朝、目を覚ますと白薔薇が朝食を用意してくれている。「いつも悪いね」と声をかけてアセルスは台所で顔を洗う。彼女たちが暮らしている[[rb:集合住宅 > フラット]]には洗面台が備えつけられていない。水道から流れる水は妙にぬるく、時おり錆が混じることさえあるが深くは考えないことにしている。半妖になったいまは人間のような代謝は無くなっており、睡眠中に溜まる目脂や皮脂を気にする必要はない。本当ならば顔を洗わずともアセルスの顔はいつでも清潔に保たれている。が、なるべく人間であった頃の習慣や癖を忘れまいとして彼女は半ば意地になったように毎朝の洗顔を続けている。
アセルスはふと学生時代を思い出す。あの頃は日々どうでもいいことで悩んでばかりいたような気がする。こうして顔を洗って、顔の脂のせいで自らの手がてかてかと鈍く輝きながら水を弾くさまを目の当たりにして「うわあ……」と自己嫌悪に陥ったりもした。しかし今ではいかなる時も肌はしっとりとした滑らかさを維持し、洗顔料を必要とはしていない。ここに住み始めたころは碌に考えもせずに馬鹿馬鹿しい値段の洗顔料を購入して使っていたが、金銭的な理由からいつしか水で顔を撫でるだけになってしまっている。だとしたら本当は無駄な水道料金を控えるためにもこの洗顔をやめてしまった方がいいのだろうと思う──だが、どうしてもそうはしたくなかった。
半妖であるアセルスが、あるいは妖魔である白薔薇や紅が生活していくにあたって、たとえば食費や光熱費に限れば他の人間よりもずっと楽な状態にある。妖魔は食べ物をそれほど必要とはしない。たまの調理には紅の炎を利用している。暑さや寒さにも強く、普通の家庭であればどうしても入り用になる生活必需品──たとえば紙などもずっと少なくて済む。このフラットの個室にはトイレがついておらず、用を足すためには一階に下りて共用のトイレを使用しなければならないがアセルスは一度も使ったことがない。トイレの水に関しては共用費に含まれているので好きなだけ使うことができるがトイレットペーパーは自前で用意するようにと大家から注意されている。紙を節約しながら尻を拭くともなればきっと自分は惨めな気持ちになったことだろう。妖魔には排泄の心配がないというだけでも自分は幸運だったのかもしれない。
毛先が盛大に乱れた歯ブラシを口に突っ込んでわしゃわしゃと動かしながらアセルスはちらと横に立つ白薔薇の手元を眺める。綺麗に切り揃えられたサンドイッチが皿に並べられ、薬缶からは湯気が立ち上っている。サンドイッチの具はハムだけだ。きちんと耳の除かれた白一色のサンドイッチを見てアセルスは誰にも気づかれないように唸る。視線を更にのばすとパンの耳はゴミ箱の中に捨てられていた。勿体ない──そう思いながらアセルスは楽しそうな白薔薇の顔をちらと見て言葉を呑みこむ。いつか白薔薇や紅にも節約や倹約の必要性についてきちんと理解してもらわなければならないが、しかしかといって「パンの耳を捨てるな」と言うのはなんとなくケチくさいことを言うようで気が引ける。だいいち、彼女たちはお姫様なのだ。仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。正直にいえばこんなに貧しい暮らしに付き合わせていることさえ心苦しいくらいなのだ。自分にもっと生活能力があれば──忸怩たる思いに歯がみしてアセルスは口の中の水を吐き捨てた。
朝食を摂るとアセルスは外出着に着替え家を出る。玄関まで白薔薇と紅が見送りに来てくれる。じゃあねと手を振って時間を確認するともう六時だ。やや駆け足になりながら職場のイタメシ屋へ向かうと、先輩のアニーが店先に腰かけたまま眠たげに煙草を咥えていた。金髪のショートは大分痛んでいるが、野生の獣のように鋭い目つきをした彼女はそれなりの美人でもある。服装はいつも適当で今日も下着の上に革ジャンをひっかけるだけという破廉恥な格好でいるが、本人は人の目を全く気にしていない。一度「少し露出が多くないですか」と失礼を承知で尋ねてみたところ、アニーは真顔で答えたものだった。ウェイトレスなんて乳見せてなんぼじゃん? やっぱ乳があるとないとでじゃチップの額が違うからさ。あんたも生活苦しいんだから、ふんぎりがつくようだったら見せ下着ぐらい貸したげるよ。その時は遠慮したがいよいよともなればアセルスも脱がなくてはならないかもしれない。
「よう」
片手をあげて挨拶するアニーに「おはようございます」と頭を下げ、アセルスはきょろきょろと辺りを見回した。
「ルーファスさんはまだいらっしゃってないんですか?」
「あー。まあ、いつもこの時間には来てるもんね。でも始業時間にゃまだだいぶあるし、問題はないんじゃん?」
「珍しいですね」
「昨日は色々あってさ」
「どういうことですか?」
それはとアニーが口を開いたときカツカツと硬い音を立ててサングラスの男がやってきた。長髪を靡かせ颯爽とやってきたのは店主であるルーファスだ。
「んで」アニーが面倒くさそうに煙を吐き出した。「エミリアとは話し合いがついたの?」
「いや。つかん」
言葉少なにルーファスは答え、アニーの隣に座り込んだままのアセルスに「遅れてすまなかった」と声をかける。
「はぁ…。ホント、何やってんのかね」
アニーは馬鹿馬鹿しそうに伸びをして煙草を街灯に擦りつけて消す。
「アニー。店先を汚すな」
「へいへい」
投げやりな返事をして首をごきごきと鳴らしながらアニーが立ち上がると、ルーファスは不満気に短く唸った。
「大体ネコ耳に何の意味がある。機能的には全く必要が無かろう」
「あたしは別にどーだっていいさ。ただ元スーパーモデルさんがピンクタイガーには耳が要るって言ってるんだ。そうでなきゃやる気が出ないってね。……あとはアンタが決めることだろ? ボスはあんただ」
「だから俺は要らないと言っている。縫うのは俺だ。エミリアじゃない。だがライザが“ネコ耳は必要よ”と突然言い出してな……。耳がついていなかったらタイガーとは言えない、それはただのピンクだと」
「プロレス好きだからねぇ……なんか、こだわりがあんのかもね」
「俺は納得いかん。タイガーならトラ耳だろう。ネコ耳とは言わん」
「……ああ、またそーいう馬鹿をあんたも言いだしたもんだから揉めちゃったんだ」
「要約すればそうなるな。だが実際のところは言語表現に関する自由と尊厳についての重要な議論だったように思う。避けては通れない戦いだった」
「いいかいアセルス。こういう男にひっかかるんじゃあないよ。こういう男はね、遠くから指さして「馬鹿だ!馬鹿がいる!」ってな具合に笑っておくぐらいで丁度いいのさ。なまじ関わっちまうとあたしみたいに面倒なことになるからね」
「は、はあ……」
たわいのない会話を続けながら淀みない動作で店を開け、照明をつけ、タイムカードを押す。ルーファスはピザ生地の仕込みを始め、アセルスは食材を切り分けていく。アニーは大きな欠伸をしながら目尻に涙を浮かべ、気だるそうに店内の清掃を始める。
はじめは慣れない仕事に戸惑うことも多かったが今ではすっかり慣れた。ニンジンやタマネギを斬るのはお手の物だ。ひたすらに下拵えを続け、九時になれば店を開ける。客は様々だが、ここクーロンにおける客層は最低といってもいい。尻を触る客、ウェイトレスを口説きだす客はざらでそれも金を払いさえすれば上客の部類に入る。店の中で薬の取引を始めるチンピラに突然ガトリングガンをぶっ放す気狂い。ちょっとでも油断すれば路地から潜り込んだ浮浪児たちが客の財布をスろうとする。気丈なアニーが股ぐらに隠し持った小型拳銃による丁重なそのおもてなしを続けていなければ店は一日にして廃墟と化しているだろう。
その日もいつものごとく嵐のように忙しい一日だった。
まず初めに発生したのは単なる取っ組み合いの喧嘩だった。一週間前から予約していた桃・赤・黒色戦闘員たちは角席ではじめは静かに飲んでいたのだが(電話予約の際にはやっと休みがとれたんですよと嬉しそうに話していた)、「トワイライトゾーンのあのぐにゃぐにゃした風景のせいで眩暈が続いて不眠ぎみなのだが、これは労災が降りるのかどうか」という議論が始まった途端に雰囲気が一変した。「就職したばかりの新人が何を言うか、黙って働け」「でも、権利は権利でしょう」生意気にも逆らった後輩に先輩がブチ切れる騒ぎになったがこれは例によってアニーが外に放り投げた。次に常連客の“ミス”ビスティがやってきた。彼女は見た目まるっきり猪のモンスターだが、なぜか知能を持ち人語を操ることができる。普段は辻に立ち、自分がいかに洗練されたレディであるかを喧伝することにやっきになっている彼女だがたまにこのイタメシ屋を訪れることがある。レディを自称する通り通常ではその振る舞いも礼儀正しくお淑やかなビスティだが今日は虫の居所でも悪かったのか、海鮮サラダに使われているセロリは何処産なのか生産者の名前は何と言うのか農薬はいつどのタイミングで散布されたものなのかをしつこく問い詰めてくる。アニーが「知らねーよ」の一言で済ませるとビスティは怒り狂って暴れ出し、呷りを食らって隣に座っていた術士の料理が無残に散らばる。「もう我慢ならん」とその青い髪の術士は口の中で呪文を唱えたかと思うと掌から生み出した魔術の鎖でビスティを縛りあげる。「店内での揉め事はよしてください」とやんわりと止めに入ったアセルスが術士の肩を掴むが、術士は「気安く触るな」と乱暴に振り払いそれを見ていた細目の男が「おいおいニーサン、暴力は良くないぜ~。俺の演奏でも聴きなよ、きっとハッピーになれるさ~」と誰に頼まれてもいないのにリュートを弾き始める。この時点で店は平常な営業が出来ていなかった。そこから更に遺産相続についての話し合いをしていた霊媒師の少女が埒が明かない会話に業を煮やして「もういい百年前のご先祖様に聞きましょ」と交霊術を始めたかと思えば昼間から酒を飲んでくだを巻いていた腹巻姿のオヤジが突然リバースして店内が騒然となる。
一日の営業が終わるころにはもうくたくたになっていた。体力的には十分問題ないが、精神的には疲れ切っている。お疲れさまでしたと言ってエプロンを外しタイムカードを押して休憩室で一息ついていると、今日の残り物を持っていくようにと言ってくれた。
「いつもすみません」
頭を下げるとアニーが「気にするこたないよ。どうせ売れ残りなんだしさ」と作り置きのシナモンパイを頬張りながら口にする。
「ほら、サラミとレタスも持って行きな。……見りゃわかるよ、家計が苦しいんだろ? あんた、昼のまかないの時とかすげー真剣な顔して食べてるよ」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げ、申し訳なそうに身を屈めてアセルスは店を出ていく。
空を見上げると辺りはすっかり暗くなっていた。吐き出した息が白く濁る。……ああ、もう秋も深くなってきたんだな。感慨深げに夜空を見つめ、アニーに貰ったレタスの芯を齧るとぐしゃりとした感触が歯の間で弾けた。
「……味が、よくわかんないや」
寂しげに呟いてアセルスは足を速める。
家計が苦しいというのは本当のことだが食事については別段困ってはいなかった。味覚が無くなったわけではなかったが食欲は減退し腹も空かない。常に腹が満たされたのと同じ状態で口にするものは、みな余計なもののように思えた。
レタスの味というものがアセルスの中で具体的にこれという明確な感覚として記憶されているわけではない。だがレタスの芯を齧れば野菜の青臭さや苦さが口腔に広がるものではなかっただろうか……。いまは何度口にしても味気なく感じる。
もう一度空を見上げる。スモッグで汚れた空は靄を吸って淀んでいる。雑多な街の、罅割れた建物や剥がれかけた看板を目にするにつけ心の中までもが錆びれていくような気がする。
遠くの方で、毛皮売りの男が呼び込みに鳴らす鈴の音が聞こえた。安全のために背後を確認すると闇にとっぷりと呑みこまれたクーロンの街並みが虚無を湛えている。
ふと、時の流れを感じた。
シュライクからクーロンに来てからもう半年になる。季節は春から夏へ夏から秋へと移り変わり、冬を待ち受ける吐息が仄かに色づいていく。フラットでのつましい生活やイタメシ屋での労働にも随分と慣れ、「はやく独り立ちしたい」と逸ってばかりいたころと比べると随分変わったものだと思う。いま、自分は自分で生計を立てている。自分は自分で完結した生き方をおくれている。自分は成長したのだ。
そう思う一方で、どうしようもなく変わってしまったことを痛感して悲しむ自分もいる。着の身着のままで風邪ひとつひかない丈夫なからだ。どれだけ厳しい労働を繰り返しても疲労を知らない体力。朝、サンドイッチを一つ摘まんだだけで他には何も必要としないお腹。
「……家に帰ろう」
自分に言い聞かせるようにして足早に家路を急いだ。フラットに変えれば白薔薇と紅が待っていてくれるはずだった。自分は一人ではない。その考えはアセルスを癒し、そして同時に現実から目を背けさせていた。
──ねぇアセルス。あんたんとこの、……あー、なんだっけ、白薔薇と紅? あんたが言いにくいんだったらあたしが代わりに言ってあげようか。働けってさ。
──いえ。いいんです。私がそうしたいんです。
──苦労性だね、あんた。そりゃクズ男にしゃぶられる女が言う台詞だよ。
◇
クーロンの裏通りに妖魔の医者がいる──その話を聞いたのは勤務中のことだった。店にやってきたラモックスとアニーとの会話の中に妖魔という単語を聞きつけたアセルスが耳をそばだてていると、会話は病魔モールに冒された富豪の娘と、娘を治すためにラモックスに雇われたとある医者の話に移る。どうも富豪の娘はアニーの知り合いらしく、上機嫌の彼女は「今日はおごりだよ」とラモックスの頭を撫で、ラモックスはラモックスで「えー? やったー!」とはしゃいでいる。
「そのお医者さんの住所を教えてくれませんか?」
突然話しかけてきたウェイトレスにラモックスはきょとんとしていたがすぐに「うん! いいよ!」とにっこり微笑んだ。あまりにも無邪気な笑顔だったので思わずアセルスはラモックスの頭を撫でる。
医者のことを白薔薇たちには伝えなかった。人間に戻りたいのだと伝えることは妖魔である彼女たちを否定するようで後ろめたかったし、危険だからと止められる可能性もある。食料品を買い忘れたといって夜更けに家を出た。妖魔の医者──ヌサカーンは裏通りの奥まったバラック小屋に居を構えていた。
足を一歩踏み入れてアセルスは「うっ」と鼻を押さえる。ツンと臭い立つ刺激臭に、おびただしい埃の積もった室内。仮にも人の命を扱う場所である筈にも関わらずおよそ清潔とは言い難い。木張りの床はあちこちが割れ、足を乗せるたびにぎいぎいと音を立てる。アンティークといえば聞こえはいいが、屋内の調度品は何もかもが古めかしく年代を経ている。窓の桟を試しに指でさらってみると埃が丸まって親指の先ほどにもなり背筋がぞっとした。
「あの、誰かいませんか」
とりあえず呼びかけてみるが返事はない。待合室らしき場所には苔色のソファーが並んでいるが、破れて飛び出した綿の中で小さな虫が蠢いており腰を下ろす気にはなれなかった。部屋の隅に置かれた骨格標本には「↓ココ」というメモが取り付けられてはいるが何の意味だろうか。どうしようかとしばらく迷っていると不意に骨格標本の首がぐるりと回転しこちらを見下ろしたものだからアセルスは驚く。驚いたがあまりにも驚きすぎて思考が完全に停止し、表面上は平静なままだ。そのままそろそろと後ずさりし逃げ出すようにして隣の部屋に飛び込むと、そこには白衣の男が訝しげな顔をしてこちらを眺めていた。
「呼び鈴は鳴らしたかね?」
「え?」
「呼び鈴だ。まず受付で問診票に記入を。記入が終わればこちらから診察券を手渡す。時間がくれば診察券に記載されている番号を呼ぶ。呼ばれたら診察室の扉についている呼び鈴を押す。どうぞ、と私は答える。君は不安げな表情を押し殺しながら診察台に座りこう言う。“あのう、最近なんだか心臓が苦しくて……”。ほう、と私は答える。それは大変だ。早速手術を始めねば。病院というものはそうあるべきだ。そうあるべきであるということは、君もまたそのように振る舞うべきだということだ。初診に際していささか手順にまごつくのは仕方のないことだが、わからなければ誰かに聞くべきだろう。呼び鈴は鳴らしたかね?」
「いえ、鳴らしていません……」
「なぜ鳴らさなかった? 反社会的な態度をとることで自分は正当な治療費を払うつもりがないことを示そうとしたのかね?」
アセルスは少し考える。
「呼び鈴を鳴らさなかったことについては謝ります。……でも、受付……には、誰もいなかったし、他に質問できそうな人はいなかったので。……、ここ、看護師の人はいらっしゃるんですか? 姿が見えませんでしたけど……」
「ふむ」男はさもありなん、という顔で頷く。「確かにこの病院に看護師ないし受付を行う者はいない。慢性的な人材不足でね」
「……じゃあ、あなたの言ったようになんてできるわけないじゃないですか!」
「不可能ではない筈だ。少なくとも私は院内の秩序はそうあるべきだと信ずる。私が信じているからには、この場所の秩序はそうあるべきなのだ」
「はぁ……。わかりました……」
「……何がわかったのかね」
「あなたが妖魔だということです。あなたがヌサカーンさんですね?」
「いかにも。私がヌサカーンだ」
堂々とヌサカーンは答え、白衣の裾を軽く払う。
「呼び輪を鳴らさなかったことについては今回だけ目を瞑ることにしよう。それで今回はどのような病に罹っているのかね?」
「私、病人じゃありません」
「なるほど。そのパターンか」
「パターン?」
「君は自分が正常だと信じている。が、実際のところはその逆だ。君の気は触れている。君の友人たちはみな君に病院に行くようにと勧める。もちろん君は断る。自分は健康なのだ、どこもおかしいところなどない。しかし何度も何度も友人たちに心配される内に流石に君も煩わしくなり、医者には診てもらったが何ともなかったと報告するためだけに仕方なく手近な病院に赴くことにする。それが今の君と言うわけだ。おそらくは精神病……あるいは依存症……中毒……その類だろう。幼いころ親に激しい折檻を受けた経験は?」
「だから、私は診察をお願いしに来たわけじゃないんですってば」
「ではなぜここに来たのだ?」理解できないという顔でヌサカーンが大げさな仕草で手を振る。
「ここは病院だ。病人でもないのにわざわざここへ来るというのは、それはそれで病気なのではないのかね?」
「ああ、もう……」
うんざりしたようにアセルスは項垂れ、深いため息をついた。
「ええと……。すいません。訂正します。私は病人なんです」
「そうだろう」自信満々でヌサカーンはしきりに頷く。「初めからそう思っていたのだ。……さ、自覚している症状を言いたまえ」
「私は半妖です。このからだの半分は人間の血、半分は妖魔の血が流れています。私を人間に戻してください」
意を決して告げると、ヌサカーンはゆっくりと一歩後ろに下がった。アセルスの全身を舐めまわすように観察し、それからようやく口を開く。
「悪いが君は私の患者でないようだ。他をあたりたまえ」
「……そんな。話を聞いてください」
「いま、聞いた」
「そういうことではなくて! ああもう!」
「……では聞くが、半妖というのは病なのかね? 生物学的に興味深いものであることは認めよう。しかしたとえばそれは混血、ウルガリア人の男とメルンヌ部族の女とが結婚し産んだ子供とどこが違うのだろう。トマトとジャガイモを配合して新たに生み出した食物は救い難い病に冒されているのだろうか。君の言によるのなら、それら全ては治療されねばならないことになる。……そしてまた、元は人間であった君が妖魔の血を享け半妖になったとして、なぜ君は人間に戻りたいと願うのかね? なぜ人間の血を捨てようとは思わないのだ。人間に比べれば妖魔の方が生存能力は遥かに高い。基礎代謝や燃焼効率も比べ物にならん。しかし君は人間に戻せと言う。では聞くが、妖魔とは病気なのかね。治療しなければならないものなのか」
「元の体に戻りたいと思うのは異常なことではないはずです。妖魔になれば人間のように年をとることもお腹を空かすこともない。本能から血に飢え、他者を支配して君臨しようとする。誰だって嫌になりますよ」
「時の速度というものは万物に等しく流れるものだ。変わることからは何物も逃れられない。なるほど君は元の状態に戻りたいと言う……しかし、これからさき変わらないものなどただ一つとしてあるのだろうか。君は変化そのものを恐れているのではないか? 君は自分の中の変わっていく全てを否定しようとしているのではないのか?」
「そんなことはありません。私はただ、昔みたいに物を食べて満足したり、平和に暮らしたいだけです。……そう、平和です。この血を失えば誰かに狙われることもない。人として静かに暮らしていける」
「生憎だがそういった精神的な幸福については興味がない。いまの自分が好きになれないのならセラピーでも受けたまえ」
「……」
むすっと黙り込んでしまったアセルスにヌサカーンは肩を竦め、診察室の奥で何やらごそごそと探し始めた。しばらくしてビーカーといくつかの試薬を抱えて戻ってきたヌサカーンはアセルスの目の前で青と赤の液体を混ぜ合わせて紫色の液体を作りあげる。彼が言いたいことを察してアセルスは真剣な顔で頷き、「それで」と先を促す。
「TDE溶液とメスチモール液。どちらも液体の電解震基度を測るためのものだが反応は赤と青で真逆だ。これらを混ぜ合わせれば色は紫になる。君もわかるね? この紫から元の赤と青を取りだすにはどうしたらいいか」
「元に戻るのは不可能だってこと?」
「それは結論を急ぎ過ぎだな。方法がないかどうかはわからん。が、少なくとも私には無理だ。何しろ半妖の症例記録など存在していないからな。医者として無責任なことを言うことはできないが、もし君の身に起きた異変が妖魔の血によるものだというのなら瀉血と輸血を繰り返すことで血の濃度を薄められるかもしれないし、血の元となる妖魔を滅ぼせばあるいはその影響下から脱することが出来るかもしれない。だがそれはあくまでも推測だ」
「……なるほど」
「失言だったな。忘れてくれたまえ」
「ヌサカーンさん」
「何かね」
「ありがとうございます」
「……ふむ」
「ついでといってはなんですけど、もうひとつ聞いてもいいですか?」
「君も案外あつかましいな……。まあこの際だ、構わんよ」
「生きていて寂しくなることがありますか?」
「……なに?」
「妖魔として長い長い年月を生き続けて、辛くなったり、むなしくなったりすることはありますか?」
「……どうしてそんなことを聞く?」
「私の知っている妖魔が……」言葉を選びながらゆっくりとアセルスは口を開く。「私の知り合いがそんなことを言っていました。永い時を過ごしている内に、手に入れるという言葉の意味がわからなくなった、と。そう話している彼の顔を見ているうちになんとなく思ったんです。この人は──ええと、人ではないんだけど──この人は寂しいんじゃないか。本当は悲しんでいるんじゃないか。妖魔だから口に出して弱音を吐いたり涙を流したりできないだけで、もしかしたら困っているんじゃないかって」
「ほう」とヌサカーンは興味深そうに頷いた。「それで?」
「だから……こんなことを言うと、またそんなものは病気じゃないって話になるのかもしれないけど、彼の気持ちをもっとわかってあげられたらと思うんです」
「フーム」
ヌサカーンは穏やかに唸る。
「君は善人なのかね?」
「え?」
「察するにその彼というのが君に血を与えた妖魔なのだろうが──君をそんな体にした相手の精神を気遣うというのは私から見れば狂気の沙汰だな。君にとって、その妖魔はよほど大切な存在なのか、あるいは君が度を越したお人よしなのか……私としては素直に呑みこめないところだな。一種の自己陶酔だと考えた方がまだ納得がいく」
ぶしつけなヌサカーンの言葉に、アセルスは淋しい微笑みを浮かべた。
「多分、そうなんじゃないですか?」
「うん?」
「そんなものはみんな陶酔だ、ナルシズムだということにしておけば、何だって解決できてしまうんだし、それはそれでいいんじゃないですか。……私は、別に自分が善人だとは思えませんし、あの人のことがそこまで大切だとも思えません。少なくともいまは、まだ。でも、そこから先に進もうと思ったら──自分が善人なのかどうなのかとか、自分はあの人のことをどう思っているのかとか──そういうことを全部ひっくるめて認めていくためには、やっぱり実際の行動を起こしていくしかないじゃないですか。その結果として、いよいよ自分は救い難いナルシストだということがわかれば、その時はその時で盛大に自分を恥じて滝にでも身を投げます」
「滝にか。それはいい」
ヌサカーンはリラックスした様子で手術台にもたれた。
「君の潔さに免じて正直に答えよう。そういった感情は私には皆無だ。……自分で言うのもなんだが、私は妖魔の中でも変わり者で通っている。あまり参考にはならんと思うがね。私に興味があるのは病気だけだ。病気の生み出す恐怖や不安に私はひどく惹かれる。たいした宣伝を行っていないこの委員にもひっきりなしに患者はやってくる。まだ見ぬ病原体。死を前にした生命の多種多様な反応。それらは私の探究心を豊かに満たしてくれる。この世を儚んでいる暇などはないさ。他の妖魔もきっとそう答えるだろう」
「そうですか……」
「だが──」とヌサカーンは楽しそうに語り続ける。「想像することはできる。妖魔の罹る精神病というものの輪郭をなぞろう。妖魔は長命だ。外敵に滅ぼされない限り半永久的に活動することができる。……しかし、妖魔は子孫を残すということができない。仮に何らかの理由により死を迎えた場合には、その者の存在していたという情報、DNAを残すことはできない。いつか忘れ去られてしまう。それでも生きている……。だから妖魔は支配を、そして愛を求める。妖魔は自己完結した生き物だと思われがちだが、逆に妖魔こそ他者を必要とする生き物ではないかと私は時々思う。妖魔の尊ぶ三大要素──美、恐怖、そして矜持。それらは全て他者との関係性の中でしか言及されない。力で他者を支配しようとするのは強い印象を与えることで記憶に残してもらうためだし、愛するなどという行為に至っては説明するまでもないだろう。……大体が、妖魔がなぜ人間を虜とするのかという問題もそこに起因しているのではないか。圧倒的に美しいのはもちろん妖魔だ。だというのになぜだか妖魔はたびたび人間を求めてしまう。人間が弱いからか? 操りやすいからか? おそらくはそれもあるだろう。だが私はこうも思う。自分が生きている間は自分だけを見つめていてほしい。けれども……もし自分がいなくなったその後は、虜としてではなく人として生き、子を産み、自分がここにいたという確かな物語を伝えてほしいのだと。身勝手な話だがね。だが妖魔の本能としてはなかなかありそうな話ではないかな?」
「あなたは優しい妖魔なんですね」
「……なに? なぜ、そう思った?」
「寂しいとか辛いとか、そういった感情はないとあなたは言いました。多分、それは本当なんだろうと思います。……でも、私はあなたの仮説を聞いてなんだか納得したんです。……いいえ、納得したいと感じました。あなたの考えは──なんていうか、その──とても感傷的、だと思うんです。そして、そんな風に考えることのできるあなたは、きっと優しい妖魔だろうと思います」
「……ふむ」ヌサカーンは深くため息をついた。「……なるほど、これは新鮮だ。自分よりも遥かに年弱な生き物に優しいと評される羞恥と屈辱。しかしその裏には名状しがたい驚きが秘められている……。……いま、私は既知であり、未知である……。ふふ……面白い……面白いぞ……フッフッフ……」
「……楽しそうですね……」
嫌そうな顔をしているアセルスには構わず、ヌサカーンは自分の世界に没頭していたがやがて壁掛け時計がぼおん、となるとようやく我を取り戻した。
「おっと。こんな時間か」
「長居をしてすいません」
「気にすることはない。なかなか興味深い時間だった。また来たまえ。この次には私好みの病に罹ってくるといい。不治の病でもいい。どうしようもなく難解で悲惨な代物であればなお良い。歓迎しよう」
「遠慮しておきます」
アセルスは即答した。