サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第三幕 唇の甘き背を食み 虜の雨の空の下

 かつてこの世には姿形を思いの通りに変える罔象(みつは)の姫が生きていて、千年生きて千の男を愛し、けれど千に一つの恋煩いに溺れ落ちて海に溶け、千年千度の恋物語を秘めたその身は大海の一部となった。ゆえ、いつか太陽が海を焼き、海水が天へと昇って墜落するその雨には、罔象の姫の旅したあまた物語が込められている。

 

 空からは雨が降る。いくばくかの物語が降り注ぐ。オルロワージュと零姫の二人は顔と顔を見合わせてそっと頷き、出会ったその場所でキスをする。

 

 口づけは万華鏡。舌からまろび出る言の葉の如く千変万化とその身を変える。時に邪悪に時に幼く、魔王と仙女がそっと口を合わせ互いの吐息を交換する。ぬらりと濡れひくつく舌を絡めあい、喉を震わせ、混じり合う濃密な体温。燃え立つ夜具の中で語り合いながら言葉の穂を接ぐ代わりに口を吸い、戯れに伸ばした掌が肉体の全てをなぞる。

  世界は雨の縦断。降りしきる雨垂れが尽きることなくひたひたと耳を打ち、二人の孤独を絶対にする。雨音が聴覚を支配する。今、この場では、鳥は鳴かない。人の会話も聞こえはしない。車輪の軋み、市場の喧騒も届きはしない。聞こえるのはどうしようもないほどの支配的な雨音。きっと部屋の外では、雨以外の一切は滅びてしまったのだろう。雨以外の全てが聞こえないのなら、きっと全ては消滅してしまったのだろう。だから──今確かに存在しているのは、雨と、自分と、口を重ねたその先にいるこの人以外にはない。世界の消えたこの場所でただ無心にキスをするこの孤独のこの甘さ。

「愛している」と自分が言う。

「愛している」と相手が言う。

 乙女のように獣のように変幻する舌使い。罪に震える修道女のように口を合わせたその瞬間はっと背筋を震わせて口元を隠し、押し寄せる禁忌と背徳にささやかな涙を零しながら、零姫はまたキスをする。金を対価に唾を売る婀娜な娼婦が舌を躍らせるように、絶え間ない技巧と企みの満ちた視線を伴い仙女零姫はキスをする。

 無我夢中だった。溺れるように零姫はオルロワージュとのキスを続けた。

 虜化、という言葉が頭をよぎる。

 今自分がこうして愛に犯されているのも全てはそのためだろうか。妖魔の血に思考を縫い上げられ、意味もなく猿のように発情しているのだろうか。

 恐ろしい。ああ──なんて恐ろしい。虜化という言葉を知ってはいても理性は既にして屈服したがっている。懇願し、慈悲を願い、どうか自分を支配してほしいと叫びだしたくなる。何を捨ててもいい、命でさえもいらない。オルロワージュに殺されたい。この口づけを永遠としてあとはもう消えてしまって構わない。

 うう、と痛みを堪えるように唸ると零姫はオルロワージュの手を逃れ部屋を飛び出す。わけもなく悲しくなり涙が零れる。ほろほろと泣きながらしかし悲しみは雨に覆われ濡れ鼠の零姫が地の果てへと駆けていく。追いかけるオルロワージュが零姫を捕まえ「愛している」となおも囁く。涙にむせながら零姫もまた懺悔するように「愛している」と答える。

 オルロワージュが再び顔を寄せる。押し寄せる快楽に抗うべく零姫はとっさに近くのものを力の限り握りしめる。ずるり、と手の皮が剥ける感触がする。とめどなく血が流れていく。

 愛している、と零姫は言った。けれどもしかしたらそれは別の言葉だったのかもしれない。愛していると言いながら、本当は別のことを言おうとしていたのかもしれない。けれども息を継ぐまもなく口は塞がれ、かたくきつく抱きしめられたこの身では言語野を確かめることさえ覚束ない。自我というものがこれほど容易く調教されるものだとは思ってもいなかった。

 零姫は酔っていた。口づけに酔い、語られる愛の言葉に酔い、与えられる途方もない官能に酔っていた。酩酊する心のままに泣きじゃくり、唇を貪り、いつの間にかに気を失っていた。

 

 

 気が付けば、何事かうわ言を口走っていた。自分で自分のうわ言に驚いてびくりと覚醒し右手の痛みに思わず目を向ければ手の中には一葉の刺草。どれだけ強く握りしめたのか刺草によって手には鋭い裂傷が刻まれ、ふつふつと血の玉がとめどなく溢れ出る。

「血……」

 途方に暮れた声で呟いた零姫にオルロワージュは刺草を掴みとり、「我が乙女を傷つけるとは」と冷たく睨め付ける。

「刺などいらぬ。刺草など、みな滅びてしまえばよい」

「いいや……」

 力なく、しかし必死に零姫は訳も分からずに言う。

「これで良いのじゃ。きっと。この痛み、この血の流れを妾は覚えていなければならぬ。この日のキスが永遠であるためには」

「……そうか」

 納得しかねたのかしばらくオルロワージュは刺草をまじまじと眺めていたが、やがてふむと頷いて宙に投げる。ひらひらと頼りなく刺草は空を飛び、そしてはたりと穏やかに落下する。

 

 

 刺草は乙女の血を吸うものである。血液で淫らに膨れ上がった葉脈は心臓代わりにどくりと脈打ち、無数の棘が見る間に伸びて大地に突き刺さる。土の下に眠る虫を串刺しにし、あらゆる植物の根を断ち切り、あたり一帯の大地を雁字搦めに縛り上げて刺草は養分を吸い上げる。

 また一つ葉脈が波打つ。けらけらと魑魅魍魎の啼くような乾いた音を立て、刺草は肥大化を続ける。茎は膨張し大木の幹ほどにも太り、やがて高く聳え立って天を衝く。

 その異様をたとえるならば、骨と皮だけになった竜の死骸の伽藍堂。棘の伸びるところ触れるだけで肉の裂けるほど鋭く、無数の針が寄り固まって一つの城となったかの如く。

「この日のことを覚えていよう」

 オルロワージュはそう言って出来上がった「針の城」へと踏み入り、自らの居城とすると宣言する。零姫はぼんやりと頷き、掌の傷を眺めてはあてもない考えに耽るのだった。

 

 

 

 

 

 たとえば彼女がほうと息を吹くだけで、見渡す限りの野原が燃えた。炎の舌がちろちろと大地を舐め、酸素を奪い、生きているものはみな黒焦げにする。

 紅の髪、赤銅の瞳。輪郭揺らぐ陽炎の乙女。炎妖メローペは業火の中で笑っている。燃えろ、燃えろ、世界よ燃えろ。楽しげに唱える呪文でばちりばちりと大気が爆ぜた。燃える世界は美しく、焼け爛れ膨張した人間の肉が彼女を飾る。

 彼女の目の前に降り立ってオルロワージュは優雅に礼をする。メローペは手を振り上げただ一言「燃えろ」と告げる。渦巻く炎が燃死鳥となって襲いかかるが、オルロワージュは事もなげに燃死鳥の首根っこを握り潰して絶命させる。唖然としているメローペを抱き上げ、背徳に満ち溢れた口づけを落とす。ただでさえ赤いメローペの顔は更に紅潮し、彼女の身体からくたりと力が抜ける。

 ──何をするの。あなたは。

 瞳を潤ませながら尋ねるメローペにオルロワージュは答える。

「メローペよ。余のものとなれ」

 いや、と首を振るメローペはしかし胸の疼きを抑えられず、オルロワージュが舌を動かす度にどうしようもなく耳朶を這う快感に悶えてしまう。

 

 

 

 たとえば邪妖の群れに襲われた洸王国は自らの姫君をファシナトゥールへと献上することで助力を乞う。

「なぜ余が人間どもを助けねばならん」

 遣わされた使者へと冷たい視線を送るオルロワージュに、「さて──」と言って答えたのは、縛められたまま妖煌帝の面前へと引き出された当の姫、金獅子姫であった。

「その問いに答える術を私は持ちません。元よりこの身は戦のための道具。女として扱われることは本意ではないのです」

「ほう。人間の姫というからどんなものかと思えば、これはまた勇ましい女戦士が現れたものだ。──ならば金獅子よ。そなたはこれからどうする?」

「知れたこと。我が意のままに戦い、その意を通すまで!」

 金獅子の焼けた肌がにわかに膨張し、ぶちりと縄が切れる。筋肉一つで力任せに縛を解き、立ち上がった姫は乱暴にドレスの裾を破り捨てると近くにいた兵士から剣を奪い上段に構えた。

 隆起した筋肉に羚羊のような足。はち切れそうな腱は撓み、いかなる攻めにも迅速な対応を見せることだろう。戦いを挑まんとする金獅子姫の姿はオルロワージュを取り巻く女性とはまるで違うものだったが、しかし「ふむ」と頷いてオルロワージュは剣をとる。

「認めよう金獅子姫。そなたは確かに美しい」

「戦いに言葉は不要。いざ、妖魔の王よ!」

 激しく打ちかかる金獅子姫の人間を超えた速度にオルロワージュは感嘆し、この烈女に全力で応えることを決めた。

 一合、二合と高らかに剣戟は鳴り死闘は半刻ほども続いた。ついにオルロワージュの剣が怖ろしいほどの閃きを見せ、ぬるりと金獅子姫の右腕に食らいつく。神経から骨に至るまでを容易く斬りとばし、凄惨な音を立てて姫の右腕が地に落ちる。

 金獅子姫は痛みに呻くことも喚くこともなく、ただ脂汗を流し青ざめた顔で転がる右腕に目をやり、く、と一瞬悔しげに目を伏せる。しかしすぐさまオルロワージュへと膝をつき頭を垂れた。

「あなたの勝ちです」

 清々しい宣言であった。右腕の切断面からぼとぼとと血を零しながらも止血することはなく、左腕で落ちた剣を拾って勝者へと捧げる。

「この命はあなたのものです。オルロワージュ様。殺すなり弄ぶなりご自由になさると良いでしょう」

「そなたはそれで良いのか?」

「勝者が敗者を支配する。それが戦いの掟。剣の道に身を投じた時からその覚悟はできています」

「なんと潔いことだ。これほど爽やかな女性を余は知らぬ。──ならば金獅子姫よ。勝者として余は問おう。そなたは余の牙を求めるか?」

「──は」

 俯いた顔の下で顔を真っ赤に染め、金獅子姫は熱い溜息をつく。

「私を支配するのは私よりも強い者のみ。あなたがそれを許して下さるのならば、どうか──その牙を私にお与えください」

 

 

 

 一人、また一人と寵姫は増える。針の城は成長を続け、より巨大になっていく。

 いつの間にかにオルロワージュは妖魔の君と称される力を身につけ、ファシナトゥールにその支配領域を広大なものとする。

 その美しさ、強さ、恐ろしさ。妖魔の備える三つの力、オルロワージュの卓越すること甚だしく、魅了の君、妖煌帝オルロワージュの元に数多くの妖魔が惹かれ、集まる。

 城下では恋に焦がれる乙女たちが胸元に薔薇を抱いてどうかわたしを食べてほしいと声高に叫び、オルロワージュを褒め称える声が絶えることは一日もなかった。

 

 零姫はオルロワージュと共に針の城の最上階にいる。バルコニーから下界を見下ろしぽつりとオルロワージュは言う。

「こんなことが、前にもあった」

 小首をかしげながら零姫はオルロワージに寄り添い、それがどうかしたのかと尋ねる。

「余は」オルロワージュは痛みを堪えるように静かに囁く。「いつか、こんな風に高い所から何かを見下ろしていた。魔王であった。そして──」

「そして?」

「……わからぬ」

 オルロワージュは表情を変えずに答える。

「だが確かに思うのだ。こんなことが前にもあった。余は、いつも、同じことをしているのかもしれぬ……」

「忘れてしまったのじゃな」

「ああ。きっとそうなのだろう。失ってしまって、もう二度と還ることもないのだ」

「過去に囚われても仕方あるまい。ぬし様には妾がおるではないか。ずっとここにいれば良い。妾の傍に」

「ああ。そうだな」

「この針の城に住む限り、刺草の記憶はけして消えぬ。あの傷あの痛み、ぬし様より受けた口づけの甘さ。あれこそが永遠というものなのであろ?」

「……ああ、そうだ。これで良い。我らは永遠に愛し合うのだから……」

 オルロワージュはまたひときわ強く零姫の腰を抱いて舌を吸う。氷のように舌は冷たく零姫は束の間ぞっとする。助けを求めるように瞳だけをぎょろつかせ、オルロワージュの背後に空を見る。いつもと何も変わらない光景だ。

 また雨が降ればいい、と零姫は思う。

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