一枚の銅板に蜜蝋を丹念に塗りつけ、細長い針金で好きなように引っ掻いてみる。それから温めた腐食液──塩化第二鉄に銅板をゆっくりと浸す。25℃ほどに保ったまま一時間もすればそれでおしまい。蜜蝋の塗られた個所はそのまま、けれど針金に除かれた線は腐れ、銅板の上にくっきりと顕れる。
腐食作用を利用したこの図法、またその絵図を腐刻画という。
下級妖魔
生まれ落ちた木の洞は取り立てて特徴のない平凡な穴ぐらではあったのだが、自分自身が生まれたその場所からは不思議に離れがたくしばらくウロネブリは洞を中心に辺りの散策を続けた。
周囲に広がっているのはよくわからない森であった。木の枝にとまる蝙蝠はなんだかやけに牙が大きくて気味の悪い鳴き声をあげるし、踏みつけた茸は突然巨大化してこちらを追いかけてくる。森というものがどういうものなのか碌に知らないウロネブリではあったが次々に襲い来る怪異にすっかり参ってしまって、この森はなんだかヘンな気がする、怖い、と涙目になって足が竦んだ。
それが妖魔の森であることをウロネブリはまだ知らない。ここがファシナトゥールの果てに位置する黒宇森であり、自分がそこに発生した下級妖魔であることなど知りもしない。人間ではないのだから仕方がないことだ。大切なことを教えてくれる親はいない。最低限の知識と生物としての本能、そして訳のわからない命のさだめを背負わされてウロネブリはここにいるのだった。仮にこれが中級・上級妖魔であれば有り余る力を存分に振るい、その誇りと美貌とをもってたちまちの内にテリトリーを形成し、足りぬ知識は群がる下僕から吸収することで自らの立ち位置を悟りうるものだがウロネブリはそうではない。力も美貌も人間よりもやや優れている程度の下級妖魔、生まれたばかりでは知恵だって足りない。
おなかがすいたな、とウロネブリは思う。でもどうすればいいのか何を食べればいいのかもわからなかったし、道に落ちている木の実を拾おうとするとたちまちに栗鼠や穴熊やらがとんできてあっと言う間に「このノロスケめ」と横取りしてしまうので、伸ばした手を恥ずかしそうに引っ込めてウロネブリは俯いてとぼとぼとまた歩いていく。
三日ほど歩き続けているとなんだか良い匂いがしてきた。ようやく黒宇森を抜け出したウロネブリはそこでようやく人里というものを発見したのだった。人間はウロネブリと同じ姿をしていたので、ウロネブリは漠然とではあるが「自分に優しくしてくれるのではないかな」と思ってにこにこと近寄っていく。小さい人間が大きい人間に群がっている。小さい人間はとても楽しそうに微笑み、大きい人間の腰布を引っ張ってはオカアサンオカアサンと騒がしくしていた。
オカアサン、というのは何だろうか。あの大きい生き物の名前のことかもしれない。なんだか楽しそうだ。
子供が親に甘えている光景をそのように解釈したウロネブリは、きっと自分も混ぜてもらおうとでも思ったのだろう、えへへと少しだけ照れながらオカアサンのもとに駆け寄ってオカアサンの腿に抱きつき、ぐりぐりと頭を擦りつけた。
「オカアサン!」とウロネブリは言った。すると、途端にオカアサンは怖ろしい顔をしてウロネブリを睨みつけ、「なんだね、この子は! どこの子だい!」と怒鳴りつけたかと思うと見る見るうちに血相を変え、「妖魔が出た!」と叫び出すて子供たちと一緒に家の中に閉じこもってしまった。
後に取り残されたウロネブリはしばらくきょとんとしていたが、その内に自分が何かまずいことをやったのだとうっすらと理解する。何らかの拒否を受けたことは雰囲気でわかった。だからまたウロネブリはくたびれた足を引きずりながら力なく元来た道を戻り、とぽるとぽると涙を零しながらあの木の洞によたよたと横たわり、さみしそうに目を閉じるのだった。意気地のないウロネブリは一度失敗した経験からもう二度と人里へ行こうとはしなかった。
しばらくは寂しい日々が続いた。いつまでたっても何処へ行けばいいのかわからなかった。お腹が空いてきゅうきゅうと痛む。ウロネブリは空腹のあまり寝床にしていた木の洞にそっと舌を当て、ぞろりと舐め上げた。すると思いのほか甘く、柔らかな味がこみ上げてくる。心なしか体に元気が湧いてきた気さえする。ウロネブリは赤子の甘える口づけのようにそっと樹皮に唇を当て、ざらざらとしたその感触を舌で味わった。植物の持つ生命力を吸い取り自らの活力とする、これはウロネブリが樹精の妖魔であるからこそなせることであったが、当のウロネブリはそんなことなど露知らず、涙に濡れた頬を腫らしながら独り木の洞を舐め続けるのだった。
ある日、森でマンティコアに襲われていたウロネブリは弁髪の男に救われる。足が竦んで動けなくなっていたウロネブリの前に颯爽と現れた男はまさに疾風迅雷、一撃の元に獣を打ち倒してしまう。
「危ないところだったな、少女よ」
そう言って振り返った男にウロネブリは目をキラキラさせ、ふはぁ、と鼻から感動の息を吐きだす。
「あ、あり、ありりん……ありが、とお……!」
「うむ。気にすることはない。これも修行の一環だ」
「ふわぁ……!」
男があまりにも格好良かったのでウロネブリは喜びのあまりその場でぴょんぴょんと跳び跳ねる。助けられたのも初めてだったし、誰かとまともに会話をするのもこれが初めてのこと。何から何まで新鮮で、堪え切れないほど嬉しくて、ウロネブリは矢継ぎ早に質問を重ねた。
「す、すごい、あたま……」
「ん? この頭か? ……はは、そうだな。この辺りでは珍しいだろう。これは弁髪と言って、我が地方に伝わる伝統的な髪型なのだ。これは天を舞う龍の姿を模したもの。戦士はみな己が身に龍を降ろし、龍の化身として闘う」
「ボクも、それ、する!」
「うん、そうだな。それは止めておいた方がいい。君は女の子だろう?」
「ボク、女の子?」
「わからないのか? ご両親はどこに?」
「ゴリョウシンはわからない」
「お父さんとお母さんのことだ。森ではぐれたのか?」
「オカアサン! 知ってる! オカアサン、暖かい! でも、ウロネブリ、怒られた……」
「なに……? 君は……いや……この気配……剄脈を感じない……。そう、か……。妖魔か……」
「よーま?」
「ああ、いや……」
「ねー。今のもっかいやって! あの、ばーんってやって、どん、ぼっくーってなるのやってー!」
「……爆砕鉄拳のことか?」
「うん! やって! やって!」
何度も何度もせがむと、やがて男はとても悲しそうな顔をしてウロネブリの頭を撫でた。
「少女よ。名はなんという?」
「ウロネブリ」
「そうか。俺の名は
「こん……ふう?」
「功夫とは生きる力のことだ。抗う技術のことだ。……わからんのか、ウロネブリ? ただ生きているだけでは他のものに食われてしまうぞ。何もわからないまま、殺されてしまうだけだ……」
辛そうな顔の男に、ウロネブリはきょとんと首をかしげた。
しばらくの間は男がウロネブリのヒーローになった。一月はこの辺りに滞在すると言った男は、ウロネブリの寝床を訪れては功夫を、そして世の中のことを少しずつ教えてくれた。
男は江民族の出身で年は三十一。今は功夫を磨くために修行の旅に出ているのだと言う。
「老師の言いつけでな。武者修行の傍らファシナトゥールの動向を探ってくるように言われている」
「老師って、強い? オーブンガーよりも強い?」
「老師は俺などよりも遥かに強いさ」
と、男は誇らしげに胸を張る。ウロネブリもにこにこと笑う。
「老師、格好いい! ……格好いい老師、どんな人?」
「ああ。老師はな。お前と同じように小さな少女で、俺の妹だ」
「ええっ! す、すごい!」
驚いたウロネブリはまだ見ぬ老師を想像する……と、想像の中の老師はウロネブリそっくりの姿をして、自分よりも遥かに大きな怪物を拳一つで打ち倒し、呵々大笑してみせる。想像上の老師に自分の姿を重ね合わせ、ウロネブリはうっとりと空想に酔った。
「その頃、俺達の村は邪悪な獣に襲われ滅亡に瀕していた……。だがその時、生まれたばかりの俺の妹が突如覚醒してな。昨日まではまだ毬つきなんぞをして遊んでいた筈が見事な功夫を使いこなし瞬く間に村を救った。それ以来、俺は妹に顔が上がらん。俺はとにかく強くなりたくて、その妹──つまり零老師に教えを請うているところなのだ。強いぞ、老師は。その拳は音よりも早く飛ぶ。俺もいつかはあの飛音の拳を体得したいものだ……聞いているか、ウロネブリ?」
「すごいぞお……すーぱーウロネブリ……」
ぼんやりと呟くウロネブリに苦笑して、男はぽんとその頭を撫でた。
◇
こうして初歩の功夫を学んだウロネブリは少しだけ成長する。以前はたどたどしかった会話も随分と上手になったし、森のハリネズミくらいなら一人で倒せるようになってきた。
でもあくまでそれは少しだけだ。何故って、ウロネブリは下級妖魔。妖魔にとっては格が全て。下級妖魔は格上の妖魔にはけして逆らえない。それは本当にどうしようもないことなのだ。
やがてまたウロネブリは独りになった。男は故郷に帰ると言い、ウロネブリはとうとう一緒に連れて行っての一言が言えずじまい。どうして言えなかったのだろう? 自分に自信が無かったからだろうか。男との会話の端々に、人間と妖魔は違うものだと言う言葉が見え隠れしていたからだろうか。
そもそもウロネブリは本当に男に連れていって欲しかったのかも怪しい。今いる場所を捨てること、安寧や日常に背を向けてまだ見ぬ世界に飛び出していくこと。それはとても勇気のいることだ。
独りになったウロネブリは赤子のように体を丸め木の洞に横たわる。溢れ出る涙でしとしとと大地を濡らし、母に甘える嬰児のようにざらざらとした舌で樹の命を舐め上げる。
朝起きて、息を吸う。ぼんやりと太陽を眺める。鬱蒼と茂る木々の隙間に僅かに覗く太陽の熱が、ただ静かにウロネブリの全身を差しとおしていく。男に教えられたとおり、午前中はもっぱら呼吸法の鍛錬をしている。息を吸い、吐くという行為を飽きることなく繰り返す。口を通してでる息には二種類の息があるのだと男は言った。吸気としての天息、排気としての雨息。大切なのは体を巡るこの二つのバランス。右踵を上げ雨息を練り、印を組んだ指を突き出しながら天息を張る。そしてまたゆっくりと腕を引きながら雨息を戻し、踵を下ろしながら重心を落とす。男が教えてくれた呼吸法、功夫の基礎中の基礎の基礎。
もちろんそんなことはなかった。いくら修練を積もうと妖魔であるウロネブリには何の技術も身につかなかったし、良いことなど何も起こりは無かった。
妖魔は功夫を学ぶなどという『努力』をするべきではない。努力とは自らの存在を認めることのできない者のすることだ。それは今の自分を否定し、未来の高みに立つ自分を現実にするための行為。そんなことをするのは自らに自身のないもの、誇りを持たない者だけだ。そんな風に見苦しい生き方をする者を、妖魔たちは美しいとは捉えない。蔑み、侮り、贄とするべき下等として扱う。
ウロネブリはいとも容易く支配された。
どうして、とウロネブリは尋ねる。すると誰かがこう答える。決まっているだろう。お前が下級妖魔で、私が中級妖魔だからだ。これからは私がお前の主人となる。お前は私のものなのだよ。
それは夏の日の午後だった。たまたま仲良くなった子猫を追いかけて潜り込んだ茂みの暗がり。突然現れたその男は猫へと伸ばされたウロネブリの腕をゆっくりと踏みつけにしてそっと微笑みを浮かべた。とても暑い日のことだった。走り回ったせいでぜいぜいと肩で息をしながら、茹だるような暑さにだらだらとこぼした汗が不愉快な感触と共に首筋を滑り落ちていく。男はとても美しい顔をして、その美しい顔のまま恐ろしいことを言う。
──その子猫はお友達か何かかな?
──うん。猫のちーちゃん。今日、友達になったんだよ。……ねぇ、痛いから足をどけて。
──大切なお友達なのかな。
──うん。……ねぇ、足を……。
──そうか。では、その猫を捕まえて捻り潰しなさい。
その理屈はとても簡単で、どこまでも明確にできていた。奴隷が持つべきものは主人への忠誠だけでいい。『大切なもの』など、あってはならない。仮にあったとしても奴隷にとっての大切なものとはすなわち主人のみを指す言葉でなければならない。男が語るのはそういうことだった。
逆らうことはできなかった。本能がそうさせていた。体がぴくりとも動かない。男に歯向かうという発想がどうしても浮かばない。恐怖に震えるウロネブリに男は優しく笑いかけ、さぁやりなさいと言って足をどけてくれた。
ちーちゃん。弱々しく声を掛けると、懐いてくれた猫は何の疑いもなく近寄り、すばしっこくウロネブリの体を駆け昇る。その親しみが無性に嬉しく、そして憎かった。男の視線から避けるように猫を両手で覆い背後に隠そうとすると、男は素早くその腕を捕まえてウロネブリを叱りつけた。
──主人の言うことが聞けないのか。
──でも……。
言葉を濁したウロネブリの躊躇いを咎めるように男は巨大な掌で彼女の手を包みこみ、ゆっくりと力を込めた。掌の中で猫の歪な鳴き声が聞こえる。小さな猫の体組織がみちみちと音を立てて潰れていくその感触が手の皮膚を喰い荒していく。
──あ……。
──どうして私の言うことが聞けないのかな。それはとても良くないことだ。いけないことなのだよ。
──お前は私に従わなければいけない。なぜならお前は下級で私は中級だからだ。妖魔という生き物はそういう風にできているものなのだ。わかるだろう。
猫の名を呼ぶウロネブリの声が悲鳴じみて捩れる。擦り合わせた指の隙間から穢れに満ちた血肉がぽとりぽとりと零れ落ちていく。
ウロネブリは絶叫した。
◇
あなたがもし誰かを愛した時、その誰かは何年後に死ぬのだろう。一年は生きるかもしれない。二年先、十年先だって生きてはいるだろう。……でも、どうだろう? 時の流れの話をすれば、誰もがきっといつか死ぬ。あなたが愛したその人は三十年後にたぶん死ぬ。そうでなければ四十年後、それでもなければ五十年のち。迫りきる定めを奇跡のように走り抜け人の命の限界に挑んだとて、百年過ぎれば塵となる。
時は経つ。形あるものはいつか壊れ、手に入れたものはいつか失う。世界はそのようにできている。あなたは誰を愛してもいいがこれだけは忘れてはいけない。あなたが愛したあの人は、いつか必ず死ぬものだ。どんなに大切なものができたとしても、いつかそれはなくなってしまう。だから──だから、それが嫌だと言うのなら、大切な人が死ぬ前にあなたが死んでしまえばいい。大切な人に何もかもを押し付け『それではね』と両手を振って別れを告げてしまえばいい。
そしてもし、それすら嫌だと言うのなら、答えは簡単だ。
深夜の森にひっそりと開かれた妖魔の夜会。誰もが神秘を囀る茶会、新しい妖魔の品評会。集まった妖魔たちはみな興味深げにウロネブリの眼球を覗きこんだ。馴れ馴れしく肩に手を置き、戯れに頬を張り、その新しい奴隷の反応をみて楽しんでいる。
これが私の新しい召使、ウロネブリだ。どうかよろしく。そう言って男がウロネブリの尻をぽんと軽く叩いたその時、僅かに入り込んだ中指の感触にウロネブリは背筋を震わせた。自分の所有物であることを示そうとするかのように男は盛んにウロネブリの全身を撫でまわす。
「いや見ての通りの下級妖魔、妖魔としての美しさも力も欠けた妖魔なのだが、あまりにも愚か極まりないのが不憫でね、心の広い私は少しばかり教育を施してやることにしたのだよ」
誇らしげに胸を張り、男が笑った。主人が笑っている時は召使もまた笑っているものだと教えられていたウロネブリは慌てて作り笑いを浮かべてへらへらと媚を売る。
全会一致でウロネブリの評価は決まった。こいつは下級中の下級だ。
他を魅了する美貌。
他を威圧する恐怖。
何者にも屈しない誇り。
そのどれもがウロネブリには欠けていて、そんな妖魔には生きる価値などありはしない。
森を歩く時、通り過ぎる誰もがウロネブリを馬鹿にする。意味もなく殴るもの、唾を吐きかける者も少なくはない。上級妖魔であればある程度は節制のとれた反応をするものだがここは森の中。中途半端な下級・中級妖魔が犇めくこの場所ではあの恐ろしい針の城よりもかえって残酷な扱いを受けることになる。奪われたのは猫だけではない。ウロネブリが大切にしていたものはみんな取られてしまった。道端で拾った使いみちのわからない鉄屑やどんぐり、蜻蛉の頭蓋に綺麗なボタン。幼いウロネブリにとっては宝石のように輝くそれぞれは格上の妖魔たちが「こんなもの」と言って捨ててしまった。
たとえばウロネブリが小さな桃花を見つける。どこからか飛んできたのだろう。とても鮮やかな薄桃色をしていて皺が緻密にはしりこんでいる。綺麗だな、とウロネブリは思う……。そうして、そう思った誰もがするようにその花を掌にそっと載せ、穏やかな微笑みを浮かべながらころころと転がす。ウロネブリは何かを美しいと思う。何気なく落ちている釘や謎めいた木片を手にとり、知らないどこかから流れ着いてきたその物語に胸を躍らせる。
ボクの知らない場所。
ボクの知らない世界。
それはいったいどんな所なんだろう。どんなものが存在していて、どんな生き物が暮らしているんだろう。
胸に広がる不思議な感情にウロネブリが戸惑っていると、背後から現れた男が無造作に花を掴み取って握り潰してしまう。大切なものなどお前には必要ないのだよ。そう言ってウロネブリを地べたに叩きつけ、「ごめんなさい」と百度言うまでけして離してくれない。
誰かを好きになった時、何かを大切に思う時、誰もが浮かべる微笑みをウロネブリはいつか忘れてしまって、その代わりに恐怖や後悔を覚えることが多くなってきた。だって仕方がないだろう。ああ好きだなと思ったその時にはもう、誰かに奪われることが決まってしまっているのだから。
暗い森の鬱蒼の砦、ちりちりと虫の鳴く闇夜の奥。固く握りしめられた少女の掌からは死骸。小犬に野栗鼠、ネズミに小鳥、零れ落ちる無数の死骸を前にして蹲るウロネブリは弱々しく背筋を震わせる。
ねぇ、もう何が何だかわからないんだ。だって、みんながボクのことをばかだって言う。ばかで、どうしようもなくて、生きている価値なんかないってそう言って、……そして、どうもそれは正しいことらしいんだ。よくわからないけどなんだかボクにもそれが仕方がないことのような気がするんだ。ゴシュジンサマみたいな方には逆らっちゃいけない、ボクは下級妖魔だから頭を低くして生きていかなきゃいけない。どうもそういうものらしいんだ……。
オーブンガー。助けてよ。こんふーなんて役には立たない。妖魔は生まれついてのちからが全てで、今日生まれたら何もかもがずっとそのまま。ボクはずっとばかのままなんだ。
苦しいよ、オーブンガー。誰かにばかだと言われてごめんなさいと謝らなきゃいけないのは、とてもつらいことなんだ……。
どうすればいいのか、わからない。
ボクは、ほんとうにばかなんだ……。
◇
さあ、物語の話をしよう。
ここに独りの馬鹿がいる。
どこにでもいる馬鹿である。平凡で知恵もなく気概がなければ意気地もない。精神薄弱ここに極まりこちらへと言えばひょいひょい誘われあちらへと言えば容易く攫われる。自らの命をどうこうするだけの意志を持たない人形仕掛けの下の下の妖魔。木陰を舐めるウロネブリ。
ある日ある夜産み落とされてちっちゃな手足を震わせたウロネブリはいつか妖魔の世界の掟を知ることになる。生まれ持つ力が全てであるこの社会においては努力など何の役にも立たない。
ウロネブリは逃げている。息を切らし無茶苦茶に手足を振りだして森の中を駆けていく。だって仕方がないだろう。足を止めれば捕まってしまうのだから。
彼女は馬鹿だと誰もが言った。そしてそれは本当にその通りで言い訳のしようもなく、下級妖魔であるウロネブリは格上の妖魔に従わなくてはならない。けれども──いま、胸の内に隠しているリスだけは絶対に守らなくてはと思うのだ。だから必死になって少女は走る。懸命に、力の限り──。
走って走って走り続けて胸が痛んで喉が掠れて、堰き止めていた想いと共に吐きだした吐息がゼエゼエと乾いた熱を帯びて唇を飛び出した時、ウロネブリはとうとう躓いてごろごろと転がる。鼻っ柱をしたたかに打ち付けてとろんと粘性を帯びた血を不細工に垂らしながらこみ上げる嗚咽を飲み込む。もう駄目だとウロネブリは思う。これ以上は走れない。どう足掻いても逃げられっこない。背後からの足音は見る見るうちに近づいてくる。やっぱり逃げられないんだ。どだい無理な話だったんだ。ボクはばかで、のろまで、駄目な下級妖魔なんだ……。
ごめんなさい、と大声でウロネブリは言う。ぽろぽろと涙を流しながら膝を落として体を丸めた。胸に抱えたリスを誰にも見えないように両手で覆い隠した。手の中で儚くチーと鳴くそんなリスだった。駄目だよ、静かにしていて。焦る心を懸命に押し付けて深呼吸するウロネブリとは裏腹に手の中のリスはじたばたと暴れ始める。
──ウロネブリ。
低く、そして深く、淡々とした男の声が背後からじんわりと忍び寄ってくる。ウロネブリはぎゅっと眼を閉じる。
──またそんなものを愛したのか。馬鹿な子だ。そんなものは必要ないといつも言っているだろう。
尻の穴に爪先をぶちこまれるようにしてウロネブリは乱暴に蹴り飛ばされる。股間から脊髄にまで激痛が貫く。痛みに喘ぎながらごめんなさいとウロネブリは言う。亀みたいに縮こまって謝罪の言葉をうわごとのように繰り返す。迸る焦燥感と冷たい絶望。やっぱり駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目なんだ。この子はきっと見つかってしまう。こんなにも可愛いリスなのに、せっかく懐いてくれた子なのに……。きっと奪われて殺される。大切なものはすぐに無くなってしまう。
心が震えた。吐き気を覚えるほどの緊張が胸を渦巻く。悲しみに肺が痙攣する。
「い、や……」
慄きながら呟いたその言葉にウロネブリはいつの間にかに肩を強張らせ、リスを抱く両手に力を入れた。眼の奥が、そして掌が焦げ付くほどに熱くなった。するとどういうわけだろう、掌の中の子猫が不意に暴れるのをやめ大人しくなった。でもそれが何になろう。どうせ男には見つかってしまったのだ。今さら動きを止めたところで……。
──ウロネブリ。さあ、手の中の獣をお出し。いつものように私が捻り殺してあげよう。
「う……。あ……」
びくびくと怯えながらウロネブリは眼を開ける。男の言葉には逆らえなかった。ただどうしようもなく怖くて怖くてたまらなかった。だから、ああこれでお別れなのだとそう思いながらゆっくり手をどけ──そして、信じられないものを見るのだった。
「あれ……?」
──なんだ……? そんなものを後生大事に抱えていたのか……? 本当に愚かなヤツだ、どうしようもないな……。
男の言葉はもう、耳には入らない。両目を限界まで見開いてウロネブリは手の中のリスを見つめる。掌の中の、変わり果てたリスの姿を一心不乱に見つめ続ける。
直感的に理解していた。論理や理屈を超えてウロネブリにはわかった。それは自分がやったことなのだと。それは自分が持つ力なのだと。
リスは腐れて死んでいる。腐乱している。さっきまで元気に走り回っていたはずなのに、今ではぐずぐずに溶けて異臭を発している。白濁した眼球には得体のしれない粘菌が湧いて蠢いているし、抱えていた指の跡そのままにべりと音を立てて皮が剥がれた。黄色く変色した皮下脂肪は薄気味の悪い泡を破裂させ、粘つく体液を滴らせている。あまりにも醜く無残な死。だというのにウロネブリは凄惨な光景を目にしてしかし、不思議なほど落ち着いていた。いいやそれは落ち着きなどではなく、かといって現実逃避の誤魔化しでもなければ過剰なストレスによる感性の麻痺でもなく、もしあくまでもそれをその感情を解釈し言語化し説明しようとするならば、いたいけな小動物を腐らしめたこの少女の胸中に沸き起こる感情は曰く、安堵、であった。怯えていたのでも悲しんでいたのでもない。ウロネブリはほっとしていたのだった。
「これで良かったんだ」
思わず口に出していた。
「これで良かったんだ、ほんとうに……」
ああ、そうだ。だって心の底からそう思うのだ。これで良かった。何もかもが解決した。思い悩むことは何もない。最初からそうしていればよかった。
心がすうっと晴れていくのがわかった。体全体がトウメイになったような気がした。
「ああ……」
熱いため息をついてウロネブリは体を震わせる。全身を貫く官能によがり声を上げて身を捩る。ああ──これでいい。
大切なものはみんな、いつか必ず奪われてしまう。だからそれが嫌だと言うのなら答えは簡単だ。自らの手で愛する者の息の根を。
好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。世界のどこかで永遠の夜長を生きる姫君がそう言った。呪うか殺すか争うか。けれどもウロネブリならこう言うだろう。いいやもう一つ、腐食の答えが残っていると。
一枚の銅板に蜜蝋を丹念に塗りつけ、細長い針金で好きなように引っ掻いてみる。それから温めた腐食液──塩化第二鉄に銅板をゆっくりと浸す。25℃ほどに保ったまま一時間もすればそれでおしまい。蜜蝋の塗られた個所はそのまま、けれど針金に蝋の除かれた線は腐れ、銅板の上にくっきりと顕れる。
腐食作用を利用したこの図法、またその絵図を腐刻画という。
この腐刻画の真理は選択である。選ばなかったものだけが形を変えずにそのまま残る。描きたいと思ったもの、残したいと感じたものはみな腐らせて絵図にする。それが腐刻画の本質だ。
愛おしいものはみな、腐れ死んでしまえばよい。
この世のすべてを腐らせる腐敗の力。後に森の従騎士となるウロネブリの物語はこうして始まった。
◇
微笑みを浮かべて生き物を殺した。出会いと別れを繰り返しウロネブリは下級妖魔としての暮らしに少しずつ慣れていく。
重たい尻をよちよちと振りながら歩くハムスターがいる。そのあまりにも可愛らしい姿に顔を綻ばせ、ウロネブリは手を伸ばした。可愛いな、と思ったのだ。胸がちょっとだけ切なくなったけれど、でも平気だった。差し出した指先の匂いをふんふんと嗅いで、ハムスターは見る見るうちに腐れていく。「さようなら」と小さな声でウロネブリは言う。ハムスターの腹に指を突っ込んで優しく内臓を掻き混ぜた。ちぃ、と微かな鳴き声を発してハムスターは痙攣し、すぐに動かなくなる。
腐り果てた死骸は生まれた場所に埋めた。森の外れ、木の洞の根元。腐敗という現象はいまある生物を分解し別の有機物にしてくれる。ハムスターもまたこの木の栄養になってくれるだろう。たくさんの命を吸ってウロネブリの寝床はすくすくと成長していく。
近頃ではゴシュジンサマに怒られることも随分と減った。妖魔の社会でどう立ち振る舞えばいいのかも覚えてきたし、夜、ゴシュジンサマがウロネブリをどう求めているのかもようやくわかってきた。
ウロネブリはへらへらとうすら笑いを浮かべるのが得意になった。しかめっ面をしたり泣いていたりすると周囲の妖魔たちはみな「醜い」とか言って余計にひどいことをするので笑っていた方がましなのだ。笑ってさえいれば殴られるだけで済む。殴っていればその内に相手も疲れてくるし、毒気も抜かれて飽きてくれる。そうです。ボクはばかでのろまな下級妖魔なんです。ゴミ同然、蛆虫以下のどうしようもないやつなんです。ごめんなさい。必死になって仕えますからどうか殺さないでください。そういう顔をしていればいい。そんな顔がウロネブリにはお似合いだ。
ある時針の城から黒騎士がやってきて、新しい侍従兵に志願する者はいるかと言って森に暮らす妖魔たちを集めた。針の城といえばあの恐ろしくも美しいお妖魔の君オルロワージュ様の住まう場所であったから森の妖魔たちはみな憧れていたけれども自ら手を上げるものはいない。侍従兵に名乗り出るからには自分の力を示さねばならない。それは目の前に立つ黒騎士と闘い、生き残らねばならないということだ。誰もが尻ごみし躊躇っていると、集められた妖魔たちの背後で「私がなります」と誰かが言った。現れた挑戦者に感心のどよめきが広がりさっと集団が分かたれ、妖魔たちの視線が一斉に向けられると、そこに立っているのはおどおどと視線を泳がせるウロネブリだった。失笑が漏れた。もちろんウロネブリは一言も発してはいない。気まずい沈黙が続く中のちょっとしたユーモアのつもりで誰かがウロネブリのふりをしたのだ。こんな時に標的になるのは集団の中でも一番弱い奴、いつも苛められている奴と相場が決まっている。ウロネブリが恥をかくことで場が和むのならばそれでも良いし、勘違いしたウロネブリが黒騎士に挑んで殺されたとしても誰も困りはしない。
針の城から来た黒騎士はウロネブリを見て怪訝そうに顔を顰めた。
「……お前がか? ……まあ、俺は別に構わんが……。とにかく前に出ろ」
「あ、あ、あのう……ボク……」
震えながらウロネブリはなんとか口を開いたが言葉が上手く出ない。あわあわしていると黒騎士は鋭い眼でウロネブリを睨みつけ「早くしろ!」と怒鳴りつけた。
衆目に晒されたウロネブリは緊張のあまり変な咳をして、おっかなびっくり黒騎士の前に歩み出る。黒騎士はウロネブリの様子をじろじろと眺めまわしていたが不愉快も露わに舌打ちした。
「名は?」
「ウ、ウロネブリ……です……」
「お前のような奴が侍従兵だと……? 針の城も舐められたものだな……!」
その言葉を聞いてウロネブリはほんの僅かにほっとした。そんな風に馬鹿にされるのには慣れていたから、次に自分がどう答えればいいのかようやくわかったのだった。
「そ……そうなんです。へへ……。ボク、駄目な奴なんです……。勘違いなんです……。ごめんなさい……」
惨めにへこへこと頭を下げ、殊更に媚を売るウロネブリの様子に忍び笑いが広がった。ああこいつはやっぱり馬鹿だ、こいつは自分たちが馬鹿にしても良い存在なんだ、そういう了解の含まれた笑い声だった。
誰もがウロネブリを嘲笑していた。森の広場に集まった妖魔の中で笑っていないのは当のウロネブリと黒騎士だけだった。黒騎士は「……そうか」と低く呟き、ウロネブリの柔らかな腹を剣の柄で強かに打ちつけた。げえ、と耳障りな呻き声を上げてウロネブリはくの字に体を下り、胃の内容物を地面にぶちまける。更なる笑いが広がる。黒騎士が言う。俺はお前のような奴が一番嫌いなんだ。消え失せろ。涙交じりにウロネブリは答える。ご……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。呟きながら激痛に息が止まり、自分の吐瀉物にむせる。唇から涎を零しながら眼を真っ赤にして顔をくしゃくしゃに歪めて泣くウロネブリのあまりにも無様な姿にとうとう爆笑が弾ける。
──いや、何でしょうな、あの情けない顔は。
──あれでも本当に我々と同じ妖魔なのかねえ?
──そら、見たまえ、あの見苦しい姿を。悶えながら地べたを這う姿を。
妖魔たちは笑っている。痛みに泣くウロネブリを指さしてはげらげらと腹を抱えて嘲笑っている。その笑い声を聞いてウロネブリまでも懸命に表情を取り繕い、薄気味悪い媚びへつらいを張り付けて泣きながらへらへらと笑った。へ、へへへ、ごめんなさい……へへへ……。
誰もが笑っていた。嘲笑と侮蔑に酔い痴れていた。笑われている当のウロネブリまでもが笑っているのだからもうどうしようもない。
ウロネブリは馬鹿である。力がなければ誇りもない。意気地がなければ矜持もない。笑われるだけ笑われて言い返すことさえ出来ず自分で自分を笑うことしかできない馬鹿である。誰かがウロネブリを笑う。ウロネブリもウロネブリを笑う。だから馬鹿は馬鹿なのだ。救いようのない、救う価値もない馬鹿なのだ。ここに独りの馬鹿がいる。馬鹿はいつだって馬鹿のまま。特に妖魔はそれがひどい。生まれた時に馬鹿ならば死ぬまでだって馬鹿のまま。笑われたって仕方がない。どうしようもない馬鹿だから。
ここに独りの馬鹿がいる。独りの馬鹿を誰もが笑う。馬鹿は馬鹿で馬鹿なのだから、仕方がないことである。どうしようもないことである。──だから、もし、ここに笑わない者がいるとすれば、それはウロネブリと同じ馬鹿か、あるいはかつて馬鹿だった者だけに違いない。
ここに独りの馬鹿がいる。そしてそれ故に、針の城からの使者──黒騎士セアトは森を揺るがす叫び声を上げる。笑うな! その声のあまりの大きさに森は震え幾千幾万の葉を散らし、びりびりと大気が振動した。冷え切った眼で集団を睨みつけたセアトはぎり、と奥歯を噛みしめ、腹の底からの怒りにわなわなと口を震わせるのだった。
◇
セアトは言った。
なぜ笑う。ウロネブリ。生きていることがそんなにおかしいのか。誰かに笑われ、嘲られることは楽しいか。そうして笑われることを笑い、笑われる自身を笑い、何もかもを知らないふりして生きていくつもりなのか。
……いちいち謝るな。俺は謝罪を求めているのではない。責めているわけでも咎めているのでもない。
聞け。ウロネブリ。誰もお前を助けてはくれない。それは当り前のことだろう。ここにいる連中は親愛の情も血の結び付きも持たないのだから。誰もお前を愛さず、誰もお前を認めない。世界は俺達のことなど何ら斟酌してくれはしないのだ。
お前だって本当はわかっているはずだ。こんな生活は嫌だと、苦しいのだと思っているはずだ。そんな生き方が嫌なのなら自分の意志で抗わなければならない。他人の助けなどあてにしたところで、そんな時は永遠に訪れはしない。
……どうすればいいのか、だと。決まっているだろう。闘えばいい。思うがままに生きたいのなら、立ちはだかる全てを殺せ。
そんな眼をするな。弱音を吐くな。
ああ、そうだ。確かにお前は下級妖魔なのかもしれない。だがそれがなんだ? 下級妖魔という言葉が何を指し示すのかお前は本当に知っているのか? そんなものはただの言葉だ。誰かに言われたことをオウム返しに呟いて自らの存在を貶めることに、何故疑問を抱かない。仮にお前が下級妖魔だと言うのなら、それは誰かに下級妖魔だと言われて反論することさえ出来ないお前の負け犬根性がそうさせているのだろう。世界のルールがなんだ。妖魔の社会がなんだ。妖魔は生まれ持った力を変えることができない? お前にそんな馬鹿げた言葉を吹き込んだのはどこのどいつだ。妖魔の力。他を魅了する美貌。他を威圧する恐怖。何者にも屈しない誇り。眼に見える訳でもないそんなものが、生まれついての自分にどれほど備わっているかなどどうしてわかる?
聞け。ウロネブリ。お前はお前を下級だと蔑む妖魔を全て殺さねばならない。お前がお前であることを否定しようとする存在をことごとく否定し、打ち倒さねばならない。そうでなければ、お前はこれからもずっとそのままだ。
泣くな。俯くな!
……ああ、そうだな。そんなことは無理だとお前は言うだろう。できるわけがないと。だが俺は言う。お前にはできる。なぜなら俺はかつてお前よりも醜く、弱く、そして愚かだったからだ。
聞いてくれ、ウロネブリ。俺はかつて生きる価値のないゴミだった。家畜にすら劣るような、命を搾取されるだけのモノに過ぎなかった。自分が馬鹿であることすら知らず、大切なものを奪われ、そして奪われたことにすら気付かずに忘れていた。ただ無為だった。いなくなろうが誰も困らない存在だった……。
だが俺は変わることができた。こんな俺でも黒騎士になることができたんだ。俺は俺を否定するもの全てと闘う。俺が俺であるために闘い続ける。だから……ウロネブリ。もしお前がこのままでいいと言うのなら、ここで死ね。そしてそうでないと言うのなら、俺と共に闘え!
黒騎士セアトの言葉を聞き終える頃にはもう、ウロネブリは溢れ出る涙を隠そうともせず、顔を鼻水と涙でぐちゃぐちゃにして泣いていた。
なれるかなぁ、とウロネブリは言う。涙に濡れ、ひどくくぐもった声で不安そうに尋ねた。
「なれるかなぁ……? 自分のなりたいものになれるかなぁ? ボク、ともだちが欲しいんだ。ひとりでいるのはもう嫌だし、誰かに頭を撫でてもらって、良くやったねって言って欲しいんだ……。頑張れば、ボクにもできるかなぁ……」
できる、とセアトは答えた。だからウロネブリは僅かに顔を紅潮させ、恥ずかしそうにおずおずと、上目遣いで言う。
「セ、セアト……くん」
「くん? おいなぜ君づけなんだ」
「セアトくん……すき!」
言い放つや否やいよいよ顔を真っ赤にして、ウロネブリはセアトにひしと抱きつく。
それは大いなる茶番だった。黒騎士の名にそぐわないセアトの感情的な言葉に、群がる妖魔たちからは隠しきれない笑いが再び広がった。
おやおや、と誰かが言う。
「これはこれは、とんだ台詞もあったものだ。黒騎士様の仰る言葉とは思えませんなァ……」
「……何か、おかしいか?」
険しい声で尋ねるセアトに、一体の妖魔が歩み出て答える。
「もはやあなたには“格”を感じない。そういうことでございますよ。どうやらオルロワージュ様の眼も時には曇られることもあるようですな。……いやいや、何です? 『こんな俺でも変わることができた』。『だから闘え』ですと? はは、お涙頂戴もいいところだ。あなたは可哀そうな少女を救うヒーローにでもなるつもりなのですかな? 笑わせないでいただきたい。我ら妖魔は支配のためにのみ生きるものだ。自らの尊厳を求めて生きるなど、惨めなヒト種族のやることではありませんか」
「黒騎士のこの俺に逆らうつもりか……?」
「あなたは確かに黒騎士だったかもしれない……。だが、今は違う。あなたは堕落した。あなたは妖魔としての誇りを忘れ、ヒト種族がのたまうあの『努力』とかいうお題目に毒されてしまった。……よもや、我々がこれまでのように大人しく従うとは思いますまいな?」
「そうか。まぁ、いい……。丁度俺も考えていた所だ。お前たちは俺の求める妖魔ではないからな……!」
「今のあなたには何の畏れも感じない……。この数を相手に単独で勝つつもりですかな?」
「お前たちにどう思われようと知ったことではない……が、この阿呆がとだけ言っておこう。お前たち程度、ものの数ではない。……だいいち、話を聞いていなかったのか? 闘うのは俺ではない。ウロネブリだ」
「ウロネブリ!」傑作な冗談を聞いたように妖魔は身を捩る。「まさかそのゴミ妖魔が我々に勝つと? 邪妖にも等しいこの下級中の下級妖魔が?」
セアトの腰に縋りついていたウロネブリはその嘲笑にぎゅっと拳を握りしめるが、セアトの次の言葉にはっと顔を上げた。
「それを決めるのは俺でもなければお前たちでもない。……そうだな? ウロネブリ」
「あ……う、うん!」
「これから先のことは誰も知らない。ここで死ぬか、生き延びるのか。お前が決めろ」
うん、と言ってウロネブリは考える……。ひどいことを言われているのだと心の底から思う。どう考えたって勝てる訳がない。恐る恐る顔を上げてじりじりとにじり寄ってくる妖魔たちを盗み見る。どうみても二十体以上いる。これだけを相手にして勝て、とセアトは言う……。それは死刑宣告と何ら変わらないのではないだろうか。死ね、と言われているのと同じことではないのか……。ウロネブリは考え、そして怖気づく。体中がガクガクと震えだし、恐怖に顔が真っ白になっていく。視線が泳ぐ、足が竦む……。けれども……。
黒騎士セアトがその大きな掌をウロネブリの頭に載せた。柔らかな、そして温かな感触がじんわりと広がった。それ以上の言葉はなかった。うん、と言って、ウロネブリは考える。できる、とセアトは言ってくれた。自分に何ができるだろう。それは生まれて初めて受け取った信頼の言葉だった。可能と成功を保証する言葉だった。心の底から望み、そして得ることのできなかった数々のもの。あの温かなオカアサン。功夫を教えてくれた王文臥。りすに野ネズミ、小鳥に子猫。みたことのない世界。じゆう。ともだち。もしかしたら今日、自分は死ぬのかもしれない。しかし今日と言う境界線を踏み越えたその先の時間には、ウロネブリの熱望する世界が待っているのではないか。それならば……。
無意識に息を吸って腰を落とした。小さな掌を柔らかに開き、軽やかに構える。内腑に天息、手足に雨息。巡る呼吸の螺旋形。胃の底で深く、ばちりと弾けた剄を血流に載せ爪に集める。見様見真似の拙い功夫をしかしウロネブリは臆すことなく、ただ自分にできることを自分にできるままそっと吐きだしていく。
言う。
「くもん・こけい・らでんそう……」
九門・虎形螺鈿爪。ありし日に見たヒーロー、王文臥が一撃のもとに熊を倒してのけたあの技。王文臥は言った。いつかは音を超える。飛音の拳を手に入れて見せると。それがいつのことなのかはわからない。だが自分にとっては──それはきっと今でなければならないのだ。嘘と知りながら呟いていた。ボクの拳は音よりも早く鉄をも砕く。そうでなければならないのだと。だからウロネブリは叫んだ。
「飛音、爆砕鉄拳!」
叫び、大地を叩いた。僅かな発剄は手足を離れた途端に霧散する。何も起きなかった。それは功夫のカタチさえなしてはいない児戯だった。ウロネブリはただ腰をゆっくりと落として地面を殴りつけただけだ。だから爆砕鉄拳というのはつまるところ虚仮威しに過ぎなかったし、ウロネブリの言葉はみっともないハッタリに終わった。馬鹿馬鹿しい、と誰かが言った。指を指して笑われる。それでも恥ずかしいとはもはや思わなかった。たじろぐ理由を何一つ見出せない。ウロネブリは生まれて初めてその大きな瞳を見開き相手を睨めつける。腐れ、と腹の底から叫ぶ。
擦り剝けた拳で大地を感じる。
この功夫が嘘であっても構わない。
ウロネブリの毒は間違いなく地を這い、森を刻もうとしているのだから。
腐れて消えろと絶叫を上げる。ふるふると森が震える。どこからか強い風が吹く。木々は枯れ、醜く膨らんだ枝を瞬く間に菌糸が覆う。ぱふりと可愛らしい音を立てて破裂した胞嚢から無数の胞子が吐きだされ、雪のように天から降り注ぐ。
そして空間は呪詛に満ちた。溢れる胞子が触れるもの全てを腐らせていった。言葉を失う妖魔たちを抱いて森はひっそりと死に包まれていく。
その日、ファシナトゥールの黒宇森は一夜にして滅び、腐れの毒に蝕まれた樹木が再び元の姿を取り戻すまで五百年を要した。
これが黒騎士セアトに仕える森の従騎士ウロネブリの初陣であった。