サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第十七幕 罔象の子宮、プリンセス・スライム──水の従騎士ハウゲータの物語①──

 喪服に身を包んだその女が歩くと道行く人々はみな眉を顰めた。胸元の襟飾りは実座陣(ミッザーガ)でスカートの襞は24。身に纏う黒衣は貴婦人のものではなく高級娼婦(コルティジャーナ)のそれであったし、微笑を湛えた女の表情は早朝の町を彩るにはあまりにも淫蕩であったから。

 黒蘭の手袋に日傘を提げ、優雅に足を進める女は通り過ぎる人間たちの視線など気にも留めない。自信に満ちた足取りで郊外に建てられた国一番の資産家の屋敷へと向かい、堂々と門をくぐる。すぐに守衛がとんできて「どちら様で?」と尋ねると、女は胡弓の魔女禁・江・涓(ジン・ジャン・ジュアン)を名乗り当主に会いたいと告げた。

 

──は……。ま、魔女……でございますか?

──ああ、そうだ。

──失礼ですが、ご婦人……当主様とお会いになる約束はされてらっしゃるので?

──そんな物は無いな。

 

 女がそう答えると守衛は鼻を鳴らして露骨に態度を変えた。

 

──なんだ? どこの世間知らずだ? うちの当主様はお前のような田舎者は相手にはせんのだ。帰れ帰れ。

──まあそう言うな。魔女が来たと当主に伝えてくれればわかる。ジン・ジャン・ジュアンがやって来たと。

──そういうわけにはいかんな。不審者を追い返すのが俺の仕事でね。お前のような勘違いをいちいち入れていたんでは俺もクビになっちまうんでな。

──そうか。では殺されないだけ有難いと思うが良い。

──は?

 

 女は腰に提げた飾り剣をごく自然な仕草で抜き払い、呆気に取られた守衛の頬を柄で痛烈に殴りつけて気絶させる。屋敷に侵入した女は行く手を阻む使用人たちをことごとく薙ぎ払っていく。怯えるメイドが声を震わせて目的を尋ねると、女はなぜそんなことを聞くのかと不思議そうに首を傾げながらこう答えた。

──女が男に会いに来たのだ。決まっているだろう。それは勿論、恋と愛とのためだ。

 それ以外に何がある? そう言って女がメイドに唇を落とすと、メイドは顔を真っ赤にして下着を濡らした。「あ……う……」とうわ言を呟くメイドに道案内をさせ、女はとうとう当主の寝室へと辿り着く

 扉を開けると、天蓋付きのベッドに腰掛けて一人の老人が新聞を読んでいる。皺だらけの険しい顔。銀行家ロブロ・ブロウは騙し騙されの金融界でのしあがった鋼の男である。その厳しく鋭い視線は老いて一線を退いた今もなお何気ないニュースの裏に金儲けの種が転がってはしないかと目まぐるしく動き続けていたが、入口に立った女に気がつくとふっと力を抜いて穏やかになった。言葉一つで何千人もの労働者の命を奪ってきたこの老人の残酷さを間近で見続けてきたメイドは少年のようなその顔に大変驚いたが声には出さない。

「やあ」と女が言う。

「君か」と老人が答える。

 老人は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。

「久しぶりだな。ジン・ジャン・ジュアン。あるいはミツハ、あるいはレーテ。東の国のプリンセス・スライム。ある時はエリーである時はクリス、ある時は盗賊でまたある時は魔術師……」

「よく覚えているな」

「忘れるものか」

「そうか。嬉しいよ……」

 女は表情を和ませ、老人と抱擁を交わす。お互いに強く抱きしめあい、生きているその肉体の感触を確かめあう。

「君がここへ来たということは……そうか。もう、そんな時期だったか。長かった……」

「準備はもう良いのか?」

「勿論さ」老人は両手を広げる。「遺産、人間関係、その他諸々の整理は済ませてある」

「そうか。それなら、早速デートに出かけるとしよう」

「ああ。そうしよう。私はこの日が来るのをずっと待ち望んでいたのだ……」

 

 

 足腰の弱った老人を乗せた車椅子を押して海辺へと向かいながら、女は懐かしそうに昔話をする。六十年も前のこと、この町で女と老人は出会ったのだったが、知り合った時は互いに反目するばかりだった。老人は駆け出しの会計士としてのし上がることばかりを考えていたし、女は女で町を滅ぼすために怪物を育てているところだった。ひょんなことから二人は出会い、ぶつかり会い──そうしていつしか惹かれあうようになった。

「それもこれも……みんな半世紀も前のことだとはな。信じられんよ。時の流れというのは不思議なものだ……」

 しみじみと呟く老人に女は苦笑してみせ、男の肩をそっと撫でた。

「まあそうだろうな……私にとってはあっと言う間のことだったが……お前にとっては……」

「ああ、そうだ」老人は悲しみを堪えるように唇を歪める。「時の流れは残酷だ。……私と君とを町の人々はどう思うだろう? 体を壊した老人と、資産家に買われた娼婦にしか見えないのではないか?」

「体が老いれば言葉も老いるのだな、ロブロ。昔のお前はそんなに弱気な男ではなかった。野心に満ち溢れ、隙あらば私を呑みこもうとする男だった……」

「だが、時は流れた。ジジ……」

 弱々しく伸ばされた老人の手を握り、女は「ああ。すまない……」と背後から老人を抱き寄せ、頬と頬とを擦り合わせた。老人のかさついた肌と女のしっとりとした肌が触れ合い、産毛が擦れて小さな音を立てる。その時、女は老人の体臭につかの間「ン」と顔を顰め、老人は怯えるように身を捩った。

「すまない。すまない……ジジ。私を嫌いにならないでくれ……」

 女は答えず、しばらく黙りこんで考えていた。やがて遠い眼をしてまた車椅子を押し始める。

「加齢からくるものか……まあ、そうなんだろうな。仕方がないさ、ロブロ。人間というのはそんな生き物なのだろう?」

「私は醜いか……ジジ? 私は年をとり、心も体も衰え、もはや君の心に値しない男になってしまったか……?」

「ロブロ。海についたぞ」

 女は短く言った。砂浜にとられる車輪を人外の膂力で強引に推し進めると、浜辺にはムカデが悶えたような奇妙な轍が残った。

「ああ……」

 老人の瞳から滔々と涙が流れ落ちた。喉からは抑えきれない嗚咽が漏れ、わなわなと肩を震わせた。

「泣くな!」鋭く声を上げた女に老人ははっと顔を上げる。燦爛とした太陽を背に、輝かんばかりの美貌をもつこの女は凛々しいその顔を気高く張りつめさせ、老人に優しく手を差し伸べた。

 

 

 ……ああ、そうだ。ロブロ。お前は醜くなった。あの逞しい胸板も骸骨のように痩せ細り、生命力に満ち溢れていたあの眼は今や落ち窪みくすんでいる。腰は曲がった。一人では満足に歩くこともできない。お前の体はなんだか臭いな、ロブロ。それはいわゆる加齢臭というヤツだろう。いつも香水と女の香りを纏っていたあの頃のお前とは似ても似つかない。老いというのはそういうものなのだろう。……だがな、ロブロ。それでも私は言うぞ。

 泣くな。弱音を吐くな。それでもお前は美しい。なぜ美しいのかは私も知らん。説明もできん。だがかつてのお前を愛した私は今もなおこうしてお前を愛している。なぜだろうな? 考える時間はいくらでもある、私がお前を好きな理由くらいいくらでも考えてやるさ。

 感情に慣性は働くのだろうか。一度お前を愛おしいと思ったなら、その思いは時も超えるのか。今のお前とかつてのお前は見た目だけでいえば全然別物なのかもしれない。だが私はその二者が地続きのものだと知っている。ロブロ・ブロウという名前がその二人を等しいものと指し示すことを知っている。……だとしたら、私はただ「ロブロ」というその名前に恋をしていることになるのだろうか。人間という生き物の外見を、姿形だけを愛しているのでなければ、私が愛する「お前」とは一体何なのだろう。お前は私が愛した時の姿をしていない。だがそれでもなお私はまだお前を愛している。なぜだ? 同一人物だと知っているからか? 思い出がこの胸をよぎるからか? だとしたらそれは愛ではなく懐旧というものではないのか? 「目の前の人間は自分が愛した人間だ」という知識が私の愛情を呼び起こすのか?

 ああ、わからんな。何もかもがわからん。考えても答えは出ない。見当さえもつかない。……だが、それでも……。

 胸を張れ、ロブロ! 私はお前が好きだ。お前は醜い老人になってしまったようだが半世紀の時を超えてさえなおもお前が愛おしい。

 

 

 堂々とした女の言葉に老人ははっと瞳に生気を取り戻し、つかの間、青年のように顔を引き締めた。強張る手を懸命に握りしめ、わなわなと全身を震わせながら車いすの手摺を堅く握りしめ、そして自分の足で立ち上がる。もう歩くことはできないと医者に言われたその足に最後の灯を燃やし、魂全てを振りしぼって老人は自らの足で立って見せる。

 老人は力強い声で海へと語った。

 

 時は流れた。あまりにも多くのものが時の潮流に呑み込まれ消えていった。君が愛した体は今はもう、ない。君が愛してくれた私の心も、きっと私は忘れてしまったのだろう。だから……。後に残るのは、そう……“言葉”だけだな……。

 体はない。心もない。それならば私は全身全霊をかけて君に言葉を捧げよう。

 君に贈る物語だ、ジン・ジャン・ジュアン。これまでの君とこれからの君に、精いっぱいの物語を贈ろう。

 君は生まれた。誰も知らない月の夜。音さえも消えた深海の暗がりで。胎児のように体を丸め、自分そのものをぎうぎうと縛り付けるように両手で抱いて、離れがたく、分かち難い何かを無意識に繋ぎとめようとしていた。けれども心が芽生えるにつれ君はその手をいつしか緩め、いつも傍らにいた“それ”を手放してしまう。君の手から逃れ、抗いようのない浮力に呼ばれた“それ”はするすると浮かび上がっていく。幼い君はうとうととまどろみながらそれを見ていた。手を伸ばさなければいけないと知っていて、しかし体は動かなかった。“それ”は光の差さぬ暗黒の海底から光溢れる水面へと抜けていく。さよなら、と君は言おうとしたのかもしれない。だが言葉は出なかった。掛け替えのないものを失おうとしていることを心のどこかで認めながら、生まれたばかりの君にはどうすることもできなかったのだ。

 海の底の孤独に耐え、やがて君は成長する。水なる妖魔、世界になみなみと湛えられた海そのものを褥とする水妖として君ははっきりと目覚める。だが君には名前がない。君に親はいなかったし、名前をつけてくれるような知り合いもいない。君は独りだ。深海魚を愛玩して生きるにも限界はある。君はいつか胸の中の衝動に駆られて何かを叫ぼうとする。けれどもその美しい唇から零れたものはいくばくかの泡だけで、応えるものは依然として存在しない。海の中で涙を流すことはできない。だから君は失ったものを取り戻すため、とうとう地上へと上がることを決意する。

 君は大地を踏みしめる。だが幼い君には右も左もわからない。途方に暮れて彷徨いながら、君はきっとこう思った。ああ──なんてさみしいのだろう。君は独りで、自分が誰なのかもわからない。だから君はこう考えるのだ。恋をしようと。

 淫乱多情の粘体姫。無貌夢幻の永遠嬢。君は君以外の何かになれる。君以外を、君に出来る。それは君が体の裡に秘めた一つの魔法だ。陸に上がったスライムの姫は姿形を自在に変えて数多の男と恋をする。

 ある時君は恋をした。美しい貴族の男だった。素性を隠し、愛を囁き、暗い森の中男を誘った。二人は愛し合ったが何年か経つと男は病で死んだ。君はまた恋をした。盗賊だった。君は男に付き合って盗みや殺しを行い、奪った財宝で優雅な暮らしを送った。男はある晩、番兵の矢を足に受けた傷が元で死んだ。君はある時魔術師だった。惚れ薬を買いに来た男が丁度好みで、その薬を男に飲ませた。男は奴隷のように跪き、女王のように君を崇めた。君は満足だった。次に君は旅芸人になった。ナイフ投げの相棒と気ままに世界を放浪したが、ある時男が投げたナイフが胸に刺さった。死なずの君を男は怪物だと罵り、気を狂わせてしまう。仕方がないので狂った男の面倒を見続けていると、やがて彼は老衰で死んだ。

 君はいつしか体を分裂させ、たくさんの“君”としてこの世を生きるようになった。君同士で戦うこともあったし、君同士で恋をしたこともあった。何体かの君は滅ぼされ、二度と蘇ることはなかった。

 まるで恋をしなかった君もいた。貧しい村に子供として生まれ、物心つく前に残酷な皇帝によって鉄板に載せられて焼き殺される。醜い驢馬に変化した君は砂漠の隊商に仕えたが、ぎらぎらと輝く太陽の下で酷使され、使い潰されて死んだ。ある時君は乞食だった。右や左の旦那様、と片眼を潰した君は哀れな声で慈悲を乞うたが、誰からも愛されることなく飢えて死んだ。

 あるとき君は恋をした。相手は最新型のメカ種族だった。熱烈に愛を問うて自分の元に留まるよう懇願したが、プログラムには逆らえないとメカは最終戦争へと出かけていった。ある時君は恋をした。相手は君と同じ美しい妖魔だった。ある時君は恋をした。相手は言葉さえ通じないモンスターだった。

 悲しい恋ばかりではなかった。最後まで寄り添い、愛し合った男もいた。

 君はその日、恋をする。その日の恋の熱情をいつかは褪せる過去として飲み込むものと知っていて、それでもなお恋をする。

 愛しているよと男は言う。私もだよと君は答える。愛している。幾重にも重ねる愛の口説。大好きよ。愛しくてたまらないの。あなたが必要なの。食べてしまいたいくらい。

 君は男を抱きしめる。変わらぬ愛を傾け、男の全存在を受け入れ、やがてその腕の中には男の骨だけが残る。生きているものはいつか死ぬ。死なないのは君だけだ。生きていないから死なないのかもしれない。本当は君という“形”がただそこに在るだけで、実際には何らの生命活動も行われてはいないのかもしれない。この世のすべては物語で、君はその中で蠢く配役に過ぎないのかもしれない。

 長い長い寿命を誇る美しい生き物、妖魔。彼らのような種族に恋をした何体かの“君”は変わらぬ恋を楽しんでいる。妖魔の男はそう簡単には死なない。もちろん誰かに滅ぼされたりはするし、長い時に心をすり減らし、邪妖と化して消滅してしまうこともある。男の倦怠や絶望を理解できなかったことを悲しみながら君はまた新しい恋を探し始める……。

 恋をしよう、と君は思った。なぜそんなことを思いついたのかはもう思い出せなかった。多分さみしかったからだろうと君は思う。けれどもそれでなぜ恋を選んだのか、決定的な答えは掴めない。自分が生まれたその時になにか大切なものを握りしめていた筈なのだが、“それ”が何だったのかわからなくなった。恋をして体を重ねた。そうしている内に君は自分が元々どんな姿をしていたのか思い出せなくなった。“私は私以外の何かになれる。私以外を私にできる”。それが君の孕んだ謎掛け言葉。君はやがてこの呪文の秘密に気付く。“私は私以外の何かになれる。私以外を私にできる”。けれども──ああそうだ、この魔法には自我同一性が欠けている。私は私自身を私には出来ない……。

 

 老人はまっすぐな瞳で女を見つめた。

 

 私は君を愛している。ジン・ジャン・ジュアン。あるいはミツハ、あるいはレーテ。海底で泡を纏うスライムの姫君。ある時は少女である時は老婆。ある時は剣士でまたある時は奴隷……。君はきっと、私がいなくなっても大丈夫だろう。君は強い。私が死ねば、君はまた次の恋を求めて歩き出す。いまさらそれを責めやしない。でも……。

 

 君はやっぱり、また独りになるんだな……。

 

 もう何度繰り返したのだろう。何度男を失い、何度俯いて歯を食いしばるのだろう。私にはわからない。私にはわからないそんな苦しみを抱いて今夜また恋をする君のことを、私はふと心配したくなる。

 大丈夫だ。君は強い。……そう信じていながら、私がいなくても何とかなることを悲しいと思いながら……、それでも、これからの君のことを強く想う。

 また独りになる君にこんな言葉しか捧げられないことを悔しく思うが……それでも、それでも……。

 ジン・ジャン・ジュアン。

 元気で。

 君の健やかなる運命を願う。

 海の底から、死者の世界から、君のために私は祈ろう。そして……、

 

 さよなら、ジン・ジャン・ジュアン。

 

 

 

 

 泣くな、とさきほど老人に告げたばかりの女は唇を噛みしめて俯き肩を震わせる。ぱっと顔を上げ、はははとさわやかに笑い声を上げながら、しかし両目からしずしずと涙を流し、そっと老人の頬に唇を落とした。

「さあ」と女は言う。

「ああ」と老人は答える。

 幼い子供のように仲良く手を繋ぎ、老人と女はゆっくりと歩き出し、無辺に広がる海原へと歩み寄っていく。波がさっと股の間をすり抜け、足跡を浚った。靴が濡れてぐちゃぐちゃと嫌な音を立てて軋む。腰まで水に浸かると流石に歩き辛そうにして老人が喘いだ。女は優しく老人を支え、「さあ、もう少しだ」と声をかける。老人はこくりと頷く。頷いた瞬間に波が顔を叩き、老人は激しくむせる。女が心配そうに屈みこむ。老人は気にするなとでも言うように首を振り、水面に顔を沈める。

 蒼く透き通る海の世界に五体全てを投げだして男と女は少しずつ少しずつ没していく。海中から天を仰いで光の波うつさまを眺めながら、互いに抱きしめあって唇を重ねる。

 海の中は無音ではなかった。海面で砕ける白波や動物たちの呼吸音に鳴き声はどこまでも忙しなく、地殻はごうごうとやかましく蠢いて海水を穏やかに震わせる。残り少ない酸素を肺の中からごぽりと吐きだして老人の口からいくつかの泡が零れた。あらん限りの命を秘めた透明球体が空へと昇ってくのを優しく見守って女はそっと老人の腕を抱き寄せ、深く静かに嘆息する。

 海の中から空を見上げる。水の紗幕を帯びて蒼く霞んだ空がゆらゆらと揺れている。太陽は青い。陸上で眺める時とは違いただひっそりと優しい光を放つ太陽は水宝玉(アクアマリン)となって海を照らす。

 ああ、と感慨深げに女は頷く。世界は常に美しい。こんな光景をお前と一緒に見たかった。そう思い腕の中の男を見やると、人間ロブロ・ブロウは既に死んでいる。女は瞑目する。

 

 なあ、ロブロ。

 私はお前が思っているほど強くはないし、おそらくはそれ程できた女でもない。

 私はわがままな女なんだよ。──ああ、そうなんだ。なぜといって私は……こうしてお前を独り占めしようとしているのだから。

 お前は私のものだ。お前の体も、魂も、肉片の一かけさえ離しはしない。たとえどれだけ望まれようとも、お前の子孫にだって渡すものか。

 お前の死体は永遠に私のものだ。ロブロ。安らかに眠れ……。

 

 女は老人の体を海中に横たえ、そっと浮かべる。小児洗礼を行う司祭のように厳かで神秘に満ちた仕草で老人を支え、海に溶けていく男を見守り続ける。

 この海に住む全ての生物は彼女の眷属。この海のあらゆる活動は彼女の鼓動。水なる妖魔、水妖たる女の(はらわた)こそがこの大海。

 全ての海は女の子宮でできている。甘く蕩ける女の(はら)で、やがて男の肉体は腐り始める。融け落ちた肉を無数の水棲生物が食んでいく。千々に乱れた男の肉を指先に集めて結び、女は執着のキスを落とす。略奪のため、刻印のため──この男は自分のものなのだと宣言するかのように何度となく唇で触れ、溺死体の腹に恋と愛との詩を残す。

 女の儀式は男が消えてなくなるまで続いた。完全に男が海へと融けてしまうと女は満足気にため息をつき、また陸へと上がって再び歩き出す。

 さよなら、と彼女は言う。失った男の面影を胸に抱き、けして消えることのない胸の傷を疼かせながら、しかしそれでも彼女は笑ってこう言う──。

 

 さあ、次は誰を愛そう。どんな恋をしよう……。

 

 

 

 物語の話をしよう。

 彼女はある時魔女だった。彼女はある時妖魔だった。

 彼女の名前はジン・ジャン・ジュアン。彼女の名前はミツハでレーテ。姿を変えるスライムの姫、海を統べる罔象の女王。

 ある時彼女はメカだった。

 ある時彼女はモンスターだった。

 恋に恋して男を抱いて、重ねた体に時を重ねて、舌先で踊らせる愛の口説に幾重もの忘却を織り込む乙女。

 ある時彼女は楽師だった。

 ある時彼女は商人だった。

 そしてある時、彼女は水の従騎士ハウゲータだった。

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