もしあたしがお前を選んだらお前はあたしを選んでくれるのかとあたしは聞いた。最初のうち彼は何を言ってるのかわからないという顔をしていたけれど(そりゃそうだ)、やがて真剣な顔をしてこう言う。俺はお前を知らないしお前が何を考えているのかもわからない。それでも……。彼は僅かに声を上擦らせる。それでも、お前が俺を選ぶというのなら、俺はお前を女王にしてやる。この世の支配者の女としてお前を高みに連れていってやる、と。その言葉を頭から信じたわけではないし、生きながらえるために嘘を言ったのかもしれないとそう思いながらあたしは「そうこなくちゃ」と笑って彼に口づけをした。柔らかなキスを彼の首筋に落とし、この牙を打ち立てて血を吸い上げる。こうして人間である彼は死に、炎妖アルキオネの眷属として妖魔に生まれ変わる。痛みに呻く彼を両手で抱き抱え鼻と鼻とを擦りつけながらあたしは言う。さあ、次は、あなたがあたしにキスをして。
体中の組織が造り変えられていく痛みに呻きながら彼は一体自分に何をしたのかと尋ねる。あたしは質問に答えず静かに笑う。あなたはあたしを超えていく男にならなけりゃならないのでしょ? ……そんなら、ねぇ、この血を吸って、あたし自身を虜にする男になってみせてよ。
四肢をもがれたままの彼の体は驚くほど軽い。血に汚れた彼の唇をあたしはあたしの首にあて、魔女のように呪いのように小さな呪文を呟いた。さぁ口を開いて肉をお食べ。あなたとあなたの欲望が躍るままにこの血を啜り、あたしという女を食らい尽くしてごらん。あたしはあなたに従う妖魔。新生したあなたという妖魔に仕える炎の従騎士アルキオネ。あたしの血を吸ったあなたは王にならなければいけない。
彼はあたしから逆吸血を行い、それに伴ってあたしの支配から脱出する。彼はあたしの力を手に入れ、あたしは少しだけ弱くなる。でも構うものか。たとえ妥協や打算で結ばれた関係であろうとも、今この時に彼があたしを選び続けてくれるのなら永遠も悪くはない。
彼の肉体が再生するまでの間にあたしは彼のことを知るためにいくつかの質問をした。名前を尋ねると「俺に名前はない」と言って黙り込んでしまう。眉間に皺を寄せて何か考え込んでいるようだった。殺されるとなれば殺されるで「なぜ自分ばかりがこんな目に」と世界を呪っていたくせに、いざ生き残ったら生き残ったで「なぜ自分だけが生き残ったのか、他の実験体は死んだというのに自分だけが生きていてもいいのか」とか、そんな下らないことを考えているのかもしれなかった。そんなことを気にしなくてもいいんだよ、気に入らない奴はみんな、ぶち殺してやればいいんだよ。慰めるようにあたしが言うと、彼はむっつりとしかめっ面のまま空の高みを指さしてぽつり、「あれが俺の名だ」と囁いた。あの遥か彼方に輝く天馬の座、上膊の星セアト。
その日の昼から午後にかけて激しい雨が降り注いだ。セアトの回復が終わるまであたしはひとまず屋根のあるところへ避難した。雨垂れの音は絶えることなく続いた。行こうと思えばどこにだって行けるとそう知りながら、けれど雨の降りしきるその光景にはどこか世界との隔絶を思わせるさみしさがあった。閉じ込められているのかもしれない。雨が降れば誰しもが今いるところに縛られてしまうのかもしれない。……そうして、男と女がひとところに留まって双方の孤独に共感を覚えたその時に、生き物は雨に閉ざされたその場所でまぐわうものなのだろう。古代から今に至るまでありとあらゆる恋人たちもきっとこんな風に雨を眺めていたのかもしれないと想像を巡らせながらあたしはセアトの手足が生えそろうのをじっと見守った。
セアトが五体満足になるとあたしは緩んだ頬を隠すことも忘れてわくわくしながら「ほら」と両手を広げると、「あ?」とセアトが眉を寄せた(察しが悪い)。
「何を呆けているの。ほら、あたしをうんときつく抱きしめて、ぎゅってして、愛してると言って。そういう約束だったでしょ?」
「……そんな約束はしていない」
「したわよ」
「したのか」
「した」
「そうか……。約束は守る」
セアトはぎこちないしぐさであたしに近づくと不器用にあたしの背に両手を回した。遠慮がちに込められた力に「もっと」と文句を言うと急にぐっと引き寄せられたせいでわっと驚きながら「きゃっ」と声を(演技で)出して顔を上げたらそれはもう睫毛と睫毛が触れ合う距離で、こりゃいかん思ったよりも恥ずかしいと慌てていたら目の前のセアトが恐ろしくクソ真面目な顔をしてこう言った。お前のことを愛している。
途端に胸の奥が熱くなった。
「ふへへ」とうすら笑いを浮かべて照れていたらセアトは不思議そうに首を傾げた。
「どうして泣く?」
この炎妖アルキオネ様が泣いているですって? 自分の顔を撫でてみると、嘘じゃない、本当に涙で濡れていた。「ほんとだ」そう言ってあたしはきょとんとする。「泣いてる……」
「何かやり方が間違っていただろうか?」
居心地が悪そうにしているセアトを見てあたしは束の間苦笑して、「そうじゃないよ」と言ってもう一度セアトに抱きついた。
「誰かに好きだって言われたら、誰だって嬉しくなるものよ。涙くらい、流したりもするでしょう」
「そうか……?」
「そうよ。ねぇ、セアト」
「うん?」
「あたしあなたのことが好きよ。あなたのことが必要なの。あなたがいなけりゃ、あたしはもう一歩だって生きちゃいかれないの」
あたしが告白すると、セアトはたじろいだように胸を押さえて後ずさりする。
「ああ……」
「どう?」
「ああ……そうだな……。これは……なかなか……」
くっ、と歯を食いしばってセアトは俯いた。彼がこれまでどんな人生を送ってきたのかはわからないけれどそれはきっと生まれて初めての言葉だったのだろう。咽喉を震わせて背を折るセアトの涙に気付かないふりをして、あたしはくるりと振り返って目を閉じた。
◇
それからまた長い長い時間が過ぎた。でも今度は独りじゃなかったから辛いことは何もなかった。二人でたくさんの妖魔を狩ってまわり、その血を吸うことでセアトはぐんぐん強くなっていく。セアトの力を認め、配下になろうという妖魔が現れる。水の従騎士ハウゲータ。森の従騎士[[rb:洞舐 > ウロネブリ]]。本当はあたしのほかに女なんていらなかったけれど、自分の男が認められるというのはやっぱり嬉しかったし一番があたしでさえあるのならまあ仕方がない。
ある時セアトはどこかでオルロワージュ様の噂を聞きつけて、「俺もやがてはオルロワージュのような王になるのだ。一度どんな男か見ておこう」と考えたらしい。あたしも久しぶりにメローペ姉さまの顔が見たくなって、妖魔の君が鎮座する城を訪れるための洋服を仕立てたり立ち振る舞いの練習をしたりすることにした。前日に全ての用意を揃え、「明日着る服とか全部ここに畳んでおくね」と声をかけ、あたしはセアトが帯びる飾り剣や靴やらを丹念に磨いた。
メローペ姉さまの妹を名乗るとあたしたちは拍子抜けするほどあっけなく入城を許された。何百年ぶりに顔を合わせた姉さまは相変わらずとても綺麗で、煉獄の炎を瞳に宿して蠱惑的な笑みを浮かべている。姉さまが楽しそうにしているのを見てあたしは少ししほっとする。オルロワージュ様に選ばれて良かったねと心の底から思うことができた。
オルロワージュ様に拝謁を果たしてからセアトはしばらくぼんやりとしていた。妖魔の君が持つ圧倒的な妖力に惹かれたせいだろうか? その内に彼は「俺もいつかあの方のように絶大な力を手にしたいものだ……」と呟くようにさえなった。
セアトは心酔するオルロワージュ様の旗下に加わることを選び、命じられたことはなんでも聞いた。その頃オルロワージュ様はとりわけ人間の幼女を愛でていて、セアトはその子らの世話や生命保護を任されているようだった。
よち子。シェダル。王文青。メテルムミア。オルロワージュが人間の少女らと出会い、別れていくのを一番間近で見続けていたのはセアトかもしれない。
やがて長年の傍仕えが認められ、また既に上級妖魔として十分な力を身につけていたこともあり、とうとうセアトは針の城の黒騎士として任命されることになった。「良かったね」とあたしが言うと彼は「ああ!」と屈託のない笑顔を浮かべた。その顔を見ているとあたしまで嬉しくなってきて、もう一度あたしは「良かったね!」とセアトの背中を叩いた。
あたしはその時、間違いなく幸せだったのだと思う。
けれども時が流れ移ろう内に世界の何かが変わっていって、気がつかない間に降り積もる埃のように何気ない違和感が幾重にも重ねられて不満に変わる。
淡々と時は過ぎた。いつしかメローペ姉さまの姿を目にすることは少なくなっていった。あんなに愛し愛されていたはずだのに、いじけた顔をして庭の隅の方で俯いている。どうしてそんな風になってしまうのだろう。だって彼女は選ばれたのじゃないか。妖魔の君というとてつもなく偉大な方に見初められ、栄誉と権勢を手にしたのではなかったのか。誰かに選ばれさえすれば、一人ではなくなればこの孤独だってきっと埋められる筈なのに、どうして姉さまはあんなにも悲しい表情をされているのだろう。
あたしはオルロワージュ様のことを時々考えるようになった。あたしはこの王サマが笑ったところを一度も見たことが無い気がした。近頃では寝室にお籠りになり、たまに顔を見せたかと思えばつまらなそうに世界を見下ろしている。いつかこんな風にセアトもなっちゃうんだろうか? 面白いことは何一つありませんみたいな顔をして、大きすぎる力ばかりを持て余して腐っていくような男になるんだろうか。
黒騎士になったとはいえセアトはオルロワージュ様からは何か特別な言葉をかけられたわけでもないし格別の信頼を寄せられているということもなかった。セアトはそのことを少しだけ不満そうにしていた。「俺は心からオルロワージュ様のことを尊敬している。しかし、それが伝わっているのだろうか……」 妖魔として長い年月を過ごすうちに段々とセアトの眉間にも皺が寄ってきて、気難しい顔ばかりしているようになる。大切な人に認めてほしい。でも認めてもらえない。だからまた盲目的に仕えて、懸命に奉仕を行い得意でもない媚を売って……、そうして、得られるもののない千と百年を過ごしてセアトの自尊心は傷ついていく。俺は一体何なのか。俺はまた人間だった頃と何一つ変わらないままに、惨めな物乞いを繰り返しているのではないか。それならばいっそ……。
名もない妖魔がオルロワージュ様を襲撃するという事件が起きた。王の身を守ることができなかったとセアトは随分と嘆いていたけれど、その襲撃犯が黒騎士にとりたてられたと聞くと激しく動揺していた。「黒騎士とは一体何なんだ」と言って意気消沈する彼を見ているのは辛かった。
あたしは段々とオルロワージュ様やイルドゥン達に怒りを覚えるようになっていく。だいたいイルドゥンは何なんだ。オルロワージュ様に歯向かった癖に素知らぬ顔で城の中に潜り込んで傍若無人な振る舞いを続けている。どうしてオルロワージュ様はあんなヤツを黒騎士にしたんだろう。それにラスタバン。ラスタバンに至ってはそもそも何もしていないじゃないか。イルドゥンのように戦ってその力を認められたわけでもない。たまたまイルドゥンの知り合いだったというだけで黒騎士になって偉そうにしている。あたしは陰でラスタバンのことをコネ入社と呼ぶことにした。
声を大にしてあたしは言いたい。こんな社会は間違っている。だって頑張っているのはセアトじゃないか。努力して、我慢して、オルロワージュ様のために身を粉にして必死になって働いているのは誰でもないあたしのセアトだ。だから褒められるのはあたしのセアトでなくちゃいけないんだ。選ばれるのはあたしのセアトでなくちゃならないんだ。けしてイルドゥンやラスタバンみたいにへらへら笑って生きているような連中は黒騎士になんかなっちゃいけない。だからオルロワージュ様は間違っている。報われるのは頑張っている奴でなきゃいけない。一生懸命に生きている奴が報われないなんて法が一体どこにある。
……そう思う一方で、心の中のどこかにこの状況に納得しているあたしがいる。なぜなら妖魔は努力なんかしたりはしない。誰かに認められようだとか、頑張った分だけ報われるべきだなんて考え方は妖魔にはない。妖魔にとっては恐怖と魅力と誇りという『力』だけが全てで、それ以外のことなんてどうでもいいことなのだ。だから、セアトがいつまでたってもうだつが上がらないのもそれは当り前の話で、本当なら馬鹿にされてもおかしくはないのかもしれない。
妖魔にとってセアトのような生き物は本来「見苦しい」と蔑まれさえするものだ。元は人間だったセアトはたぶん、そのことに気付けていないのだろう。それは悲しいことかもしれないし、もしかしたら幸せなことかもしれない。あたしはセアトに欠けているものを知りながらそれを教えることはなく、ただ、彼の女として黙々とつき従っていた。……昔、人間の男と暮らしていたことがあったせいかな。やっぱりあたしにもどこか人間くさいところが残っていて、その人間の部分が妖魔の社会に反発を覚えているのかもしれない。
それでもあたしは後悔なんてしない。だってあたしが選んだ男は人間でありながら妖魔になった男だもの。人間として生きて、人間という生き物を嫌悪して、妖魔に生まれ変わり、誰よりも何よりも強くなろうと足掻き続ける見苦しい男、それがあたしの選んだセアトなのだもの。
あたしはセアトの駄目なところが好き。弱っちくて、人間みたいに落ち込んだり命乞いをしたりするようなところが好き。誇り高くなりたいと願いながら、けして誇り高くなれないところが好き。だってそういうセアトはきっとあたしを選んでくれる。あたしはセアトを選んで彼はあたしを選んでくれる。だからあたしは炎の従騎士であることに後悔なんかしないのだ。
◇
今、あたしの眼の前にアセルスという女がいる。あたしはアセルスを捕らえるために彼女たちをずっと追っていた。アセルス一人であれば無力化するのは容易いことだったけれど、彼女の周りにはいつも白薔薇姫やメローペ姉さまがいてあたしは迂闊に動くことができなかった。
アセルスは世界でただ一人の半妖である。それは人間が吸血を受けて妖魔になるのとも、隔世遺伝や突然変異によって妖魔になるのとも違う。彼女はあろうことか妖魔の君オルロワージュ様の血を享けて蘇った特別な存在なのだ。
特別という言葉を使うとなんだかやっぱり腹が立つ。白薔薇姫やお姉さまがアセルスと行動を共にしているのも彼女が「特別」だからなのだろうか。あたしにはわからない、。アセルスはてんで普通の女に見える。
どうしてアセルスなのだろう。その力を手に入れるのはセアトだって良かったはずだ。オルロワージュ様の血は、ぽっと出の、へらへら笑いながら生ぬるい学生生活を送っていたに違いない小娘が何の努力もなしに手に入れていい運命じゃない。
アセルスは故郷のシュライクへと戻ってきた。親代わりになって育ててくれた親戚の顔を「ちょっと見るだけ」と言ってはいたけれど、本当は会いたくてたまらないという顔をしていた。親離れのできない甘ったれなアセルス。
──別に、今さら会う必要なんかない。私なんて、本当はいない方がいいんだから。……だから、ちょっと顔を見るだけ。叔母さんが元気にしているかどうか、ちょっと確認するだけ……。
──いない方がいいだなんて、悲しいことを仰らないでください。アセルス様。
──うん。ありがとう……。でもね、自分がそうと望んでいなくたって、誰かの迷惑にしかなっていないってことは十分ありうることだと思うな。困ったことに、向こうはそれを迷惑だなんてまるで感じていなくて、私が少しでも遠慮したりすると叱りつけてくる。……だけど違うんだなあ。生きているだけでも素晴らしいことだとか、親は──まぁ親じゃないんだけど──親は子供と一緒に居られるだけど十分幸せで、迷惑なことなんか何一つないんだとか、お涙頂戴の物語じゃあ随分と言われてはいるけれど、あたしが感じているのはそういうお為ごかしじゃなくて単純に金銭的なことなんだ。……ああ、そうか……。私は結局、あの人のことを他人としか捉えられなくて、他人に金銭的な負担をかけることに耐えられないってだけなのかもしれないな。はは……なんだかね……。
アセルスは白薔薇姫と一緒に生垣の隙間から自宅の庭を眺めていた。道路脇にしゃがみ込んでベニカナメモチ(という植物なのだと白薔薇姫が解説していた)の生垣に頭を突っ込んでいる姿はどうしようもなく滑稽だった。アセルスの叔母らしき老齢の女性は縁側に腰掛けて玉蜀黍のひげを毟り取っている。「おばさん……」よく聞こえなかったけれどアセルスが小声で呟く。
その時、白薔薇姫が踏み折った小枝が乾いた音を立て、アセルスの叔母がはっと顔を上げてアセルスに気付いてしまう。
──あ……あなた……アセルス……?。
──あ、う、うん……。そう……。あのね、髪の色……ちょっと、染めててね、その……。
──ひ……。
──どうしたの?
──幽霊なの? いなくなった時の年恰好のままで……やっぱりアセルスは死んだんだね。
──違うよ。私はアセルス。本人だよ!
──私をたぶらかす妖怪かい。 12年も前のアセルスの姿で現れるなんて。誰か! 助けて!
恐怖に顔を引き攣らせた叔母は家の中に消えていき、後には項垂れたアセルスと柔らかに微笑む白薔薇姫が残される。
──12年……私が馬車に轢かれてからそんなに……。どうして教えてくれなかったの、白薔薇……?
──ファシナトゥールに生きるものにとって、時の流れは意味を持ちません。それに、アセルス様にショックを与えたくなかったのです。
──やっぱり私は化け物なんだ。12年も年を取らないなんて……。
──そんな物の言い方をしてはいけません。
──……うん。そうだね……。……あのさ、白薔薇……。
──何でしょうか?
──ちょっとカップ麺買ってくる。
──え?
──急に食べたくなってさ。紅と白薔薇はしばらく宿に戻っていて。
──アセルス様……?
◇
あたしはアセルスをじっと観察している。白薔薇姫たちと別れ、一人道を歩くアセルス。都合のよいことに一人きりだ、今ならば簡単に殺せる。
何を考えているのか、アセルスはシュライクの繁華街で本当にカップ麺(ちりめんラーメンじゃこたっぷり)を購入した。必要以上に愛想よく「これを下さい」「ありがとうございます」と頭を下げるアセルス。レジの横で備えつけのポットから湯を注ぎ、零れないようにそろそろと店を出る。食べる場所を探してアセルスは近くの公園を探していたがそこは学校帰りの子供たちで騒がしく、アセルスは踵を返して別の場所を探す。手の中で麺が伸びていく。人気の少ない場所を探してうろうろと彷徨い、ようやく錆びれた高架下に居場所を見つける。座る場所を探してきょろきょろとあたりを見回し、近くに転がっていた整形外科の看板を裏返して腰かける。カップ麺は既にふやけている。蓋を開けだした途端に膨れ上がった麺が飛び出してアセルスの手を汚す。アセルスは何も言わない。黙って麺を口に入れる。黙々と箸を進め、太い麺を噛みしめる。アセルスの瞳からほろりと涙が零れる。滴り落ちる涙がぽつりぽつりとカップ麺に波紋を残す。アセルスは何も言わない。ただぐ、と歯を噛みしめ、親の敵のように目の前を睨みつけて食べ続ける。
(ああ、そういうことか……)
カップ麺を食べ終わるとアセルスは俯いて動かなくなった。もういいだろう。これは罠ではないと判断したあたしはアセルスの前に姿を現してこう言う。
「あたしはお前に同情なんかしない。アセルス。大人しく針の城に帰るならよし、もし帰らないというのなら……」
「……」
アセルスは答えず、顔を上げようともしない。
「たかだかオルロワージュ様におこぼれを頂いただけの半端者の分際で白薔薇姫を連れ出そうなどと……」
「……あなたは」
相変わらず俯いたままアセルスは静かに口を開いた。
「アルキオネ……でいいのかな。紅が言っていた針の城の追手……」
「ええ、そうよ。どんな手を使って拐かしたのかは知らないけど、白薔薇姫もお姉さまもこんな汚い所にいるべき女ではないのよ。お前とは違う」
「……あのね、見てわかると思うけど、私はいま結構落ち込んでいるところなんだ。用があるにしても後にしてくれないかな……?」
掠れた声で答えるアセルスは不気味なほど穏やかで、怯え一つ見せないその様子にあたしは僅かな苛立ちを覚える。
「……お前は自分がいまどんな立場にいるのかまるでわかっていないようだ。あたしがほんのちょっとこの手を動かせばお前を消し炭に変えることだってできるんだよ」
「ああ、そう……」
どうでも良さそうにアセルスは答え──次の瞬間、世界を呪う老婆のようにどす黒く嗄れた声でどこまでも静かに叫ぶのだった。
「たった一人の家族を失った悲しみにさえ、満足に浸らせてはくれないのか、オルロワージュ……!」