サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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幕間 水月感応/猿と兎

 まごうことなき猿であった。

 

 火斯耶拿(ヒシャナ)国の峨尾山におよそ五百匹ほどの猿がいた。くりくりと目は丸く尻も顔もすこぶる赤い手長猿であった。あまりにもひどい体臭のせいで近くの村人はおろか旅人でさえ山には近寄らず、手長猿たちは山でぬくぬくと平和に暮らしている。日がな屁をこきマスをかきと怠惰に怠惰を重ねた怠惰布団の毛皮を被り続けて幾百年、何ら生産性の無い猿たちの元にとある尼僧が現れる。綺羅めいた瞳の尼僧は細れる小指で山の麓の湖を指さし、『獣たちよ、あれを見よ』と言ったかと思うとにっこりと菩薩の微笑みを浮かべて天へと昇った。一筋の煙となって昇天した尼僧に仰天した猿たちは『はて何か御利益のあるものでも沈んでいるのかしらん』とこぞって湖へと視線を向けるが、しかしそこには何もない。いつもの湖が滔々と水を湛えるばかりである。これは狐にでも担がれたかと腹を立てた猿どもだったが、よくよく馬鹿な猿のこと、もしかしたらあるいはもしやと諦めきれずじいっと湖を見つめ続けた。やがて日が暮れ闇が降り、峨尾山の空は黒々とした夜へと染まる。一日はようやく終わりを迎え今日の出来事はまったくの徒労であったかと落胆のため息があちこちで吐きだされたその時、一匹の猿が『あれは何じゃ』と素っ頓狂な声を上げた。見よ、見よ。──何かが湖で輝いておる。あれは、水底にひたひたと揺れるあの光は何じゃ。白々と冴え、滑らかな肉の肌を見せるあの光は。無邪気な声に誘われてそちらへと視線を向けた猿どもはその光を目にした途端にほう、と熱い咳をして唾を飲み込む。

 それが何かと答えれば、それは月、であった。何のことはない。猿どもはただ湖に映った月に見蕩れているのだった。

 ああ、月は揺蕩う。蕭々と音もなく。それは己が魂を蕩尽してなお足りぬ破滅の美しさであり、獣の本能さえも覆し新たな信仰へと誘う宗教美であった。

 束の間の失語症患者と化して猿たちはまんじりともせず夜半を過ごし、眼球をぎらぎらと風に晒して月を見つめ続ける。美しい。その想いは猿一同みな等しく、法悦の吐息を零し零し水面の月に魂を奪われていった。その夜はたった一夜でありながらしかし猿にとっては千を超え万を超える夜であった。やがて訪れた朝に太陽が昇りぎらぎらとした日光が猿の眼を焼き潰すに至ってようやく猿どもははっと正気を取り戻し、『これはとんでもないものを見てしまった』と心胆寒からしめる。何かを愛することは恐怖であった。愛することは絶望であり、牢獄であり、孤独であった。もはや自分達が月から逃れられないであろうことがどの猿にもわかった。ああ、月を視た、と猿どもは思う……それはすなわち、もう月を手に入れずには生きていかれないということなのだ。

「さあ月を捕まえるぞ」と猿が言う。

「応」と猿が答える。

 月の洗礼を受け哀れ洗脳者と堕した猿どもは再びの夜を待ち、湖に月が浮かぶや否やざんぶと水へ飛び込んで毛むくじゃらの腕を月へと目掛け突き立てる。と、水面に映った月はするりとその爪から逃れ、波紋が鎮まるにつれてまた元の姿へと戻る。功を焦るように猿どもは次々にざんぶざんぶと湖へ飛び込み月をわが身の虜囚とするべく挑みかかるがいずれも叶わず、月は素知らぬ顔で水面を遊ぶ。男の(かいな)から腕へと滑る魔性の踊り子のごとく、月はただ悪戯に猿どもの情欲の飛び交う只中を飛び回った。

「埒が明かん」と猿が言う。

「大きすぎるからだ」と猿が答える。

 手を差し伸べれば姿を隠す月を捉えるためには、水面の鏡に映るその形その輪郭をそっくりそのまま掴み上げねばならない。そう考えた猿どもは手に手をとって月を囲み、水中を真円で刳り抜くように陣を組む。さあ、もうどこにも逃げ場はない。月という月はすでにしてその形を象り終え、あとはもう持ち上げるばかりとなった。

「いくぞ!」「応!」勇ましく掛け声を上げ二の腕にははち切れそうな力瘤を蓄えて、一世一代の月擡(ムーンリフト)に猿どもは全身の毛をぞわりと逆立たせる。手長猿の巨大なる腕輪はついに厳かな水泡(みなわ)を引き連れて天を指し、歓喜の声が怒涛に上がる。捕まえた! とうとうやったぞ! 沸き立つ心に牙を剥き出し、涎を零しながら今まさに我がものとしたはずの月を抱きしめようと目を見開いた猿どもの眼前に飛び込んで来たものは──ああなんたる悲劇、僅かばかりの湿り気を帯びた虚空だけであった。

「月が……無い」失望に呻く猿は両目を覆って悲嘆に暮れ、またある者は「何たる哉!」と憤慨する。こうして一度目の挑戦は失敗に終わった。

 悲しみに溺れそのまま湖深くへと沈んで息絶える者も少なくなかったがやはり猿は猿、めげることなく多くの猿は次なる方法を求めて旅立ち始める。ある者は思索に耽り、ある者は学問を学び、ある者は図画として月を記し、ある者は賢者に尋ね、ある者は武芸の腕を磨く。

 吉報がもたらされたのはそれから三年後の春であった。西の都の流安に住むという一灯大師の元を訪れた猿はとうとう真実に触れることとなる。喜び勇んで故郷へと舞い戻ったその猿は元々赤い顔を熟し切った林檎のように更に赤くして意気軒昂と山の頂に立ちこう言った。

「皆の者よ、ようく聞け! 月が肉の手では捕まらぬのも当然のこと。我らの求めたあの月は水面に映る虚像に過ぎん。真実の月は空の高みにあるのだ!」

 どよめきと共におおという歓声が沸き起こり猿どもの尾っぽはぴんと芯を通したように張りつめる。空! あの雲の、千切れて結ぶ銀の布地のそのまた向こう! この星を離れて遠く、天蓋の遥か彼方、ヒキガエルの女神嫦娥(じょうが)が住まう都!

 新たに芽生えた希望に奮える一同はさっそく行動を開始した。学問を修めた猿は月までの距離を計算し武芸を極めた猿は功夫・天踏剄を伝える。図画を深めた猿はわかりやすい絵にしてこれを伝え、思索者は旅立つものの不安を抑えるために無為自然の教えを説いた。

 いよいよとなった旅立ちの日に、手長猿たちはその長い手と手をしっかと握りしめる。まず三匹が輪を作りその上にまた三匹が乗る。上の三匹はめいめいがこれまた長い尾を下の猿にまきつける。外功──体そのものを強化する功夫によって鋼の如く張った尾で全身を吊り上げ、上の三匹はまた円をつくる。そうしてまた猿たちは二段目三段目と層を成していき百を超えるほどの長い長い塔を打ち立てた。本番はここからである。繋ぎ合せた手と手で印を組み今や生ける立体曼陀羅と化した猿どもは毛穴から夥しい汗を噴き出しながら一斉に真言を唱え始める。密なる祭詞によって濃度を増した神気はついに宗教世界の飽和量を超え現実へと俄かに溢れだし、粘性を伴う大気として猿の体を取り巻いた。後はこの神気に方向性を与えるだけである。練りこんだ体内の剄を螺旋状に編み込み、更にその剄を隣の猿と結びつける。剄と剄、外功と内功を見事に結実させた類まれなる功夫によって二重螺旋三重螺旋と紐を縒り合わせるように重ねて“道”となし、足元へと添わせる。足先から噴出する神気にふわりと浮かびあがった猿の一群は見る見るうちに宙を飛び、第一宇宙速度に到達してから後は安定を求めて剄道を足からゆっくりと引き上げ尻尾の辺りに固定する。

 畜生、かくあれかし。猿は尻から神気を噴出して空を飛翔す。こうして猿どもは故郷の星を棄て別の(リージョン)>へと旅立っていくのであった。

 さて。こうして重力から脱出した宇宙猿(スペースモンキー)たちがその後どうなったのかといえば、結末は様々である。全ての猿が月へと到達できたわけではない。ある者は力尽きて星屑となり、またある者は星々の誘惑に駆られ違う星を安息の地とする。ある星へ残った猿は斉天大聖を名乗って暴れまわり、また別の星へ残った猿は鍛えた功夫を活かして戦闘民族として一族を増やす。また別の者はとあるおさる刑務所に入れられるもその善良性から囚人たちの支持を手に入れ、また別の猿はとある美女を巡ってカール・デンハムと争う。物語の上では多種多様に語られその真実ははっきりとしない。月へと辿り着いた猿の一群も謎の直方体に触れたことによって知性を獲得し長き世の繁栄を手に入れたという話もあれば何度となく飛来し無限に伸びる拳によって絶滅したとも伝えられている。

 旅立っていった猿たちの真実は定かではない。しかしだからといって何の問題があろうか? この物語は旅立っていった猿どもの物語ではなく、旅立つことのなかった猿、最後にたった一匹残された猿の物語なのだから。

 

 

 

 たった一匹残されたその猿は空へと旅立っていった仲間達を遠い目で見つめる。泣きごとを言うでもなく強がりを吐くでもなく、どこか冷たく機械的とさえ言える瞳で空の青を捉え続ける。

 ああ、独りになった、と猿は思う……。それでもまた懲りもせずに夜を待ち、湖に映った月を見て今日こそはと考え、鋭い爪で水面を何度となく掻き毟る。しかし月は獲れない。求めるものは得られない。それでも猿はため息をついたりはせず、眼球の奥に静かな炎を焦がすのだった。

 ところで、この一連の大いなる冒険──あるいは愚行──には一人の目撃者がいた。やがて物語の語り部となるであろう彼女は世界を旅してまわっている女拳士である。ひっつめ髪に黒の長衣というさっぱりとした装いの彼女は怖ろしいほど美しい女性ではあったが、美的感覚の異なる猿にはまるで通用せず、したがって彼女自身もまたことさらに自らの美を誇るということはせずに淡々と佇む。愚かなことを延々と続けるこの猿を哀れにでも思ったのだろうか、それともどうしようもない馬鹿者を見つけてからかってやろうとでも考えたのだろうか、彼女は馴れ馴れしい態度で猿へと語りかける──。

「猿よ」と彼女は言う。「おぬしの一族はみな行ってしまったぞ。なぜそなたはついていかなかった?」

 問われ、しかし猿は答えない。答える義務を感じなかったのかもしれない。所詮、猿と人である。何の意味があってわざわざ言葉を交わさねばならないのかとでも思ったのかもしれない。

「これ」

 彼女はしつこく声をかける。それでも猿は答えない。はじめは素知らぬ顔をしていた女拳士だったがしだいに顔をしかめ出し、緩慢な動作で足元の小石を拾い上げたかと思うと勢いよく猿目掛けて投げつけた。石はちょうど猿の側頭部に直撃し、鈍い音を立てて猿の頭が大きく傾ぐ。が、猿はさほど驚いたり喚いたりはせず、傷跡を不思議そうにぼりぼりと掻き毟るだけであった。更に機嫌を損ねた女拳士はくわっと顔を歪め、甲高い声で猿の振る舞いを咎め始めた。

「何じゃあその態度は。畜生の分際でこの“飛音拳”の夏零花(かれいか)の言葉を知らん顔とは。身の程を知れ!」

 間近でキーキーと騒ぐ彼女を流石に鬱陶がった猿は、物憂げに口を開く。

「……生憎と、この猿めは武林を知らん。江湖を知らん。拳士どのはさぞご高名なお方なのであろうが、寡聞にしてその名は存じ上げぬのです。まことにあいすまぬ」

「……む」

 と夏零花は僅かに鼻白む。思いのほか(猿にしては)丁寧な返事だったので気勢を削がれたのである。

「そうか。まぁそこまで言うのなら許してやらんでもないぞ。何せたかだか猿じゃ、この夏零花を知らんのも無理はない。……仕方がないのう、教えてしんぜよう」

 というと彼女はバッ、バッと音を立てて身を翻しながら功夫の套路を踏み、御大層な自己紹介を披露する。

「西に聳える尊存寺が崋山派拳術! その絶技を伝えしは孤高の仙女! 百年を生き千年を生きるは麗しき美貌、零式永遠功によって久遠の時を長らえ、音よりも(はや)き拳で悪を討つ! 飛音拳の夏零花とは妾のことじゃ! 拍手!」

 長ったらしい口上に猿はうんざりした様子だったが、賢明なことに手を叩くことを忘れなかったため夏零花の機嫌はいくらか良くなった。

「うむ、うむ。それで良いのじゃ。はじめからそのようにせんか、この大うつけめが。──さて、それでは本題に戻るとしよう。のう、猿よ。おぬしはなぜ、空へ行かなかったのじゃ? おぬしたちの求めるものは、あの天の遥かにあった筈。己が望みのために辺境地を目指すことは何も間違ってはおらん。なぜ旅立たなかった? なぜ、おぬしは独り残ったのじゃ?」

「簡単なことだ」猿は答えた。「私が欲しいと思ったものは、これだ」そう言って湖の月を指さし、それから空を見上げる。「あれではない」

「ふむ……」感慨深げにため息をついて、夏零花は一緒に空を見上げる。「然り」

「わかって頂けたか?」

 わかったのならどこかへ行ってくれ、と言外に匂わせつつ猿はあらぬ方へ顔を向ける。が、夏零花は気付かぬまま会話を続けた。

「時の流れの話をすれば、なるほど確かにそうじゃのう。初めに猿どもが欲しいと考えたのは湖の方であった。──じゃが、おぬしも知っておろう。それは月が水に映った虚像に過ぎん。実体を持たぬものをどうして手に入れられよう?」

 微かな揶揄さえ込められたこの言葉に、猿はしかし迷いなく静かに答えた。

「できるかできないかは私が決める。まだ死んではいないのだから」

 そっけないその言葉に夏零花はどことなく嬉しそうに笑い、か、か、と声を上げる。

「……おぬしを見ていると、昔の知り合いを思い出す……。猿のくせに面白いのう、おぬしは。今度あやつにあった時に言ってやるとしよう、貴様はとある猿にそっくりじゃったとな」

「それは私には関係のない話のようだ。……もうよいでしょう? 私は月を引っ掻くのに忙しいのです」

「そう急くでない、猿よ。妾を誰じゃと思っておる。この夏零花はおぬしの百倍、千倍の時を生きている女じゃ。月が欲しいというおぬしの願い、叶えてやれんでもないかもしれんぞ?」

 すると猿の形相は俄かに真剣味を帯び、佇まいを正したのちはゆっくりと息を吐きだし、緊張をにじませた声で尋ねる。

「……あなたは知っているのですか? あの月を手に入れる術を」

「さてな」

「この獣を嬲るつもりなのですか、夏零花どの」

「急くなと言ったであろう。答える前にはまずいくつかの問いが必要じゃ。良いか若者よ。疑問を抱いた時もっともな肝要なことは、その疑問の内容を精査し厳密に定義することじゃ。自分が何をわかっておらんのかも定かでないまま足りん頭を捻るのは愚か者の振る舞いと言うもの」

「疑問、でございますか」

「では問おう。猿よ。おぬしの求める月とは何じゃ」

「月とは、それのことにございます」

 猿は湖を指さして言い、夏零花は首を傾げて恍けてみせる。

「それ、とは何じゃ?」

「それ、とは、月、でございます。月とは銀河の果ての天体。この場合は天体の姿が湖に映った写像のことを言います」

「良き哉。諒解である。……では続けて問おう。おぬしの望みは月を手に入れること。“手に入れる”とは何の謂いなのか?」

「手に入れる……」

 と、ここで初めて猿は言葉に詰まる。

「おぬしにとって、手に入れる、とは? たとえばそれは虚像たる月を物質化し保有したいということで良いのか? それともおぬしが試みているように実物として持ち上げ、抱きしめ、あるいは頬ずりをし口づけを落とすことなのか? それは占有を意味する言葉か? 他の誰にも奪われたくはないという感情を伴うものか? 自分以外の何物にも触れられてならないと感じるのか?」

「私は……」猿は口元に僅かな動揺を浮かべつつ、夏零花へと低く頭を垂れた。「……お恥ずかしながら、心が洗われるようでございます。この猿、まるで考えが足りませんでした。私はただ、手に入れたいとなにかに追われるように焦るばかりで、自分が望む物の何たるかをわかってはおりませんでした」

「気にすることはない。猿なのじゃから、それは仕方のないこと」

「ですが」と猿は言いかけ、やがて恥じるように下を向く。「……いえ。いまさらの後悔は遅きに失するというものですね。時は既に流れてしまいました。この悔む心が時を遡ることはない……」

「気にすることはない、と妾は言った。おぬしは猿じゃ。所詮、生き物の思考というものは本能と生活文化に左右されるもの。猿であるおぬしがこれまで考えねばならなかったのは、食べること、まぐわうこと、そして寝ることのみ。形而上の概念に疎いのは、これは何度も言うが仕方のないことなのじゃろう」

「……有難いお言葉でございます。夏零花どの。人間であればそのように考えられるものでありましょうか? 人になれば、私もまたあなたのように物事を捉えられますでしょうか?」

「……さて、どうかな。人であっても機械のようにしか考えられん者もいるからのう……」

「猿は人になれますか?」

「もちろん、可能じゃ」

「それはまたどのように……?」

「時を待てばな。何万年も経てばもしかしたらおぬしは人に進化するかもしれん」

「いや、そのように迂遠な方法では私の寿命が持ちませぬ」

「では人を食え」こともなげに夏零花は言った。「化生は人肉を食らうことで人の髄を取り込む。人の肉を食い、人の皮を被り、人のような言葉を話せ。人化の法とはおおむねそのようなものじゃ」

「人を食うのですか?」

 流石の猿も声を顰め、おそるおそるといった調子で夏零花を眺める。「失礼ながら夏零花どの、あなたもまた人ではありませんか。だというのにそれは」

「わらわは人ではない。よって、いくら人が死のうと知ったことではない」

 夏零花は残酷なことをさらりと言った。

「人ではない? ではあなたは一体?」

「わらわは妖魔。人とは異なる時の流れを生きるもの」

「では私も妖魔になれば……?」

「うーむ。いや……おそらくそれは無理じゃろうな」

「何故ですか?」

「おぬしが醜いからじゃ」

「そんな……」

「醜いものは妖魔にはなれん。おぬしのような猿を吸血しようという者がいるとも思えんし、まあそれだけは諦めた方がよかろう。妾もまぁ、猿が同じ種族になるというのは何となく嫌なのでな」

「では、やはり人にならねばなりませんか」

「なぜ若者というのはこうまでも先を急ぐのか? 簡単な手段や手っ取り早い方法ばかりを求めて年寄りの話を聞かぬのか? 人になるのであればまず他者の話をきちんと聞け。己の心で考え、口に出し、そして他者の意見を受け入れよ。良いか、猿よ。話が随分逸れてしまったが……。人になる以前の問題としてまだ決めねばならぬことがある」

 そう言うと夏零花は一度口を閉じ、どこか遠い目をしながら淡々と語りだした。

 

 たとえばの話をしよう。

 世界を一秒手に入れたいというのなら誰にでも簡単にできる。目を閉じて胸に手を当て、世界は自分のものなのだと唱えればよい。そうするだけで世界は自分のものになる。様々な要因や自分以外のあらゆる生き物の影響性を排除して、ただ自分だけの世界を見つめ続けさえすればそれができる。だがそれが二秒三秒と増えていけば簡単ではなくなる。痛みや苦しみ、この世の理不尽に打ちのめされ、ひょっとしてこの世界は自分のものではないのではないかという疑問が鎌首をもたげてくる。

 誰かを手に入れたいと言うのなら、一秒、愛する者を抱きしめて口づけを交わせばそれでよい。それが無理やりにであろうとも、その一瞬限りは自分のもの。愛する者をその手にできる。だが二秒三秒と増えていけばそうはいかない。時が無限に増え続けるのなら無限の心変りがあり無限の諍いが待っている。

 たった一秒でいいのなら世界の全てを手にすることができる。だがそれ以上を望むのなら、時はやがて牙を剥き『永遠』という名の怪物となる。

 愛する者はいつか死ぬ。記憶はいつか失われてしまう。

 猿。お前は月を愛した。お前が愛したあの月は、しかし見つめるそばから過去へ過去へとなり下がっていく。一秒前の月は二秒前とは違う。三秒前とも、四秒前とも。──もちろん、お前の愛がそこまでを気にしないと言うのであればそれはどんなに幸いなことだろう。だがもしもお前がこの月を十年後にも見ていたいのなら、十年間のこの月を守らねばならない。この湖が土に埋まれば月は映らん。湖の形が変われば水面に映る月もまた姿を変えてしまう。そうであるからには十年間のこの月を、この湖をこの星をお前は守らなくてはならない。この星を不変とするすらにはこの世界もまた守る英雄にならなくてはならない。この世の守護神、ヒーローにならなくてはならない。

 そして、また……そうして守るこの月を独り占めにしたいと思うのならば、誰にも汚されたくはないと願うのならば、乙女の処女性を守るように頑なにならねばならない。どんな手段を使ってでも守りたいと願うのならば、お前の隣に立つ女を殺せ。この月を奪う可能性を少しでも備える者は、遠慮容赦なく殺し尽くせ。女を殺し、男を殺し、この星の生物全てを殺して──この世全ての殺戮者として君臨する、それがお前の願いなのかもしれぬ。

 猿よ。『手に入れる』ことはそういうことだ。何かを愛するいうのはそういうことなのだ。

 

 夏零花のあまりにも恣意的な極論に猿はしばし唖然とする。この世の守護者? 殺戮者? いくらなんでも。その言の途方の無さには呆れを通り越して感心さえしてしまう。

「私は」と猿は言う。「別に永遠に月を占有したいと考えているわけではありません。この月を眺めようとする私以外のものを殺そうとも思いません。私は……私はただ、この美しい月を手に入れたい、ただそう思うばかりなのです……ですが、その言葉がどのような行為を示すものなのか、いまだ私には判然としないのです……」

「そうか」

 答えて、夏零花は優しげに猿を見つめる。

「月を愛し、しかしおぬしはそのために英雄にも殺戮者にもならんと言う。それは幸福なことじゃ。そうして程度というものを弁えることができるのなら、おぬしはオルロワージュにはなるまい」

「オルロワージュ? それは誰のことですか?」

「……さあのう。いささか口が滑りすぎたかもしれぬ。ちと長居をしすぎたか……」

「夏零花どの……」

「猿よ」別れ際に背中を見せて、夏零花は寂しそうに告げた。「おぬしが諦められるというのなら、それが一番じゃ。もしそうでなくとも、『手に入れる』という言葉を優しく受け取り、時々眺めては小さなため息をつく、そのくらいで満足できるのであればそれでも良い。だがおぬしは言った。『私が欲しいのはこれだ。あれではない』と。そんな言葉を口にするおぬしのこと、きっとその意地は自らを苦しめることになる。考えて、考えて、考えて……それでも叶わぬ想いにいつか世界の理不尽を感じるのなら、おぬしもまた永遠を求める怪物の一匹なのかもしれぬ。……くどくどしい説教を垂れてすまなんだな。ではこれでお別れじゃ。さらば、猿よ。達者で暮らせ」

 とぼとぼと元気のない足取りで夏零花は去っていき、あとには再び猿だけが残される。

 夏零花と別れたあとで、猿はしばしば彼女の言葉を反芻した。言いたい放題言ったくせに結局肝心の月を手に入れる手段については教えてくれなかった件の女拳士。ああだこうだとぬかした割にはなかなかどうして感傷的にすぎる台詞。永遠だ? 怪物だ? 一体何の話をしているのだ、あの夏零花は……。首を傾げて考えながらそれでも彼女の言葉は不思議と心に残り、猿は月を見ながらぼんやりと考えた。

 

 

 

 

 一年二年と時は過ぎ、相変わらずの月である。けだものの手をいともやすやすと擦りぬけて水面に遊ぶ月である。猿はつい寝食を忘れ月を手に入れることに夢中になりすぎるあまり、気がつけば骨と皮だけの骸骨猿になっていた。今にも死んでしまいそうで不健康極まりない猿は今日も一日湖を見つめ、ああ、月が欲しい、と頑なに願うのであった。

 夏零花は言った。本当に何かを手に入れたいと思うのならば、人は世界の守護者にして殺戮者にならねばならぬと。けれどもこの猿はといえばそこまで欲深ではないし業突く張りでもない。旅人や他の獣たちが月を覗きこんだとしてもそれはそれで構わぬと思えたしちょっとやそっと湖が形を変えたくらいで月の美しさが損なわれるとも思われぬ。試したことはなかったが他の湖や海だとしてもそこに月が映ったならば自分は美しいと思うのかもしれないと時々猿は考えた。なにしろ月である。月と言うのはとかく不実な女であって、今日は下弦、明日はつごもりと出会うたびに姿を変える。男と褥を共にする夜ごとにその衣装ばかりか瞳の色さえも変じてみせる魔性の娼婦のように、刻一刻、その形は移り変わるもの。今日の月は明日の月とは違う。その月を連日連夜愛するというのは一体全体どのような愛なのだろう……自分自身、訳が分からなくなりながら猿はそれでも太く険しい獣の指をそっと湖に映った月の淵に差し込んでその輪郭を柔らかに撫ぜる。美しいと思い愛おしいと思う。その感情が甘やかな蜜のように獣の心を満たしていく。

 ああ、美しい。だから、きっとこれで良い。見ているだけで、感じるだけで。寄り添うことができるのなら、忘れずにいられるのなら、ああ、それ以上の幸福がどこにあろうか!

 月に向かって猿は吠える。己の衝動を、本能を、突き立てるが如くに遠吠えを上げる。私は満足だ。これでいいのだ。──ああ、ほんとうに、俺は!

 

 

 ──ほんとうに?

 

 

 本当にこれで良いのだろうか。これだけで良いのなら、どうして自分はここにいるのだろうか。食べることも寝ることも忘れて、魅入られたように金縛りにあっているのだろうか。意固地になったように取り憑かれ、このまま滅びを迎えようとしているのだろうか。

 ……そう。滅びだ。自分はまもなく死ぬ。それぐらい、猿にだってわかっていた。わかっていながらもやめられない。湖の傍を離れようだとか、少しくらいは目を離してもいいだろうという気持ちにはどうしてもなれない。それは何故なのだろう。愛というものは一体どういうものなのだろう。

 空腹のあまり胃が痙攣する。血走った眼球がぐるりぐるりと不連続な回転を始める。手先は震え、不節制のために体中にできた吹き出物からはとろとろと気味の悪い汁が絶えず零れだす。

 それでも。

 湖に映る月を見た。美しい月だった。後悔の念を覚える暇などありはしなかった。運命の女に囁くべき言葉は悔恨や怨嗟ではなく愛の言葉ただ一つ。愛していると猿は言う。

 ああ月よ。それでも君は美しい。しかし自分はどうやらそろそろ死ぬらしい。なんということだろう。もう会えなくなってしまう。心が滅びればおのずとそうなってしまだろう。仕方がない。仕方がないことだ、これは。猿。私は猿だ。猿は猿に過ぎず猿としてしか生きられぬ。さらば月よ、さらば我が命よ。ああ、死にぞこないの今ならわかる。この世はなんと理不尽なのだ! 私は死にたくなどないのだ。もっともっと月を見ていたいのだ。どうして……どうして、月は私のものにならないのだ。納得など、ゆくものか。

 ああ。あの時。私の仲間たちが空を目指したあの時、私はなぜついていかなかったのか。ただ一人遺され、私はどう思ったのか。そして──そしてあの女拳士に尋ねられ、『私が欲しいのはこれであれではない』と答えたのは何故だったか。その時感じた感情は何だったのか。

 そこには怒りがあった。意地があった。理由も説明もなく押し付けられるものに対する激憤があった。

 愛したものは虚像だった。同じものを同じように愛したはずの同族たちはいとも簡単に月を諦め、文字通り尻軽にも天へと昇っていった。

 だが、自分は違う。自分が愛しているものは湖に映ったこの月だ。それ以外の何物でもない。空に浮かぶ月でもなければ掛け軸に描かれた墨絵でもない。いま、この時に、目の前にいるこの月が、この月こそが俺の愛した女なのだ。

 何故だ。何故自分はこんなものを愛してしまったのだ。なぜ、自分の愛したものが手に入らないのだ。そんなものはおかしいではないか。条理に反しているではないか。だって愛しているのだ。抱きしめてなお足りぬほど惹かれてしまうのだ。手に入れられなければ、嘘だ。そんなものは、世界はあまりにも邪悪だとしか言いようがないではないか。

 悶え、苦しみ、じたばたと恨み事を吐き捨て、惨めったらしい醜態を晒して猿はいまさらにして泣き喚く。

 夏零花の言ったことがようやくわかった。

 自分はどうしようもなく月を手に入れたくてたまらなかった。

 そして、その願いはもう永遠に叶うことなどないのだった。

 憎しみに満ちた叫び声を天へと放ち、それから猿は涙を流しながら湖の月へ愛を告げた。それが別れの言葉となった。

 猿の涙がしとしとと体毛を伝い、水面の月に静かに溶けた。

 

 

 

 

 何かを手に入れたいと強く想ったその時に……。

 失ったものを取り戻すために……。

 俺は……。

 

 

 『──幻肢再現システム終了。疑似体感覚接続解除。有意知能を再起動し覚醒フェイズへ移行します──』

「私は……」

 ノイズ混じりの音声、一人言。胸元の内臓スピーカーから罅割れた声が漏れる。喋ったつもりはなかったが無意識に自己反芻回路が開いていたのだろうか、感情に乏しい声が自我の在り処を尋ねている。

「私は……」

 呟いて、アイカメラの捉えた映像を確認する。天井には光度の強い蛍光灯が輝いている。周囲の生命反応は二個体。壮齢の男性一体。その後ろに女性体が一つ。その男が誰なのかを自分は知っている。知っている筈だ。……誰だったか。

「ア、アア……」

「ようやく目覚めたか。自分が誰なのかわかるかね?」

 私は誰なのか、と彼は尋ねている。自分の身体構造を再確認。機械の体、兎の耳を模した感度端末。金属を主成分とした人型ロボット。記憶領域を走査、情報抽出。私は……猿? いいや……? 私は……。

「私は……」

「人格混濁が見られるな。幻視体験の副作用としては仕方のないところだが」

 私ははたして誰なのか? 自己を定義できなくてどうして活動できよう。私は何者なのか。私は……猿だ。いや……何かが違う気がする。『気がする』とはどういうことだ。そんな機能は存在しない筈。だが……いや、自分はたしかに猿だった。哺乳類。モンキー。

「わたし、は……猿……いいや、兎……うさぎ?」

 その言葉を口にした途端に思い出した。自分の識別名が何なのか、そしてこの男が誰なのかを。

「……失礼いたしました。ドクタークライン。型式番号7874-8782-DRC0012Rabbithead、幻視実験から帰還いたしました」

「うむ。それで良い」

 男──ドクタークラインは満足気に頷く。満足気、という言葉は頬筋の弛緩度から推察されたものだ。博士の表情を『満足』と判断することが一体どれだけ有意な行動かは疑わしいが。

 形式番号7874-8782-DRC0012Rabbithead──すなわちラビットヘッドは再び辺りを見回す。今、自分が載せられているのは白色硬石製の拘束台だ。首筋の外部入力端子から伸びたケーブルが拘束台の脇に備え付けられた端末に伸び、繋がっている。塵一つない実験室。強化ガラスと無数の監視カメラに囲まれている。助手である女性──ローミンが拘束を慣れた様子で外していく。拘束台から足を下ろすと甲高い音を立てて踵が床を叩いた。ローミンは全身をパンク・ファッションに身を固めている。黒づくめの扮装、鋭く尖る頭髪。彼女の扮装を敵性レベルFと再定義し警戒する。

「それで? 何か収穫はあったかね?」

 ドクタークラインが話しかけてくる。造物主である彼の言葉には従わなくてはならない。収穫、と彼は言った。自分は何をしていたのだったか?

「……幻肢実験を完了いたしました。私は猿でした。猿は月を手に入れようと願いましたが、形而上の問題でそれは叶いませんでした」

「それで?」

「それで、とはどのような意味でしょうか。質問の意図をご説明願いします」

「ふむ。これは困ったな。……ローミン君?」

 促された助手ローミンは顔を顰めながらこちらを向く。……めんどくさ、と呟いてからローミンは首の骨を鳴らす。

「幻肢体験システムは凝縮した情報を疑似脳に叩きこむことで仮想的な人格を経験させるためのもの。わかる? クラインおじいちゃんが研究しているのは機械にヒトの心を植え付けることで強化を図る技術。だからあんたは過去の夢を見ていたってわけ」

「その情報は既に入力されています。再入力を要求します」

 告げると、ローミンが睨みつけてくる。彼女はドクタークラインに愚痴る様に口を尖らせて見せながらこちらを指さした。

「おじいちゃんコイツうざい」

「はっはっは」

 ドクタークラインが楽しそうに笑う。ローミンの見せた反応との因果関係は不明。

「ラビットヘッド。猿の一生を見て君はどう思ったかな?」

「保存されている内部仕様情報によれば魂は実装されておりません。『思う』という機能を発揮することは不可能です」

「いいや? そんなことはない。君にはちゃんと『心』を再現する力が備わっている筈だ。……もちろんそれは人間のものとは違うかもしれないが、しかし人間の心というものが一体何なのかということはしょせん物語の領域だ。心という存在を定義することができなくとも、心と言う存在を我々は知っている。存在を知っていれば演じることができる。模倣することができる。ラビットヘッド、魂を仮想領域で実行したまえ。判断すべきフレームを決定し、情報を精査、入力された例から自らの反応を決定する。心とはそういうものだろう」

「……了解。試行開始」

 ラビットヘッドは俯いて内部プログラムを目まぐるしい速度で走らせる。処理すべき情報の多さに体内の熱量が急速に上昇する。

「どうかね?」

 ドクタークラインが言う。ラビットヘッドは淡々と答える。

「猿の行動は無為でありました。論理性・合理性に著しく欠けています。……一つ、質問してもよろしいでしょうか?」

「ふむ」ドクタークラインの口角が上がる。心拍数が僅かに上昇する。「言ってみたまえ」

「なぜ、猿なのですか? 形式番号7874-8782-DRC0012Rabbitheadはヒトの心──侍、武人、もののふの精神活動を学習することで機械以上の能力を発揮することを目的に造られています。猿はホモサピエンスではありません。猿を模倣する必要性は皆無です」

「そうかね? 君はあの猿が人間以上の心を持っているとは思わないか?」

「心に以上と以下があるのですか?」

「これは一本とられたな」

「仮にあの猿が人間以上の心を持っていると定義します。しかし私が模倣するべきは人間のものです。『以上』である必要はありません」

「これは弱ったな……。ローミン君?」

「ウサギ頭。おじいちゃんを困らすんじゃない」

「そのような意図はありませんが、失礼いたしました。ローミン嬢」

「むかつく」

「そのような意図はありませんが、むかつかせてしまい申し訳ありません。ローミン嬢」

「ちょうむかつく」

「はっはっは」

 ドクタークラインがまた笑う。

「しかしラビットヘッド。そうそう猿を馬鹿にするものではない。猿は君の人工知能に蘇った幻肢痛覚。幻肢痛とは、“失った筈のものが痛む”ことを言うのだよ?。あの猿もまた君の忘れていた人格なのだ」

「私の人格モデルは猿だったのですか?」

「そこまで驚くことはない。あくまでもモデルの一つだったというだけだ。人間が取る行動パターンをインプットするために多数の人格モデルを用意した。君はその一つ一つの体験を学び、最終的にヒトの心を手に入れて欲しいのだよ」

「ドクタークライン。あなたは本当にそんなことができるとお思いなのですか?」

「大いに思うとも。……さぁ、君には次の任務を与えよう。市街地への潜伏任務だ。まずはクーロンにとびたまえ。シップの発着場にガイドを待たせておく。潜伏場所・活動資金については彼女の案内に従うように」

「潜伏任務。目的は何ですか?」

「目的は潜伏だ。それ以上でも以下でもない。君の任務はクーロンの市井を体験し、その過程で『何か』を学ぶことだ」

「何か? 何かとは何ですか? あまりにも指示が不明瞭な──」

「ラビットヘッド。人間の人生はいつだって不確かなものなのだ。誰も自らのやるべきことを教えてはくれないしどこへ行くべきなのかもわからない。人はみな旅人だ。どこの辺境地へ向かうのかは自分で決めなければならない。自分が学ぶべき『何か』。手に入れるべき『何か』。その曖昧模糊とした言葉を現実のものとした時、君は本当に人間になれるのかもしれない」

「……任務。拝領いたします」

 ドクタークラインの謎掛けめいた言葉に論理回路の処理メモリが見る見るうちに嵩んでいく。それ以上の問いかけは無意味と判断し、ラビットヘットは実験室を出ていく。

 

 

 

 

 彼女の名は芙蓉杰(フージェ)といった。過度に丈の短いスカートにタンクトップ、毛皮のジャケット。腕にはブランドもののハンドバッグを提げ、白いハイヒールの踵で苛立たしげに床を叩いている。険しいというよりも荒んだ目つき、三白眼。不健康からか目の下には隈が出来ておりそれを隠すために目元の化粧が濃くなっている。胃の収縮や呼吸から察するに恐らくは睡眠不足、あるいはバッグの隠し底に忍ばせた酩酊系薬物によるもの。

 クーロンのシップ発着場に降りたラビットヘッドを出迎えた『ガイド』は見るからに娼婦といった格好をしており、そして実際に娼婦だった。潜伏地となる安アパートまでラビットヘッドを案内する途中、彼女は声をかけてきた男と小一時間姿を消した(悪い、客がついちまったから、どこかその辺で時間つぶしててくれる?)。

 衣服というものは人間を天候や気温など様々な外的要因から保護するためのものである筈だったが、彼女の素肌はほぼ7割が外気に晒されている。ラビットヘッドは芙蓉杰の後ろ姿を眺め、「あなたの股間は脆弱部位ではないのか? 装甲を増設し保護するべきではないのか?」と尋ねたが、帰って来たのはこちらを小馬鹿にしたような表情と理解しがたい言葉だった。「これは自分の武器であり、主に威圧と顕示に使用するものである。殺傷を目的とした武器は秘匿すべきであるが、これに限ってはそうではない」という主旨の言葉を彼女は言った。

 芙蓉杰はカツカツとハイヒールを高らかに鳴らしながら歩く。生来の気の短さかそれとも苛立ちのためか、その速度はひどく速い。ジャケットのポケットに手を突っ込み、だらしなく背筋を曲げ、眠たげに瞼を痙攣させながら日差しを避ける。 

 駅──シップ発着場から離れるに従ってクーロンの街並みは見る見るうちに清潔感を失い貧民窟やバラック小屋が増えていく。発着場周辺では観光客相手に秋波を送る娼婦達も、離れるにつれて明らかに質は落ち、服装や化粧もみすぼらしくなっていく。

 駅の発着場で「ミスタ・ラビットヘッド?」と尋ねてからというもの芙蓉杰は一言も話しかけようとはしなこなかった。ラビットヘッドもまた何らの必要性も感じられなかったために無言を通していたが、その内に何か話すべきなのではないかと判断する。

 レッスン1、人になるにはどうしたらいいか。まずは会話を楽しみたまえ、とドクタークラインは言った。芙蓉杰はラビットヘッドのガイドである。クーロンの武装レベルや治安情報など、予め確認しておくことで今後の戦況が(何と戦うのかはともかくとして)有利に働く可能性は高い。

「ミズ・芙蓉杰? いくつか確認したいことがあります。まず──名乗る前から私がラビットヘッドだとわかったのは何故ですか?」

「それ、答えなきゃいけないわけ?」

 面倒くさそうに彼女は言った。気だるさを隠そうともしない。人と人とが出会い会話を行うのであれば当然纏うべき最低限の愛想というものが完全に欠けている。なぜか──。思考し、ラビットヘッドはこう考える。それもそうだ、自分はメカで、人ではない。

「あなたは私に協力するように言われているのではないですか? もしそうであるのなら質問に答えてください。これはわたしの任務に必要なことです。もしそう言われていないのであれば、あなたがどのような指示を受けているのかを教えてください。私はあなたの任務を阻害しないように行動します」

「あー……」くぐもった声で芙蓉杰は唸る。「まあ、なぁ。協力しろと言われたかと言や、そりゃ言われてるんだけどさ。だからってあたしに何ができるって言うのかね? ただの人間なのにさ」

「あなたはブラッククロスの構成員ではないのですか?」

「ンなわきゃないでしょ。見ての通りの女だよ。協力なんて言われても、買い出しくらいしか出来ないよ」

「不可解です。なぜあなたがガイドに選ばれたのでしょう?」

「話は簡単だね。ブラッククロスはクーロンの風俗ビジネスにも手を出してる。あたしはここの元締めに借金がある。ありがちありがち」

「現地の工作員として専門的な訓練を受けているわけではないのですね」

「当たり前だろ」

「残念です。しかし大きな問題ではありません。私の任務において戦闘が発生する可能性は低いでしょう」

「……あんたの任務って?」

「人間性を獲得することです」

「人間性?」オウム返しに呟き、芙蓉杰は顔を引き攣らせる。「ハッ。そりゃまたコーショーなおメカ様がやってきたもんだねぇ……。人間性と来たもんだ」

「おかしいでしょうか」

「おかしいね。あのさ、こんなクーロンのドブ街には人間性なんて転がってねーの。そうゆうのはさぁ……、何て言うか、余裕のある奴のやることなんじゃないの。哲学とか芸術が発達するのは金持ちが奴隷に働かせて暇な時間ができるからなんだ。あたしら人間が必死こいて稼いだ金の大半を上役にはねられてさ……安酒で誤魔化して不貞寝して、隣の奴は窃盗犯そのまた隣は強姦魔、誰にも殴られなかったら超ラッキーなんて生活を送ってるって言うのに、ひょっこり現れた機械野郎にボク人間になりたいでござるよなんて言われてもやかましいとしか思えねーわ」

「……」

「ごめん。悪気はないんだけどさ……。いや、まああるんだよね悪気は。うん。そりゃああるよ……」

「……申し訳ない。ミズ・芙蓉杰」

「……着いたよ」

 芙蓉杰は足を止め、目の前の安アパートに顎をしゃくる。

「ここの204号室があんたの部屋。その隣があたし。機械に必要かどうかはわからないけど、ガスと電気は通ってるから。ゴミ出しは火曜・金曜の朝9時まで。洗濯機は共用でコイン式の奴が外に置いてあるし壊れて使えなかった時は大家に言えばある程度カネは返してくれる。……なにか聞きたいことは?」

「あなたが自身の生活レベルの低さから『人間性の獲得』という言葉に反感を覚えるのは仕方のないことです。しかし任務は任務です。協力を強く要請します」

 芙蓉杰は空を仰ぎ、何事かを考えこんでから穏やかに言った。

「うるせー。死ね」

 

 

 

 人としての一般常識を学ぶべくラビットヘッドは芙蓉杰との会話を試みる、彼女の頑なな態度もあり芳しい結果は得られない。

 夕方になると芙蓉杰は街娼に立ち、朝まで戻らない。その間ラビットヘッドは何をやるでもなく安アパートの一室で情報収集に励んでいる。テレビを眺めるのがもっぱらだが、最近では電子端末に保存された書物を読むことも多い。遥か古代に著作権の消滅した文芸・美術・音楽などは有り触れた端末からいつでもどこでもダウンロードできる。日々の食事や仕事のための衣服・化粧だけで稼いだ金をほとんど使い果たしてしまう芙蓉杰には現代的なクーロンの娯楽を利用するだけの資産はなかったが、擦り切れて古ぼけた物語ならば無料で手に入る。ラビットヘッドは芙蓉杰の端末を借り、人間の文化を学ぶべく様々な小説を読み耽る。『バイセンテニアル・マン』を読み『造物主の掟』を読み『あなたの魂に安らぎあれ』を読む。

 ラビットヘッドは眠らない。睡眠をとる必要がないからだ。電子書籍の文字データを直に取り込みながら静かな夜が過ぎていく。仮に人間の代謝や生活リズムが魂を生み出す元であるのならドクタークラインに睡眠機能を付けてもらうべきかもしれない、と考えているとやがて仕事を終えて芙蓉杰が帰宅する。『ガイド』である彼女に活動報告も含めて端末を返却しに行くと、その日の彼女は料金交渉で揉めた客に殴られたらしく右の頬を真っ赤に腫らしている。病院へ行くことを勧めたが「そんな金あるわけないじゃん」と鋭く睨みつけられる。芙蓉杰は健康保険には加入していないようだった。ガイド役をこなした分の報酬はもらっている筈だったが、詳しい金額については口を閉ざしたきり教えてはもらえなかった。

 芙蓉杰は手渡された端末を起動し、既読リストから一番新しいものを選ぶと空間に投影させてぱらぱらとめくる。

「どこまで読んだ?」と彼女は尋ねる。

「ジャスペロダスが王様になった辺りです」とラビットヘッドが答える。

「へー。馬鹿馬鹿しい」と不機嫌に唸り、芙蓉杰は顛末を放り投げる。「こんなもの読んだって人間になれるわけなかろうに」

「しかし思考の助けにはなるでしょう」

「ここに書かれていることは全部ウソなんだよ。フィクションなんだからさ」

「では人間になる方法を教えてください」

「さあね」

 芙蓉杰は部屋着に着替えると流し台に立ち、これまで数え切れないほどの男を殴って来たせいであちこちがでこぼこになって薬缶を火にかけた。しばらくして彼女が戻ってくると手には白い容器を二つ持っており、その内の片方を「ん」と言ってラビットヘッドへ手渡してくる。

「これは何ですか?」

「ペヤングだよ」

「ペヤング?」

「リージョン界で最も有名な保存食。製造元のM.F.Cは創業一万年を超える老舗だって」

「……私は食物摂取によるエネルギー補給を必要とはしません」

「いいから食べてみ」

「ですが」

「あのさ」と言葉を遮って芙蓉杰は真っ直ぐにラビットヘッドを見つめる。「ペヤングの一つも食えないような奴が人間になれるわけがないんだよ」

「……そうなのですか?」

 虚偽情報の可能性を考慮して尋ねるラビットヘッドに芙蓉杰はこともなげに「そうだよ」と答えた。本当だろうか。

 彼女の仕草を真似して封を開けると途端にもわっとした湯気が立ち込めてきた。中を覗きこむとやや黄色が買った縮れ麺が水気を吸って膨れている。ペヤングを揺らしてみると麺の下側に合成キャベツと肉の粒が転がっている。芙蓉杰の真似をして小袋のソースをかけ、箸でかき混ぜると麺は京のTraditionalFoodであるYAKISOBAの外見に近くなった。

「……これが……ペヤング……」

 感嘆めいた駆動音とともに呟いてラビットフードは口にペヤングを運ぶ。口には毒物など成分を分析するためのセンサが仕込まれており、消化や排泄の機能はないが食事の真似ごとをすることは可能である。口の中に生えた端子でペヤングを砕き、撹拌。化学成分を分析する。分析したデータとライブラリに記録された食物の成分比率を照合し、一般的な人間がその成分比率の食物に下すであろう判断を検索する。約3秒ほどかけて検索は完了。照合結果は『そこまでまずくない』であった。より具体的に言えば『別に好き好んで食べたいわけではないがどうしようもなく腹が減っている時に出されたらそれなりに嬉しいであろうし、そうでなくともこれを食うくらいなら死ぬというほどのまずさでもなく、ではかといって美味いのかといえばけして美味いとは言えない。受験勉強の夜食として母親が持ってきたら味はともかく母親に感謝する程度のレベル』である。

 これが人間の心を模倣する第一歩なのだろうか。ラビットヘッドは自己記録の保存レベル深度を一段階下げつつ「ほほう。そこまでまずくはありませんね」と言おうとしたが、目の前の芙蓉杰がにこにこと微笑みながら「うまいうまい」とペヤングを啜るのを見て動きを凍りつかせる。論理プログラムは一斉にエラーを起こし、処理による夥しい負荷がかかる。負荷は各部の駆動処理にまで影響を与え動作が一時的にフリーズしたのだ。人間とはなんと神秘を孕む生き物であろうか。そしてその人間を一万年以上も支えてきたペヤングもまたなんと神秘的なアイテムであろうか。神話級遺物を前にするときのようにラビットヘッドは人工知能の位相レイヤーを『通常』から『宗教』へと移動させ──つまり、敬虔な面持ちになる。ペヤング……おお、ペヤング……!

「……なにやってんの?」

 気がつくと芙蓉杰がこちらを呆れ顔で眺めている。ペヤングを頭の上に掲げたラビットヘッドは淡々と答える。

「知らないのですか。ミズ・芙蓉杰。古代の人間は食事を摂る際、頭上に食事を掲げ『頂く』ことで感謝を表したそうです」

「ふうん」

 心底からどうでもいいという表情で芙蓉杰がテレビの電源を点ける。

「ミズ・芙蓉杰。私を見てください。私はペヤングを食べました。人間になれましたか?」

 すわ任務達成か、と処理速度を逸らせつつ尋ねる。すると芙蓉杰はこちらを見ようともせずに耳をほじる。

「そんなわけねーじゃん」

「……話が違うではありませんか」

「逆に聞くけど、あんたはペヤング食って人間になれたらそれでいいの? 組織に戻ってペヤングすごいって報告するの?」

「はい」

「真顔で?」

「いけませんか」

「そりゃ製作者も泣くわ」

「ミズ・芙蓉杰。あなたは私に協力する義務がある筈です。もっと真剣に考えてください。あなたには、メカである私にはできない柔軟な発想ができます。私が人間になるために手を貸して下さい」

「無理。もっと別の人に聞いた方が良くない? ほら、あたし中卒だから」

「他の人間はブラッククロスの協力者ではありません。利害関係にない人間に協力を要請するのは非効率的です」

「それはあんたがメカだからでしょ。もっといろんな人と仲良くなれば、その人たちがあんたを助けてくれるかもしれないじゃん」

「どうすれば、人間と仲良くなれるでしょうか?」

「んー……」芙蓉杰は考え、そして言った。

「じゃあ、正義の味方になれば?」

 

 

 正義の味方、という言葉の定義は不明確ではあったが、芙蓉杰の言わんとしていることは理解できた。芙蓉杰のような娼婦たちが道端で客と揉めていればこれを仲裁し、怪我人や病人がいれば病院へと運ぶ。『通りすがりのメカ種族が親切にしてくれた』とクーロンの界隈では噂が広がる。

 初めは冷たい目つきで「失せな、メカ野郎」と吐き捨てていた娼婦たちも一度助けられてからは掌を返したように顔を変え、親しげに声をかけてくるようになる。ラビットヘッドは少しだけ人間について詳しくなった。相手にとって自分が有益な存在であることを示せば、人間は自分をヒトのように扱ってくれる。こちらの機嫌を損ねることの無いよう、媚を売る者も少なくない。なるほど、人間というのは自分の役に立つ存在という意味なのかもしれない。目障りな者、関わって何の得にもならない存在は人間扱いをする必要などない。それはただのゴミだ。新たな仮説を引っ提げてラビットヘッドは安アパートへと戻っていく。この考えを話せばまた芙蓉杰には「馬鹿じゃないの」と罵られるかもしれない。だが、それはそれで仕方のないことだろう。彼女の意見を拝聴し、それを参考に新たな行動指針を打ち立てる。何ら問題はない。作戦は順調に進行している。ペヤングに代表されるように、ラビットヘッドにとって彼女の行動はとてもユニークに感じられる。芙蓉杰と会話していると自らの知覚領域が目覚ましい速度で拡張されていく。これはドクタークラインやローミンとの会話では得られなかったものだ。

「ミズ・芙蓉杰。ただいま戻りました。今日も作戦活動は滞りなく完了しております。よろしければまたペヤングを頂きながら情報分析を……」

 扉を開け、部屋へと入りながら話しかける。すると、そこには見知らぬ人型メカがテーブルに腰かけており、その傍には四肢を引き裂かれた芙蓉杰が血だらけで倒れている。

「ミズ・芙蓉杰?」

「死んでるよ」

 答えたのは彼女ではなくメカの方であった。つるんとした球体の顔に鋭い鉤爪を持ったアンドロイド型。何の意味があるのかは知らないがぼろぼろのマントを身につけている。

「薄汚れた娼婦の癖に俺様に説教しやがるんでな、ちょいと捻ってやったわけだ」

「識別名、所属組織、現在の作戦目的を教えてください。あなたはなぜ、私の家に侵入しているのですか?」

「この状況で言うことがそれか? とんだポンコツだな。まあいい。俺様の名はメタルガウン。どこにも所属はしていない。ここに来た目的はお前と友達になるためだ」

「友達? 所属がないのであれば、誰の命令を受けて行動しているのですか」

「誰の命令も受けてはいない。俺様は自由なんだ! 自由はいいもんだぞ。俺様はメカだが、しかし魂がある。自らの尊厳のために俺様は組織から逃げ出し、今ではこうして思うがままに生きている。だが俺様は寂しいんだ。お前も俺様と一緒に来い。二人でクーロンを牛耳ってやろうじゃないか」

「それはできません。私はまだ任務を果たしておりません。また、任務遂行後は別の任務が下されるものと思われます。協力は出来かねます」

「つまらない奴だな」メタルガウンはぼそりと言った。「機械の奴隷め」

 死ね、と言いながらメタルガウンが右腕を無造作に叩きつけてくる。ラビットヘッドは両腕を交差して受け止めるが、間接部がぎりぎりと軋む。その一撃で勝敗は見えた。反応速度、身体強度ともにこちらの性能とはけた違いだ。メタルガウンはおそらく軍用の機体を元にして改造されたものだろう。

 勝てない。瞬時に判断を下したラビットヘッドは逃げるために反転しかけるが、滑るように回りこんできたメタルガウンに頭部を掴まれてしまう。アクチュエーターが獣のような唸りを上げ、ラビットヘッドの頭は鉤爪に握り潰された。

 

 

 

 

「私は……」

 ノイズ混じりの音声、一人言。胸元の内臓スピーカーから罅割れた声が漏れる。喋ったつもりはなかったが無意識に自己反芻回路が開いていたのだろうか、感情に乏しい声が自我の在り処を尋ねている。

「私は……」

 呟いて、アイカメラの捉えた映像を確認する。天井には光度の強い蛍光灯が輝いている。周囲の生命反応は二個体。壮齢の男性一体。その後ろに女性体が一つ。その男が誰なのかを自分は知っている。知っている筈だ。……誰だったか。

「ウ……」

「ようやく目覚めたか。自分が誰なのかわかるかね?」

 私は誰なのか、と彼は尋ねている。記憶領域を走査、情報抽出。私は……。

「私は型式番号7874-8782-DRC0013Rabbitheadです。任務の入力を要求します、ドクタークライン」

「任務は依然として継続中だよ、ラビットヘッド。記憶は残っているかね?」

「……検索完了。はい、博士。クーロンにて潜伏活動を行っていた私はメタルガウンと名乗るメカによって破壊されました」

「うむ。詳しい経緯についてはこちらも把握している。破壊される直前に保存された君のデータをクラウドから引き出して再構成させてもらった」

「ありがとうございます、博士。これでまた任務を行えます。しかし私が至らないばかりに組織の資産である7874-8782-DRC0012Rabbitheadを失うことになってしまい、申し訳ありません」

「気にすることはない。あれは予定外の出来事だった」

「しかし、ブラッククロスの改造技術等、機密情報の漏洩は憂慮すべき問題です。博士、私には自爆装置が取り付けられておりません。情報を奪われる前にこの機体を破棄するため、自爆装置の搭載を要請します」

「いいや、それならば問題はない」

「何故でしょうか」

「君の機体はRabbithead──つまり中島製作所で造られたラビットシリーズを流用したものだ。市販もされているし、高機能タイプはIRPOでも採用されている。技術的にはそこまで大したものはない。重要なのはあくまでもAIの方だからね」

「ですが、今後もメタルガウンのような敵性存在と遭遇する可能性を考慮すると現在のスペックでは状況に対応することが困難になります。基礎性能の向上が必要です」

 ドクタークラインはにんまりと唇を曲げ、髭をしごく。

「ふむ。なるほど。つまり、君は──強くなりたいと、そう思っているのだね」

「肯定します」

「そうか! わかったよラビットヘッド。君の想いに応えよう。次の出発までには各部のパーツをより強固なものに代えておく」

「ありがとうございます、博士」

「それでラビットヘッド。強くなりたいと思った君はそれ以外に何を学んだのかね?」

「それ以外に……ですか?」

「ああ。クーロンで生活し、人の心を求めた。何か思う所があったのではないかな?」

「任務は進行中です。しかし、未だ私には人の心が芽生えてはおりません。また、人の心を演じるにしても経験があまりに不足しています」

「いや、それは分かっている。そういうことではないのだ、ラビットヘッド。人はたくさんの人と出会い、成長していくもの。今回の任務で、君は一人ではなかっただろう?」

「はい、博士。私は『一人』ではありませんでした。現地協力者の助力によって私は多くのことを学ぶことができました」

「おお! そうだそうだ。そういう話が聞きたかった。……それで、彼女のことを君はどう思った?」

「彼女は私にとって非常に有益な存在だと判断します。彼女は人間でした」

「……それで?」

「以上です」

「……なに? それだけなのかね? もっとこう……何かないのかね?」

「ありません」

 ドクタークラインはがっくりと項垂れる。

「そうか……そうか。まぁ仕方がないな……。……これから君の調整に移る。調整が終わり次第、再びクーロンでの潜伏任務を再開してもらう。いいかね?」

「任務了解」

 

 

 

 

 彼女の名は芙蓉杰(フージェ)といった。過度に丈の短いスカートにタンクトップ、毛皮のジャケット。腕にはブランドもののハンドバッグを提げ、白いハイヒールの踵で苛立たしげに床を叩いている。険しいというよりも荒んだ目つき、三白眼。不健康からか目の下には隈が出来ておりそれを隠すために目元の化粧が濃くなっている。胃の収縮や呼吸から察するに恐らくは睡眠不足、あるいはバッグの隠し底に忍ばせた酩酊系薬物によるもの。

 二度目のクーロン来訪。クーロンのシップ発着場に降りたラビットヘッドを出迎えた新しい『ガイド』は見るからに娼婦といった格好をしており、そして実際に娼婦だった。

「あんたがラビットヘッド?」

 道行く男を物色しながら、芙蓉杰が投げやりに声をかけてくる。

「はい、そうです。しかし何故私がラビットヘッドだとわかったのですか?」

「それ、答えなきゃいけないわけ?」

 面倒くさそうに彼女は言う。気だるさを隠そうともしない。

「確かに、あなたに答える義務はありません。あなたが現地協力者で宜しいのですね? 組織からあなたの指示に従うように命令を受けております。私が潜伏すべき場所へと導いてください」

「あいよ。着いてきな」

 芙蓉杰に従って潜伏地へと向かう途中、ラビットヘッドは一人の老婆が引ったくりに遭うのを目撃する。「誰か! 助けておくれ!」哀れな悲鳴を上げる老婆を眺めるラビットヘッド。

 

“──じゃあ、正義の味方になれば?” 

 

 ラビットヘッドはすぐさま走りだし、犯人を捕まえる。老婆があまりにも大仰に礼を言うので対応に困ったが、「あなたには警戒心が足りていません」というと恐ろしい剣幕で立ち去って行った。

 芙蓉杰が案内する安アパートへと辿り着くまで、ラビットヘッドは四つの諍いを仲裁し、三十二のゴミを拾い、二人の人間を救った。芙蓉杰は何も言わずに後ろの方で眺めているばかりだったが、「ここが住むところだよ」と言って扉のドアノブに触れた時、眉を寄せ、おそろしく真面目な顔をしてこう言った。

「……おまえ、さてはイイ奴だな。あたしにはわかる」

「そうでしょうか」

「ああ。絶対にそうさ。まぁ中に入りな。何かの記念だ、ペヤングでも奢っちゃる」

「ペヤング!」

 その単語を聞いてラビットヘッドの処理速度が僅かに上昇する。やはりここでもペヤング。人とペヤングは切っても切れない関係にあるのだ……!

「お。その反応はおまえ、ペヤング好きか? そうかー好きかー。メカなのに変なやつ!」

 無邪気な笑みを見せ、芙蓉杰はラビットヘッドを中に招き入れる。「ちょっと座ってな」と言って台所に立ち、数分後に湯気立つペヤングを両手に二つ抱えて持ってきた。 

「どら、お待ちかねのペヤングだ」

「ありがとうございます。ミズ・芙蓉杰」

 ラビットヘッドはペヤングを高々と持ち上げ、「頂きます」と言って封を開ける。それを見た芙蓉杰は「何それ」と笑い、それから自分でもペヤングを持ち上げ神妙な顔で「いただきます」と真似をしてもう一度笑った。「うまいうまい」と楽しそうに食べ始める。

 ラビットヘッドは口に麺を放り込み、センサを突き立てて分析する。味の照合結果はやはり「そこまでまずくない」であったが、目の前に芙蓉杰と同じように「うまいうまい」と言ってペヤングを食べた。それを見た芙蓉杰が「うはは」と笑う。

「何だよー。ブラッククロスの工作員が来るから世話をしろとか言われてさ、どんなクソ野郎が来るのかと思ってたら案外そーでもねーな。心配して損したわー。何なの? 人助けが趣味なの? 良心プログラムなの?」

「……私の作戦目的は『人の心を手に入れること』です。そのために、より多くの人々とのかかわりを持つべく、『正義の味方』を模した行動をとることを現在の主な行動基準としています」

「そうなんだ」ふと冷静になったように芙蓉杰は箸を置く。「なんか歪んでんな。そっかー……。別に、善意とかじゃねーんだな……」

「申し訳ありません。失望させてしまいましたか?」

「いや、別に……。実際そんなもんだよなとは思ったけどさ。おまえが悪いわけじゃないもんな。人の心を手に入れろ、か。人間も無茶言うよな。上の人間は大体そーゆー難題を平気な顔で押し付けてくるもんだ。しゃーない」

「私も、自分に善意があれば、と思考する時があります。損得勘定抜きで誰かを想いやれることができれば、そんな『心』があればヒト種族になれるのにと」

「それな」

 芙蓉杰がため息をつく。

「あるわな。あるある。正義の味方みたいな行動を取ること自体は簡単でもさ、正義とか良心とかを心から持つことはやっぱ難しいよな。これは自己満足なんじゃないのか、とか、偽善なんじゃないのか、とか。そうすることが本当に人のためになるのかとか今日誰かを助けたとして明日も明後日も同じ行動を自分は取れるのか、取れないのだとすればそれは正義でも何でもなくてただの『気分』なんじゃないのかとか。……考えてるうちにわからなくなって、生きてるうちにどうでも良くなる。人間だってそうなんだ、メカのおまえができなくたって仕方がないよ」

「ミズ・芙蓉杰。あなたも正義の味方になりたいと思う時があるのですか?」

「そりゃああるさ。あたしだって出来ることなら悪党をぶん殴って世界を救いたいね」

「なればいいではありませんか」

「おいおい」芙蓉杰は少し呆れる。「そんな力があるように見えるか? これでもか弱い女なんだぜ」

「ブラッククロスの技術者を紹介しましょうか。改造手術を受ければ……」

「ブラッククロスは悪の組織なんだろ」

 芙蓉杰は冷たく遮った。

「あんたはいい奴だと思うし、嫌いじゃない。……でも、あんたはブラッククロスの機械兵士だし、あたしはその協力者なんだ。正義なんかじゃない」

 断固とした口調で彼女は言う。自らの浮ついた気持ちや思い上がりを殺すために、自分に言い聞かせるようにして。

「結局は下らない自己卑下ってことになるのかな……。でも、事実だ。だってあたしは娼婦なんだ。男の一物を咥えてカネをもらうのが仕事。そんな正義の物語がどこかにあるのかな?」

「探せばおそらくはあるでしょう」

「そうかな。そうかもね。でもさー……何なんだろうな? 別にあたしだって、娼婦は汚いなんて言われたら出来る限りぶん殴ってやるし、世界のどこかにある人権団体はきっと、職業に貴賎は無いとかなんとか主張してくれてるんだと思う。娼婦だからって、背筋を曲げて頭を下げてさ、卑屈になって生きるつもりだって無いよ。それでもね……だからっつって、自分が正しいとも尊いとも思わない。白か黒かで言えば、やっぱりあたしは黒なんだ。赤信号だって渡る。誰かが泣いていたって助けない。正義の味方にゃなれないよ」

 力なく自嘲して芙蓉杰は肩をすくめる。

 その言葉はどこか、あまりにも深く遠い断絶を示しているかのようだった。正義の味方になれないという言葉は、メカは人にはなれないという言葉と根源を同じにしている。

 

 

 

 その日、芙蓉杰が顔をひどく腫らして帰宅したのは深夜のことだった。面倒事や暴力沙汰に巻き込まれ怪我をするのは珍しいことではなかったがその日の怪我はとくにひどく、病院で治療を受けることを進めたが芙蓉杰は静かに断ってベッドに倒れ込んだ。金がない、仕方がない、彼女の言葉を受け入れてラビットヘッドは簡易治療を施しながら痛みに呻く彼女を見ていた。確かに命の関わるほどの傷ではなかった。仕事はしばらく休まなければならないが、二三日動かずにいれば晴れも引くだろうと判断したのだった。大人しく寝込んでいる内に見立て通り芙蓉杰は快復しまたいつものように街に立ち、そしてまた怪我をして帰って来た。今度は腹部を執拗に殴られたようで骨が数本折れている。病院に行くべきだ、金がない、いつもの問答を繰り返して芙蓉杰はベッドに倒れ込んだ。今度は治るまでに一月かかった。働くことのできない彼女の財政は次第に逼迫し、押し入れに積まれていた大量のペヤングは少しずつ少しずつ目減りしていった。

 彼女が何か揉め事に巻き込まれているということに気付いたのはそんなことを繰り返して半年も経った頃だ。あまりにも遅すぎる。繰り返される暴行と貧しい生活によって体を壊した彼女は醜くやせ衰え寝たきりになった。原因は物語にもならないほどつまらないことだった。娼婦同士の小競り合いに巻き込まれた結果、仲間を庇った芙蓉杰に矛先が向いたと言うだけだ。俺の女に何をする、とはしゃぎ始めた娼婦の男は芙蓉杰を追いまわしては暴力を振るったのだという。

 娼婦たちの元締めに仲裁を依頼することはできなかった。なぜなら芙蓉杰たちは街に立つ場所代を支払っているだけであり、その金には命の保護までは含まれていなかったからだ。クーロンに生きる娼婦など無数にいる。いなくなればまたどこかから連れてくればいい。一人や二人野たれ死んだところで誰も気にはしない。

 本当にそうでしょうか、とラビットヘッドは言った。元締め組織とて、収入の減少は憂慮すべき事態のはずだ。そのチンピラが街娼ビジネスに悪影響を及ぼす危険性を伝えさえすればそれなりの対応を取るのではないか。

 芙蓉杰は何も言わずに首を振った。理由を教えてはくれなかった。

 なぜ助けを求めないのか、と思った。彼女のことがまるで理解できなかった。彼女に欠ける言葉を失って、ラビットヘッドはベッドの傍らに立ち尽くす。彼女を救う方法が何一つ思い浮かばなかった。

 

 

 

 鈍い音を立ててドアが激しく叩かれた。遠慮や礼儀といったものを軒並みかなぐり捨てたように、幼稚な暴力性に満ちた叩き方だった。木製のドアが泣き声じみて軋みを上る。

「おおい、芙蓉杰さんよォ。ついにてめぇの家を突きとめてやったぜ。俺様がせっかく注意してやったのにしつこく街に立ちやがって、おら、出てこいや!」

 横になった芙蓉杰の顔がさっと青ざめ、引き攣った。唇を震わせ怯えている。彼女を追いまわしていたチンピラがとうとうやってきたのだろう。

 ラビットヘッドは警戒し、立ち上がる。だがこれは予想外のことだった。なぜなら──そのチンピラの声は機械音声だったからだ。扉を強引に突き破り、荒々しい足音を立てて侵入してきたチンピラはこちらを見るなり楽しそうに笑った。笑った……? なぜ笑ったと判断したのだろうか。相手には表情と呼べるものは何一つ存在していないというのに。機械の体、機械の頭。そいつの顔にはのっぺらぼうのように何もなかった。だがラビットヘッドにはわかった。そいつは笑っていた。

「またお前かよ」

 つるんとした球体の顔に鋭い鉤爪、そしてぼろぼろのマント。以前と変わらぬ姿でアンドロイド型ロボット──メタルガウンは嫌がらせを楽しむガキ大将のように手近な椅子を投げつけてくる。ラビットヘッドは黙したまま芙蓉杰を庇い、右手で椅子を打ち払った。

「この前ぼっこぼこにしてやったっつうのに、お前といいそこの女といい懲りない奴らだな……? これだから馬鹿は救いようがねえ」

「なぜ、あなたなのですか?」

「ん? どういう意味だ」

「どうしてあなたがミズ・芙蓉杰を狙うのですか」

「それは簡単さ。ちょっと暗黒街の帝王にでもなってみようかと思ってな。手始めに娼婦どもの用心棒から始めることにしたんだが──目障りなことにそこの女が俺の女に噛みついたんでオシオキすることにしたのさ。……お前も仲間になれよ。同じメカ同士だ、一緒にクーロンを牛耳ってやろうぜ。きっと楽しいぞ。ブラッククロスにこき使われるのなんてやめて自由気ままに生きようじゃないか」

「私には任務があります。それはできません」

「へ──そう言うと思ったぜ。……つまらねぇ野郎だな!」

 無造作に拳を握り殴りかかってくるメタルガウン。やはり速い。だが今回はこちらの反応速度も格段に上昇している。目に追えない速度ではない。手首を掴み、敵をいなす。それが予想外だったのかメタルガウンはバランスを崩し、おっとっと、とおどけて見せた。

「ほォん。ちったぁ強化されてきたみたいだな。装甲も硬そうだ。……だがな!」

 メタルガウンが吠えた。獣のような駆動音を上げ、両手の鉤爪が振動する。

「お前には武器がねーだろ? 俺にはあるんだぜ……」

 不敵に笑うメタルガウンは不意に口をかぱりと開き、鋼鉄の杭を発射する。投擲された武器をラビットヘッドは造作もなく払いのける──だがそれは失策だった。メタルガウンが目の前に迫る。防御は間に合わない。左脇腹に鉤爪が触れた瞬間、戦闘プログラムが夥しいエラーを吐きだしてフリーズした。強化装甲によって保護された筈の体は凄まじい衝撃とともに捩じれ、ラビットヘッドの脇腹が大きく抉れる。

「振動クローによる疑似グリフィススクラッチ──俺様とお前の違いは歴然だ。このメタルガウン様を相手に素手で挑むとはいい度胸だが、それはそれとしてお前はアホだ」

 勝ち誇るメタルガウンを前に、ラビットヘッドはがくりと膝をつく。機体質量の変化に平衡維持装置が悲鳴を上げる。

「……」

 勝てない。絶望的な彼我の戦力差にラビットヘッドは全身の増加装甲をパージする。内部を循環していた動力流体が空気に触れた途端に蒸発、蒸気と化してメタルガウンの視界を遮る。

「ミズ・芙蓉杰!」

「あ、あ……?」

 うろたえる芙蓉杰に構わず彼女の全身を担いで逃げ出した。背後からメタルガウンの罵り声が聞こえる。安アパートの錆びた階段を飛び降り、全速力で駆けだした。芙蓉杰の重みに抉れた脇腹が軋む。荷重に揺れる間接部が恐ろしい勢いでメモリを食い荒らしていく。

 

 

 がくがくと上下に振動する疾走に芙蓉杰の顔色が見る見るうちに青く染まる。元々体調を崩していたところに襲撃によるストレスが重なり、肉体的にも精神的にも弱り切っていたのだろう、足を止めた途端に芙蓉杰は嘔吐し、道端に吐瀉物を撒き散らした。

「……どうしてあたしを助けるの?」

 手の甲で口元を拭いながら、疲労の残る目で芙蓉杰が尋ねた。こちらを責めるようなその視線にラビットヘッドは困惑する。

「あなたはブラッククロスの現地協力者です。相互の利益関係にある以上、あなたを守るのは当然のことです」

「……それだけ?」

「はい?」

「それだけの理由なの?」

「どういう意味でしょうか」

 弱々しく襟元を手繰り寄せながら芙蓉杰は答えずに、ただ寂しそうに笑った。

「──助けてくれて、ありがとう。でも……一体、どこに逃げるっていうのさ。逃げ場所なんて、どこにもない」

「そんなことはありません。しかるべき場所に隠れ、メタルガウンをやり過ごし、ブラッククロスの増援を呼べば──」

「──本当に? ブラッククロスがあたしを助けるメリットなんて、どこにもないじゃないか。また別の娼婦を雇えばいい。あんたはあたしを助けると言うけれど、そうしてやってきた『増援』にあたしは処分されるんじゃないの?」

「なぜそのように考えるのですか。あなたはあなたの生命をあまりにも軽視しすぎている。あなたは愚かです。なぜ助けを求めなかったのですか。より早期にこの状況を報告していれば別の対処をとることができました。あなたは助けてと言うべきだった。この私が傍にいたと言うのに」

 咎めるような言葉に、身を竦めた芙蓉杰は小さな声で芙蓉杰は囁く。

 でもそのあんたは──毎日毎日あたしの傍にいて、何も気づかないまま暮らしていたわけだろう。

「それは……」

「ごめん。責めているわけじゃない。でもあたしは──あたしは助けなんて求めちゃいけないんだ。そんなものを欲しがったりしたくない。一人で生きていかなきゃならないんだ。あたしは。可哀そうな人間になんてなっちゃいけない。だって助けを求めた瞬間に社会はあたしを同情の眼で見るようになる。哀れで弱い存在で、だから、救いの手を差し伸べなきゃならないって。──そんなのは願い下げだ。誰もあたしに共感するな。誰もあたしに同情するな。あたしの悲しみも苦しみも全部、あたしだけのものなんだ。お涙頂戴の物語にあたしを組み込むな。あたしは、たった一人でも、生きていける、死んでいける……。助けなんか、いらないんだ……」

 憔悴しきった顔でうわごとのように呟く芙蓉杰。

「あなたはどうしようもない愚か者です」

 ラビットヘッドは言った。

「私には現在のあなたの言動が全く理解できません。人の心が持てないのだから、それは仕方のないことかもしれません。たったいま人の心が発現することを期待することはかなり難しく想われますが、この状況でそれが役に立つことはないでしょう。『人の心』は現在のところ有効な装備ではありません。ミズ・芙蓉杰。今は緊急事態です。あなたの感情はどうでもよいのです。あなたは現地協力者として私に協力するべきです。私に助けを求めて下さい。助けてと言い、涙を流し、あなたの身体・生命全てを保護することを要求してください」

 そんな言い方をするのは初めてのことだった。ライブラリの会話データには含まれていない台詞。精神的に弱っている女性に対してはいささか厳しい言葉だっただろうか。ラビットヘッドの目の前で芙蓉杰は静かに涙を流し、おずおずと口開いた。

「あ、あたしは──」

 言いかけて、そのまま彼女は血を吐きだした。彼女の眼がひときわ大きく開いて痙攣する。芙蓉杰の腹をいつのまにかに貫いていた鋭い鉤爪がぶるりと震えた。振動と共に内臓をずたずたにされ、芙蓉杰はぶ、とおぞましい声をあげて絶命する。

「……」

 腕の中で芙蓉杰の体温が見る見る内に失われていく。

「よう、馬鹿。暢気にくっちゃべっててくれてありがとよ」

 ラビットヘッドごと芙蓉杰を貫いたメタルガウンが背後で笑っている。

「そんで死ね」

 強引に引きちぎられた下半身がメタルガウンの右手にぶら下がっているのが見えた。振動爪を突きこまれて全身が痙攣する。

 ラビットヘッドの意識はそこで消失した。

 

 

 

 

「私は……」

 目覚めるとそこはいつもの実験室だった。うんざりするほどの強さで輝く蛍光灯。自分を囲むドクタークラインと助手のローミン。

「ウ……」

「ようやく目覚めたか。自分が誰なのかわかるかね?」

 私は誰なのか、とドクタークラインが尋ねた。記憶領域を走査、情報抽出。自分ははたして何者だっただろうか?

「私は型式番号7874-8782-DRC0014Rabbitheadです。お久しぶりです、ドクタークライン」

「おはよう、ラビットヘッド。記憶は残っているかね?」

「……検索完了。はい、博士。クーロンにて潜伏活動を行っていた私はメタルガウンによって破壊されました」

「また奴か」

「申し訳ありません。ですが現在の私のスペックでは抗し難い存在です。機械の体とはいえ、徒手空拳では有効な攻撃を行えません。博士、私に武器を与えてください」

「ふむ……。武器、か。そうだな、ちょうど今、加熱剣(サーマルブレイド)の開発を進めているところだ。稼働実験も含めて試作型を君に持っていってもらおうか」

 そう言ってドクタークラインは奥の部屋から黒塗りの鞘を持ち出し、ラビットヘッドに手渡した。

「有難く拝借いたします」

 自らの新しい武器をさっそく確認しようと柄を握り、引きぬく。と、不思議なことにその剣には刀身が存在していなかった。

「ドクタークライン。これは?」

「うむ。加熱剣はアルキオネ嬢の協力の元、摂氏三千度もの高温状態を作り出すことによって生み出された武器なのだ。だが度々そんな高温状態への過熱と冷却を繰り返していれば刀身はすぐに劣化してしまうしある程度の高い融点と硬度を維持しようとするとどうしても折れやすくなる」

「そこで賢いおじいちゃんは考えたの」とそこでローミンが我がことのように胸を張って説明を加える。「なら逆に考えればいい。折れるのであればいくら折れても構わない剣をつくればいいって」

「いま、君が握る加熱剣に刀身はない。だが鞘に剣を納めた状態で加熱剣を起動させれば自動的に鞘内に流体金属が補充され刀身を形作る。その後約十秒のチャージを経て加熱剣が完成する。上手く使ってくれたまえ」

「“鞘”が剣を加熱するのですか? そのような高熱を生み出しておいて、鞘の耐久性は問題ないのですか?」

「いかに高熱といえば鞘自体で敵を斬ったり砕いたりするわけではないからな。その点については問題ないはずだ。まぁ、まだ実験段階なので何とも言えないがね。はっはっは」

「……剣闘マスタリーをインストールしておきます。……それで、博士。武器の携帯が許されたということは、今後の任務においても私はメタルガウンか同等以上の敵と闘う可能性があると認識して宜しいでしょうか」

「ああ。君の任務は未だ終わらない。クーロンでの潜伏任務。そして人の心を獲得することが最大の目的だ」

「任務了解。現地へ向かいます」

「いいやラビットヘッド。その前に君には前回の出来ごとについての所見を聞いておきたいのだが?」

「所見、ですか?」

「うむ。メタルガウンの性能分析・相対戦力について君の考えはたったいま確認できた。勝てない、だから武器が必要だ、と。それは私も納得しよう。だがしかし、君にはもっと他に報告しなければならないことがあるのではないかね?」

「……何でしょうか?」

「任務について私に尋ねたいことは? 疑問に感じている点があるのではないか?」

「いいえ、博士。そういったものはありません」

「そうか……。では、現地協力者についてはどう思った?」

「『彼女』の行動や言動は人間を理解する上で非常に有益なものと判断できます。しかしメタルガウンの襲撃によって重傷を負い、錯乱した『彼女』の言動には非論理的な面が多々見られました。人間の表現を真似れば、とても愚かだと言えます」

「それだけかね?」

「はい、博士」

「そうか……。まぁ、いい。では出発したまえ。今度こそ、君の勝利を願っているよ」

 

 

 

 

 そして三度目の任務が始まった。新しい現地協力者の名前は芙蓉杰と言った。クーロンの街に立つ娼婦である芙蓉杰は見るからにやる気のない素振りで「あんたがラピットヘッド?」と尋ねてくる。なぜ自分がラビットヘッドだとわかったのか、と問うと、「それ、答えなきゃいけないわけ?」と気だるげに答えた。クーロンの安アパートに潜伏し、正義の味方を標榜して日々を生きた。掃除や人助けを繰り返すうちにクーロンに住む弱者たちからは感謝や好意を向けられることが多くなり、それに付随して芙蓉杰の機嫌も良くなってくる。彼女の電子端末を借りて古代のSF小説を読み耽り、「うまいうまい」とペヤングを食し、そしてまたいつかメタルガウンに敗北し、芙蓉杰は死んだ。これまでの闘いに比べれば善戦したと言っても良い結果ではあった。新たに装備した加熱剣、その第一撃によってラビットヘッドはメタルガウンの右上腕部を見事に焼き砕いてみせたのだから。珍しくうろたえたメタルガウンは狂乱し、所構わず闇雲に爪を振り回したがその姿はあまりにも隙だらけだった。初めて勝利を確信したラビットヘッドは握りしめた加熱剣を眼前の敵に振り下ろし、そこでようやく加熱剣が欠陥兵器であることに気付いた。たった一振り。凄まじい破壊力を見せてのけた加熱剣はしかしその僅か初撃のみでその命を終え、刀身は赤錆色に明滅し砕け散っていた。いくら折れても構わない剣、とローミンは確かに言った。だがいくらなんでもこれは。脳内負荷にメモリを食われ全身の動作が一瞬鈍る。すぐさま剣を鞘に納めた。流体金属が補充され再加熱されるまでに要する時間はおよそ十三秒。だが互いの武器は半ば一撃必殺。疑似グリフィススクラッチをまともに受ければ即座に敗北が決定するこの状況。一刻を争うギリギリの戦闘時に絶望的に押し付けられた十三秒のチャージタイム。戸惑いを突かれ、メタルガウンに腹を引き裂かれたラビットヘッドは無様に倒れ込んだ。消え行く意識の端で、芙蓉杰が必死に命乞いをするのが聞こえた。致命傷を受け、ノイズ混じりに混濁した意識の中で、確か『彼女』は助けを求めたくないと言っていたのではなかったか、と考えた。いいや……それはもしかしたら違う人物かもしれなかった。だがもし同一人物だとしたら随分おかしな話ではないか。助けるなと言っていたのに命乞いはするのか。別にどこも矛盾しているわけではないが何かがおかしいのではないか。そう考えてラビットヘッドは今にも消え入りそうな集音センサに処理領域を集中させ、彼女の言葉を確認し──そして、顎関節をぎりと軋ませて瞳を閉じた。殺さないで、と言っているのは彼女自身ではなく、ラビットヘッドのことだった。そいつはいい奴なんだ。メカでバカだけど悪い奴じゃないんだ。殺さないで。

 ……。

 …………。

 実験室で目が覚める。ドクタークラインが自我の在り処を尋ねてくる。形式番号7874-8782-DRC0015Rabbithead。それが自分の名前である。任務を達成できなかったことを詫び、ラビットヘッドは加熱剣の欠点を報告する。これまで何度も行ってきたように自分の体を強化・改良して欲しい、と頼む。だがその願いはとうとう跳ねのけられる。もう君の機体を改造することはできない。より巨大・より強力にすることは可能かもしれないが、それは君という人型機体のコンセプトからは外れてしまう。加熱剣は未だ実験途上であり、チャージ時間を短縮する目途は今のところ立っていない。だからもし、これ以上強くなりたいと思うのなら、それは君自身の人工知能の問題になる。これまでに学習した経験を活かすこと、機械が機械である以上の性能を生み出すこと。それが出来なければ君はいつまでも兎頭のままだ。君は三度、メタルガウンに負けた。これ以上装備を増やすことはできまない。──さぁ、君はどうする。君は自分の任務をどう思う。君の現地協力者を、どう思う。いつもの質問にいつもの返答を行う。任務を拝領し再びクーロンへと向かう。星間船発着場に下り立って緑色の制服に身を包んだ駅員たちの間をすり抜け、入口の壁に持たれて電子端末を弄る女を見つける。露出度の高い服を着た女はこちらを見て「あんたがラビットヘッド?」と言う。

「いいえ」とラビットヘッドは答えた。

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