サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第十八幕 少女のウロボロス

 指を組んで、呪文を唱える。にんにん、ににん。するとフーキの体は少しだけちっちゃくなって、その代わり二つに増える。にんにんににん。

「にんぽう、ぶんしんのじゅつ!」

 得意げにフーキが叫ぶと周りのみんなはオーとかスゲーとか感心してくれて、まだ七歳のフーキは鼻を高くして得意げに「へへー」と笑う。え、マジで? どこをどうやったらそんなことできんの、と忍者仲間にはよく聞かれたけれどそれは淡島にもわからないことだったから「さてねーっ」と首を傾げることしかできない。だってできるものはできるんだから仕方がない。出来ないやつはきっと修業が足りないのだろう。それか気合。

 ワカツの下忍であるところの淡島フーキ七歳は周りの忍者には出来ないことができた。分身の術。フーキが望めば体が増える。印を組めば体は二つ、もひとつ望めば体は三つ。分身するたびに体は少し小さくなるけれど一晩経てば元に戻る。これはどんな上忍にもできないことだった。たとえば手裏剣投げや水面渡り、速駆けに変装などなど、里にいる人間ならば程度の差こそあれ忍術と呼べるだけの力を身につけている。しかし分身は違う。あまりにも速く動くために分身してみえるとかそういうのとも違う。淡島の力とは、いま、この時に、自分を二つにし三つにする力なのだ。

 それは本当にすごい力だったし、異常とさえ言える能力だった。だからもしかしたら淡島はもっと早いうちに気が付くべきだったのかもしれない。自分に分身が出来るのはそれが自分が人間ではないからで、里のみんなはごくごく当たり前に人間であるから分身などはできないのだと。両親のいない拾われっ子であったフーキは人間ではなく、妖魔と呼ばれるような生物なのだと。

 ようやくフーキがそのことに思い至った時にはすでにワカツは滅びていて、里のみんなは死んでいた。みんな馬鹿みたいに良い人だった。「お前だけでも逃げろ」と言われてフーキは訳も分からずに逃げ出したのだが、それはたぶん、フーキがはぐれ者だったからだ。里のみんな、ワカツに住む“人間”はみな、最後まで勇敢に戦って死んだ。トリニティ軍との戦争に参加しなかったのはフーキだけだった。

 

 力なくたなびく煙を見てぽかんとした。崩れ落ちた城壁や折れて刺さったままの刀を見て、目の前の光景が現実のものだとは到底思えない。

「んしょ」

 手近にあった刀を抜いてみようと両手で柄を握り引っ張るが、刀は頑なに大地を貫き続けびくともしない。その内に手の中から柄がすっぽ抜けてフーキは無様に倒れこんでしまう。

「な、なんだよう……」

 口を尖らせてべそをかきながら刀を睨みつける。血に濡れた刀の腹に、醜く顔を歪めた自分が映っている。何かに拒絶されたような気がする。お前だけでも逃げろ、とそんな漫画みたいな台詞を知り合いのオトナが言った。助けてくれたのだと思う。一緒に戦えと言われていれば当然怖気づいたろうし、何しろフーキはまだ七歳なのだ。分身の術だけで戦えと言われても流石に困る。困るけれども、しかしそれでも、お前は仲間なのだと、みんなで一緒に忍者するのだと言って欲しかった。「お前だけでも逃げろ」というのは、もしかしたら「いやお前はなんか違うから」という意味なのかもしれない。一族の誇りに賭けて血の一滴までもを絞り出して戦う! とかそういうやる気の中にフーキは組み込んでもらえなかった。みそっかすのはぐれ者。フーキの全身から力が抜けていって空気のない風船のようにくにゃりとへたりこんでしまう。

「ぶんしんのじゅつ……」

 弱々しく呟いてフーキは体を分裂させる。片方の自分でもう片方を平手打ちする。

「どんな気持ちがする?」

「いたい」

「そだね」

 二つの自分で一人言を言ってぼんやりとする。

「あたしはどうしたかったのかな」

「一緒に戦って死んだ方が良かったのかな」

「そうしていれば、気持ちよく満足していられたのかな」

「わからないな」

「わからない……」

 どうしたらいいのかさっぱりわからず、フーキは途方に暮れた。

 

 困り果ててあちこちをさまよっていると、やがてフーキはおっちゃんに拾われた。でっぷりと太ったハゲ頭の出っ歯、端的に表現すればおっちゃんはそういう姿をしていた。道端に座り込んでいたフーキにおっちゃんは「何しとん」と声をかけ、おなかへったと答えたフーキに串焼きやらザラメ焼きやらを食べさせてくれたのだ。与えられたものに無心ではぐはぐと齧りつくフーキにおっちゃんはのんびりと話しかけた。

「お嬢ちゃん。こんなところにいたらあかんで。ここは危ないところやねん。はよ家にお帰り」

「……家、ない」

「なんや。家出かいな」

「そんなんじゃない」

「今夜はどうするんや。行くところはあるんか?」

「ない。……でも、なんとかする」

「お嬢ちゃんみたいなちっこい子供に何ができるんや」

「できる!」フーキはムキになって答えた。「ぶんしんとかできるもん!」

「分身? 分身て、そら手裏剣シュッシュッって忍者みたいな奴がするあの分身かいな? そらすごいわ。はっはっは!」

 まるで信じていない様子のおっちゃんに腹を立てたフーキはむすっと唇を尖らせ、ソースや砂糖で汚れた指を組み、にんにん、「ぶんしんのじゅつ!」と唱えて体を分裂させた。

 おっちやんの対応は素早かった。その目をぎらりと光らせたおっちゃんは巨体に似合わぬ軽快な動きで周囲の視線からフーキを隠し、「……へ」と嬉しそうに笑う。

「お嬢ちゃん、名前は?」

「フーキ」

「そうか、ほなフーキちゃん。おっちゃんが働くところ紹介したろか。そこで働けばもう食うものに困ることもない。衣食住は保障されるで」

「え……? ほんと?」

 驚いて、思わずフーキは口からドーナツをぽろりと落とした。期待に目を輝かせるフーキに、おっちゃんはにっこりと恵比寿のように笑う。

「ほんまや。おっちゃんは嘘つかへんねん」

 わーい、と無邪気に喜んでフーキを足をばたばたさせる。

 

 

 

 

 広間の奥にステージがあって、裾から緊張しながら出てきたフーキは中央まで進むと一生懸命気をつけをしてマイクに向かって口を開く。

「あわしまふーき、七歳です。とくいなことはひとりでやるひとりごとです」

 するとへんてこな仮面をつけた人たちがげらげらとフーキを笑う。フーキはいつものようににんにんと印を組んで分身の術を披露する。やんややんやと喝采が飛ぶ。

 おっちゃんが紹介してくれた仕事は要するに見世物になることで、フーキは今ラムダ基地という所にいる。基地の偉いヤルートという人が楽しいことや面白いことが好きで、夜な夜なパーティを開いては知り合いたちを招いているのだという。

 分身するとみている人たちがみんなすごいすごいと喜んでくれるのでフーキはとても嬉しい。私はちゃんとはたらいてる。しゃかいじん。

「えへへー」

 その日もいつものように仕事を終えて、たくさんの称賛を浴びた。緩みきった頬を隠そうともせずにスキップスキップらんらんらんとフーキが駆けていくと、険しい顔をしたお姉さんに突然腕を掴まれた。

「……こんなところで、君みたいな子供が何をしているの」

 押し殺した声で尋ねるお姉さんにフーキは顔をしかめて「イーッ」と舌を出した。

「いたい。はなして!」

「あ、ごめんなさい……」

「人のこと、いきなりつかんじゃだめなんだよ」

「それはそうだけど……。あのね、お嬢さん」

「お姉さん、あたしのこと知らないの? あたしフーキって言うの。この基地じゃ有名よ」

「……そう。フーキちゃんって言うの。私の名前はアセルス。あのね、フーキちゃん。こんなところにいちゃいけない。悪いことは言わないから早くおうちに帰りなさい」

「ばかねー。ここがあたしのおうちなの。あたし、ここに住んでんの。ここで働いて人気者なんだよ。アセルスは?」

「私は……捕まってここに連れてこられたんだ。ある程度の自由はあるけど……外には出られない」

「捕まっているの? じゃあお姉さんは悪い人なのね。捕まえられるのは、お姉さんが悪いからでしょ?」

「違う。執政官のヤルートは妖魔狩りをして楽しむ下種な男なんだ。捕まった妖魔はみんな見世物として弄ばれる。……何か、ひどいことはされてない?」

「ぜんぜん。言ったでしょ。あたしユーメージンなの。おっちゃんもお客さんもみんなあたしに優しくしてくれるよ」

「そのおっちゃんというのは誰なの?」

「おっちゃんはあたしをここに連れてきてくれた人。おんじん……かな」

「その人を信じちゃいけない。あなたはその人に騙されてる。この基地は君が思っているような場所じゃあない」

「うそよ! アセルスは悪い人だから人気者のあたしを騙そうとする。おっちゃんはとても良い人よ。おっちゃんがいなければあたしは死んでたかもしれないもの」

「そうだとしても」アセルスはぐ、と唇を噛みしめる。「たとえそのおっちゃんがあなたを助けたのだとしても……今は、そうじゃない……」

「そうじゃなくなんかないもん! ばかばか! アセルスのばか! もう知らない!」

 ふいっと顔を背けて駆けていくフーキを、アセルスは悲しそうな顔で眺めていた。

 

 

 

 

 フーキの見世物芸はといえば、実際のところ稚拙に過ぎた。初期では鉄板とさえ思えたショートコント「ゆうたいりだつ」も半年ほども続けているとやがて飽きがくる。観客の反応も思わしくなくなり、フーキの表情は長い時間をかけて強張っていく。

 大体が、見世物芸人の生業は旅周りが基本であって、一ところに留まって延々と続けるようなものではないのだ。物珍しさがあって初めて見世物が成り立つのであって、時が経ってしまえばそれはもう日常でしかない。

 舞台の上で幼い少女が芸をする。媚びへつらうような笑みを浮かべて、一生懸命に「ぶんしんします!」と宣言し、体を増やして見せたところで──それがなんだ、たいして面白みなどありはしない。初めのうちはフーキの「ひとりでやるふたり漫才」に腹を抱えて笑っていた観客たちも次第次第に白けた雰囲気を漂わせるようになった。困ったフーキが相談すると、おっちゃんはすぐに答えを見つけてくれた。

 そんなの簡単や。もっと面白いことしたらええねん。

 おもしろい、こと……? 

 首を傾げるフーキにおっちゃんは滔々と語りだす。あのな、ここに来る観客はみんな政府の高官やらその妻に愛人やらがほとんどやねん。そういう金持ちたちはみんな娯楽に飢えてるんや。目新しいこと、新鮮なこと──そいつらは自分たちが楽しむためならどんなに高い金でも払う。わかるやろ? 分身は確かにオモロイこっちゃで。……でもショートコントはあかん。そんなもんはテレビでいくらでも見られるさかいな。

 だったらどうすればいいの?

 無垢な瞳で見上げるフーキに、おっちゃんは爽やかな笑みで言った。おっちゃんにええ考えがある。

 

 

 ひとはみな残酷なことが大好きだ。表面ではどれほど善人を装ってはいても心の底では誰かが傷つくことを願っている。なぜなら誰かが傷つくということは自分が傷ついていないということであり、誰かが不幸であるということはその誰かよりも自分が幸福だということだからだ。単純明快な理屈によって悪鬼羅刹の類と化し、仮面をつけた高官たちは今日も集団心理に酔い狂う。

 舞台の上に少女が一人立っている。湧きおこる拍手喝采、万雷の悪意。少女は二人そして三人に分身し、その内の一人を黒子が縛り上げて頭の上に林檎を乗せる。

「ぱぱ」と縛られた少女が言う。

「むすこよ」と弓を持たされた少女が言う。

「みごとりんごを射抜けばじゆうにしてやろう」と少女が言う。

 さあ一人芝居の幕が開く。右を向いても左を向いても立っているのは少女だけ。孤独な舞台で少女は少女に矢をつがえ、ひょうと飛んでいった矢が少女の下腹部に鈍い音を立てて突き刺さる。じわりじわりと滲み出る血が少女の股を伝っていく。

「おお。なんということだ。ゆーあー下手くそ」と少女が言う。

「てへへ」と弓を持つ少女が頭を掻く。

 舞台に爆笑が弾ける。

 舞台の上に一人の少女が立っている。少女は分身することができる。分身体は痛みを感じるけれども痛覚は共有していない。本体は常に一つだけ。本当に少女なのはあくまでも一人だけだ。だからどんなに傷ついたり苦しんだりしてもそれは分身が泣いているだけで、少女が傷ついていることにはならない。だから大丈夫なんやで本物のフーキちゃんはなんともないでとおっちゃんは言った。

 本当にそうだろうか? フーキは段々と分からなくなってきた。確かに分身は勝手に動いているように見えてもけしてフーキ本体の意志に逆らうことはない。けれども舞台に残った血痕はいつまで経っても無くならず、死んでしまった分身の分だけフーキの体はちょっとずつ小さくなっていった。

 大切なのは心なんや! とおっちゃんは熱く語る。あのな、たとえばフーキちゃんの姿を写真で撮ったり映像に残したとする。でもその写真や映像を叩くことと、フーキちゃんを叩くこととは同じやあらへん。分身もそれと同じことなんや。大切なのはたった一人だけ。本物の心を持つフーキちゃんだけや。だから細かいことを気にしとらんと、もっともっとオカシなことをしてお客さん喜ばせたり。

 本当にそうだろうか? 疑いながらも疑いきれずフーキは唯唯諾諾とおっちゃんに従って見世物を続けた。自分の分身を弓で射殺し、分身同士で殺し合いをさせ、分身に分身を解剖させる。

 本当にそうだろうか? 何かがおかしくはないだろうか? 徐々に縮んでいく体に反比例するようにフーキの疑惑は広がっていく。

 本当にそうだろうか? 誰かに答えを教えて欲しかった。あのアセルスとかいう女にもう一度会いたかった。けれども最近ではおっちゃんがいつも周りをうろちょろしていてなかなか思うようには動けない。「今が頑張りどころやからな。おっちゃんも手伝ったるわ」そう言っておっちゃんはなにくれとなく親切にはしてくれたけれどやっぱり何かのどこかがおかしくてある日とうとうフーキはぼろぼろと泣きだしてしまう。

 もう耐えきれなかった。分身の絶叫や断末魔が耳にこびりついて消えない。胸がどうしようもなく一杯になって、堪え切れなくなった感情が溢れだしてしまう。

 もうやりたくない。そう言ってわんわんと泣くフーキにおっちゃんは「ふーん」と言った。その冷たい反応にフーキが唖然としていると、おっちゃんは突然「クソが」と言ってフーキの分身を平手で張り飛ばした。分身は人形みたいに吹っ飛んでいって床に頭を打ち付ける。分身が低く呻いた。頬が真っ赤に腫れあがり鼻や口元からは見苦しい血が流れ落ちてひどく醜い。突然の暴力に怯えるフーキに対しておっちゃんは目をひんむいて聞くに堪えない罵声を浴びせる。顔面に血が上り真っ赤に膨れた血管がおっちゃんの目元でぴくぴくと痙攣する。どす黒い声でおっちやんは分身を小突き回し、窓ガラスが震えるほどの怖ろしい恫喝を続けた。

 そこでようやくフーキはおっちゃんの喋り方が演技であったことに気付いたのだった。お前は大事な商売道具だから殴らないが誰が拾ってやったのかを忘れるな。見世物以外に生きていく方法がお前にあるのか。世渡り一つできないガキは黙って俺に従っていればいいんだ。おっちゃんが言ったのはそういうことらしかった。湧きおこる恐怖に全身を凍りつかせてフーキはガタガタと震えだした。目の前の人間が急に化け物のように思えてくる。

「わかったか」とおっちゃんは言った。

「はい」と沈んだ声でフーキは答えた。

 その日の夜からは食事を与えられることもなくなってしばらくはひもじい日々が続いた。お金を稼ぎこともできないのに一丁前に腹は減るのかと言われると何も言えずフーキは服の裾をぎゅっと握りしめて黙り込んでしまう。仕方がないから一生懸命働いた。辛いことや苦しいこと、自分と同じ姿をした少女を殺すことにやっきになって、なんとか観客の興味を引くことができた。だけどもおっちゃんはなかなかご飯をくれなくて、ぐうぐうと鳴る空きっ腹を抱えたフーキは「お願いですから何か食べさせてください」と懇願する。

 おっちゃんはあっけらかんと言った。食べるものならいくらでもあるだろう。そう言って指差したのはもちろんフーキの分身で、やがて襲い来る飢えに耐えきれなくなる時がやってきた。目の前に立つ少女の分身はほろりと冷たい涙を流して儚い微笑みを浮かべ、「いいよ」と小さく呟いてその目を閉じた。仕方がないことだよね。頭の中で蚯蚓がのたくるような音がした。眉間が不意に熱くなって眼球がやけに渇く。この子は私であって私じゃないんだ。私だけど私じゃない。生きているわけじゃない。喋りはするけど私じゃない。自分と同じ姿をしている少女を殺すのはいつまで経っても慣れない。分身を見ているとどうしても体が動かないのでまず先に袋を被せて顔を隠した。それから鉈を叩きつけて右手を落とそうとしたが中途半端な遠慮が災いしたのか手首の半ばで刃が止まる。おぞましい叫び声が上がった。恐怖に鉈を取り落としてカランという軽い音にふと我に返りそれでも腹は減っていた。こんな声をいつまでも聞いているわけにはいかなかった。鉈を首元にぶちこむとようやく分身は静かになる。もっと早く気づいていればよかった。人間が牛や豚を食うのは牛や豚が人間ではないからだ。分身は分身で人間ではない。きっとそうだ。だから人間に見えるような余計な部分は一番最初に無くしておくべきだ。何度も鉈で切りつけて首を切り離す。肩ではあはあと息をする。手を切り足を切り達磨になった自分を見下ろしてそれでもまだ覚悟が決まらないのなら金槌を取り出して滅多矢鱈に打ち据えればいい。肉を砕け、骨を砕け、元がなんだかわからなくなるまでぐちゃぐちゃにしてしまえば、自分の姿をしているものは自分が何だったのかもわからなくなるまで壊してしまえばわからなくなる。後に残るのはただの肉だ。血に塗れた掌で赤黒い塊を救い取って口に運んだ。胃が痙攣して少女は少女を嘔吐する。それでも食べないわけにはいかなかった。

 命そのものを噛みしめて少女は生きる。奥歯と奥歯の間で鈍い音を立てて擂り潰された肉が甘ったるい脂を吐きだしていく。人を人だと思うのも獣を獣と思うのも全ては視覚によるもので、ひとたび切り分けられて肉となればもう元が何なのかなどわかりはしない、ならば人と獣の違いとはソトミに現る姿形によるもので、人も獣も人形もあるいはメカに妖魔でさえも、四角い形に裁断されて小さな影絵となったなら等しく美味しくなるかもしれない。

 肉を食う。自分自身にかぶりつく。浅ましく腹を鳴らして餓鬼のように唸りながら滴る涙を調味料に己が飢えを存分に満たすのだ。砕いた肩甲骨が舌の上でコクリと弾けて飛んでいく。弱々しい咽び泣き。どうしてこうなってしまったのだろう。嘆きながらそれはそうとして肉は上手い。空腹は最高の調味料だ。ああ生きている。どうしようもなく生きている。生きているから食らうのだ。生きているから美味いのだ。

 ……。

 …………。

 

 

 

 ラムダ基地では今、とある見世物が人気を博している。その見世物の名前は「少女のウロボロス」という。

 

 

 

 

 その日は僕にとってとても大事な一日だった。なにしろ僕の一生が懸かっているかもしれないのだ。

 ラムダ基地での最終面接を控え、僕は朝から緊張していた。筆記試験、第一・二・三次面接と過程を経てようやくチャンスを掴んだこの機会。失敗すれば僕はまた別のツテを見つけなければならない。熱々の濃いコーヒーを飲んで気合を入れ、鏡の前で念入りに身だしなみをチェックする。髭──しっかり剃ってある。鼻毛──もちろん出ていない。目脂はないか? 髪型は整っているか? OK。全てOK。僕は完璧だ。壁に掛けてあったスーツ──去年の誕生日に叔父さんにプレゼントされたもの──に着替え、ネクタイを締めた。アイロンだってばっちりだ。ネクタイの結び方にはあまり自信がないけれど、そこは面接官の視力が弱いことを期待するしかない。

 外に出て家の鍵を閉める。閉めた後でもう一度気になってガスの元栓を確かめる。OK。再び鍵を閉める。それから歩いて三分の停留所へ。バスに乗ってしばらくすると財布の中に札しか入っていないことに気づいて僕は舌打ちする。なんてことだ。そういえば昨日、洗濯する時にポケットから小銭を出して置いたままだった。朝っぱら幸先が悪い──なんとなくげんなりしながら「失礼」と声をかけて先頭まで進み、バスが停まっている間に札を崩す。これで問題はない。バスの料金を払い、駅で電車に乗り、別の電車に乗り換え、また別の電車に乗り換えてそれから星間船に乗る。まったくなんて忌々しい通勤経路だろうか。採用されたら近くに下宿でも探すべきかもしれない。それとも基地の方で住むことになるのだろうか。職業的にはその可能性が高そうな気もする。情報を他に漏らすのはまずいだろうから。

 幸いなことにその日はテロもストライキも起きなかった。全ての交通機関は等しく運行時刻を守った。面接の予定時刻よりも一時間は余裕がある。僕も立派になったものだ──昔はしょっちゅう寝坊して遅刻ばかりしていたのに。僕は僕の成長をしみじみと感じてうっかり感動しそうになった。

 僕はラムダ基地を見上げる。呆れるほど巨大な施設だった。まぁ基地だから当たり前といえば当たり前なのだが、まるまる一個の星が軍事基地だといえばその巨大さがわかるだろうか。見渡す限りの地平線まで基地のフェンスが続いている。

 ラムダ基地はこの世界を統治する組織トリニティの基地だ。空まで聳える鋼鉄の壁、Tウォーカー達がぞろぞろ巡回する厳戒な警備。あまりにも大きなシステムに組み込まれるということに不安もないわけではなかったけれど、やっぱり僕には「こういう大きな所に努めればまず倒産の心配もないだろうし」という将来の安定感の方が重要だった。ようし、やるぞ。気合を入れて僕はゲートへと進んでいく。

 

 

 

 

 ──はいりたまえ。

 ──はい。失礼します。

 ──ではそちらの席へ。

 ──ありがとうございます。

 ──それでは、まず自己紹介をしてもらおうか。

 ──はい。私はノーガヒ・パラマトンと申します。大学では医学を学んでおりました。今回、ラムダ基地人員募集の話を知り、自分の能力を最大限まで活かせるのはここしかないと考え、応募させて頂きました。

 ──医学。

 ──はい。

 ──なるほど。それはやはり、こういった仕事には必要不可欠なものだからね。

 ──はい。両親にも子供のころから医学の知識だけは身につけておけと口を酸っぱくして言われております。

 ──ご両親は医師をされているのかね?

 ──いえ。両親は×××に勤務しております。

 ──ふむ? (面接官は履歴書をペラペラとめくる) ああ、なるほど。君は……。

 ──はい。我が家は代々この仕事についています。

 ──サラブレッドじゃないか。

 ──いえ。(頭を掻き照れて見せる青年)それほどでも……。

 ──ご両親と同じ道を……という訳かな?

 ──それもあります。ですが一番の理由はやはり、自分のスキルと職業の適性を照らし合わせて考えた結果です。

 ──この仕事はとても辛いものだ。ストレスも多く勤務時間も不規則。自分がこの仕事を好きになれると思うかね?

(ここで青年は穏やかに微笑む)

 ──好き? ──いいえ、好きになる必要はないでしょう。この仕事に感情を持ちこむ必要はありません。

 ──なるほど。失言だったかもしれんな。忘れてくれたまえ。

 ──はい。

 ──君にとってこの仕事は何だね? 天職だと思うかな?

 ──天職、と言えばそうかもしれません。でもこの仕事は──つまるところは、ただのシステムです。ルールを守り、規則に沿って行動し、結果を出す。僕がこの仕事に従事するということは僕もまたそのシステムの一部となるということであり、それ以上でもそれ以下でもあるべきではないと思っています。

 ──ふむ。なるほど、なるほど、なるほど……。ふむ、ふむ……。

 ──何か?

 ──ノーガヒ・パラマトン君。

 ──はい。

 ──実に申し訳ないのだが、君に残念なお知らせが一つある。

 ──あー……。そうですか……。

 ──ああ。本当にすまないのだが──実はこの面接にあまり意味はないのだ。もう、ほとんど形式的なものなのでね。念のため、一応、そういう類のものなのだ。本来であれば後日面接結果を伝えるところだが変に不安がらせるのも無駄だからな。いまこの場で伝えることにするよ。──おめでとう、君は採用だ。

 ──本当ですか! うわあ、ありがとうございます! 精一杯頑張ります!

 ──私からもよろしく頼む。君は新戦力として申し分ないようだし、その家柄もあってか経験もきちんと積んでいるようだ。一か月もあれば基地で働く準備はできるね?

 ──はい。もちろんです!

 ──よろしい。──では君には一カ月後から、このラムダ基地で拷問吏として働いてもらうことになる。期待しているよ。

 ──全力を尽くします!

 

 

 

 

 この世界にはたくさんの生き物がいる。さまざまな人間がいて、さまざまな動物がいる。図鑑を広げても一日では読みきれない。きっと一生知らないままでいるようなマイナーな動物もたくさんいるのだろう。

 そしてまた、この世界には妖魔がいる。神さまはなんでまたそんなものを造りだしたのかはさっぱりわからないけれど、とにかく妖魔はいる。人間よりも遥かに寿命が長く、美しく、そして独特の価値観を持っている。

 それまで、僕はこの妖魔という生き物にあまり注意を払ったことはなかった。いるにはいると知ってはいたけれど身の回りにいるのは人間がほとんどだったし、たまに低級妖魔を見かけても人間やモンスターとたいして変わらないように見えたからだ。確かに美しいと思うことも何度かあったけれどそれはTVの中で歌って踊るアイドルやモデルと何も違いはしなかったし、僕の人生にそこまで関わってくるとは思えなかった。ラムダ基地で働くまでは。

 採用が決まってから僕は住んでいる家を引き払い、予め与えられた準備金で身の回りを整えた。基地の地下にある特別な住居で暮らすことになったためにいくつかの家財道具や仕事道具を揃えたが、お金は十分すぎるほど余っている。預金通帳を眺めてほくほくしながら僕は「手に職があるって本当にいいもんだな」と心の底から思った。ちゃんとして教育を与えてくれた両親に感謝すべきかもしれない。

 ラムダ基地でまず二三の簡単な拷問をこなすといよいよ本格的な仕事が待っていた。執政官のヤルートは妖魔狩りに凝っていて、捕らえた妖魔たちを弄んで楽しんでいる。その妖魔たちを締めあげるのが僕の主な役回りだった。

 なぜ妖魔を拷問するのか? それはヤルートが長生種である妖魔の秘密を探ろうとしているからだ。金と権力を手にした奴がやることは大体そういうところに落ち着くらしい。妖魔がいかにして不老不死たらんとしているか、どのような生活を送っているのか。──そしてまた、妖魔たちの住むファシナトゥールの状況や妖魔の君の動向などなど。より強く美しい妖魔を捕らえるためには情報はいくらあっても足りなかったし、もしかしたらヤルートはファシナトゥールに軍を送ることさえ考えているかも知れなかった。……まぁ、どのみち僕にはあまり関係のない話だけどね。僕は妖魔の拷問を続け、それに付随して妖魔の身体データを蓄えていく。いかに傷つければ妖魔は滅びていくのか、また逆にどんな攻撃に耐えることができるのか。再生能力は? 妖魔の細胞はいかにして全能たりうるのか? おそろしく地味な仕事ではあったけれども月々の給料を想えば何てことはない。思い煩うことは何もなかった。断言しよう。僕の人生はことのほか充実していた。充実。そう、僕の人生は充実していた。なぜなら……。

 

 なぜなら、その時僕は恋をしていたからだ。

 

 

 初めて彼女と出会った時、彼女は牢獄に囚われていた。彼女は虜囚の姫、哀れな虜の乙女だった。片手を鎖に繋がれ、鉄格子の窓から外を見つめる美しい女性、そしてそこに現れた真っ直ぐな青年こと僕。なかなかロマンチックな出会い方じゃないだろうか。しいて難を挙げるとすれば僕が彼女を捕らえる側の人間だったということだけれど、そんなものは運命の前では無力だろう。

 僕は一目で恋に落ちた。墜落と言ってもいい。美しい青竹色の髪をしていた。薄暗い牢屋の中で、彼女の瞳だけが力ある宝石として光を放っていた。小さめの唇はきゅっと結んで、挑むような僕を見つめた。君は?と僕は言った。名前を尋ねたつもりだった。彼女は答えなかった。仕方なく僕はノーガヒだと名乗っても、彼女はなおも口を開かない。きっと口を閉じたまま、けして視線を反らすことはなく真っすぐに僕を見つめていた。美しいと思った。とりたてて造作が美しいとか言うのではなかったがそれでも不思議なほどに美しいと思った。形が整っているのでも人離れした顔立ちをしているのでもない。それは言うなれば飢えてなお施しを拒絶する放浪者が持つ気高い美しさであり、群れを亡くした獣の王が崖から見下ろす眼光の孤独な美しさでもあった。彼女を語ろうと思えばいくらでも言葉を重ねることができた。彼女が本当に美しいからそうなのか、僕が彼女に恋をしているからそう思うのかはわからなかった。どちらだろうがどうでもいいことだ。

 彼女の名はアセルス。アセルス・ナイトレス。それが彼女の名前だった。

 彼女は痛みにとても強かった。慣れているのかもしれない。他の低級妖魔たちはちょっと眼球を抉りだしたくらいで泣き叫んだのに彼女は呻き声一つ上げない。拷問を開始してから三カ月ほどが過ぎたけれどその間彼女は一言も喋らなかった。ただ黙って冷たい目つきで僕を睨んでいるだけだった。

 

 ──驚いたな。痛みを感じてないっていうわけでもないみたいだし、君は本当に強いコなんだな。

 ──…………。

 ──やっぱり、だんまりかい。気持ちは分からないでもないけど、でも喋らなけりゃ問題が解決するってわけでもないだろう? 少しは友好的な態度を取るべきじゃない?

 ──…………。

 ──うーん。こりゃ困ったな。何度も言っているけれど、僕は君のことが大好きなんだ。色々喋ってくれたら悪いようにはしないよ。いやほんと。

 ──…………。

 ──じゃあ、こうしようか。君が僕に情報を漏らすんじゃない。僕が、君に情報を漏らすと言うのはどうだろう? 何か僕に聞きたいことはないかい?

 ──…………。

 ──君も色々気になってはいるんだろう? ──たとえば、君と一緒に捕らえられた妖魔のこととかさ。

 ──五月蠅い。黙れ……。

 ──おっ。ようやく返事してくれたね。特別大サービスだ。教えちゃおう。彼女達はまだ生きているよ。ただこことは別の場所にいるけどね。ヤルート長官が妙に気に入って連れて行っちゃったんだ。

(僅かな安心を目に浮かべながら女は歯を噛みしめる)

 ──どうだい。聞いてよかったろう? それでというわけでもないんだけど僕からも一つ質問してもいいかな。だって僕だけ言ったんじゃ不公平じゃないか。物事はフェアじゃないといけない。

 ──…………。

 ──そう警戒しないでおくれよ。別にオルロワージュの弱点を聞こうってわけじゃないんだから。僕はこう聞きたいだけなんだ。君のご趣味は何ですかってね。

 ──お前は……何を言っているんだ……。趣味……?

 ──そう。趣味だよ。別にこれくらい答えてくれたって構わないだろ? 答えてくれたら今度は彼女たちの正確な居場所を教えてあげる。

 

 彼女は随分と警戒していたようだったけれどやがてリスクはないと判断したのか小さな声で「……野球観戦」と答えた。ようやく成立した彼女とのコミュニケーションに僕は躍りあがって喜ぶ。

 

 ──へー! 野球観戦! いいよね! あのー……なに? その、打ったりとか、投げたりとかね! 見てて面白いよね! いやー僕も好きだなー野球観戦。奇遇だなあ! ビールとかお姉さんから買って飲むよね!

 

 僕は少しずつ彼女と話すようになっていった。そこからはなかなか大変だった。彼女は質問に答えることで僕から情報を引き出していく。でも彼女にだって僕の言うことが真実だとは限らないということくらいは分かっていた筈だし(実際僕が教えたことは全てでたらめだった)、逆を言えば彼女もまたわざわざ真実を話す必要はないのだ。本当のことを答えるメリットはまるでない。だから重要なのは答えそのものではなく、答え方や質問の傾向から相手の思考を描き出すことだ。

 それから僕はいよいよ次の段階に進むことにした。彼女に自由を与えたのだ。一日の何時間かは一定の範囲なら歩き回っても構わないと告げると彼女はとても驚いていた。「君が素直に話してくれたお礼だよ」と言うと、ひどく胡散臭い顔をして僕を眺める。あとはただ待っていればよかった。彼女はまもなく淡島フーキと出会った。

 ある時彼女はそれまでとは異なることを聞いた。この基地の中にいる子供は何なのか、と。僕は素直に答えた。フーキは分身能力を持った妖魔で、この基地で見世物にされているのだと。彼女は顔を怒りに歪め、珍しく声を荒げた。

「あんな、子供を……!」

「子供? でも妖魔だろう? あんなちびっ子だって大きくなれば人間の血をちゅーちゅー啜って殺しまくるのかもしれないよ」

「そんなことはない。ちゃんと物事を教えれば……!」

「本当にそうかな」

「何が言いたい」

「別に。ただ君は、他人のことを気にしている場合じゃないと思うけどね。こんなところで正義感を発揮して何になるってのさ」

「正義かどうかだなんて気にしちゃいない……。ただ許せない……お前達が、お前達のやることの全てが……!」

「随分嫌われたもんだな」

「当り前だろう! 自分が何をしたか、忘れたとは言わせない。あれが人間のやることか!」

「ああ、そうだ」僕はこともなげに頷く。「これが人間のやることなんだ。別にそこまで珍しいことじゃない。どこにだってありふれたことさ。……それに一つ言っておくのなら、君はこんなことは人間のやることじゃないと言うけれど、人間のやることじゃないような拷問を受けておいて平然としている君は一体何なんだ?」

「…………」

 彼女が唇を噛みしめて俯いたので僕は慌てて駆け寄った。

「あ、ゴメンゴメン。あのう、別にそういうつもりで言ったわけじゃあないんだ。ほんとゴメン。前々から言っているけれど、僕は君のことが好きなんだ。大好きさ。愛してるんだ。君を無為に悲しませるようなことをしたくはないんだ」

「どの口で……!」

 彼女はかっとなったのか僕の胸倉をつかみ上げた。

「何が、愛だ! 平気で人を拷問しておいてその相手に言う台詞か!」

「あのね、アセルス。拷問というのはただのシステムなんだ。痛みと忍耐と許しと解放の相関値に関するシステム。僕はそのシステムに則って君を痛めつけ、情報を引き出す。それはただの仕事なんだ。僕の感情とは全く関係のないことなんだよ。僕は君のことが好きだ。でも僕の仕事は君を拷問することで、だから僕は拷問する。たったそれだけのことだよ」

「狂ってる……!」

 吐き捨てるアセルスに僕は冷静に続ける。

「感情に流される拷問吏は拷問吏じゃない。それはただのサディストだ」

「自分はサディストではないとでも?」

「僕はただの恋する若者さ。君のことが好きなんだ」

 さらりと答えると、アセルスは僕の体を壁に叩きつけた。僕を憎々しげに睨みつけ、それから辛そうに目を伏せる。

「私は……人間というのはもっと善良な生き物だと思っていた。悪い人もいるとは知っていたけど、でも、ここまでとは思っていなかった……! お前たちは人間じゃない。人の皮を被った悪魔だ!」

「そうかい。でも君は、その悪魔に頼みごとをしなけりゃならないんじゃないのかな?」

「……どういう意味?」

 震える声で尋ねるアセルスに、僕は肩を竦めて答えた。あの子を助けたいだろう?

 

 

 

 

「助ける……? でも、どうやって……?」

「簡単なことだよ。この基地を破壊して逃げ出せばいいんだ」

「馬鹿を言わないで。こんなばかでかい基地の中に閉じ込められて、どこをどう破壊するというの」

「全てさ。君を邪魔するものはみんな皆殺しにしてしまえばいい」

「できるわけないでしょう!」

「いいや、君にはできる」

 確信をもって僕は言う。

「いいかい、アセルス。この世界の誰もが考えている。力が欲しい、もっと力があれば。でも実際のところ、この世界においては力を手に入れるということはそれほど難しいことじゃない。クーロンあたりで全身改造手術をすれば誰だって無敵のサイボーグになれる。物語においては、力を手に入れるということは有り触れたことだ。ちょっと望みさえすれば簡単に手に入る。──本当に難しいのは力を手に入れるということじゃない。幸福になることなんだ」

「……何が言いたいの?」

「君はもう物語の中にいるんだよ、アセルス。力ならもう持っている筈さ。……血を吸えばいいんだ。妖魔はそうして力を得るものだから」

「私は妖魔じゃない」

「そうだね。そして人間でもないはずだ。君の体が示す反応は妖魔とも人間ともつかない。人の力ではできないことなら、あとは妖魔として可哀そうな女の子を救いだせばいい。君にはそれができる」

「……どうして、私にそんなことを教えるの?」

「君のことが好きだからさ」

「……本気でいっているの?」

「もちろん」

 もちろん、それは彼女に二択を迫るためだ。彼女は選択枝があるということを知ってしまった。あとはいつ選ぶのかという問題だけだ。もし仮に淡島フーキを助けないというのであれば見殺しにした罪悪感から彼女をじわじわと責め立てればいい(そんなに血を吸うのが嫌なのかい?)。そしてもし彼女が血を吸うのなら、これほど素晴らしいことはない。愛する彼女がより強くなれるというのなら、未来の恋人としては協力しないわけにはいくまい。あとは彼女の傍らで彼女を祝福し、妖魔と人間の血を持つ存在が吸血するとどうなるのかきちんとデータを取らせてもらうことにしよう。どんな方法を取ったのかはしらないが、アセルスの体には間違いなく妖魔と人間二つの血が流れている。僕はこれをとりあえず妖魔人間と呼んでいる。その妖魔人間は吸血によってどれだけ強化されるのだろうか? 

 もし本当にアセルスがこの基地を破壊し尽くすほどの力を手に入れたなら、どれだけの損害を受けても十分すぎるほどのお釣りが来る。これまでのデータによれば、アセルスという実験体が示す再生能力は取り立てて有用なものではなかった。人為的に妖魔人間を造りだしたとしても、ただ生命力の強い兵士を生み出す技術ならほかにいくらでもあった。ヤルートが望んでいるのは自らが超人となることだ。そのためには生半な強さでは足りない。必要なのは支配者としての強さでなくてはならないのだ。

 過去にもアセルスに妖魔の血を与えたことはあったけれどその際は取り立てて目立った反応は起きなかった。これは試す前から分かっていたことだ。妖魔は吸血によって他者からエネルギーを摂取する。この“吸血”という行為にはいくつかの条件が存在しているようで、正確には判明していないが自発的であることやある程度の興奮状態にあることが影響しているらしい。捕らえた別の妖魔に無理やり血を飲ませてもやはり明確な変化は見られなかった。

 少しだけ迷いを見せてアセルスは、けれど顔を上げてきっぱり「助ける」と言った。それでこそ僕のアセルスだ。

 さあ後は簡単だ。淡島フーキを適度に追い詰めておけばいい。可哀そうな少女をもっと可哀そうにしておいて、我らがアセルスに正義の心を発揮してもらおうじゃないか。

 フーキを助けて逃げ出すにしても白薔薇と紅を置いていくわけにはいかないとアセルスが言いだしたので、「仕方ないなぁ」と渋るフリをしてついでに二体の妖魔も解放することにした。ようやく再開した彼女達は互いの無事を喜びあっていたが、紅はアセルスに抱きつくなり「お会い出来て嬉しいです。アセルス様。これで心おきなく暴れることができます。もうこんな基地など消し炭にしてしまいましょう!」と嬉しそうに言うので流石に僕も慌てた。

「ちょっ……。ちょっと待った!」

「アセルス様。このニンゲンは?」

「私を拷問していた人。どうしようもない、最低の人間だよ」

「殺しましょう!」

「いやいやいやいや。もうちょっと考えてよ!」

「アセルス様。よろしいですね?」

「うん……。もう一人、この基地で助けたい子がいるんだ。この人にはその子のところまで案内してもらわなきゃならない。それに、ここには他にもたくさんの妖魔が捕らえられているんだ。あなたが全力を出すのはちょっとまずいよ」

「そうですか……。お役に立てず、申し訳ございません……」

「いいんだ。気にしないで。紅の顔を見られただけでも私は嬉しいんだ」

「はっ、はい!」

 紅は顔を赤らめてもじもじしている。アセルスに優しい言葉を掛けてもらえて羨ましい。……まぁ、いいか。アセルスの吸血対象もこうして用意できたことだし、あとは一直線にフーキの部屋に向かうとしよう。あの子の姿を見たアセルスがどんな反応を示すのか楽しみだ。

 

 

 ねぇ、アセルス。僕は時々思うんだ。君が美しいのは、そして僕が君を好きになったのは、もしかしたら君が「正義」というものを持っているからなのかもしれない。……でも、正しいとか、悪いとか、そんな価値観に拘泥することに一体何の意味があるだろう?

 たとえば君はいつだって迷っている。「正義」だから、それは仕方のないことかもしれないね。力を手に入れるために血を吸わねばならないと教えられて、君は僅かに逡巡した。血を吸う、それは多分、人間離れしたことで、ヒトとしてはあまり正しいことではない。それにだいいち血を吸うからには吸われる奴がいる訳で、君は多分そいつのことを考えたりもしたんだろう。誰かを救うために誰かの血を吸うことは正しいのか、なんてさ。どうだっていいよ。救済と代償の多寡なんて考えたってわかりっこない。

 僕は君に思い煩うことなく生きてほしいんだ。くよくよ悩んだり、つまらない正義感なんかに囚われたりすることなく、ただただ前だけを向いてやりたいことをやってほしいんだ。

 

 

 

 

 扉を開いた途端、むせかえるような熱気が漂ってきた。薄気味の悪い、性的な匂いだった。

 拷問吏に促されてアセルスはその扉を開ける。するとあまりにも無残な光景が目に飛び込んでくる。それは奇形者達の宴、四肢を欠損した乙女の祭壇だ。ドアノブを握った掌が体液でずるりと滑る。拷問によって右手を鉤裂きにされた女妖魔が狂ったように哄笑を続けている。あらぬ方向を向いた眼球は白濁しガラス体の中にはおぞましい寄生虫が無数に這いずってている。

 アセルスは次の扉を開ける。下半身を蛇と合成された女が忙しなく悶えている。暴れ狂う下半身の蛇に上半身を食われ、しかし離れることも出来ずに血を流している。

 次の扉を開ける。全身の皮を剥がれた小さい妖魔が、神経と筋肉を剥き出しに涎を零している。

 次の扉を開ける。股間を踏み潰された妖魔が泣きながら自らの肉片を拾い集めている。

 次の扉を開ける。次の扉を開ける。助けようと駆け寄り、けれど気の触れた妖魔にはもはや言葉さえも通じない。失ったものをひたすらに嘆き、苦痛の呻き声を上げる彼女たちは「死にたい死にたい」と緩慢に呟く。アセルスの体内で、その血液がすっと冷えていく。

「さあいよいよ次の部屋だ」と男は言った。一瞬ためらい、意を決してアセルスは扉を開く。

 

 

 ねぇおかしいの食べても食べてもお腹が一杯にならないの。どうして? 唇をわなわなと震わせて少女が問うた。骸骨じみて痩せ細り全身の筋肉が萎みきって、栄養失調に黒々と肉を腫れあがらせた少女。かさかさと乾燥した皮膚からは死滅した細胞が薄片状に剥離し、痛んだ髪は藁束のように絡みつき触れるだけで容易く抜け落ちる。斑な禿頭と化して、少女淡島フーキは過度なストレスからか視線を目まぐるしく彷徨わせよたよたと室内を這いずっている。フーキは何かをずるずると引きずっている。かつてはフーキの衣服だったもの──ぼろ屑となり果てた布切れが罅割れた爪に引っ掛かっている。夥しい血に染められ腐臭を放つ下着。括約筋が衰えたために頻繁に失禁を繰り返したその下着からはおぞましい匂いがする。

 お腹が減ってたまらないの。だから食べなきゃいけないの。焦燥に舌を縺れさせながらフーキは爛々と目を輝かせる。両手を広げて散らばった肉片を抱き寄せあんぐりとかぶりつく。まだこんなにお肉がある。私はまだ生きていける。そう言って嬉しそうに涙を流し、ぎりぎりと奥歯を軋ませながら硬い肉を擂り潰していく。みちり、と肉の潰れる音がする。フーキが肉を嚥下する。食堂を滑りちゃぷりと胃酸に浸かった肉がじくじくと毒を撒き散らして溶けていく。ぶる、と胃が痙攣する。こみあげる拒否反応に盛大な呻き声をあげ少女は嘔吐する。喉が焦げる。唇が焼ける。苦い唾液を滴らせ目を潤ませた少女はしかしそれでも小さな両手で肉片を鷲掴みにして口へと運んでいく。

 本当に助けるのかいと男はアセルスに尋ねた。だってこんな有様だ。それにね、信じられるかい? 彼女が食べているのは彼女自身なんだ。いくら他に食べるものがないって言ってもさ。分身した自分を食べろと言ったってふつうは食べないよ。やっぱり妖魔はどこかおかしいんだな。気持ちが悪い。

 アセルスは答えない。

 一歩二歩と足を進める。アセルスに気付いたフーキがふと顔を上げ、大粒の涙をぽろりと落として「助けて」と言い、それでもその両手は止まることなく周囲の肉を掻き集めている。どうしようもなく飢えているのだろう。目の前に肉があると言うのに食べても食べても満たされないから、だから追い詰められているのだろう。

 当たり前の話だ。熱力学第二法則に則って全ての熱量は減少していく。少女が造った少女の分身(からだ)はもとはといえば少女の血肉。外部からエネルギーを取り入れもせずその肉をのみ食らっていれば、いつか少女はきゅうきゅうと小さくなって消滅してしまうだろう。

 アセルスは足を進める。痩せこけたフーキに近寄り、その体を抱きしめる。腐敗臭が鼻をつく。汗と垢で黒ずんだ体が腕の中で滑る。

「あのね」とアセルスは言う。フーキはきょとんとした顔でアセルスを見上げ、それから何も言わずにアセルスの二の腕を噛みついた。ごりごりと音を立てて骨に歯を立て、引き千切る様にして肉を奪っていく。

「ごめんなさい」とフーキは言う。「でも我慢できないの」

「いいんだ」アセルスが答える。

「どうしようもないの。お腹が減って我慢できないの」

 フーキが言う。くちゃくちゃと肉を咀嚼しながら、ぐるぐると腹を鳴らす。

「そうだね……」

 声を押し殺してアセルスは答える。

「お腹が」

 フーキが言う。

「うん……」アセルスは答える。「私も今、とてもお腹が減っているところなんだ」

「許して。ごめんなさい。許して……」

 涙交じりに謝りながらフーキがアセルスを食べていく。アセルスは身じろぎひとつせず体を委ねる。

 フーキは最後に「こんな筈じゃなかったのに」と言って動かなくなった。それきり目を覚ますこともなく、アセルスの目の前で次第に胸の鼓動が小さくなっていく。驚くほど軽い淡島フーキの体を抱いてアセルスは背筋を丸める。

 少女の死を見守ってアセルスは小さく肩を震わせた。しゃぶり尽くされた右腕は無残に穴だらけになっているが許してほしいと少女は言ったのだからきっと自分は許さねばならない。淡島フーキの為すことの全てを許そうとアセルスは思う。許せないことならば他にいくらでもあるのだから。フーキの指はとても脆くなっていて握りしめただけでぽきりと骨が折れる。ああ。静かに呻いてアセルスはぼんやりと顔を上げる。腹の底からこみ上げる不思議な感情になんと名前をつけたらいいのかがわからない。茫然と前を向き、ただ腕の中に少女の重みだけを感じている。命というにはあまりにも軽すぎる感触に枷でも嵌められたように両手が動かない。この感情を何と呼べばいいのだろう? アセルスはぼんやりと首を傾げた。自分に今何が起こっているのかがよくわからなかった。どうすればいいのかも、どんな言葉を口にすればいいのかも。一つだけ分かっていることは、今自分はとても腹が減っているということだ。自分でも驚くほどの食欲が湧いた。不意に恐ろしいまでの飢えに襲われ、眩暈にふらふらと頭をよろつかせる。そうか、とアセルスは呟く。これが本当にお腹が空くということなのかもしれない。

 ──この女を喰わねばならぬ。

 ふと、どこかで誰かがそんなことを言ったような気がした。あまりにも遠く、限りなく近い場所で誰かが喪失に嘆く言葉を聞いた。この女を喰わねばならぬ。その言葉は誰のものだったろう? 耳を打つその言葉に訳も分からずに奥歯を噛みしめ、アセルスはフーキの体をそっと床へと横たえる。この女を喰わねばならぬ。そんな言葉が耳鳴りのように木霊する。その言葉は支配者のものであり、そして同時にこの世の不条理に怒る弱者のものだった。ぼおん、とどこかで鐘の音が聞こえた。ラムダ基地に存在する筈もない時計塔の鐘がどこかで鳴っている。

「…………こ……せ……」

 掠れた声でアセルスは囁く。まるで自分の声ではないように感じる。けれども、ぼおん。時計塔の鐘は鳴りやむことなく打ち鳴らされ、けだものの声が呼び覚ました全能感がこうして舌を突き動かすのだから、それはやはり自分の声なのだろう。その言葉を口にさえすればいい。自分はそうしなくてはならない。そうすることができれば自分は支配者になれる。望む物の全てを手に入れることができる。自分は宝物庫を開ける呪文を知っていて、あとは甘やかな予感に身を任せながら唱えるだけでいい。望むことの全てを望みのままにするために。アセルスは今一度目の前に横たわった淡島フーキの死骸を眺めた。大して知りはしない少女だった。交わした言葉を数えても片手で足りる。他人と言っても何ら差し支えのない存在。この少女の死に罪悪感を覚えるのはつまるところは人間の下らない自己憐憫にすぎない。ろくに知りもしない子供が死んだ、ただそれだけだ。そんなことに怒りを燃やすのは正義漢きどりの拙い自慰行為に他ならない。そんなことはわかっていた。けれども──ああ、なんだ、この腹の底を泳ぐ衝動の名は。ラムダ基地で拷問を見た。哀れな乙女達がいたぶられ弄ばれるのを見た。どこにも届かぬ苦鳴を聞いた。助けを求めても得られないこの途絶した監獄で死こそが楽園なのだと祈りを捧げて滅んでいく種族がいた。妖魔。ひとよりも遥かに強い生命力をもちながらしかしそのひとに敗れ、繊細な体を乱暴なまでにいじくり回されて発狂していく窮境の乙女たち。アセルスはなおも少女を見つめる。視線を反らすことはできない。反らすわけにはいかなかった。目の前で死んでいった少女を見ろ。自分が救えなかった少女の醜い姿を網膜に焼きつけろ。なんて汚らしい姿だ。傍にいるだけで鼻が曲がりそうに臭い。そこらの畜生の方がずっと清潔ではないか。なぜあの時彼女の手を引かなかった。たとえ疑われ憎まれたとしても迷うことなく奪い去っていればよかった。ああそうだ。この世のものはみな失われていく。僅かに目を離したその隙に運命と時間がその牙を打ち立てて殺すのだ。何かを手に入れたいと思うのならば今この時をおいて他にはない。出会うその時その瞬間に時と定めを出し抜いて第一の牙を突き刺さねばならないのだ。手に入れるため支配するためには躊躇など何の役にも立たないのだから。わかっている。本当は淡島フーキを見つけた時にそれ以外の何もかもを皆殺しにするべきだった。それ以外の方法などありはしなかった。自分にはそれができた筈だ。フーキの頬に口づけを落とした。謝罪の言葉を口にする資格などありはしない。だからアセルスは立ち上がる。暴れ出す感情が冷たい全能感を全身に巡らせる。アセルスは振り返る。そこには大切な御姫様が立っている。アセルスは唇を開く。眼を見開き拳を握りしめそしてなお一歩足りぬ飢餓感に口元を吊り上げ、血を吐くようにして叫んだ。

「その血を寄こせ! 白薔薇!」

 白薔薇が驚いた顔で自分を見ている。どうしてそんな顔をしているのだろう。自分がそう命じたのだからすぐに来るべきではないか。「白薔薇」低い声でアセルスは再び呼びかける。その声は知らず知らずに艶を帯び、女を誘うための欲情に濡れた響きを伴っている。白薔薇。三度叫んだアセルスに白薔薇が魂を抜かれたように「は……はい」と素直に答える。そう。それでいい。アセルスは微笑む。白薔薇を強引に抱き寄せ、背後からその首筋に唇を埋めた。ダンスのポジションのように白薔薇の華奢な体と両手を支え、がちりと音を立ててその軟肌を牙で切り裂く。腕の中でびくりと白薔薇が震えた。

 妖魔の姫の血液はあまりにも甘露に喉を舐める。夜空の星と言う星を三温糖で煮固めたような霊妙なる味わい。千年の精錬の果てに残るもの、錬金術師の秘蔵するひとしずくの生命の水(アクアヴィーテ)。喉を焦がし消えることのない退廃の傷跡を残す魔性の火酒。

 アセルスの髪が蒼く染まった。これまで受けた傷が一瞬のうちにさっと解け、ばらばらの肉塊になったかと思えばたちまちのうち雪薊(スノウシスル)の血液が縫い上げる。紫糸に傷口を刺繍され組み上げられたフランケンシュタインの花嫁、妖魔化したアセルスの肉体は無残にして妖美を極めた。これまで受けた全ての傷は消えぬことなくくっきりと浮かび上がりがんじがらめに乙女の柔肌を縛り上げ、つぎはぎだらけの肉体はいびつに捩じれ震えている。けれどもなおその姿を評するのなら彼女の体は滅びと言う名の美しさに満ちていた。無数の傷はいつか消えてしまうことの顕れでありながら、しかし同時にこれまでの足跡がけして消えぬものであることをも示している。活性化する肉体に全身の傷が痛みアセルスが呻く。苦痛に身をよじりねだるような声を上げると唇からは一筋の闇が流れ出す。一度潰れた眼球は螺子巻き仕掛けにくるくると回転し淡い青灰(アクアグレイ)の結晶化を遂げる。二粒の晶石と化した眼球に微かな炎を灯してアセルスはそっと笑った。それは自分が支配者であると知った微笑だった。

 誰かが自分の名を呼んだ。ノーガヒ、という男の声だ。盛んに自分を褒め称え、愛の言葉を告げている。愛している、と男は言った。アセルスは答えずに右手を振るう。ぼとりと音を立てて男の右腕が千切れ落ちた。アセルスの右手にはいつの間にかに剣が握られている。捕らえられた時に奪われた剣だった。今までどこに保管されていたのかは知らないが、しかしこれはアセルスの剣であり、アセルスの剣であるからには望んだ時望んだ場所に存在していなければならない。

 痛みに絶叫する男には構わずアセルスはフーキの亡骸を紅に預け、他の妖魔を助けるようにと告げると一切振り向くことなく迷いのない足取りで部屋を出ていく。階段へと続く通路には見張りの兵士が立っている。近づいていくと銃を向けられ「ノーガヒ殿からここからは通すなと言われております」と制止される。構わずに押し通ろうとすると警告なく膝に銃弾を撃ち込まれアセルスはがくりと体制を崩す。「聞こえなかったのか妖魔」冷たい声で兵士が言う。そのまま銃尻でこめかみを殴りつけられぽとぽとと血を流すアセルスは表情を変えずに淡々と見つめ返す。するとアセルスの視線を受けた兵士の顔が見る見るちに真っ青に変わり何を見たのかよろよろと後ずさる。アセルスの指が自らの膝に伸び、埋め込まれた銃弾をほじくり返してそのまま兵士の眼球にねじこんだ。激痛に悶える兵士の背後から妖魔の剣を振り落として首を落とす。転がった生首に足を乗せ階下目掛けて蹴り込むと、下の方で叫び声がする。突然放り込まれた生首に動揺を見せる兵士たちをよそに一陣の颶風と化したアセルスが殺意を剥き出しに切り込んでいく。当たるを幸いに剣を振り回し斬って斬って斬りまくる。銃撃の応戦に体中穴だらけになりながら怯むことなく突貫していくアセルスの不死に兵ぞろいのラムダ兵たちにも恐怖が広がり逃げ出すものさえ現れた。警報が鳴り、隔壁が落とされる。それでも構うことなく突き進み、這いずって逃げていく兵士を一人ずつ一人ずつ殺していく。基地内には五月蠅いほどに警報が鳴り響きイエローライトがギラギラと周囲を照らし出す。

 アセルスは扉をこじ開ける。ガラス張りの広い空間に一機のメカが待ち構えている。全長4mを誇る巨体、錆鉄色のカラーリングを施された特別製のTウォーカーだ。足を踏み入れた途端に機関銃を連射されアセルスの頭が消し飛ぶ。一発一発が巨人の指ほどもある弾丸を間断なく撃ち込まれ、アセルスはどうと後ろに倒れる。穴だらけになった侵入者にしかしTウォーカーは油断せず、増設された副腕でアセルスを掴み上げると激しく壁面に叩きつけた。引き裂かれた紙きれのように力なく手足を垂らすアセルス。身動きの取れないその体に容赦なくTウォーカーは何度も何度も鋼鉄の腕を叩きつける。片腕だけで2tを優に超えるその質量をそのまま凶器と化して柔らかい女の腹目掛けて叩きつける。衝撃が弾けるたびにびくりびくりと痙攣し血飛沫が飛んだ。だがそれでもアセルスは死なない。再生途中の頭を皮一枚で繋げてぶらぶらと揺らしながら震える指で弱々しくTウォーカーの爪を引っ掻き、次の瞬間には妖魔の剣を握り力任せに叩きつける。副腕に亀裂がはしり、機械部品が辺りに飛び散る。

 Tウォーカーが少し手足を振り回すだけでゴム毬のように吹き飛ばされるアセルスは、しかし痛みに呻くことさえせず静かに自らの敵を睥睨する。戦って殺す。今はただそれだけを。振り下ろした妖魔の剣でTウォーカーの右足を切り落とす。がくりとバランスを崩し、地響きとともに鋼鉄兵器が倒れる。逃げ出そうと慌てて這い出してきたパイロットの顔を思い切り蹴りつけるとごきりと骨が折れて息絶えた。さあ次はどこに行こう。淡島フーキは何と言っていたのだったか。彼女を基地に連れてきた男がどこかにいる筈だ。それに基地の責任者であるヤルート。どこにいるのかは知らないが必ず見つけ出して殺してやる。今の自分にはその力がある。力があるのに何もしないのはおかしいことだ。だから殺す。アセルスは足を進める。行く手を遮るもの全てを叩き斬って突き進む。

 自分は一体何をしているのだろ、と心のどこかでぼんやりと考えながらも戦いに逸る心は前へ前へと駆り立てる。もしかしたら取り返しのつかないことをしているのかもしれないとそう考えながら脳裏に焼き付いたフーキの死に顔を思う度に稲妻が心臓をはしる。激情と興奮。繰り広げる殺戮に心のどこかを置き忘れ、アセルスは束の間の殺意に狂う。殺して殺して殺し尽くして長く切ない雄叫びを上げ、疲れ果てたアセルスがその手からぽろりと剣を取り落とした時、彼女の周りには一人として人間は存在していなかった。やがて白薔薇たちと合流してから妖魔の淑女たちはアセルスの身を心配するばかりで妖魔化やその後の行為についても深く詮索することはない。それは妖魔なのだから当然のことかもしれないが、しかし後になってからアセルスは“しかしどうなのだろう”と思い返すことがあった。もし、この時、アセルスの一行に人間が一人でもいれば大量殺人を行った彼女をどう思っただろう。どんな理由があるにせよ人を殺してはならないと責めただろうか。たとえ見て見ぬふりをしていたとしても兵士に罪はないと詰っただろうか。アセルスにはわからなかった。白薔薇と紅は何も言わなかったのだ。もしかしたら何とも思っていなかったのかもしれない。それはそれで悲しいことではあったけれども、どだい当の殺人者であるアセルスが悲しいなどと惚けたところで何の救いもありはしないだろう。

 戦闘を終えてラムダ基地から逃げ出そうとしていると、仮面をつけたおかしなメイドが現れてゾズマの使いを名乗った。その名前を聞いてアセルスは大福餅の話を思い出し顔をしかめる。メイドの話によればゾズマはゾズマでこの基地に潜入し破壊工作を進めており、アセルスの起こした騒動に乗じてこの基地を潰してしまう算段なのだという。そんな計画を立てていたのならなぜもっと早く遂行してくれなかったのかと思わないでもなかったがこのメイドにまで罪はない。喉元まで出かかった怒りを懸命に堪え、メイドの案内でアセルス達は脱出用のため用意された星間船に乗り込む。囚われていた妖魔たちも救えるだけ救いはしたが怪我や後遺症などの治療のためにゾズマたちが預かるのだという。

 ゾズマたちの用意した星間船は無事にラムダ基地を離れ、星の海へと乗り出していく。一般航路に戻るまではもう一つ別の船に乗り換えねばならないとの説明をメイドから受け、そういえばと混乱してこれまで聞いていなかった名前を尋ねたところ、メイドは静かに笑って「私はなぞのメイド仮面です」としか答えなかった。そうですか、と慣れたようにアセルスも頷く。妖魔が変なことを言うのは今に始まったことではなかったし、メイドが仮面をつけていたら多分それはなぞのメイド仮面以外の何者でもないだろう。ぼんやりと考えてアセルスは船室の窓から外を眺めた。何かとても大事なことを忘れているような気がした。そうだ、とアセルスは思う。私は人をたくさん殺したんだった。心の中で呟いてなんとなく馬鹿馬鹿しくなる。いまさら何を言っているのだろうか。なぞのメイド仮面とほがらかに初対面の挨拶などしている場合でもないだろうに。

 本当は、とアセルスは考える。もっと後悔をするべきなのだろう。おそらくは自分の中の理性とでも呼ぶべき部分は少なくともそのように判断している。人を殺してしまったことに悩み苦しみ悪夢の一つでも見るべきだろう。だというのに自分はいまここにこうして平然と星々を眺めている。なぜなのだろうか。精神的ショックが大きすぎて感情が凍ってしまったとかそういうことなのだろうか。自分はもっと弱い女だと思っていた。世界で一番とまではいかないが一応平和を愛しているし、できることならば戦いを避けるように行動してきたつもりだった。何の根拠もありはしなかったが自分はそこそこ正しい人間だと思っていた。だがそうではなかった。人をこうして殺しても取り立てて罪悪感もない。もちろんそれは淡島フーキを苦しめていたあの基地の人間が許せなかったということもあるけれど、だからといってその罪が死に値するものかどうかなど誰にもわかりはしない。自分がやったことが正しいことだとはどうしても思えないが、だというのにまるで後悔が湧かない。なぜなら自分は自分の望むことを行ったからだ。私は後悔しない。

 つまるところは変化なのだとアセルスは結論づけた。自分は変わっていく。この件に関してアセルスが恐怖や悲しみを覚えるとすれば、それは殺人そのものではなく殺人について何も感じなかった自分に対してだ。かつて自分は白薔薇に何と言った? モンスターを殺すことにいつの間にかに慣れていって、自分はそのことが辛いと涙したのではなかったか。それがどうだ、今ではこうして大量の血に両手を染めておいて素知らぬ顔をしている。自分のことがよくわからない。淡島フーキのことを考えると今でも腸が煮えくりかえる。ラムダ基地のいた人間は死んで当然だと思うその心に迷いはない。・その心に迷いはないけれどしかしその心は針の城で目覚めた頃の自分とはどれだけ変わってしまったのだろう? 自分のことがよくわからない。白薔薇と紅はいつまでも自分に優しい。なぜなのだろう? 妖魔だからなのだろうか。彼女たちに自分のことを責めて欲しかった。動機については彼女たちも理解しているだろうが、「それにしたっていくらなんでもひどすぎる」と糾弾してくれれば自分にしたって罪の意識の一つだって芽生えるかもしれないではないか。あまりにも他力本願すぎる考えに自分でも呆れながらそれでもアセルスの悩みは増していった。

 自分はいったい何を忘れてしまったのだろう。そう考えると無性に過去へと戻りたくなる。あの何も知らなかったころ、のほほんと学生をしていた子供時代に帰りたい。そう思う一方でこうも考える。本当にそれでいいのだろうか。今や自分はこうして力を手に入れた。もう自分はなにも出来ない子供ではない。誰かに守られ与えられるだけの庇護者ではないのだ。ようやく得た戦う力、生きるための力。必要ないとは口が裂けても言えない。それでも……。

 寂しい、と思ったアセルスは窓の外を見つめて物思いにふけった。取りとめもなく昔のことを思い出して懐かしさに酔った。シュライクにいたころは本当に平和だったと思う。あの頃はあの頃で子供ながらに必死になって毎日を生き抜いていた筈だが、それでも平和には違いなかったのだといまさらながらしみじみ思う。

「懐かしいな……」

 遠い眼をしてアセルスが呟いた時、遠慮がちに客室の扉がノックされた。「機関士のものですが」と若々しい男の声が聞こえ、どうぞと返事をするとがちゃりとドアが開かれる。現れた青髪の男は室内を見回しアセルスに気付いた途端にびっくり仰天し素っ頓狂な声を上げる。

 アセルス姉ちゃん?と男は言った。それが15年ぶりになる小此木列人との再会だった。

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