青年は海を見るのが好きだった。
暇さえあれば浜辺の大岩に腰かけて尽きることなく打ち寄せる波を見つめた。太陽の光をぎらと反射して白く輝く海が風にさざ波を立てるのや、上空を飛びまわる海鳥たちの影が青い水にまばらな斑点を残すのを見ているのが好きだった。潮風を浴びてひりつく肌や喉の渇きも気にはならなかった。水平線はいついかなる時も不確かに滲んでいて、青年にはそれが幻想への境界線に思えた。
海は青い。
もしこれがサンゴの白い砂を孕む観光地の浅い海であれば緑宝の淡くきらめく美しい海であったのだろうが、あいにくと青年の治めるオウミは純然とした港星であり青は青でもその色はどこまでも深くどす黒い。人々の悩みや時には命さえもを呑みこんでしまう海の色は慰めではなく孤高を青年に学ばせた。
目の前で小魚がちゃぷりと波打ち際に跳ねる。愚かな魚もいたものだ、と青年は口元を歪めてふと昔のことを思い出した。小魚の鱗がぬると波に滑る。
かつて海が青いのは空の青を写しているからだと信じて疑わなかったあの頃から、自分はいまでもこうして海を眺め続けている。放蕩者の叔父に「海が青いのは水が青い光を散乱させるからだ」と教わった今では、思い出すたびに海の青と空の青とを等しく考えていた幼い自分を秘密のおもちゃ箱にでも押し込めて地下室にしまいこんでしまいたい、と無性に恥ずかしくなる。
それでも、と青年は海を見るたびに思う。この世に真実などどうしてあろう。成長した青年は色というものがつまるところは光の反射に過ぎないもの、どのような波長の光を反射・吸収するかという物体の性質によるものだということを知っている。それでも青年は物理学者でもなければ哲学者でもなく、ただの領主であるところの彼は時々こんなことを考える。
全ての命が始まる海の青と、死んだ人が天へと昇るその空の青とは同じものだ。生きるも死ぬも同じ青だ。今日、海に飛び込んで青に染まる魚釣り人は、海中に沈みながらしかし同時に天空へと墜落しているのであり、等しく青に染まるところ例外さえ何一つなく、圧倒的な青の中で生まれて死んでまた生きる。青年にとって青と言うのはそういう不可思議を象徴するものだった。海の青と空の青とが交わる水平線が滲んでいるのが好きだった。
青年は若く美しく、そして莫大な財産を所有していた。神に望むまでもなく何の努力もなく彼は多くのものを与えられていた。オウミを連綿と統治する一族に生まれた青年は祝福された将来を約束されており、額に汗して働く漁師たちを顎でこき使っていれば苦労なく大金が転がり込んでくる。親の金で大学へ通い、それなりの経済学と商法を修め、友人たちとの殴りあいや学生街での冒険、娼館での顔を覆いたくなるような失敗を経てこのオウミへと帰ってきた青年は病で静養中の父に代わってすんなりと領主の座に収まった。
悩みは何もなかったし十二分に恵まれていた。時おり港町の情熱的な褐色娘との一夜限りの恋に落ちることもあったけれども、次の日に目覚めて海を眺めていると何もかもがどうでも良くなってくるのだった。
青年は海を見つめる。海が凪いでいる。いつもの癖で彼はごしごしと自分のまなこを擦る。痒いわけでも眠たいわけでもなく、ただ静かに涙を零し、視界を滲ませてしまうために何度も眼球を弄ぶ。真っ赤に充血した眼球の向こう側で青く濁った海が次第にぼやけていく。滲んでいって、朦朧として、いつか揺らぐ陽炎の幻想になる。
いいぞ、これでいいんだ。もっと滲んでいけ。霞んでしまって、水平線の果てに滲む海と空との青が一つになればいい。
来る日も来る日も海を見つめた。青年はそれで満足だった。他に何もいらなかった。与えられたものが多すぎてそれ以上のものを求めることはできない。だからこれでいい。青年はそう思っていた。メサルティムと出会うまでは。
恋に落ちたその時に彼の心中に沸き起こった感情は何だろう。美しい、だろうか、可哀そう、だろうか。いいや違う。愛するメサルティムを見て彼が思うことはただ一つ。ああ、彼女は海の化身、海と言う海のあの青を圧し固めて凝固させた宝石だ。彼の眼に映る彼女の肢体はまさに海そのもので、その吐息はどこか潮騒の音に似ていた。くすんだ
メサルティムは地元の漁師の網にかかって怪我をしたのだと言う。命からがら逃げ出したものの体のあちこちを怪我してしまい、疲れ果て浜辺で動けなくなっていた所を青年が見つけたのだ。
青年は自分の館へとメサルティムを連れて帰った。簡単な手当てをし、ベッドに寝かせたもののメサルティムは依然として具合が悪そうにしている。一体どうすればと困っていると丁度通りがかったメイドのメアリーチェンバーが口をあんぐりと開けて驚いた。
「あらまぁぼっちゃま。またぞろ違う女をつれ込んで……って。わ、人魚!」
「……静かにしろメアリーチェンバー」
分厚い瓶底眼鏡をかけたメイドは興味津津といった顔つきで部屋の中を覗き込んできたが、青年がそっと立ちはだかって視線を遮るとにたぁ、と嬉しそうに笑った。
「いけませんわぼっちゃま。人魚なんかに手を出したらバチがあたりますよお」
「彼女は怪我をしているんだ。放っておける訳がないだろう」
「はいはい。そうでございますね。恋する若者はだいたいそう言うんでございます。そんな風に聞こえの言い言葉で自分を騙しておいて、内心では熱いパトスのエネルギーを迸らせているものなのでございます。ああ美しき青春の日々」
「うるさいぞ。そんなことより手当てをしても一向に彼女は眼を覚まさないようなんだ。医者を呼ぶべきだろうか? 僕はどうしたらいい?」
「そうですねぇ。あたしなら、すぐにでもふん縛ってシュライクの研究所にでも高値で売り付けますね」
「君に聞いた僕が馬鹿だった」
青年は叩きつけるように扉を閉めた。まったくなんてメイドだ、と頭を抱えていると、メイドは遠慮がちに扉を叩いておずおずと謝罪する。
「ごめんなさいぼっちゃま。そんなに怒らなくてもいいじゃありませんか。ちょっとした冗談です。ジョークジョーク」
「おい、君が幼馴染でなかったら頬桁を張り飛ばしているところだぞ!」
「ではお詫びも兼ねて一つアドバイスを」
「なんだ。言ってみろ」
「金魚を飼うなら金魚鉢に」
「……なるほどな。それもそうだ。というなぜ気がつかなかったんだろう……僕は馬鹿か」
「メアリーチェンバーはそんな馬鹿なぼっちゃまもお慕いしておりますよ」
「うん。そういうお追従はいいんだ。とにかく、彼女のため室内に人工の池でも拵えるとしよう」
「この部屋にですか? それいくらかかるんですか?」
「金ならいくらでもあるさ」
◇
庭の噴水にそっとメサルティムを浮かべると、気のせいか彼女の肌が艶を取り戻したように見えた。半日ほど様子を見守っているとようやく水妖は眼を覚まし、周囲を訝しげに見回してはっと険しい顔をする。
「眼が覚めたんだね。よかった……」
微笑みながら青年が近づくとメサルティムは低い唸り声を上げ、「触らないで」と言った。静かな、それでいて確固とした決別の意志を示す言葉だった。拒絶されたじろいだ青年は弱々しく顔を歪める。
「安心して。危害を加えるつもりはないんだ。君は怪我をして浜辺に打ち上げられていたんだよ。だから……」
「……」
「だから今は安静にしてなきゃならない。いま、君のために小さな池を作っているところなんだ。部屋の中でも水浴びができるように」
「……」
「何か食べたいものはないかい? 好きなものは何でも用意するよ。君の体力を回復させるために必要なことは何でもする……」
「……」
「嘘じゃない。本当だ。何の不自由もさせやしないさ。……君の名前を、聞いてもいいかな……?」
「……メサルティム」
「メサルティム!」青年はぱっと輝かせる。「とてもいい名前だ! それは星の名前だね? 神秘的で、謎めいて、光り輝いている! メサルティム! 君の名前はメサルティムと言うんだ!」
「……あの」
「なんだい? 何でも言ってごらん!」
「私を海に帰してください。仲間のところへ帰りたいのです」
青年ははっと表情を変え、申し訳なさそうに俯いて唇を噛みしめる。
「ごめん……それはできない」
「どうしてですか?」
「だって君は……その、まだ怪我も治ってはいないし、下手に動いたら傷が開いてしまうかもしれない……。だから……だから、私は、君がちゃんと元気になるまでは、君のことを守らなければ……」
「……」
「嘘じゃない! 本当だ! 君を助けたいんだ!」
「そう……ですか……」
メサルティムは悲しそうに顔を歪め、「ありがとうございます」と小さく囁いた。
やがて人工池が完成すると、水を張った巨大なタライにメサルティムを乗せて使用人総動員で個室へと運んだ。循環する清潔な水を得てメサルティムの傷を少しずつ癒えていったが、しかしその憂い顔は依然として消えることはなかった。深窓の令嬢然として、窓から外の世界を覗いては悲しきため息に咽喉を震わせ、人魚はさめざめと涙を流す。
「笑っておくれ。君のそんな顔を見るととても辛いんだ」
胸を掻き毟るような痛みに青年が懇願すると、美しくまつ毛を濡らしたメサルティムは何も言わずに眼を閉じ、苦しそうに首を振る。
意気消沈して自室へ戻った青年が目元に手を当てて項垂れていると、メイドがどたばたと足音を立てて「大変でございます」と飛び込んでくる。強引に腕を引くメイドに連れられて地下室へとやってきた青年はそこに広がる光景を見てあんぐりと口を開けて驚いた。使わない家具や備蓄を保存してあるに過ぎなかった地下室は今や魔窟と化しており、おそるおそる扉を開けて覗き込むと饐えた臭いとともに不気味な笑い声が響きわたる。「なんだこれは!」と慌てて尋ねるとメイドはこともなげに「さあ」と首をかしげた。
「どうもあの人魚姫を保護してから変なことが続きまして。地下室に行った使用人が誰もいない筈なのに肩を叩かれたことに始まり、何もないところで転んだりやけに持物をなくしてしまったり、その挙句がこのダンジョンでございます」
「そんな話一言も聞いていないぞ」
「ぼっちゃまはあの人魚姫に夢中なご様子で私どもの忠告なぞまるでお耳にとめて下さりませんでしたので」
「ああ、悪かったよ! ……それで、原因はやっぱりメサルティムなのか?」
「いや、わかりませんよお。メアリーチェンバーは普通の人間ですもの。でも水妖を閉じ込めておくと良くないことが怒る、水神様がお怒りになるとのもっぱらの噂。妖魔というのはやはり魔的な存在でございますから、もしかしたらただいるだけで“魔”を引き寄せるのかも」
「……考えすぎじゃないか?」
「そう言うのならもう一度地下室への扉を開き、よくよく耳を澄ませてごらんなさいまし。……ほら、すすり泣くようなあの風の音が、どこか“帰りたい、帰りたい”と言っているように思えませんか? もしかしたらこの奇妙極まりない場所はあの人魚姫の深層心理が生み出したもので、ダンジョンを抜けて行ったその先には仲間の待つ海へと繋がっているのかもしれませんよ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿が馬鹿をやったその結果がこの馬鹿馬鹿しくも怖ろしい変容なのじゃありません? あの、あたしちょっと地下室以外で何か異変が起きていないかどうか調べてみたんです。そしたら……」
これ、と言ってメイドが手渡してきたのはおもちゃの銃だった。屋根裏部屋にしまっておいた銃をなぜわざわざ持ち出してきたのだろう? 訝しんだものの青年は素直に受け取って「懐かしいな」と顔を綻ばせる。
「昔、よく二人で地下室を探検したな。叔父さんがくれたお守りのナイフとこのおもちゃの銃を持ってさ。お化けを退治する秘密の銃──ゴーストキャノンだ、なんて設定を考えたりして」
何気なく銃を構え、ふざけ半分に狙いをつけて引き金を引いた。メイドが慌てて飛びのく姿に苦笑する。
「おいおい、そんな演技をしてもらって喜ぶ年でもな─」
直後、けたたましい音を立てて床が弾け、爆ぜた木片がくるくると宙を舞った。「な……」唖然としてメイドを見ると、彼女は真剣な顔をしてこくこくと頷く。
「そのゴーストキャノン、ゴーストキャノンなんです」
◇
メサルティムは笑わない。館の地下室は少しずつおかしくなっていく。途方に暮れる青年の元にやがて二人の女性が訪ねてくる。肩に人形をのせた緑の髪のアセルスと楚々とした物腰の白薔薇。 どこか人間離れした雰囲気を纏った二人は水路に浮かぶ花文字を見てやって来たのだと言う。
「この屋敷に水妖がいると伺ったのですが」
「それが何か?」
「水妖の仲間がその子を探しています」
「帰してあげないと」
アセルスはそう言って真っ直ぐな瞳を青年へと向ける。帰してあげないと。その言葉の正しさと若さにたじろいで青年は僅かにうろたえる。
「出てってくれ! いや、待て、待ってくれ! ……さっきの話、本当なのか?」
「ええ」
「そうか……。早く海に帰した方がいいのはわかっているんだ。でも私は……私は……」
「落ち着いて。とにかく、水妖に会わせて下さい。話がしたいのです」
「……わかりました。こちらへどうぞ」
怪しげな二人をメサルティムの部屋へと案内し、青年は暗い顔で言う。
「ここです。この部屋です。しかし、満足に話すことはできないでしょう。彼女はまったく口をきいてくれないのです」
「あなたは、遠慮してください」
「しかし……わかりました」
青年は扉を閉め、その場を立ち去ろうとした。が、やはりメサルティムのことが気になった。客人たちはどうするつもりなのだろう? もしかして危害を加えるつもりなのではないか? もしも妖魔を狙う研究者や狩人だったとしたら、その時は自分が守らなければ……。
青年は扉に耳を当てて中の様子を窺う。アセルスとメサルティムの会話を聞いてしまう。
──高貴な妖魔の臭いがする……。人間なのになぜ? ……気の障ることを言ってしまいましたか?
──いいや。君は本当のことを言っただけさ。私は半分は人間、半分は妖魔というこの世でたった一人の中途半端な存在。
──お名前をお教えください。高貴な方。
──アセルス。
──アセルス様……気高い響き……。
──アセルス様は、オルロワージュ様の血を頂いたのよ。
──妖魔の君オルロワージュ様! お許しください、ご無礼をお許しください!
──なぜそんなに怯えるの?
──妖魔の君の怒りに触れましたら、下賤な身の私のなど消滅してしまいます。
──大丈夫だよ。私はあの人じゃないから。君のことを教えてよ。そのために来たんだ。
──私はメサルティムと申します。このオウミの海に住んでいます。漁師の網にかかり、今はこうして虜の身となっております。
──怪我していたのを治療してくれたのではないですか?
──大事にしてくれているのはわかるんです。けれど、人間の臭いは嫌いです。息が詰まる……帰りたい……。
──行こう! 居たくもないところに居る必要はない。
──あの領主は、この水妖をあい……。
──望んでもいないものを押し付けて縛りつける。そんな権利は無い!
──でもあの人間、外に出してはくれません。
──……方法はあるよ。きっと。
“あの人間”……か……。
壁に押し付けた背中をずるずると下ろしながら、青年は醜く歪んだ笑みを浮かべる。背中の皮がそのまま擦り剝けていくような気がした。
メサルティムの声を久しぶりに聞いた。アセルスという女の名前をうっとりと呟く陶酔した声。オルロワージュの名に怯える震えた声。青年の前ではけして見せなかった弱音。今日、はじめて会ったはずのアセルスにはあれほどの感情を曝け出しながら、自分には人形のように表情一つ変えなかった。
人間の臭いは嫌いだとメサルティムは言った。ひどい言葉だ。個人の性格や振る舞いですらなく、種族そのものを否定されてしまった。生きている世界が違う、そう突き放された気がした。
青年は唇を噛みしめて顔を覆う。今さらどうしたらいい。自分はこうしてヒトとして成長してしまった。今さら生まれる前からやり直すことなどできはしないし、ヒトであることをやめることもできない。
く、ぅ……。こみあげた嗚咽を懸命に堪え、青年は激しく眼を擦った。視界が激しく乱れ、痛みに世界が滲んだ。
ぼっちゃま。心配そうな声に顔を上げると、階段の下でメイドが心配そうにこちらを眺めている。青年は力なく微笑み、ふらふらと立ちあがる。
「そんな目で見るなよメアリーチェンバー。君は意地の悪い顔で僕を小馬鹿にしているくらいが丁度いい」
「でも」
「花文字というのがなんなのか君は知っているか?」
「……いいえ」
「僕もだ。そんなもの、今まで知りもしなかった。大学でも、社交界でも、誰も教えてはくれなかった。……この屋敷を出てしばらく行くと、見慣れた筈の水路に桃色の花が浮かんでいる。何気ない花さ。人間の眼にはただ花がその命を散らせているようにしか見えない。……でも、それは違うんだよ。僕らが息をするこの社会とは別の場所に生きる者たちには、その花が何を示しているものなのかがわかるらしい。水路に浮かぶその花は、人間に捕らえられた仲間を探してほしいという水妖のメッセージなんだそうだ。その花文字を見て……」
青年は振り返り、メサルティムの部屋を寂しそうに見つめる。
「その花文字を見て、捕らわれた姫君を助けに来た勇敢な王子様が彼女たちだ。悪党は僕さ」
「……」
「何か言ってくれ。メアリーチェンバー。君の助けが必要だ」
「……あなたのために笑いましょうか?」
「そうしてくれると助かる」
メイドはゆっくりと深呼吸をし、眼鏡を外して前掛けで丹念に拭いた。それから再び眼鏡をかけ、にたぁ、と悪戯っぽい笑みを浮かべてからからと笑う。
「あら、あら、ぼっちゃま。これはまた見事なまでの負け犬っぷりでございますね。愛した姫を悲しませるばかりか、自由を束縛する悪者として嫌われる羽目になるとは!」
「そうだな。その通りだ」
「ぼっちゃまにはどうやら道化の才能があるようでございますね。もしこれが一つの戯曲であるのなら、きっと観客たちは人魚姫に同情し、助けに来たあの方たちを応援することでしょうね」
「そうだな……。きっとそうなんだろう……」
青年はきっと顔を上げ、きっぱりとこう呟く。僕は大馬鹿野郎だ。
◇
それからの話をしよう。
無事に姫は救出された。
しばらく屋敷の中を歩きたいとアセルス達は言った。地下室へと消えて行った彼女たちを心配しながらはらはらしていると、やがて戻ってきた一行にはメサルティムの姿が欠けていた。彼女はどこに行ったのですか、と青年は尋ねた。彼女は海に帰ったのだとアセルスは答えた。彼女は無事なのか、本当に幸せになれたのか、しつこいほど確認したがアセルスはしっかと頷いて彼女は大丈夫ですと言う。
……そうですか。青年は静かに納得してみせると、逆にアセルスの方が驚きを見せる。
「本当に信じるんですか? 怒らないんですか?」
「……どうかお引き取りを。あなたの顔を見ると、メサルティムのことを思い出してしまう」
「……お元気で」
「あなたも」
短い挨拶を交わしてアセルス達は去っていき、館には再び元の平穏な生活が戻る。荒れ果てた地下室が元に戻るということはなかったが、使用人が突然消えることはもうない。メサルティムはいない。
また海を見つめる日々が帰ってきた。いつものことだと思う。たとえ愛する人を失っても青年は金持ちだ、何不自由することもない。だから海を見つめるのだ。他にやりたいことなどありはしないのだから。
海を見る。まなこをぐりぐりと巡らせて四方八方を見渡し、海と言う海を視界に捉えようとする。浜辺の崖の苔むした暗がりや、波が打ち寄せる様々な漂流物の不衛生な見た目。小石だらけの砂浜は歩くたびに鋭い痛みがはしるけれど水切りがしたい時には役に立つ。
朝の陽ざしに焼かれてぎらつく灼熱の波、昼中の蒼天に染まる穏やかな水、闇に覆われて黒々と冷え切った海。目を覚ましてからは日がな一日海を見つめて変わりゆく景色を観察する。
どう考えても自分が不幸だとは思えない。家に帰れば豪勢な食事と温かな寝床が彼を待っており、こうして海で暇を持て余しても誰にも責められない。確かな財産があり、信頼できる使用人がいる。
満ち足りた人生の中で彼は覚束ない足取りでよろよろと波打ち際に駆け寄り、偏執的なまでに眼を擦り続ける。痒くて痒くてたまらないんだ。やがて激痛に呻き声さえあげて身を捩りながら青年はなおも目を擦り、膨大な涙を縷々と流す。見たいものが見られないのなら幻覚の中に理想を求めるほかなく、滲みゆく視界の中で彼は必死になって海をまほろばと化そうと企んだ。
──人魚とは陽炎に過ぎぬと言ったのは誰だったろう。難破した船員が海に漂う木片にしがみ付いて昼夜を過ごし、日光に茹る脳と暑さに岩の上の動物を人魚と見間違う。全ては錯覚、非現実に過ぎない。それは人間の世界のものではない。あちら側の世界のものだから。
それならば陽炎で構わぬ。陽炎の中に人魚を求め、ただ一言でもいい、愛していると今度こそ告げられたなら。
青年の見つめる世界に夜が降りた。
凍りつくように冷たい夜の海は、やはり空の黒夜を映したように黒々と静まり返っている。海とは空を映すもの。空に雲があるのなら海面にも雲が漂い、空に星があるのなら海は銀河となって星を沈めた。水面を覗いて見える海の中にはちらほらと星が沈んでいるようで、誰かが無くした宝石や宝物が海底に散らばっているかに見える。
「メサルティム……」
朦朧と呟いて青年は海に映る星に手を伸ばした。おひつじ座はどこにある。海面に触れて得られないものならいっそ水面を超えて海の底へと潜っていこう。すうと息を吸ってさあこれからと飛び込もうとしたその瞬間、彼の良く知る小うるさいメイドが「ぼっちゃま」と声をかけた。
「何かを失って悲しいと思うのなら、さあ、どうぞ青春の自暴自棄なまままっすぐお進みになればよろしいでしょう。このまままっすぐ、海へと向かって、そうして辿り着いたあの水平線をぎゅうと握りしめて海と空との境界線をあやふやにしておしまいになって下さいな」
「……それは暗に死ねと言っているのか?」
憮然とした表情で青年は答える。今さら水温の低さに驚いたようにぶると身を震わせ、まったく、と水面を叩いた。
「暗にでもさりげなくでもありませんよ。メアリーチェンバーはまさにそう申し上げているのです。だってぼっちゃまはいま死のうとしていたのでしょ? そんな雰囲気が出ていましたよ。だいぶん、鬱陶しい雰囲気でしたよ」
「そんなわけないだろう。それこそ考えすぎだ。僕は何も身を投げようとしていたわけじゃあない。……そうだな。ちょっと海に映った星を撫ぜようとしていただけなんだ」
「馬鹿ね」
「なんだよ」
「そういう浪漫溢れる台詞はどうぞ夢見る乙女だけに囁いて下さいまし。メアリーチェンバーはプロフェッショナルかつ成熟したメイド&レディーですのでそういう言動はこそばゆいだけです」
「ああ、そうかい」
「ぼっちゃま」
「……まだ何かあるのか?」
「……あなたは本当に、相も変わらず馬鹿なのね、ウィル」
久しぶりに名前を呼ばれた青年はきまりが悪そうに顔をしかめてそっぽを向く。
「……ああ、そうさ。僕は馬鹿だよ。そんなことわかってるさ! でもどうしろと言うんだ? 仕方がないだろう。苦労するにもどう苦労したらいいのかさえわからない。意味もなく甘やかされて僕は育った。……そのくせ、親友だと信じていたやつはある日突然僕に跪いて“ご主人さまなんなりと”と言う。父さんも母さんも今日からは身分の違いをはっきりさせなくては、お前も後継ぎとして振る舞えだなんてのたまうんだ。少しは捻くれもするだろう!」
「それはお互いさまでしょう。世の中には、昨日まで一緒に鼻くそほじって笑っていた相手を主人として仰げ、と親に命じられた少女だっているのですから」
「そうかいそうかい。それで君ははいそうですかと頷いたんだな」
「いいえ。あたしの返答は“え? なんで? だってあいつ馬鹿じゃん!”でした。……もちろん、その後でしこたま親に殴られましたが」
「……」
「……」
「……どうして僕たちはこんな話をしているんだろう?」
「どうにもならないことを、どうにもならないままに受け止めなければならないからでしょう、きっと」
「わかったようなことを言うんだな」
「女というのはこの世の全てを知っているかのようにふるまうことを義務付けられた人種なのです」
「まったくああ言えばこう言う口だなぁ! 一体誰がそんなことを君に命じたって言うんだ?」
「それはもちろん、神様でございますよ」
「その神様は何でそんなことをわざわざ命じたんだ」
「あたしたちは一人では生きていかれないから。一人では生きていかれないのに一人で生きていかなくてはならないから。だからこの世の全ての女は自分自身を演技者として舞台に立たせなければならないのです。生きてはいない自分を生かしておくために、生きているように見せるために。……ええ、ほんとうに、そういうものなのでございますよ。全ての恋は叶わないもの。愛した人は得られないもの。だから女はどんな時でも訳知り顔で、傲慢に男を見下し、あるいはへらへらと世間を笑って、器に満たされた液体のように自在にその形を変えて生きていかなくてはならないの。……あなたにも、それが身に滲みて理解できるのではないですか? これまで望んで手に入ったものがただ一つとしてありましたか? あなたの名前を呼ぶのはこのあたしだけ。あの人魚姫はあなたの名前を知ろうとさえしなかったのだもの。……ねぇ、ぼっちゃま。だからあたしはこう思うのでございますよ。死にたいのなら死んだっていいじゃあありませんか。……だってこのまま生きてもどうせ一人だし、死んでしまえば、もしかしたら来世で好きな人と一緒になれるかもしれないでしょう?」
いつしか湿りだしたメイドの声が僅かな悲しみを帯びて震えだすのに青年は気付いて、それは誰のことなのかと尋ねる代わりに口を噤んだ。
何の役にも立たない共感が胸の中で弾けた。メイドの言うことが彼にもよくわかった。同じものを失い、同じ悲しみを抱いているのかもしれなかった。けれどもその共感はどこまでも下らなく、何の価値もないものなのだ。なぜと言ってその共感から生まれるものは青年がメイドに対して感じる強い友情であり、その友情は誰に望まれるものでもなかったからだ。
メイドが前掛けをごそごそと探って放り投げてきたものを受け取って、青年は闇に眼を凝らす。それは懐かしい少年の日のおばけ銃。おばけを退治するためのゴーストキャノンだ。
「お撃ちになって下さい。撃ってしまえば、物語は終わります」
「こんな海の中じゃ、
「ゴーストキャノンが空想を現実にしたものなら、きっと撃てますよ」
「空想を現実に……か。本当に馬鹿馬鹿しい話だ」
ふ、と息を吐いて青年は眼を閉じる。ゴーストキャノンの銃把を握り、こめかみに突きつけ、そして昔のことを思い出した。
ものすごく気に食わない奴がいて毎日殴り合いの喧嘩ばかりしていたような気がする。お互いに鼻血を出して、わんわんと泣き喚いて、気がついた時にはいつの間にかに友達になっていたような気がする。拾ってきた猫を納屋に隠してこっそり育てたり、その猫が死んで夜中の森に震えながら埋葬しに行ったりしたような気がする。お互いの水切りの腕を競い合ったり、砂糖壷からいかに砂糖をちょろまかしてくるかを考えあったりしたような気がする。
少年だった自分は大きくなって、友達は友達でなくなった。自分がいかに金持ちであるかに気付いた少年は驕り高ぶるよりも途方に暮れ、いつしか海に取り込まれていった。飽きることなく海を見ていた。あの青く濁る海原の全て。太陽を反射して銀色に光る波。自分の知らない遠い世界、身分や財産などまるで関係のない異邦の地。
空と海とは同じものなのだと少年の日の彼は信じた。空の青と海の青とは等しいもので、めぐり合うあの水平線の果てでは一つなのだ。いのちの生まれる海。死者が昇天する大空。生きるも死ぬもおんなじだ。みんなおんなじ青なんだ。何もかも。何もかも……。
ぼっちゃま、とメイドが言う。
ああ、と青年は答える。
自分が信じていたことは何だったろう。
海は空を映すもの。友達はけしていなくなったりしないもの。飼い猫は死なず、砂糖は好きなだけ舐めることができる。好きな人はみんな自分を好きになってくれる。
小さなころ、親友と一緒に様々な冒険を繰り転げた。あの頃はおばけがいた。自分はお化けを退治することのできるスーパーヒーローだった。
自分の信じていたこと。
空と海。
永遠の友達。
猫。
おばけ。
成長した青年は泣き出しそうになりながらふと手に握ったおもちゃの銃をまじまじと見つめる。
この銃はゴーストキャノン。おばけを退治するための銃だ。
肩を揺らせて力なく笑いながら青年は高らかに銃を上げ、空を目掛けて引き金を絞った。星を撃ちぬけるはずもない弾丸で果たして何を滅ぼしたものか、寂しそうに空を見つめて青年は俯き、やがて振り返って「家に帰ろう、メアリーチェンバー」と言う。
はい、と答えたメイドは目を赤くして、掌で涙を拭う。振り向いた青年を見つめ、嬉しそうににたあと悪戯な表情を浮かべてけたけたと笑い出し、まったく、本当に人騒がせなぼっちゃまでございますよお、といつものように生意気な口をきいた。