいほい差し出すのは嫌だな。他に剣はないの? 命以外で私に払えるような普通の剣は?」

「そんなものはない。買わんのならとっとと帰れ」

「じゃあ、そうするよ。なんだ、白薔薇に紹介されてきたはいいけど、案外品揃えがなぁ……」

「……待て」

「なに」

「今、白薔薇と言ったか? それは白薔薇姫のことか?」

「姫かどうかはわからないけど、お姫様みたいに奇麗な人だよ」

「……はやくそれを言え。手ぶらでお前を返しては白薔薇姫のお顔を汚すことになるだろうが」

「白薔薇はそんなこと気にする人じゃないよ。たぶん」

「そういう問題じゃあない。……まったく、実に忌々しい……。そこの隅っこに転がっている剣があるだろう。ただでくれてやる。もっていけ」

「ごめん。気持はありがたいんだけど、ただでもらうことはできない。施しを受けるわけにはいかないんだ。少しだけなら持ち合わせもあるんだけど……やっぱり、お金を払わせてよ」

「金はいらんと言ったろう。人の金は欲望が染みついていて汚いからな。おれはあまり触りたくないのだ。……いいからその剣を持って行け。白薔薇姫にはゴサルスがとても良くしてくれたとお伝えしろよ!」

「だからそれはできないよ。ただでなんてもらえない」

「お前もわからんやつだな!」

「お金が駄目なら、働かせてよ。この工房、結構汚いでしょう。掃除と店番くらいなら私にもできるから」

「お前、ものすごく傲慢なやつだな……。まぁいい……それで納得するなら、もうそれでいいしどうでもいい」

「この剣の名前は?」

「名前などない。ただの鉄の剣だ」

「そう。ありがとう」

 

 

 

 

「いらっしゃいませ」

「……なにをやっているんだ、お前は?」

 店番をしているアセルスを見て、うんざりしたようにイルドゥンは言った。

「いつまでたっても訓練に来ないからどこへ逃げたのかと思えば……どこまで馬鹿なんだ」

「ごめんね、イルドゥン。悪いけど、いま仕事中だから」

「何が仕事中だ」工房の隅からゴザルスがぼやいた。「無銭飲食で皿洗いさせられている奴でももうちょっとしおらしくしているぞ」

「お前に必要なのは仕事ではない。訓練だ。行くぞアセルス」

「いや。今はいけない」

「何故だ」

「前々から思っていたけど、イルドゥン。いつもやっている戦闘訓練はあまり訓練にはなっていない気がするんだ」

「何だと?」

「オルロワージュがあなたに命じたのは『剣』の訓練でしょう。でもいつもあなたに渡されるのはちっぽけなボーイーナイフだしさ。あんなものを何回使っても剣の練習にはならないと思うんだ。こうして私が店番をしているのはゴサルスに剣を譲ってもらうため。まったく訓練に無関係というわけじゃないよ」

「……」

 イルドゥンは胡乱気な顔でアセルスを睨んでいたが、やがて真顔で言った。

「一理あるな」

「でしょう?」

「だがやはり仕事は必要あるまい。ゴサルス、剣を渡せ」

「は、はい。ただいま」

「駄目だよイルドゥン。私が私の力で手に入れないと意味がないよ」

「……まぁ、それはそうだが」

 不満気にイルドゥンはゴサルスを睨みつけ、ゴサルスは弱り切ったようにか細いため息をつく。

 素知らぬ顔で店番をするアセルスと重苦しい雰囲気で仏頂面を崩さないイルドゥン。ゴサルスにとっての受難は小一時間続いた。

 

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