サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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全ての乙女は邪悪でなくてはならない──炎の従騎士アルキオネの物語②──

 ここに一人の馬鹿がいる。

 そんじょそこらの馬鹿ではない。救い難いほどの馬鹿である。馬鹿だから救えないのか救えないから馬鹿なのか、どちらなのかはわからない。けれども馬鹿は馬鹿である。どうしようもない馬鹿である。

 馬鹿はいつでも知恵が足りない。一桁の計算だってまともにはできないし人から言われたことは何でも信じ込んでしまってほいほい頷くところがある。おまけに馬鹿はひどく醜い。痘痕だらけのその顔でほら、本人は無邪気に笑ったつもりでもヒキガエルに牛糞をなすりつけて地獄の釜でぐつぐつと煮込んだえげつない鍋の具にしか見えないし、喉の奥から漏れるげっげっげという笑い声は耳にしただけで「こんな奴死ねばいい」と思わせるには十分だ。

 山奥の村のそのまた奥の廃屋に頭のおかしい女が一人住みついていて村の中でも腫れもの扱いになっている。これが馬鹿の母である。人口の少ない山奥では自然と近親姦的な結びつきが多くなり、結果として血が濃くなるためか定期的にこうした白痴が生まれることになる。当然ながら村は白痴の存在を隠そうとし、一種の呪いとして遠ざけられ忌み嫌われる。馬鹿の母親はそういう女だった。その女がなぜ馬鹿を生んだのかといえば、まぁおそらくは村の若者にでも悪戯されたのだろう、もしかしたら女から誘ったのかもしれないしそうでなくとも交り合うというその行為の意味を正確に認識していたとは到底思えない。女は子を孕む。気がついた時には臨月だ、今さら堕胎することもできない。村の長がはてどうしたものかと頭を抱えている内に女はある日ふらりと廃屋を飛び出し、次に姿を現した時には両手に赤ん坊を抱えていた。それが例の馬鹿だった。どこぞの便所ででもひりだしてきたのだろう。

 馬鹿は生まれた。誰からも愛されなかった。ただでさえいびつな出生の上にその容姿は化け物で頭も足りない。村の中でも見て見ぬふりをされた。食べ物も碌に与えられなかったのでいつもぐうぐうと腹を鳴らし、道端の虫を捕まえてはぷちぷちと噛み潰してばかりいる。村の大人からすれば気味の悪いことこの上ない。自分で手を下せば呪いが降りかかるかもしれず直接殺すというわけにはいかないために道行く大人はすれ違いながらも知らないうちに崖から転げ落ちてくれないかとかいつの間にかに餓死でもしていてくれればという良からぬ考えで暗い視線を馬鹿に向けるのであった。

 それでも馬鹿は馬鹿であるから人の悪意など知りもしないし存在していることすら考えない。大切なことは何も教わらなかった。教えてくれる人はいなかった。“家”に帰ると母親が知らないお兄ちゃんに囲まれて「あー」だの「おー」だの言いながら涙を流していてなんだか怖かったし、毎日毎日食べ物を探すのに夢中でベンキョウするどころではなかった。

 村の子供たちは残酷で馬鹿はよく石や肥を投げられた。痛かったり臭かったりして流石の馬鹿も「困ったなぁ」と思わないでもなかったがそれでも馬鹿はやっぱり馬鹿でいつも一人でひもじい思いをしているものだから誰かが自分を構ってくれることが震えるほどに嬉しくて媚びた笑いを顔に張り付けて「うへ、ぐでへへへ。や、やだなぁ」とかなんとか薄気味の悪い声を上げながらてれてれと頭を掻きながら子供たちに近づいていく。ぐでへへ、おいらも仲間にいれてくれよう。そうしていつものように石を投げられる。額が割れて血が流れ出す。あ、痛い。けれども馬鹿は笑う。一人じゃないということは素晴らしいことで馬鹿は一人が苦手だ。「や、やめておくれよう」ぐでへへへ。

 近寄ってくるんじゃねぇよ。臭いんだよ。叩きつけられた罵声に馬鹿はきょとんとしてくんくんと鼻を鳴らして体臭を嗅いだ。よくわからない。おいら臭くないよ。そう言ってへらへらと醜い笑みを浮かべると子供たちがよってたかって馬鹿の体を引きずりまわし、せーので橋の上から川に突き落とした。よく飛んだな馬鹿。偉いぞ馬鹿。嘲り笑う子供たちの褒め言葉に馬鹿は鼻で水を吸ってむせ返りながらも「あ、あ、ありがとう……」と喜んでいるから始末に負えない。

 その内に母が死んだ。悪ガキに弄られすぎて股の傷から毒でも入ったのだろう。熱にやられてぽっくりと逝ってしまった。まともな感性のある人間ならば実の親の死に目に涙の一つも流すところだろうが馬鹿は違う。ただぽかんと口をあけてぼんやりと肢体を眺めているだけだ。やがて村の悪童たちが黴のように湧いてきてなれなれしく馬鹿の肩に手をかけてこう言った。「なぁ馬鹿よ。今回は大変だったなぁ」 にやにやといやらしい笑みを浮かべそいつはとても大切なことを教えてくれた。親が死んだとき子供はどうすればいいか。

 それで馬鹿はどうしたか。馬鹿は教えてくれてありがとうと頭を下げてとことこと母の肢体に歩み寄りそのまま足を踏み下ろした。忍び笑いを背後に母の肢体を殴りつけ、弄び、両目を繰りぬいて虫を詰め込み落書きをして軒下に吊り下げて晒しものにした。なんて馬鹿だろうか。いくら馬鹿とはいえ少し考えればおかしいことにくらい気がついても良いはずなのに、それでも馬鹿は気がつかない。自分が正しいことをしているとのだといつもの醜い微笑みを浮かべて母の肢体に陰茎を擦り付けた。たくさんの誰かが笑った。

 気がつくと馬鹿は卑屈になっている。臭い臭いとよく言われるので日に三度は河で水浴びをして誰かと出あえば相手が口を開くより先に「おいら臭くないよ」と告げるのが癖になっている。へらへらと笑ってさえいればオトモダチが馬鹿を小突いたり殴ったりしてくれるので馬鹿は随分と人に媚びて笑うのが得意になった。小さい時に比べれば体も随分と大きくなってきて、「おい馬鹿薪を取ってこい」だの「おい馬鹿村中のごみを掃除しとけ」だのと喋りかけてもらえる機会も格段に増えた。馬鹿は少しだけ嬉しい。おいらはとっても馬鹿だから誰かに頼らないと生きていけない。だからなるたけみんなの言うことをよく聞いて、逆らったりしてはいけない。誰かがそう教えてくれた。教えてくれたのは誰だったかな、忘れてしまった。

 本当に薄汚い生き物だ。とっとと死んでしまえば良かったのに死ぬことにさえ気が付けない。だから馬鹿は馬鹿なのだ。

 馬鹿を良いように扱って労働力の面では余裕の増えた村だったがいかんせん過疎は過疎、ある年の冷害に畑の作物は軒並みやられ備蓄していた種籾もいつの間にかに伝染病に罹っておりとうとうこの冬を越すことはもう難しいということになった。だから村の長たちは賢い頭を寄せ集めてこう考えたのだ。そうだ馬鹿に就職を斡旋しよう。馬鹿だって仕事につけるのであれば喜ぶだろうし、呪いがこちらに降りかかることはない。そう囁いた村長の手の中には近頃村のそこかしこにばら撒かれるようになった怪文書の類が握りしめられている。その怪文書には黒十字の署名が刻まれていた。一見なんでもない文章のように思えるが読む人が読めばそれは明らかに口減らしを仄めかす内容で人の少ない寒村や貧しい集落の人々に「もしあなたの周りに身寄りのない人間必要のない人間がいるのならそいつを差し出せ。口さえ噤むのなら代わりに大金を払う」と暗に告げているのだった。馬鹿はひと冬を越す金のために人体実験のモルモットとして秘密組織黒十字団に売られた。

 

 ではみなさんにはこれからいくつかの体力測定を受けてもらいます。体力測定が終わったあとは体や心の強さを試すための実験に移ります。みなさんの協力によって私たちは人体改造の技術を磨くことができ、またその技術の結晶として新たな四天王を生みだすことができるでしょう。ありがとう、本当にありがとうございます。みなさんの中で最後に残るのはたった一人ではありますが、その選ばれた栄誉ある一人には四天王「シュウザー」の名が送られることになります。さあ、みんなでシュウザーを目指して頑張ろうではありませんか。

 部屋の隅に取り付けられたスピーカーがザアザアと雑音混じりに鳴りだして、妙に甲高い声が告げた。言っていることがよくわからなくて馬鹿は首を傾げていたが、黒服に手を引かれて運動場に連れていかれ、走り幅跳びやら反覆横とびやらをさせられた。ひどい成績だった。試験管らしき人は舌打ちばかりしていた。体力測定が終わると一人一人が別々に連れていかれて誰も戻ってこない。どうしたのかなと思っているととうとう馬鹿の番がやってきて、乱暴に首根っこを掴まれたまま引きずりまわされた挙句に手術台の上に縛られる。

 どうせこんな奴が生き残るわけがないのになぁと見るからにやる気のなさそうな様子で拷問官は馬鹿に焼いた鉄串を突き立てた。叫び声を上げて馬鹿はもがくけれどもかたく戒められているために逃げ出すことはできない。じくじくと腿に穴があいていく。血や脂が焦げて黒く固まる。「痛いよぉ……」ぽろぽろと涙を流すと拷問官は呆れた様子で「見ればわかるよ」と良いながらぐりぐりと鉄串を捩じった。

 一しきり拷問が終わると気を失った馬鹿は石牢に放り込まれた。馬鹿の右足は穴ぼこだらけになってぐずぐずと腐っていく。痛む足を抱えながら馬鹿はぐすぐすと泣いてあの人はなんでこんなことをするのかなぁと独りごとを言う。次に会ったときにちゃんと聞いてみよう。空気穴の隙間から外の世界を眺めてみると月が皓皓と輝いていて物悲しい。綺麗だなぁ、でも痛いなあ。月の美しさに馬鹿は微笑み、けれども足の痛みに耐えかねて顔をくしゃくしゃに歪めて泣いた。ほろほろと泣きなからへらへらと微笑み、馬鹿の夜は過ぎて行く。

 拷問は終わらなかった。当り前と言えば当たり前のこと、なぜなら馬鹿は何かの秘密や情報を隠しているわけではないのだから。馬鹿は痛みを与えるために痛みを与えられているのだから。色々な薬を飲まされた。飲んだだけで肺が焼けたこともあったし逆にとても体の調子がよくなったこともあった。その薬を飲むと痛みにも俄然強くなってちょっとやそっと殴られたくらいじゃあびくともしない。いやまだ大丈夫だおいらは痛くないぞ。痛くないったら痛くない。脂汗を流しながら少しずつ少しずつ指を万力で潰されていってある時限界を超えて途方もない痛覚が脳髄を刺し貫く。ぎゃっと呻いたのも束の間、間断なく痛みは続き舌が縺れて呼吸さえままならなくなる。「ううん、難しいところだな。ただの麻酔じゃあ駄目だものな。感覚を残しながら痛みに強くするにはどうしたらいいだろう……」誰かが一生懸命に考え込んでいる声を聞きながら馬鹿の意識は薄れていく。

 

 組織からはまったく期待されていなかった馬鹿だったがいくら拷問されてもその馬鹿さゆえに絶望するということがなく痛い痛いと泣き喚くだけで廃人になったりはしない。実験体としてはなかなかタフで使えるようだと判断された馬鹿はその内に“ハカセ”と同室に入れられた。

「やあ、君が二号君か。よろしくね」

「に、に、二号?」

 君の名前だよと言ってハカセはふへへと力なく笑った。ハカセは随分と小柄で子供みたいな顔をしている。身に付けた白衣はぶかぶかでひどく不格好だ。

 馬鹿は二号という名前もとい番号をつけられてハカセと一緒に超人を作りだす実験に参加することになった。ようし、一緒に頑張っちゃおうゼ! 気勢を上げるハカセが馬鹿の背中をばんばん叩いて傷が激しく痛んだけれど馬鹿は嬉しくなってへらへらと笑う。

 馬鹿はハカセが作り出した様々な薬を飲んだ。やっぱりあれかなぁ、変装とかも結構大事なことだよね。僕ら悪なわけだからさ、人を騙したりするにはもっとハンサムな方がいいかもだよね。そういってハカセが差し出した水色の薬を飲むと馬鹿の皮膚からはあの醜い痘痕がつるんと消えてしまう。「おっ。ぱっと見だと結構恰好よく見えなくもないぞ。良かったな二号君!」「はい!」馬鹿はにこにこと笑う。筋力が上がる薬、体が柔らかくなる薬。色々な薬を飲まされて馬鹿は少しずつ強くなっていく。

「つってもまー流石に薬だけじゃ何でもはできないけどね。あらかた薬を飲んだら次はもっと高度な実験にチャレンジだ!」「はい!」

 

 ある日ハカセはこう言った。今日は君の頭をカシコクしてあげるよ。本当ですかと言って喜び勇んで連れられて行ったその部屋には奇妙な姿の鳥たちが無数に蠢いている。

「この鳥は何ですかハカセ」

「帆ン途鳥だよ」

「ほんとどり?」

「本当のことしか言わない鳥さ。まぁとにかくしばらく一緒にいてごらん」

 わかりましたーと呑気に答えて馬鹿は鳥たちと一緒に一週間過ごした。はじめは面白そうに鳥たちをつんつんつついていた馬鹿だったが、鳥たちが呟く不思議な言葉にしだいに取り込まれていった。予言めいた言葉だった。最初の内はどうでもいいことしか言わない。いちたすいちは、に。物はしたに、おちていく。この鳥は物知りだなぁと感心しているとその内に帆ン途鳥はぎょっぎょっと甲高い鳴き声を上げ大きな目をぐるぐると目まぐるしく回転させていく。──ホント、ホント、本当のことを言うよ。

 人は死ぬ。形あるものはみな壊れる。この世のすべては失われ、大切なものはみんな忘れられてしまう。「そんなに悲しいこと言わないでおくれよ」馬鹿が泣きそうになるのを堪えていると鳥はぎょろりと馬鹿を睨みつけて叫びだす。

「お前は半年後に死ぬ」「お前はシュウザーにはなれない」「お前はどうしようもない馬鹿だ」「お前は母を冒涜した」「お前は何物にもなれない」「お前と言う人間は最後まで馬鹿のまま死んでいく」

 ひどいよ。消えそうなほど小さな声で馬鹿は呟く。なんだってそんなことを言うんだい。おいらのことが嫌いなのかい。嫌いならそう言っておくれよ。おいらちゃんと這いつくばって隅の方に居るよ。

 鳥は馬鹿の言葉には答えない。ただ機械的に“本当のこと”を囁き続ける。帆ン途鳥という鳥は無限の知性を持っているとも言われ、かつては数多の王たちにこぞって求められた珍鳥だった。しかしこの鳥の怖ろしいところは、はじめは聞いている者のとってはなんの害もない情報を出しておきながら、いよいよと身を乗り出すと途端にけして聞きたくはない真実、自らの死期であったり誰に嫌われていて何を勘違いしているかということばかりを告げるところなのだ。

 馬鹿はぽろぽろと涙を流していたが、やがてハカセがやってきたので泣き顔のままへへへと笑う。

「どうだい二号君。帆ン途鳥ってスゲーだろ?」

「うん……」

 元気のない馬鹿の様子には気付かずハカセはぺらぺらと語り続ける。

「帆ン途鳥は本当のことしかいわない。ということはだね、この鳥たちは無限の知識を持っているか、あるいはアカシックレコードみたいなものであるとも言えるんだ。帆ン途鳥は世界中のありとあらゆる真実に通じている。だからさ、この鳥たちと上手く繋がることができれば、頭だって良くなるかもじゃないか。というわけで実験開始!」

 あっと言う間に馬鹿はまた手術台に縛り付けられて無数のコードやらをあちこちにぶすぶす突き刺されて目隠しを付けて電撃を流される。こうして馬鹿の頭は人並みに賢くなった。

 

 

 馬鹿は泣いた。

 

 

 

 

 馬鹿は音もなく涙を流す。目隠しの下で涙がちくちくと肌を舐めていく。「どうしたんだい二号君? もう実験は終わったよ。頭、よくなったかい?」 心配そうに問いかけるハカセにも答える気にはならない。

「俺は……」

 誰に言うわけでもなく馬鹿は声を震わせる。腹の底を灼熱の羞恥心が焼く。途方もない喪失感が息を止める。胃がぎゅっと捩じれて吐き気がする。

「俺は……」

 ガラスをひっかくようなか細い声だった。弱々しく、痛切な泣き声だった。馬鹿は泣く。体の中を無数の虫が走り回るような激痛。歯を食いしばって馬鹿は泣く。

 自分は何て惨めな生き物なのだろうと馬鹿は思う。他人の情けに縋り慈悲を乞うことでしか生きていけない。卑屈に身を屈めどうか生きていることを許して下さいと出会う人全てに懇願しなければ呼吸をすることでさえ満足にできない。自分の意志もなく他人の言うままに操られごめんなさいごめんなさいと頭をさげてばかりいる。自分と言う生き物ははたして何のために生きているのだろう。何を生みだすこともなくただ誰かの邪魔者にしかなっていない。どうしようもないほど醜く、愚かで、誰からも愛されない、。

 母の死体を弄んだ時のことを考えた。情けなくもへこへこと腰を動かして自分は射精を繰り返した。なぜあの時他のヤツらが笑っていたのか今ならばわかる。何も知らないということは滑稽だ。どう見ても喜劇にしかならない。馬鹿はとりたてて母を愛していたというわけではなかったがしかし母が死んだときに悲しむことさえできなかった自分、その死体を汚しさえした自分を思うと臓腑の底がかっと熱くなった。

 何かを取り戻したいと思った。幸福な時間、友と呼べる存在、愛する人、そんなものに囲まれて穏やかに笑ってみたかった。堂々と道を歩いて俺はここにいてもいいんだぞと胸を張って生きていたい。勝ち誇りたい。自分よりも弱いものを見下ろしてお前よりも俺の方が上なのだと思うさま馬鹿にしてやりたい。俺の方が生きている価値があるのだと、俺には生きる意味があるのだと高らかに宣言したい。今まで自分を虐げてきた人間たちを捕まえて無茶苦茶にしてやりたい。何の努力もなく笑っている奴ら、ただそんな風に生まれたと言うだけで幸せそうにしている人間どもを絶望の淵に叩きこんでやりたい。なんだっていい、目に付いた奴からぶん殴ってやればいい。

 復讐したい、と馬鹿は思う。何が人間だ。人間など、みんな薄汚い糞野郎だ。あんな奴らはぶち殺してやらねばならない。

 魂が何かどす黒い粘土にでも覆われていくような気がする。馬鹿はベッドから跳ね起きるとハカセの胸倉を掴んで思いっきり殴り飛ばした。ぎゃん、と犬みたいな声を上げてハカセは信じられないという顔をする。

「い、痛い……。ひどいじゃないか。暴力反対! 暴力反対!」

「黙れ! よくも人の体を好き勝手に弄りまわしてくれたな!」

 怒鳴りつけるとハカセは叱られた犬ころのようにしゅんとして「怒ったの……?」と上目づかいになった。「そりゃ怒るよね、ごめん……」

「罪悪感はなかったのか。何も知らない阿呆を騙して、好き放題薬漬けにして! さぞ楽しかったろうな!」

「そ、そりゃあ、悪いなとは思ったけどさ……。でもこれが仕事なんだから、仕方ないでしょう。ボクだって結果を出さなきゃ切り捨てられんだ」

「そうか」答えて馬鹿はもう一度ハカセを殴りつける。口元が切れて血が流れた。「そうか。ああ、そうか……!」怒りに任せて何度もハカセを殴ると少しだけ心が晴れた。ああ俺はずっとこうしたかったんだ。何度も何度も殴りつける。その内にハカセは亀のように縮こまって「ごめんなさいごめんなさい」とうわ言のように呟くばかりになった。こんな姿をどこかで見たことがあるような気がした。それは他でもない馬鹿自身の姿だった。

「……もういい」

 赤く腫れた手の甲を撫でながら馬鹿は顔を歪めて渋々吐き捨てる。ハカセはおそるおそるこちらを見つめてぷるぷると震えている。

「ほんと? もうぶたない?」

「……ああ。ただその代わり……」

 馬鹿が手を伸ばすとハカセはヒッと悲鳴を上げて再び蹲った。面倒くさい、とそう思いながら手を伸ばしもう心配ないのだと伝えるためにハカセの背中にぽんと手を当てるとハカセは「ひうっ」とキテレツな咳をして馬鹿を見つめ、安心したせいかぼろぼろと泣きだした。

「許しておくれよう……なんでもするから……」

「じゃあ俺を強くしろ」

「え?」

「実験台にしたことは許してやる。これから俺を実験台にすることも許してやる。だから約束しろ。俺を強くしてくれ。どんな相手もぶち殺してやれるだけの力を俺にくれ!」

「え……? あ……うん、それはまぁ全然別にいいけど……うん……。あ、望むところだよ!」

 顔面を腫らせたハカセはオーと腕を突き上げてやる気を表明した。

 

 

 馬鹿とハカセは共に最強の戦士を目指して協力する。ハカセは筋肉増加や知能強化のための薬を開発し(ほとんどそれしかできないのだが)馬鹿は馬鹿でトレーニングに明け暮れ、黒十字団の保有する武器、たとえば個人でも使用できるように小型化されたヘビーレールガンなどの使い方を学んだ。

「二号君はさ、どうして急にそんなやる気でたの?」

「自分が馬鹿だということに気がついたからだ。俺という馬鹿を馬鹿にしていた奴らをぶちのめしてやりたいと思ったからだ」

「なるほどなぁ。まぁ頭良くなったんだもんね。わかるよ」

「お前にはわからないさ。ハカセなんて呼ばれているような連中はみな人のことを道具か何かにしか考えていないんだろう?」

「まーそれは否定しないけどさ。でもわかるよ。ボクもよく人に馬鹿にされるんだ。なんでかわからないけど。そーゆー奴らのこと皆殺しにしてやれたら気持ちがいいだろうなって、よく寝る前とかに考えるんだ。ねー二号君。一緒に頑張ろうぜ。一緒にスゲー強くなってさ、道行く人々をぼっこぼこにして高笑いするような悪い奴になっちゃおうよ」

 うへへ、とハカセは嬉しそうに笑った。

 妙に懐いてくるハカセを鬱陶しく思いながら馬鹿は次第に強くなっていく。少しずつ自信もついて、劣等感に悩まされることも減っていく。馬鹿は自分の体を見つめる。逞しい筋肉、均整のとれた肢体。一振りすれば人間の頭だって簡単に叩き割れる。ああ俺は、強い。俺は生きていてもいい、俺には生きる価値がある……。そう思うと馬鹿はいつの間にかに笑っている。以前のように卑屈な笑いではない。それはささやかな幸福の微笑みだ。おい、ハカセ。馬鹿は言う。俺は四天王になるぞ。シュウザーになって、邪悪の化身となって、俺とお前で世界を征服してやる。醜い人間どもを皆殺しにしてやろう。ハカセは勢いよくうん、と頷いた。子供じみたその返事が嬉しかった。

 強くなる。強くなる。俺は俺の価値を手に入れる。馬鹿はいっそう訓練に力を入れる。ところがある日ハカセは暗い顔をしてやってきて、ごめんこの実験は中止されることが決まったんだと言うものだから馬鹿は仰天する。一体どういうことなんだ。

「シュウザーは他のところに決まったよ。遠隔兵器の研究をしていたチームがクロービットの技術を完成させてさ。そこの実験体が新しくシュウザーを名乗ることになったって」

「……俺はどうなる」

「用済みじゃないかな。洗脳されて扱いやすい戦闘員として使い捨てられるか……実験の失敗作として処分されるか……」

「他人事だと思って簡単に言うな」

「それが他人事じゃないんだ。実験チームものきなみ解体になった。役に立たない研究者は明日処刑だって。悪の組織ってやることが極端なんだ」

「そうか」

「……ボクらはどうしたらいいのかなぁ」

「脱走するか?」

「ボクには無理だよ。今さら、他のところで生きていくことなんかできない。そんな力はない。逃げるのなら君一人で逃げればいいよ。応援する」

 馬鹿は少し考える。今こそこの力を試す時ではないか。逃げようとすれば当然戦いになるだろう。黒十字団が誇る精鋭や怖ろしい四天王を相手に死力を尽くしてみるのも悪くはないように思えた。けれども馬鹿の心の中には重苦しい落胆や失望と同時に不思議な納得があった。

 どうせこんなことになるのではないかと思っていた。結局、誰も自分のことを必要としてはくれないのだと、やはり自分には生きている価値などなかったのだと思った。体の力が抜けた。今にも泣き出しそうになっているハカセの顔を見ていると寂しい共感が全身を走る。ああ俺たちは負け犬だ。馬鹿はもう一度ハカセの顔を見る。もしかしたら彼は最初で最後の友人なのかもしれない。

「俺たちはどうするべきか。良い質問だハカセ。俺たちは酒盛りをするべきだ」

「へ?」

 馬鹿は食糧貯蔵庫に忍び込んで食べ物や酒を失敬してくる。乱暴にハムやソーセージを切り分け、組織片分離針をぷすぷすと突き刺してハリネズミにする。アルコールランプに三脚と金網を取り付け、上に載せたビーカーの中に安っぽい紺濃酒をタトタトと注ぐ。

 小さめのビーカーに温まった酒を入れ手渡すとハカセは老人のような顔をして「……あったかいね」としみじみ言う。ため息が酒に溶けて湯気になる。猫のようにちろちろと酒を舐め、ハカセは顔をしかめて「苦いなぁ。大人はなんでこんなもの飲むんだろ」と不思議そうにハムを咥えた。なぜ大人が酒を飲むのかは馬鹿にもわからなかった。酒を飲むのはそれが初めてのことだった。ああ俺は多くのことを知らずに死んで行くのだと思いながら酒を飲んだ。胃の底がじくじくとぬるくなった。

 酒盛りをしながら二人でぶつぶつと下らない話をした。もっと美味いものを食べてみたかったとかいい女を侍らしてみたかったとかそういう類の話だった。手に入らないものばかりを口にして「腹立つなぁ」と悔しがってばかりいた。

 二人は窓に頬を寄せて夜空を見上げた。「星がきれいだね」とハカセが言う。自分で自分の言葉に照れているようだった。「うわー、感傷的なボク……」 馬鹿はまじまじと星を見つめる。「そうだな」と心の底から同意した。星は綺麗だった。しかし馬鹿にはその星を言葉で飾るだけの人生経験がどうしようもなく欠けていた。「ああ、きれいだ。とにかくきれいだ」 そんなことを言って、しかし言葉の上で「きれいだ」としか言えないのならこの星の美しさも何もあっと言う間に忘れてしまうのかもしれなかった。

 ねー、二号君。ハカセが言った。ボクは明日死ぬんだね。そうだなと二号は答えた。さっきから同じことばかり口にしている。ハカセが小さな指をぷるぷると震わせながら夜空の果てに輝くちっぽけな星を指さして言った。あの星の名前を覚えておいておくれよ。あれ、ボクの名前と同じ星なんだ。ボクが死んでも、名前だけは夜空に残る。ボクの名前は……。

 ハカセは恥ずかしそうに名前を口にした。馬鹿はしっかと頷いて、たとえ何があろうとも忘れないと約束をした。ハカセは翌日に死んだ。

 

 

 

 

 人はいつか死ぬことを義務付けられた生き物であるから、人並みの知恵を身に付けた馬鹿はいつか自分にも死がやってくることを知っている。しかしそれはいつ来るものなのだろう。いつかは死ぬと知っていて、しかし目の前にある「これ」が「それ」なのだと受け入れることのできる人間がどれだけいるのだろう。

 採石場に集められた馬鹿と組織の実験体たちを睥睨して、四天王である炎のアルキオネは冷たく処刑を宣言する。お前たちのように中途半端な性能の奴らは生かしておいても扱いにくいだけなので処分することになった。大人しく灰になれ、と彼女は言った。何体かの実験体が怒声を上げて彼女に飛びかかったが、アルキオネがこともなげに腕を一振りすると猛烈な炎が巻き起こり次の瞬間には焼け焦げている。相手にすらならない。ただゴミを掃き散らすように火炎に焼かれていくだけだ。

 圧倒的な強さだった。四天王は伊達ではない。新しい四天王シュウザーを生み出そうというのだから、この程度で死ぬ強さでは話にもならないのだろう。

 馬鹿は隅の方でアルキオネを静かに見ていた。刻一刻と近づく死の運命を感じながら、炎を纏う彼女の姿を見て、美しいな、と素直に思った。幻想的というのは彼女のような姿を言うのだろう。燃え盛り輝くルビーの瞳、揺らぎ立つ火焔のはだえ。それに比べて彼女に殺されていく我ら実験体のなんと弱く醜いことだろうか。一体、人間という生き物はなぜこれほどまでに惨めでくだらないなのだろう。たかだか百年かそこらの寿命をしか持たないくせに、何ものにもなれずに足掻き続けて死んでいく。俺は、と馬鹿は言う。俺は一体何なんだ。俺はここで死ぬ。俺はここまでの男だ。俺は……。俺は……。

 炎のアルキオネは炎の妖魔、炎妖なのだという。人間を遥かに超える力を持ち、悠久の時を生きる美しい種族。この女に殺されて俺は死ぬ。

 とうとうアルキオネの操る火焔が馬鹿のところにもやってきて、ぶわ、となんだか綿でも押し付けられたような感触がしてふと見下ろしてみると右足がけし飛んでいる。がくりとバランスを崩して手をついた馬鹿が脂汗を流して顔を上げるとそこにはアルキオネが冷たい眼をして立っている。

「死ね」と彼女は言った。「嫌だ」と馬鹿は答えた。足元の石ころを思い切り投げつけたが届く前に溶けてしまう。「お前は本当に馬鹿だね。そんなものが通用するとでも思ったのかい?」アルキオネが嘲笑を浮かべる。答えずに馬鹿は必死になって逃げ出した。畜生のように這いずりまわり、意味もなく無駄に砂や石を投げつけて醜態を晒した。馬鹿は最後まで馬鹿のままだった。アルキオネが面倒くさそうに馬鹿の左足を踏みつける。そのまま骨ごと焼けついて足が千切れる。馬鹿はなお腕だけで体を引きずる。アルキオネの炎が両腕を焼いて馬鹿はダルマにされてしまう。歯を噛みしめると涙がこぼれた。今さらながらに死ぬのは怖い。

 どうしようもなくこみ上げる感情に馬鹿は声を震わせた。腹の奥底から沸き起こる激情に咽喉を焦がして叫んだ。

 

 

 俺とお前の何が違う。ただそう生まれたというだけで俺は死に、お前だけが生きるのか。なぜ俺は人間なんだ。なぜ支配者として生まれることができなかったんだ。俺は嫌だ。死ぬのは嫌だ。負け続けることが嫌だ。そして何よりも人間であることが嫌なんだ。

 人間。

 人間は弱い。人間は惨めだ。人間は臭く、醜く、薄汚い獣同然の生き物だ。俺を馬鹿にしたあの人間、俺と俺の母とを弄んだあの糞野郎どもを俺はけして許さない。俺は人間を憎む。この世全ての人間を憎む。何も知らずにのうのうと行き、無自覚に人を踏みつけにする人間を憎む。そして……。

 ……そして俺は、俺を憎む。俺と言うこの馬鹿を、こうして死んでいくことしかできない己自身を。

 お前が理由を知っているのなら教えてくれ。なぜ俺はこうなんだ。なぜ俺はこうして何も手に入れられずに死ななければならないんだ。ああ、そうだ、生まれてからこのかた人生は何一つ思い通りにならない。誰も俺を必要とはせず、俺を厭う視線でしか迎えない。どうしてなんだ。

 勝ち誇りたい。奪われる前に奪いたい。俺は何かになりたいんだ。このまま死ぬのは嫌なんだ。死んでたまるか。死んでなどやるものか。嫌だ、死にたくない。誰か俺を助けてくれ。たった一度でいい、誰か俺を選んでくれ。俺を必要としてくれ!

 

 

 無様に涙を流し、叫び終わると馬鹿はぎゅっと眼をつむって死を覚悟したがいつまで経っても何も起きない。恐る恐る眼をあけるとアルキオネが困ったような顔をしてこちらを見ていた。途方に暮れたような、道に迷った子供のような、それは妖魔にはおよそ相応しくない弱々しい表情だった。

 今から大事な質問をするからよくお聞き、と彼女は言った。

 

 

 

 ──もし、あたしがお前を選んだら、お前はあたしを選んでくれる?

 

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