サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第二十幕 銀河の旅路 後編 偽作大四畳半大物語

「次の駅は『明日の星』。停車時間は二週間……」

 車掌がその星の名を告げると白薔薇姫はアセルスの袖をそっと引いた。

「どうしたの、白薔薇?」

「アセルス様。今度の星ではけして銀河鉄道のことを喋らないでください」

「どうして?」

「『明日の星』はとても平和な星……。だから、銃も剣もみな列車に置いてこの星へ降ります。この星の住人はみな、銀河鉄道のことを知りません。そこには何も知らない幸せな人たちが住んでいるのです」

「何も知らない人たち……。何も知らないって、幸せなことかな?」

「さあ、それはわかりません。でも、この星の住人たちはみな自分たちの生活に希望を持って生きています。……ほら、星が見えましたよ」

 白薔薇姫に促され、アセルスは窓から星を眺めた。美しい星だった。青く澄み切った星。いつか図鑑で見たことのある……そうだ、地球という星によく似ている、とアセルスは思う。

 銀河鉄道は蒸気を上げて夜の底へと降りていく。虚空へと伸びた架橋をがちりと車輪が掴まえ、石畳の上に敷かれたレールを銀河鉄道が駆けていく。

「ここへは変わった降り方をするんだね」

「ええ。この星の線路へ……つまり、ほんとうにこの星の上を走ってる鉄道の上に降りるのです。この星の列車に紛れて、この星の駅へと。駅員だけはこの列車が宇宙からきた銀河鉄道の超特急だということを知っています。この星にはまだ蒸気機関車がたくさんあるから、ちょっと見ただけではわかりません」

「ふうん……。なんだが不思議な感じがするな。銀河鉄道のことをみんな知らないなんて」

「星によっては文明が違えば文化も違いますから。不用意に真実を明かして住人達を驚かせないようにと、鉄道側の配慮なのでしょう」

「でも、ヨークランドやスクラップなんかと比べても、そこまで文明が遅れているという気もしないけどなあ……。銀河鉄道のことを知らされていない星って、結構あるものなの?」

「ええ。マルディアスやサンダイル……それらの星では、一部の高官や旅人にしか知らされていないそうですわ」

「へぇ……なら私たちは、この星では正体を隠した宇宙人というわけか」

「そうですね」

 ふふ、と白薔薇姫は笑う。

 煉瓦造りの駅から足を一歩踏み出すと、そこには静まり返った街並みが広がっている。立ち並ぶ看板も今は明かりを落とし、薄暗い影となって町並の中に浮かんでいる。

「寂しいでしょう……。でも昼間にもなればとても人が大勢現れる星ですから、気を付けてくださいね」

「うん……あれ、イルドゥンは?」

 振り返ると、イルドゥンはいつもの無表情で離れたところに佇んでいる。

「前の星で置いていったこと、まだ怒ってるの?」

 尋ねると、イルドゥンはぴくりと眉を震わせ「違う」と言下に否定した。

「じゃあ、何。一緒に行こうよ」

 手を差し伸べると、イルドゥンはその手をまじまじと眺めていたが、やがて「ふん」と鼻を鳴らした。

「何……その態度」

「さあな。俺のことは放っておけ」

 そう言ったきり、イルドゥンは石と化したように口を開こうとはせず、アセルス達は仕方なく先に進むことにした。

 やがて日が昇ると、さっきまでの静寂が嘘のように町は喧騒を取り戻した。いままでどこに隠れていたものか、人という人が路地から雲霞の如く現れ、通りを車が音を立てて通り過ぎる。電光掲示板は宣伝文句を飽きることなく繰り返し、信号からは「通りゃんせ」が流れ出す。

 平和な星というとおり、それまで旅した星とは違い、『明日の星』の住人で武装している者は一人としていなかった。

「この星では生のラーメンが食べられるそうですよ」

「ラーメン!」

 アセルスは驚いて声を上げる。合成のカップラーメンならば幾度も口にしたことがあるが、小麦が激減してしまったリージョン世界では本物のラーメンなどはよほどの金持ちでもなければ一生目にすることもない代物だ。

 そういうことならば、とアセルス達はさっそく近くにあった中華料理屋『紅楽園』へと入ることにした。看板の文字を見て紅はなんとなく嫌そうにしていたが、結局は文句を口に出すことはなく渋々といった様子で暖簾をくぐる。こじんまりとしたごく普通の食事処だ。カウンターが五席にテーブルが三卓。カウンターの主人は暇そうに新聞を広げ、天井に吊るされたブラウン管テレビは野球中継を流している。粗末な椅子はあちこちが剥げて中の綿が露出しており、座るとべこべこと安っぽい音がする。またテーブルはといえばどことなく油っぽく、立てかけられた手書きのメニューはところどころ掠れていた。

「いらっしゃい。あんた達外人さんかい? みない顔だねー。どこから来たの」

 前掛けと三角巾をつけた老婆がテーブルに水を置きながら気さくに話しかけてくる。

「わかります?」

「そりゃわかるよ。あんた達すごい恰好してるもの」

 指摘されて周囲を見回すと、なるほど確かに他の客はスーツかジーンズにTシャツ姿であり、ドレス姿の白薔薇やイルドゥンの大仰な外套姿はあまりにも目立っていた。

「いやあ、それがちょっと遠くから来たんですよ」

「そうかい。まあ、どこでもいいけどさ。ゆっくりしていきなよ。ここはいいところだよ。あたしなんかここで六十年は暮らしてるけど、別にどこに行こうとも思わないもの」

「そうですか」感心したようにアセルスはため息をついた。「なんかいいですね、そういうの」

「そう? そんなものかね。まあとにかく、何かわからないことがあったら聞いておくれ。土産物でも観光地でも、ここらのことなら何でも教えてあげるから」

「ありがとうございます」

 愛想よく礼を言うと、店員の老婆は嬉しそうに目を細めて戻っていった。

「本当に治安の良さそうなところだね……」

 どことなく気の抜けた様子でアセルスは呟く。クーロンでの食事といえば店員が舌打ちするのは当たり前、油断すれば強盗や置き引きに遭うといった有様だったが、この星では違うようだ。隣の席のサラリーマンなどは無造作に後ろのポケットに突っ込まれた革財布をどうぞ盗んでくれと主張しているようなものだったが、この辺りではあまり警戒する必要も薄いのかもしれない。

 すっかり寛いだ様子のアセルスはさほど迷うことなく注文を決め、白薔薇姫も「では私もそれを」ということになった。

「……で」アセルスは言う。「イルドゥンはどうするの?」

「……」

 イルドゥンは無言のまま、机の木目を睨みつけている。店に入った瞬間からどことなく不機嫌そうにしてはいたが、どうも店があまり衛生的ではないのが気に食わないようだ。旅慣れたアセルス達はこうした雑多な店の雰囲気に慣れてはいるが、イルドゥンはそもそもこんな場所には足を踏み入れたりなどしないのだろう。

「じゃあ、イルドゥンは味噌ラーメンね」

「おい。勝手に決めるな」

「それなら何にするの」

 ほら、と言って目の前にメニューを広げて見せるとイルドゥンは顔を顰めた。

「……いや、俺はいい」

「店員さん待ってるよ」

「だから俺はいらんと言ってるだろうが」

「席に座っておいて注文しないなんて変じゃない?」

「知るか」

 イルドゥンは横を向いてしまう。アセルスはため息をつき、「すいません注文お願いします」と手を挙げた。先ほどのおばちゃん店員が前掛けで手を拭きながら小走りで駆け寄ってくる。

「はいはい。何にしましょ」

「私はチャーシューメン。彼女もチャーシューメン一つでお願いします」

「はーい。チャーシュー二つね。あら、そっちのお兄さんは?」

「この人はちょっとお腹痛いらしいんで大丈夫です」 

 言った途端、がたりと音を立てテーブルが揺れたがイルドゥンはなんとか暴れるのを堪えたようだった。

「……痛くない」

「お兄さん何か言った?」

「……痛いわけがない」

「気にしないでください。お腹が痛くてあんまり喋りたくないみたいで」

「あらそうなの」おばちゃんは心配そうにイルドゥンを見つめた。

「大変ねぇ……。お兄さん、元気出してね」

 あまりにも善良な顔をしておばちゃんが言うので、イルドゥンは「……あぁ」と「……うむ」の中間くらいの言葉を小さく口にした。

 おばちゃんが去ると、イルドゥンは怒り狂うあまりにかえって落ち着いた声色でアセルスを責める。

「アセルス。お前」

「あまり目立ちたくないんだよね」

 アセルスは静かに言った。

「いくら平和な星だっていってもさ、どうしたって旅人は目立つ。私も貴方もここでは異邦人なんだ。外人は外人なりに普通にしてないと、いつか追っ手に足跡を辿られないとも限らないし。ごめんね、イルドゥン。でも私はなるべくヘラヘラして害のなさそうな顔をしていたいんだ」

「……」

 突然の真面目な話にイルドゥンは驚いたように一瞬だけ目を細めたが、やがて納得したのか「……ふん」と頷いた。

「少しは旅にも慣れたか」

「そりゃあね。貴方の言ったことは大概その通りだったよ、イルドゥン。世の中は……危険なことばかりだった。ラムダ基地では捕まって拷問も受けたしね……。けして剣を手放すな……か。貴方の教えが無ければとっくに死んでいたかもしれない。そういう意味では、私は貴方にお礼を言わなけりゃならないのかもしれないね」

「礼などいらん」

 イルドゥンがそういうのでアセルスはありがとうと言うのをや止め、その代わりにラーメンを持ってきてくれたおばちゃんに頭を下げた。「あ、どうもすみません。……あと、小鉢もらえますか?」

 小鉢に麺とスープを取り分け、紅用のささやかなお子様ラーメンを作りながらアセルスは気になっていたことを尋ねた。

「貴方が来たのはラスタバンさんの頼みっていうことだったけど、それって本当なの?」

「嘘をつく理由があるか?」

「いや、そういうわけじゃないけどさ。ラスタバンさんの頼みってやっぱり、あれなのかな。私にファシナトゥールを変えて欲しいとかそういうたぐいの話なのかな?」

「さあな」

「さあなって」

「俺は頼まれただけだ」

「頼まれたって……理由も聞いてないの?」

「ああ」

「ふうん……。よくわからないけど、本当に仲が良いんだね。友の頼みなら二つ返事でってやつ?」

「仲が、良い……?」怪訝そうにイルドゥンは眉を顰めた。「俺とあいつがか?」

「そりゃそうでしょう」

「いやそんなことはない」

 イルドゥンはきっぱりと言った。

「別に仲は良くはない」

「え、ええ……。そうなの……? じゃあ、どうして来てくれたの……?」

「どうして……?」

 問われ、イルドゥンは表情を変えずに首を傾げ考え込んでいたかと思うと真顔で答えた。

「そうだな。おおむね暇だった。そんなところだ」

「そんな理由で!?」

「そんな理由だ。だいたい、忙しい妖魔などこの世には存在しない。大抵の妖魔はみな暇だ。確か俺はどこかで酒を飲んでいた。するとラスタバンが現れセアトに敗れたという話をしてきて……何だったか。その話の流れでお前のことを頼まれた。そして冷静に考えてみると俺は暇だった。そういうことだ」

「はあ……」

 イルドゥンの投げやりな語り口調に呆れ、それからアセルスは「うん?」と聞き捨てならない言葉に疑問の声を上げた。

「セアトに敗れたって……大丈夫なの?」

「大丈夫だろう」

「でも……怪我とか」

「確かに俺が見たときは傷だらけだったが。だが大丈夫だろう」

「心配じゃないの?」

「俺が心配すると奴がどうにかなるのか? 腐っても妖魔だ。セアトごときに滅ぼされるとも思えん。仮に滅ぶとしても、それはラスタバンがその程度の妖魔だったというだけの話だ」

「ラスタバンさんのこと、信頼してるんだね。……チャーシュー食べる?」

「だからそういうことではないチャーシューはいらん」

 箸でつまんだチャーシューを差し出してくるアセルスにうんざりしたのか、イルドゥンは大仰にため息をついた。

「大体……ラーメンなど食べてどうするんだ?」

 アセルスは無理にはしゃいでいるのを咎められた子供のように動きを止める。

「そんなの……私の勝手でしょうに」

「ではお前はその人間の食事を旨いと思うのか」

 アセルスは不満げに口を尖らせる。

「別に……食欲がなくったって、味覚がなくなったわけじゃない。これがチャーシューメンだとわかっていれば、味の想像だってなんとなくつくよ。……ねぇ?」

 最後の一言は紅に向けたものだった。ミニチュアサイズのラーメンを胡乱気につついていた紅はアセルスに同意を求められるや否やはっと背筋を正し、すごい勢いで麺に噛みついて「お……おいひいです」と頬を膨らませた。

「ほら。紅もこう言ってる。ラーメンは人類の口の永遠の友なんだ」

「ならいいがな」

 皮肉気に答えるイルドゥンにアセルスは青筋を立てて膨れる。

「“ならいいがな……”。ふん! いつかここの味噌ラーメンを食べなかったことを後悔させてあげるからね!」

 不貞腐れたアセルスは意地になったようにラーメンを啜り、「あー美味しかった!」と聞こえよがしに言った。

 

 

 

 

「無い! 無い! 無い!」

 体中をまさぐりながら真っ青になってアセルスは叫んだ。ほんの僅かのことなのだ。そう、ラーメンを食べて少しだけ気が緩み、ぽかぽかとお日柄も良く……小高い丘ののどかな芝生の上でちょっとだけうとうとと……眠ってしまった。

 本当にそれだけだ。

 それほど長い時間ではない。

 その筈なのだ。

「銀河鉄道のパスがない!」

 それだけではない。携帯していた金銭、財布も根こそぎ持っていかれている。流石にいざという時の為に服の中に隠していた分までは見つからなかったようだし、命を取られなかっただけでも不幸中の幸いと言えたかもしれない。しかし……。自分の間抜けさ加減に歯ぎしりしながらアセルスは頭を抱えた。

「そんなに長いあいだ寝ていたわけでもないのに……」

 悔し気に呻くと、イルドゥンが憎たらしい顔をして「いいや」と口をはさんだ。

「そうでもない。たっぷり一時間は寝ていた」

 そういって何かを思い出すように空を見上げ、更に付け加える。

「隙だらけだった」

「……むかつく」アセルスは呻く。「だいたい貴方だって寝ていたんじゃないの?」

「俺は寝ていない。まあ寝たところで何かを盗まれるほど愚かでもないが」

「はぁ!? 起きてたの?」

「ああ」

「……じゃあ、何でパスが盗まれてるの」

「盗人が来たからだろう」

「いや、だから……貴方は何をしてたの?」

「俺は近くの木陰にいた。パスを盗まれるお前の間抜け面を見ていた」

「いや。いやいやいや……止めてよ」

「なぜ俺がそんなことをしなければならない? 少なくとも、命の危険になど晒されてはいなかった。露わになったのはお前の無能だけだ」

「あっそ……あっそう!」恨めし気に睨みつける。「イルドゥンなんか嫌いだ!」

「落ち着きましょう、アセルス様」

 白薔薇姫はアセルスの肩に手を置いてなだめる。

「今はとにかく、パスを探さなければ」

「うん……。だけど、いったいどいつが……」

「何か手がかりでもないと、とても探しだしませんね……。イルドゥン、貴方が見た泥棒はどんな人物でしたか?」

「……そうだな。黄色のジャケットを羽織った人間の男だ。まだ幼いこどもだった」

「少年、ですか……。それなら、まだ遠くへ行っていない可能性も高いですね。探しましょう、アセルス様。パスを取り戻さなければ永久にここで暮らさないといけなくなる……」

「……」

「……アセルス様?」

 “永久に”というその言葉を聞いてぼんやりとしていたアセルスは白薔薇に声をかけられてはっとする。

「あ……うん、そうだね。まずは……どうしよう。警察に届けるとか……」

「秘密協定でこの星へ銀河鉄道が乗り入れをしていることはそれこそ極秘ですから……。届けても信用してはくれないでしょう」

「なら」

「ええ。停車期間は二週間しかありません。二週間のうちにどうしても取り返さなければならないということです」

 

 

 だが、犯人は見つからなかった。

 

 

 

 

 通常であれば、停車駅では必ず銀河鉄道が宿を用意している筈だった。しかし、今回に限っては自分たちが銀河鉄道の乗客であることを証明するためにパスがない。ホテルをとるための満足な金もないアセルス達は、仕方なく不動産屋を訪れた。持ち合わせが少ないことを伝えるとすぐに断られる場合も多く難儀したが、なんとか一日かけて保証人なし敷金礼金なしで訳ありの人間でも受け入れてくれ、かつ短期間からでも契約可能な下宿先を見つけることができた。

 しかし、もちろん、至極当然のことではあるが、それはちゃんとしたところではなかった。

 建物はごく普通の木造建築であるがむろん吹けば飛ぶようなあばら家だ。周囲は無数のシダ植物に囲まれておりジャングルの中に取り残された気分になることうけあいだし放し飼いにしている犬や鶏やらが気ままに闊歩しているせいで気を抜くと糞を踏みつける。住人が好き勝手に縄を張って洗濯物を干しているせいでいちいちかがまなければまともに入り口までたどり着くこともできない。縁側に転がっているのはさびたバケツにホース、折れ曲がった板切れに古びた文庫本。それだけならまだしも普通だが当たり前のようにびりけん人形があり鯉の泳ぐドラム缶があり劇画調で描かれた映画看板がある。

 中に入ればどうか。

 入口はとにかく張り紙でいっぱいだ。なにが書いてあるのかとよくよく目を近づけてみれば全てピンクチラシである。大家に聞けば住人たちがどこかから剥がしては入り口に貼り付けていくのだという。天井を見上げればこれまた墨痕倫理に『学生の自治を取り戻せ!』と書かれているが、この下宿に学生は現在のところ住んでいない。住んでいるのは九州から来た無職とポンビキ、アル中の易者とストリッパーである。

 廊下は狭い。実際には一間ほどあるのだが両側に住む住人がそれぞれ個人の物を積み上げていくために体を横にして進むのが精いっぱいとなっている。天井にはむき出しの配線が無数にうねり、絡み合っており、明滅する白熱電球が死にかけの蝉じみた鳴き声を上げている。板張りの廊下は半ば腐りかけているし、歩くとぎいぎい音がするので天然のうぐいすばりだ。屋内だというのにあちこちを蔓が覆っているしなんなら苔さえ生えている。

 当たり前のように四畳半である。風呂は無い。トイレは共同であり、なおかつ屋外である。

 年頃の女性であれば秒で逃げだす住居だった。清潔感とはほど遠い、あまりにも猥雑でかつ狭隘な場所だった。

 だがアセルスは慣れていた。伊達にクーロンで半年以上暮らしていたわけではない。悲しいかな貧乏には慣れている。

 下宿先の大家は背の曲がった老婆だったが、この星の例にも漏れず気の良いばばあだ。入り口で対面するなり大家は二階を見上げ、半ば怒鳴りつけるようにして「こらー!」と叫んだ。なぜ怒っているのかと訝しんだアセルスだったが、それは勘違いだった。

「こらー! 足立さん! 新しく入る人だよ~! 挨拶おし!」

 大家がそういうとどたどたと足音が聞こえ、階段の上からひょっこりと猿が顔を覗かせた。いや、猿ではない。よくみれば人間だ。眼鏡もかけている。サルマタにランニングシャツと無防備な恰好のまま、男は尻をぽりぽりと掻きながらにっこりと笑った。

「おいどん、足立太なんよ。よろしく」

「あ、私は……」

 アセルスが挨拶を言い終わるのを待たず、足立と名乗った男ははっと顔を上げ「いかんいかんラーメンが伸びる!」と泡を食って自室へと戻っていく。

「あの人は足立さん。あんた達の向かいに住んでる人だよ。人畜無害だけど時々でかい声で叫んだりするから、まぁ気を付けるんだね」

「はぁ……」

 何をどう気を付ければ良いのかわからないまま大家の案内に従って二階の部屋へと向かう。廊下に並ぶ襖を開ければそこはすぐ各住人の部屋だ。鍵などもちろんついてはいない。下宿館においてプライバシーという言葉は存在しないのだ。防犯意識の薄いこの住居では開きっぱなしの戸からそれぞれの生活が筒抜けである。

「ほら、ここがあんた達の部屋だよ」

 そういって大家が戸を引く。畳が四枚半ある。それ以上でも以下でもない。他に存在しているものは押し入れと空気だけだ。

「それで、家財道具はいつ届くんだね? え? ない? はーあんたたち死ぬ気かい。え? フトンもない!? はー。いくら若いっていっても自分の体を過信しちゃいけないよ。仕方ないねー」

 ぶつぶつと呆れながら大家はどこかから布団を持ってきてくれた。

「まあいいよ。はやく働いて返してよね」

「あ、あの私たちはだいじょう……」

「ああそうだ、足立さん!」

 遠慮するアセルスの言葉を聞かずに大家は叫び、そのままどたどたと足音を立てて向かいの襖を開けた。さきほど紹介されたサルマタの怪人の部屋が丸見えになる。やはりそこは何もない四畳半だった。アセルス達は今日来たばかりなのだから当たり前なのだが、もともとここに住んでいるにも関わらず足立太の部屋には布団代わりに新聞紙が敷かれているだけで、その外にはどんぶりが一つ慎まし気に置かれているだけだ。テレビもない。衣装棚も冷蔵庫も無い。

「足立さん。あんたあれ持ってるだろ、百ワット。アセルスさんたちに貸しておやりよ。この子たち着の身着のままみたいでなんも持ってないんだよ」

「はあ!?」寝転がってた足立は素っ頓狂な声を上げた。「なしておいどんがそげんことせにゃならんね?」

「だってこの子たちが可哀想じゃないかい。あんたこの冬の夜に女の子二人を凍死させるつもりかね? だいたいあの電球はあたしが足立さんに貸してるものでしょうが」

「しかしあれはおいどんの生命線ばい。あれがないと……」言いかけ、足立はアセルスたちが困っているのに気づいてはっと真面目な顔になった。「……よか。困ったときはお互い様ばい。おいどんは男ど。寒空の一つや二つ、キアイで耐えて見せるけんね」

「いやほんとにだいじょうぶなんで……」

「よかよか。気にせんでよかよ。遠慮なんてするもんじゃなかばい」

 そう言って足立は立ち上がり、押し入れの戸をさっと開けた。と、途端に無数のサルマタというサルマタが雪崩を起こして落ちてくる。押し入れの中に無造作に押し込まれていたサルマタの氾濫にたちまち足立は「ぎゅう」と声を押し殺して生き埋めになったが、慣れた様子でサルマタの海を泳ぎ切り抜け出すと「なはは」と恥ずかしそうに笑った。おいどん、サルマタだけはたくさんもっちょるんよ。人間、サルマタさえあれば大抵のことは何とかなるものなんよ。そう言いながら押し入れの奥をごそごそとかき回し、やがて手のひら大の電球を見つけ出すと大事そうに手渡してきた。

「冬はこれを抱いて寝てるんよ。サルマタでこれを囲んだ即席の百ワット炬燵があれば冬の寒さもなんとかなるっちゅう寸法なんよ」

「いや、私は……」

「アセルス様」

 断ろうと口を開いたアセルスの脇を白薔薇姫がそっとつついた。その顔を見てアセルスは意図を悟り、丁重に電球を受け取った。

「ありがとうございます。足立さん。大切に使いますね」

 にっこりと笑うアセルスの顔に足立は顔を真っ赤にして見惚れていたが、やがてどんと胸を叩いて誇らしげに肩をそびやかせた。

「貧乏暮らしには慣れとるけん。わからんことがあれば何でん聞いてください」

「ああ、はい……」

 後ろめたい思いで頭を下げ、アセルスはようやく自室へと入り戸を閉め、そして盛大に項垂れた。

「白薔薇……」

「はい」

「人の親切が胸に痛いよ……」

「はい……」

 白薔薇姫はなぜか笑いを堪えているようだった。

「足立さん、本当に大丈夫なのかなぁ?」

「さあ、どうでしょう……。案外平気なのかもしれませんよ」

「でもなぁ……。うーん……。パスはパスで探さなきゃならないんだけど……うーん……」

 さんざん首をひねった末にアセルスは神妙そうな顔をして言った。

「……ごめん、紅。ちょっとお願いがあるんだけど……」

 

 

 人間の拳ほどの大きさである紅はそっと忍び足で足立太の襖を開いた。足立は何一つ気付ず、のんきに寝転がったままでいる。よく晴れた陽気な日とはいえ、冬の真昼間にサルマタとランニングシャツという薄着でいる部屋の主人はずるずると鼻を啜った。

「はー」

 足立太は天井を見上げて深いためいきをついた。

「おいどんどうも女に甘い所があるんかねー。ばってん……」

 言いかけて、腹の音がグウと鳴る。

「くそー腹減った」投げやりに呟く。「考えたらおとついからなんも食べちょらんもんなー。さっきのラーメンもトリさんに食べられてしもうたし。このままじゃ干乾しになってしまうばい。バイト料は週末にならんと入らんし、動けば動いただけ腹が減る……。こうなりゃ寝るしかなか。明日の為に今日も寝て今日の為に明日も寝る。それにしても寒さにやられんようにせんといかんね……」

 びあっくしょん、とくしゃみをする。

「はー。寒か……。しかし着るものはと言えばサルマタのみ……。どうしたもんかねー……」

 やがて紅の見守る中で足立は盛大ないびきをかいて寝始めた。そのあまりにもすごいいびきと寝言に紅は衝撃を受け、こんな人間もいるのかと半ば感心さえしてしまうほどだったが、自分がやるべきことはわかっていた。

 足立太の部屋は少しだけ温かくなった。

 

 

 ◇

 

 

 足立太は九州の小倉で生まれ中学を卒業したのちに上京し働きながら定時制の夜間高校に通っていたが、勤務先の工場をクビになったために学費が払えなくなり中途退学を余儀なくされ、いまは復学を夢見て糊口をしのぐ毎日である。チビでがに股かつ醜男ではあるが気は誠実で美人に弱い。

 現在における足立の全財産は手元にある三百二十八円である。一杯のラーメンが百円強であることを考えるとこれは非常に心もとない金額ではあるが、極貧生活に慣れきっていた足立はそれほど絶望してはいなかった。もし金が無いのであれば近くの中華料理屋で働けば良いし、そうでなくともどこかに日雇いの仕事があるだろう。金は一向に貯まらないがその代わりに夢や希望は無闇に貯まる。巷に雨の降る如くわが心にも雨ぞ降る。いつの日か喜びにあふれてあの空を見上げるときがきっとくるのだと、おいどんこと足立太は信じているのだった。

 その足立太がいま何をしているのかというと、彼は下宿館の窓から夜空を眺めている。夜の冷え込む冷気にも構わずランニングシャツのまま、足立は空を指さしてこう語った。

「おいどんは思うんよ。あの星の中にもおいどんのようなことを考えおいどんのように暮らしている男のいる星があるだろうかと……」

 足立はけして星を愛するたぐいの男ではない。浪漫に溢れる趣味を持ち合わせているわけではないし、星の王子様に影響されている訳でももちろんない。ただ彼は女に弱く、特に美人を前にすると自分でも思いもつかない台詞をいささか気取った調子で口にしてしまう悪癖があるのだった。

 紅から足立の独り言を聞きだしたアセルスはお節介と知りつつもなけなしの金でささやかな酒と肴とを用立て、引っ越し祝いという名目で足立の部屋を訪れ、その結果このサルマタ怪人の話をずるずると聞く羽目になっていた。

「人の噂だと真夜中になれば銀河鉄道ちゅう幻の列車が空から降りてきてどこから来たかようわからん人をおろして……、夜があけるとまた人をのせてどこかへ飛んでいくちゅうとじゃが、おいどんもそんな列車があったらのってみたかねー」

「へえ……。そんな噂があるんですか? 物知りですね」

 惚けて見せるアセルスに足立は気分よくなり、その語り口は更に饒舌なものとなる。

「なんでも定期をもってればどこまでものってられて好きなところでおりられるそうばい。人類の夢ばいねー」

 楽しそうに語っていた足立はそこでふと唇を噛みしめ、唇を尖らせてどこか悲し気に目を細めた。

「ばってん、泣いても笑ってもおいどんらにゃにげみちはないんよ。夢を見ながら考えるしかないんよ。わかるかね、あせるすさん」

「なんとなく……。足立さんの夢はなんですか?」

「おいどん? おいどんの夢?」

「ええ」

「そりゃ、あんた……」

 言いかけて、おいどんは恥ずかしそうに身をくねらせ、もじもじと照れだした。

「言えん! 言えん! 男っちゅうのはそうおいそれと夢を語っちゃいかんとおいどんは思うちょるんよ。腹の内に夢を秘め、耐えて耐えて耐え抜くのが日本男児の定めなんよ」

「そうですか……。難しいんですね」

「あせるすさんには夢があるとですか? なしてこげな所に来たと?」

「私は……」

 問われて、アセルスは戸惑いを覚えた。そういえば……自分はなんのために旅をしていたのだろうか。追手から逃げなければという意識は常に頭の片隅にあったが、しかしそれは目的ではなかったような気がする。自分には、目指すところ目指すものがあったのではなかったか……?

「私には……夢なんてものは無いんです。夢を持って生きている人……何かを目指して一生懸命に生きている足立さんみたいな人は本当に尊敬しています。でも……私には夢がない。何かをしたいわけじゃない。私はただ……自分の居場所を見つけたいだけなんです。誰かに襲われる危険のない場所……安心して暮らしていける場所を見つけたくて」

 アセルスが漏らした言葉に足立は少しばかり首をかしげていた。

「おいどんにはよくわからんばってん、外人さんも色々と大変なんやねー。それはあれか、亡命とかそういう話なんね? 常々おいどんも戦争には反対だと思うちょります」

 なにか勘違いしているようだったが、足立がこちらを励まそうとしているのはよくわかった。

「住処を見つけるっちゅうんなら、ここで良かね。ここは平和な場所たい。くそみたいなボロ家ですけん、大家のばばあもあれでいいばばあなんよ」

「ははは……」

 その場では軽く笑って流してしまったアセルスだったが、自室へと戻った後でふと、真面目に考えた。

 ──もし、パスが見つからなかったら?

 その時は白薔薇姫や紅とこの星で暮らさなくてはならなくなる。

 けれども、それは──別に悪いことではないのではないか、と。

 

 

 

 

 パスを探すのは最優先事項なのだが、それにしても先立つものがなければ身動きがとれない。働き先を探しているという話をすると、足立は「そいばはよう言わんね!」と憤然と立ち上がり、先日行ったばかりの中華料理屋へと連れて来てくれた。

 がらりと戸を開け、他の客の視線など何一つ気にすることなく足立はでかい声で言った。

「おっさん、この人一文無しばってん、なんか食わして働かせてやってくれんかね」

 奥で新聞を読んでいた紅楽園の主人は顔を上げるなり「なんだおいどんじゃないか」とこれまたでかい声で答えた。

「え? バイト? いやウチはそこまで忙しくないし、あんたの給金だけでいっぱいいっぱいだよ」

「何を!」足立は鼻息荒く言い返す。「おはんにゃあわれみちゅうもんがないんか! はるばるソ連から来た外人さんにラーメンライスの一杯も食わせてやらんとか! こん人は物盗りにあって金もなにも無いんよ! 助けてやるのが人情じゃなかか!」

「す、すみませんすみません!」アセルスは恐縮しきりでぺこぺこと頭を下げた。「私はあの、本当に大丈夫なんです。あとソ連?から来たわけではないです」

「あんた……そういえばこの前店に来てた外人さんか。えー、あんた泥棒に遭ってたのかい! はー、そりゃあ……大変だったなぁ。まあそういう事情なら……おいどんの頼みもあるし仕方がないか」

「本当にすみません……」

「そうそう、それで良かよ。兎にも角にも、まずはなんか食わせてくれんね。ラーメンライス二つおくれ」

 肩身が狭そうに項垂れるアセルスには構わず、足立は自分のペースをまったく崩すことなく自らの主張を続けた。

「え? おいどんにもかい? あんたいつもバイトで食ってるだろうが……ええい、まあ、いいか」

 渋々といった様子で奥へと引っ込んだ主人はすぐにラーメンライスを二つこしらえてくれ、あまつさえ卵をつけてくれさえした。

 これは本気で働こう、とアセルスは思った。

 幸いにして飲食店で働いたことは何度かあったため、さほど仕事に苦労するということもない。むしろどちらかといえば足立の方が失敗が多かった。出前する度に自転車を壊しどんぶりを割り客と揉め……とトラブルばかり引き起こしているように見える。悪い人間ではないのだが、めぐり合わせというかなんというか、よくよく不運な男のようだ。

 この星へ着いて二日目、アセルスはおおむねバイトをして過ごした。パスの探索を頼んでおいた白薔薇姫もどうやらかんばしい成果は得られなかったようだった。仕方ない。手がかりと言えば黄色の上着を着た少年とというだけでそう簡単に見つかるわけもない。

 三日目、四日目と時は経つ。前借りしたバイト料を家賃にあてながら時間があけば街中を探索しパスを盗んだ犯人を捜す。

 五日目の朝、いつものように足立のいびきの音で目を覚ますと何やら階下で騒がしい音がする。様子をみに階段を下りてゆくと、どうやら下宿館に新しい住人が入るのだという。引っ越してきたのはヒッピーのような身なりの大学生だ。ベルボトムのジーパンにビンテージもののTシャツ、とんぼメガネにボストン・バッグ。現れた長髪の大学生は、トラックに積み込んだ荷物を運ぶ引っ越し業者にきびきびと指示を出していた。巨大なオーディオ、傷一つない純白の冷蔵庫、そしてカラーテレビ。どこにそんなものが入るのかという大量な家財道具を運び入れ、四畳半の部屋は瞬く間に物質主義に塗れた。

「やあ、こんにちは」大学生は言った。「僕は西山と言います。いやあ、こんなところであなたみたいな美人に出会えるなんてびっくりですよ」

「はあ……」差し出された手に戸惑いながらもアセルスは一応握り返した。「アセルスです。初めまして」

「きみ、留学生? 学校はどこですか? ぼくは騒鳴館大学の英文科です」

「いや、私はあの」

 口ごもっていると、ああ、と訳知り顔で西山は頷いた。

「浪人生? そりゃ大変ですね。まあ、お互い頑張りましょう」

「違いますよ」

「え?」

「私、浪人生なんかじゃありません。そもそもハイスクールを卒業してませんから」

「とすると……」

「そうですね。中卒です。いまは一文無しで、なんとか生きていくために働こうとしているところなんです」

 そういうと、西山は驚いたように目を丸くして口をぱくぱくしていたが、そのうちに「いやあ、それはそれは……」とかなんとか言いながら逃げるように去っていった。

 ため息をついてアセルスはバイト先に向かった。道すがらぼんやりと考える。もし自分がオルロワージュの馬車に轢かれていなかったら……いいや、もしも両親がともに健在で、何事もなく平凡に暮らしていたとしたら……。自分もいまごろはあんな大学生になっていたのだろうか。考えてはみたが上手く想像することはできなかった。自分はそうしたかったのだろうか、と思う。わからない。半妖となったこの身では何もかもが手の届かない世界のようにも思える。

 その日、アセルスは初めて皿を割った。いけない、もっと集中しなければ……いやしかし、こんなことをしていないでとにかくパスを取り戻さなければ……とりとめのない考えに浸っていると、出前から帰ってきた足立が客席を見て慌てて厨房へと引っ込んでくる。

「どうしたんですか?」

 尋ねると、のれんごしに客席を覗いた店の主人が「ありゃあ」と困ったような声を上げた。視線の先を見れば、髪の長いすらりとした美人が座っている。

「あれは浅野さんだな。おいどんの向かいに住んでた人だよ」

 とすると、自分がいま住んでいる部屋の前の住人ということか。しかし足立がもじもじしているのはどうしたわけなのだろう、と不思議がりながら注文を取りに行く。

「ヤキソバひとつ」

「はいよ、ヤキソバ一つね」

 慣れた様子で主人は料理を作り上げ、足立に手渡すが、足立はなおももじもじしている。

「どうしたねおいどん」

「あのそのなんちゅうか、ここでおいどんが出てゆくと夢も希望も消えるようで」

「はあ!?」主人が顔を顰める。「あんたここで働いてるのが恥なんか? 若いうちにゃ何したってどうってこともないじゃねえか。若いうちの貧乏だれが笑うか、ばか」

 足立ははっとしたように顔を上げた。

「おいどん、やるばい」

「足立さん、大丈夫です。私が行きますよ」

 気を使って名乗り出たアセルスに、足立はきっぱりと首を振った。

「よかよ。おいどんは男ど。おいどんがおいどんを羞じても仕様がなかばい」

 やきそばを乗せた盆を片手に客席へと歩み寄る足立を見て、おかみさんが気の毒そうに呟いた。

「あんた屁理屈こねたけどあれじゃ足立さん可哀想だよ」

「おいどんが男ならどうってこたあねえ。黙ればばあ」

「ふん。そうかい。じゃ、あんた好きな女の前にそのなりでおぼん持ってでられるかい」

「そりゃま出られねえ。しかしな……うーん」

 口ごもり、主人はばつが悪そうに頬を掻いた。

「おいどんに悪いことしちまったかなあ……」

 後悔する主人をよそに、足立はとうとう浅野の元に辿り着いた。

「あら、ここでアルバイト?」

「そうなんよ」

「ここ、おいしいの?」

「そりゃもうむちゃくちゃよ」

「足立さん、まだ、あの下宿館にいるの? 同じゼミで西山君って人がいるんだけど、彼がこんど下宿館に引っ越すって聞いて、懐かしくなってこの辺りに来てみたのよ」

「は。そりゃあ、まあ……」

 足立を見つめて、浅野は優しい微笑みを浮かべた。

「変わらないのね、足立さんは」

「そうかね」

「そうよ」

 しばらく会話を交わしていた足立はでれでれとにやけながら浮かれ切った足取りで戻ってきた。

「おいどんよー。裏からラーメン運んできてくれんか」

 主人に言われ足立は裏口から出ていき、代わりにアセルスが客席のテーブルを片付けていると、大学生が三人やってきた。いずれも男で、そのうちの一人は例の西山だ。

「あ、アセルスさん……だっけ」

「あ……」

「ここでバイトしてたんですね」

「はい。いらっしゃいませ」

 西山はなんだか気まずそうにきょろきょろと視線をさ迷わせていたが、客席に見知った顔を見つけて「ああいたいた」と手を挙げた。西山が向かっていったのは浅野の席だ。

「やあ、ここにいたのか」

「西山君」

 西山に気づいた浅野が口元に小さな笑みを浮かべる。

 西山の連れてきた男たちも同じ卓につき、誰に言われるでもなく自己紹介を始めた。

「西山の知り合いの愛沢ですねん。わいは駒馬大学や」と茶髪の男が言い、

「ぼくは音羽工学」と黒髪の真面目そうな男が言う。

「わたし浅野です。西山君と同じ英文科の」

「浅野さん、クニはどこですか?」

「わたしですか? 私は北海道です。北海道の芦別」

「へー北海道。いいところですよね」

「そうでもないのよ。人なんてどんどんいなくなってるもの……」

 穏やかな世間話を続ける大学生たち。きがつくと、いつの間にか裏から戻ってきた足立がのれんの隙間から顔を突き出して歯ぎしりしていた。

「いまは自由が丘なんですけど、以前は西山君と同じ下宿館に住んでいたの。通うのに便利だから」

「そうそう。環境はともかくとして何しろ近いからな。距離が離れていると通うだけで億劫になりますからね。僕はそれで留年した奴を一人知っているんですよ。……でも、思いがけず変なのがいたなぁ」

 西山が言うと、そうそう、と追従するように茶髪の男が笑う。

「変なのって……あの足立ってやつやろ?」

「……なにが、変なの?」

 浅野は表情を変えず、静かに尋ねた。

「あいついなかったんで部屋覗いたらもう何年もいるって話なのになんにもまったくないんだ」

「勝手に覗いちゃ悪いよ」黒髪の男がたしなめる様に口をはさんだ。「それに物があろうとなかろうと人格にゃ関係ないさ」

「そう思うわ」と浅野が頷くと、西山は気分を害したように「しかしね」と口を尖らせた。

「あいつの目には気力が無い。おれの友達にもいるけどああいうヤツはダメだよ。あの年でその日暮らしを繰り返しているのは結局のところ本人の頑張りが足りないからだろう。どんな人間だって頑張ればあすこまでの極貧生活を送ることにはならない。ああいう人間はたいがい自分に甘いんだ」

「でも、浪人が一人というのは気の毒だろう」

「人間スタートで出遅れると……いや何年かかってもダメなものはダメさ」

 足立はもう顔を真っ赤にして怒りに震えていたが、懸命に歯を食いしばって学生たちの注文したラーメンセットを持っていこうとお盆に手をかけ──たところで流石に主人が止めた。

「いいよおいどん。わしが持っていくよわしが」

 ラーメンを食べ終わると大学生たちは映画を見に行くのだと言って出ていったが、浅野は用事があるからといって店に残り、コーヒーを頼んだ。意気消沈したまま皿を洗っている足立を見て、おかみさんはぼそりと囁いた。

「でも、あの子、足立さんに恥をかかせないつもりでここにいること言わなかったんだね」

「そうだなあ」主人は言い、足立に同情の視線を向けた。「だがはじめっから夢と希望に借りができちまって、よくよく運の悪いやつだよおいどんは」

「聞こえちょるばい」

 足立が蚊の鳴くような声で言う。

「なーに、ひとはひと、われはわれなり。おいどんだってその内なんとかなるわい。いつか見ちょれと思うとるんよ」

「あ……足立さん、浅野さん帰るみたいだよ」

 促され、支払いの為にレジまでやってきた浅野を見、足立はとぼとぼと力なく歩み寄る。

「──聞いてた?」

 浅野は穏やかに言った。

「は……」

「ごめんなさいね。みんな悪気はないの。でも、あなたも悪いのよ。あなたいつになったら学校に戻るの? いつかでっかくなってみせるっていつも言ってるけど、あなたすぐにバイトクビになるからずっと貧乏のままじゃない。だから駄目なのよ」

「……」

「……じゃあね。久しぶりに会えて嬉しかったわ」

「ああ……はい」

 もはやまともに焦点の合わない目でぼんやりとうなずき、足立はお釣りの小銭を浅野の掌へと落とした。僅かに手と手の触れ合ったその部分を浅野はじっと見つめていたが、しかしやはりそれ以上の言葉を発することはなく、店から出ていった。

 

 足立と浅野の一部始終をあわあわしながら見守っていたアセルスは、どこか腑に落ちないものを感じて「あの、私ちょっと行ってきます」と言って店を飛び出すと、次の曲がり角で信号を待っていた浅野に追いついた。

「あの!」

 呼びかけると、浅野はこちらに気づいて小首を傾げた。

「……あら、あなたさっきの……」

「わたし、あの店で働いてるアセルスという者なんですけど……」

「そう……。そのアセルスさんが何の用なの?」

「なんで、さっきはあんな言い方をしたんですか?」

 自分はいったい何をやっているんだろうか──アセルスは自問する。他人の事情に首を突っ込むなどお節介もいいところだ。だいたい自分は追われる身の女だ。人間ですらない半妖の、しかも人を殺したことすらある女なのだ。その自分に、人の色恋沙汰にどうこう言う資格などあるのだろうか。躊躇いを覚えながら、いつの間にかに唇は動いていた。どうしてなんですか。そう尋ねると、浅野はおかしそうに弱々しい微笑みを浮かべた。それはどこか寂し気な笑い方だった。

「足立さん、優しいでしょう」

「ええ……はい」

「良い人なんです。とても。いつも苦労ばかりしているのに、下宿館で誰かが泣いていると必ず声をかけてくれる。あの人いつも優しいから……だから、私も優しくしてあげたくなるの」

「それなら」

「好きよ。足立さんのこと」浅野はあっけなく認めた。「でも、ね……わかるでしょ? 優しいあの人に私が優しくして……その私にあの人が優しくしてくれて……優しい優しいというただそれだけでは何も変わらないじゃない」

「……」

「いつまでも私はあの人の優しさを利用しているわけにはいかないの。あの人には少し厳しくしてあげなきゃ。誰かがハッパをかけてあげなければ、足立さん駄目になっちゃう。……下宿館て心地良いのよ。ボロいけど大家さんも他の人もみんな親切だし、何をしても誰にも怒られない。自由で、いい加減で……」

 浅野は空を見上げ、太陽の光にまぶしそうに目を細めた。

「私の青春はみんなあの下宿の中にあった。夢があって、希望があって……どこにだっていけるし何にだってなれると思ってた。でも、いつかはあの場所からは出なければいけない」

「何を言ってるんですか? 浅野さんはまだ若いじゃないですか。貴方はその……まともなニンゲンだし、何か犯罪を犯しているわけでもないし」

「わたし、クニに帰るんです」浅野はアセルスを見つめ、ゆっくりと口を開いた。「西山君たちとはあんな話をしていたけど……本当は学費が払えなくなったので北海道に帰るの。私は足立さんみたいに強くないし、働いて学費を稼ぐほどの根性も無いから」

「それでいいんですか?」

「ええ。色々考えて決めたことだから……。だから、いま心配なのは足立さんのことだけ……。あの人あんなだからすぐにもめ事起こしたりするでしょう。もう少しだけ小狡くなってもいいんじゃないかと思うの。……もっとも」

 浅野はため息をついた。

「そうなってしまったら、私の好きな足立さんはいなくなってしまうのかもしれないけど。……アセルスさん、足立さんのこと、よろしくお願いします」

 浅野は深々と頭を下げた。アセルスは慌てて頭を上げるように言う。

「そんな! 私はあの……そういうアレじゃないですから!」

「……そうなの?」

 残念だとでもいうように浅野はアセルスの顔をじっくり眺めていたが、「なんだかごめんなさいね」と言って去っていった。

 アセルスは空を見上げてため息をつく。自分はなんてばかなのだろうか、と肩を落とした。もし時間を戻すことができるなら、足立にひどいことを言った浅野を咎めようなどと思いあがっていた自分をぶん殴ってやりたい。

「私はまだ、世の中や人間のことを何も知らないんだな……」

 呟いて、アセルスはバイトに戻るべく店へと戻った。足立はまだ落ち込んでいるようで、トイレにこもっている。

「足立さん、大丈夫かい。今日のところはもう帰りなよ」おかみさんが言う。

「いいんだよいいんだよ。男はな、泣き顔を人に見せちやいけねぇんだ。そっとしておいてやりゃいいんだよ」と主人が言う。

 自分も何かを声をかけるべきだろうかと思ったが、浅野の言葉を思い出して躊躇った。実際、自分に何ができると言うのだろう。しょせん、自分は旅人だ。足立という未来ある若者の青春に現れた一瞬の幻影に過ぎないのだ。彼に好意を持ちはしても、彼と共に生きようとはけして思えない。

 心の中で泣きながら歯を食いしばって耐えている足立の顔を見て、アセルスは何も言うことができなかった。

 

 

 下宿館に帰ると、白薔薇姫はいつものように優しく出迎えてくれる。

「おかえりなさいませ、アセルス様」

「うん、ただいま」

「アルバイトの首尾はどうでしたか?」

「色々なことがあったけど、でもおおむね平和だったよ。ここでは血が流れない。それはいいことだよね。……パスの方はどう?」

 白薔薇姫は申し訳なさそうに眉をさげた。

「それが、やはりどうにも手がかりがなく……」

「うん……。いや、仕様がないよ」

「まだ一週間ありますわ。きっとパスも見つかります」

「……そうだね」

 慰めの言葉に力なく頷いてアセルスは何もない四畳半の部屋を見渡した。この四畳半の部屋こそが、自らの無力の象徴だ。間抜けにもパスを失い、大切なお姫様をこんな狭い場所で不自由を味あわせている。庶民の生まれである自分はいくら部屋が粗末だろうと気に留めはしないが、白薔薇たちは違うだろう。そうだ。白薔薇はいつも優しい。だからその優しさに報いるためにも自分がしっかり彼女たちを守らなければならないのだ、とそう考え、しかし──、

「『優しい』か……」

 呟いた小さな声に白薔薇姫が「え?」と聞き返す。ううん、何でもないよ、そう言ってアセルスは窓際に近寄って外を眺めた。夜空には冬の夜に相応しいささやかな月が白々と輝いている。何気なくぼんやりと見つめていると、後ろの方でかたりと瓦が鳴った。振り返り見上げれば、下宿館についてからすっかり姿を消していたイルドゥンが屋根の上に佇んでいる。

「まったく、どこに行ったのかと思ったら」

 愚痴るように言い、おっかなびっくり瓦葺きの屋根をよじ登っていく。

「今までどこにいたの? 心配……はまったくしてなかったけど」

「こんな場所に住めるか」

 返答は短く、そして端的だった。

「まあ、そうだろうね。四畳半に住んでるイルドゥンなんてちょっと想像できないもの」

「話しかけてくるな。俺は忙しい」

 つっけんどんなその態度に腹を立てながらも、しかしどう見ても何かをしているようには見えないイルドゥンにアセルスは首を傾げる。屋根の上に立って空を──夜を見上げているだけだ。特に何かをしているようには見えない。だが『忙しい』とイルドゥンは言った。つまらない嘘をこの妖魔がつくとは思えない。

「……ねぇ、イルドゥン」

「聞こえなかったのか? 話しかけてくるなと俺は言ったんだ」

 その冷たい拒絶には構わず、アセルスは言葉を続けた。

「ねぇ、辛いことや苦しいことがあったとしても、男の人はそれを面に出しちゃいけないって、やっぱりそういうものなのかな? 男のやせ我慢って、そんなに大事なことかな?」

 イルドゥンは胡乱気にこちらを見やり、「いきなり何を言い出すのか」という目でじろりと睨みつけた。

「……知るか。言ったはずだが、妖魔には男も女も無い。お前が言っているのは人間の理屈だろう」

「そうかな?」アセルスは不思議そうに呟く。「でももし、泣きたいと思ったその時に涙を流すか流さないかで言えば、貴方は流さない方でしょう? 苦しい時にも貴方はけして苦しいとは言わないでしょう?」

「当たり前だ。だからそれがどうしたと言うんだ。惨めに助けを乞う妖魔など、もはや妖魔とは言えん」

「知り合いの人が最近そんなことを言っていて……その人が実際、大変な目に遭ったのにずっとやせ我慢をしているみたいで……でも、やせ我慢を続けているのは悪いことなんじゃないか、止めてあげなきゃいけないんじゃないかっていう人もいた」

「それはあの足立とかいう猿のことか」

「足立さんのことを知っているの?」

「あれだけ大きい声で話していれば嫌でも聞こえる。たしかにそんなことを言っていたな」

「ああ、うん。よく言っているよね、おいどんは男ど、男っちゅうもんはナントカカントカって」

「男だの女だの俺は知ったことではないが」と前置きしたうえで、イルドゥンは意外なことを言った。「奴の言うことは正しい」

「え?」

「誇り高く、他者の手を借りずに生きていく。それが妖魔の生き方だ」

「じゃあ、妖魔の生き方って男の生き方ってことなの?」

「そんなわけがないだろう。馬鹿か?」

 さすがに呆れたようにイルドゥンが答える。

「やせ我慢という言葉は好かんが……奴の言う男らしさというものはそれはそれで正しい。だが、それだけが妖魔の全てではない。支配し、君臨するのが妖魔という生き物だ。俺が奴ならば従わない者は全て滅ぼす。気に入らなければ殺せばいい。妖魔が弱音を口にしないのは、そもそも妖魔は『我慢』などせんからだ。そういう意味で言えば……やせ我慢というのは下らんことだな。弱々しい人間特有の腐った文化だ」

「この星ではそういうわけにはいかないんだよ」

 諭すようにアセルスは口をはさむ。

「貴方がそう信じているのは貴方が妖魔で、ファシナトゥールに生まれてファシナトゥール流の文化に染まったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。人間として生まれてこの星で生きていく足立さんには、気に食わないからって相手を殴り殺すわけにはいかないじゃないか」

「俺の知ったことではない。奴がそうしたいなら、あの足立という人間は己を愚弄する者全てを殺すべきだ」

「そんなことをしたら社会が成り立たなくなってしまうよ」

「だったら、何だ。ちっぽけな人間社会の一つや二つが崩壊したところで俺に何の損がある?」

「それなら聞くけどさ。ファシナトゥールだって似たようなものじゃないの?」

「なに?」

「ファシナトゥールの王様はオルロワージュだ。妖魔はみんなあのひとに従って生きている。妖魔の絶対的な『格』──それが妖魔の社会を決定する。それなら、それは人間の法律やルールと何が違うの? 誰だって何かに縛られている。そこから完全に自由になることはできないんじゃないのかな」

「……なんの話だ?」イルドゥンが顔をしかめる。「またお得意の妖魔批判か? 俺は俺に満足している。そんなことはどうでも良いことだ」

「何の話、か……」

 口ごもり、アセルスはイルドゥンの隣に立ち、同じ夜空を眺めた。

「そうだな。なんだか随分、話が逸れてしまったね。私が言いたかったのは……何だろう、自分でもよくわからない。馬鹿な話だけど……。でもたぶん、それは……」

 言いづらそうにしているアセルスに、苛々するようにイルドゥンは急かした。

「何だ。言ってみろ」

「うん」とアセルスは言った。「最近なにか嫌なことでもあったの?」

「──は?」

 呆気に取られたように、イルドゥンが目を丸くしている。そんな様子を見るのは珍しいことだった。

「何を言っているんだお前は。気でも狂ったか」

「最近、なんだか様子がおかしいよ。貴方が優しくないのはいつものことだけど、それでもいつも以上に不愛想だし、上の空だし、ラーメンも食べなかったし……」

「ラーメンは関係ないんじゃないか」

「そうかもしれないけど」なんだか不貞腐れたようにアセルスは口を尖らせた。「下らないと貴方は言ったけど……するかしないかで言ったら貴方は絶対にやせ我慢をする方だと思う。だから」

「……そうか」イルドゥンは心底驚いているようだった。「お前は俺を心配しているのか」

「……うん。まあ」

「……それはまた馬鹿馬鹿しい話だな。半妖ごときに心配されるほど俺も落ちぶれてはいない」

「ごめん……。でも、もしかしたら貴方とキャンベルさんとの間には何か、私にはわからない事情があったのかもしれない。それなのに、私は勝手なことを言ってしまって……『ミーくんの命の館』でも貴方はずっと別の場所にいたみたいだし、何かあったのかなって」

 イルドゥンは答えず、アセルスの全身をじろじろと眺めまわしていたかと思うと、不意にアセルスの頭に手を乗せ、くしゃりと髪をかき混ぜた。

「……そうか」

「うん」

「だが、お前の期待しているようなことなど何もない。お前は気にせず、いつものようにお前らしく勝手なことをほざいていればいい」

「わかった。余計な事を言ってごめん……。でも、じゃあ、貴方はここで何をしていたの?」

 尋ねると、イルドゥンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「月を見ていた」

「月を?」

「ああ」

 視線を空へと向けたイルドゥンにつられるようにして、アセルスもまた月を見つめる。空には、静かに光を放つ月が蕭々と佇んでいる。

「ふうん……」

 何気なく呟いて、アセルスはイルドゥンの傍に腰を下ろした。……こんな時、人間の成熟した女ならば何を言うだろう。気の利いたこと、浪漫に溢れる台詞の一つでも絞り出してみせるのだろうか。あいにくとそんなことはできなかった。そんな能力はないし、ましてやそんな性格でもありはしない。だからアセルスはその代わりに、ただ真摯な気持ちで月を見つめた。

 月。

 空に輝く衛星の名を月とアセルスは知っていて、ただ一心に夜空を見つめる。審美的素養に欠けたアセルスには、月の美しさなどわかりはしない。空にあるのは『月』というただそれだけで、目にうつるその景色は景色以上の何物でもない。正直に言えば、何かを心の底から美しいと思った経験がアセルスには無い。生まれた環境としても、生き方にしても、そんなことを考える余裕などこれまでありはしなかったからだ。美しいという言葉を頭の上では知っていて、しかし『これ』が『それ』だと認めたことはなかった。それはアセルスが自分自身を愛したことが無いのと同じくらい確かなことだった。

 月を見た。頭の中を過るのは過去のことばかりだ。いつか自分はまだ別の場所で月を見たことがある筈で、そのとき自分は何を考えていたのだったか。故郷のシュライクで見た月と、いまここでこうしてイルドゥンと見る月は同じようでいてまるで違うものだ。またいつか別の場所でイルドゥンと月を眺めることがあったとしても、そのとき自分はこの日のことを覚えているのだろうか。美しい、と思わなければ──何かを愛することが出来なければ、きっと何もかもを忘れてしまうのではないか。目の前の光景を愛することも憎むこともできないのなら、それは機械仕掛けの人形と何ら変わりはしない。

 私にはよくわからないとアセルスは言った。月の美しさを理解できるとは言わない、と。けれど、その後で小さく付け加える。

 だけど、こうして月を視たことはけして後悔しない、と。

 イルドゥンは一度だけアセルスに振り向き、けれども何も言うことはなく再び視線を月へと戻す。妖魔と半妖の見つめるその先で、幽かな雲が月の半身を覆い隠していった。

 

 

 

 

 パスは結局見つからないままに二週間が過ぎ、そして最後の日がやってきた。

「今日は列車が出る日ですね。……やはり、この星で暮らすことになるのでしょうか」

 心配そうに白薔薇姫は呟いたが、しかしその表情に焦りは見えなかった。

「うん……」気を落とすでもなくアセルスは答える。「でもこの星はいい星だよ。盗まれたり色んなこともあったけど、でも私はこの星のことが好きになれそうな気がする」

 そう呟くアセルスの顔を、白薔薇姫はそっと目を細めて観察している。

「……そうですね。とにかく、駅へ行ってみましょうか」

「駅へ?」

「ええ。今日は銀河鉄道が発車する日……。私たちのパスを盗んだ犯人が乗り込もうとしているかもしれません」

「そうか……。うん。確かに、このまま下宿でうだうだしていても仕様がないものな。行こう!」

 白薔薇姫、そして紅と連れ立って駅へと向かう。列車が星を立つのはちょうど深夜の零時だ。深夜の駅は静まり返り人っ子一人いない。……と、そんな物悲しい駅のベンチに一人の少年が座り込んでいる。隣に見覚えのある鞄を置いて、少年は恐ろしく真剣な顔で手に持った物を睨みつけていた。奥歯を噛みしめ、穴が開くほど見つめて、少年の手がぶるぶると震えている。アセルスたちはこっそりと忍び寄り、少年の手の中にあるものに目を凝らす。

「私たちのパスだ!」

 アセルスは言った。ああまさにその通り、少年の手に握られたそのパスには確かにアセルス達の名が記されているのだった。

「取り返さなくちゃ!」

慌てて飛び出そうとしたアセルスの手を白薔薇が咄嗟に引く。

「どうして? だってあのパスは……」

「アセルス様」

 静かに告げた白薔薇の見つめるその先で、少年は悔し気に目を瞑ると自らの躊躇いを振り払うためか力の限り手を振り上げ、そして短い罵倒の言葉とともにパスをベンチへと叩きつけたのだった。少年は肩を丸め、とぼとぼと力なくその場を立ち去っていく。未練がましく何度か振り向き、そしてその度に泣き出しそうになりながらも、少年はきっと前を向いて歩いていく。

 白薔薇姫はゆっくりとパスを拾い上げ、そして少年を呼び止めた。

「このパス、置いていくつもりなのですか?」

「……ああ」

 面倒くさそうに振り返った少年は、白薔薇の手の中のパスを見て忌々しそうに顔を歪める。

「いらないよ、そんなもの。必要なら、あんたにくれてやるよ」

「そうですか。それはありがとうございます。……ですが、これはもともと私たちのパスです」

 そう言った途端、少年ははっと顔をあげた。まだ幼い少年の表情に、様々な感情が瞬時に横切っては消えていく。予想外の言葉を投げかけられた驚愕。罪を暴かれた羞恥、そして罪悪感。刑務所へ入れられる可能性への恐怖や謝ってしまおうかという計算。目まぐるしい思惑の果てに、少年はまっすぐにアセルスと白薔薇を見つめた。それは、どこまでも純粋な瞳だった。誤魔化すでも怒鳴り散らすでもなく、逃げも隠れもせずに、かといって媚びへつらい情けや憐れみを乞うわけでもなく、少年は自らの罪を暴こうとするものへとただ潔く対峙した。

「……」

 少年は何も言わなかった。口をきっと結んで、ただ白薔薇姫を見つめ返している。

「ご安心を。返してもらえさえすれば、私たちはそれで良いのです」

 その言葉に少年は緊張の箍が緩んだようにほっと一息つき、──そして安心してしまった自分への嫌悪に顔を顰めた。

「ねぇ……きみはどうしてこのパスを捨てたりしたの? 銀河特急に乗れるのに。きみは銀河鉄道のことを知っているからこのパスを盗んだんでしょう? だったらなぜ?」

 アセルスが静かに尋ねると、少年は俯いてジャンパーの端をぎゅうと握りしめた。少年はしばらく葛藤しているようだったが、やがて意を決したようにして口を開いた。

「機械の体が欲しかったんだ。こんな貧しい星ではいくら働いたって裕福にはなれない。ぼくのおじさんは鉄道の技師だったから、たまたま銀河鉄道のことを知っていて、よその星から来る旅人がどれほど素晴らしいものかを教えてくれた。銀河鉄道に乗れば……終点のアンドロメダにさえ行けば誰でもタダで機械の体が貰える。そうすればお腹を空かせることも、いつか死ぬことに怯えることも無い。自分のやりたいことをやって、永遠に生きていけるんだ。そのために……ぼくは……でも……」

 口ごもりながら少年は悔しそうに眼をぎゅっとつむり、絞り出すように言った。

「逃げ出してみても結局なんともならないと思ったから……」

 少年は、自分自身に対して腹を立てているように言葉を吐き出していく。

「ここで仕事がうまくいかないからって……ここでできないことはよそでもできない。友達や恋人を捨てて逃げるのは卑怯だと思って……」

 涙をこらえるように少年は夜空を見上げ、強張った頬の奥で歯を噛みしめる。

「よくわからないけど……ぼくはぼくの目的のために最後まで頑張るべきだと……そのために男に生まれてきたのだと思って……それで……」

「……」

 黙って少年の話を聞いていたアセルスはため息をつき、疲れたようにベンチへ座り込んだ。

「ねぇ、ぼく」

「ぼくじゃない。子供扱いするな。俺は男だ。警察に行くと言うなら行くさ。俺はそれだけのことをした」

「……うん、そうだね。ごめんよ。きみは──あなたはちゃんとしした一人前の男だ」

 アセルスは少年の両手を包み込むようにして握り、真正面からその顔を覗き込んだ。少年は顔を赤らめて視線を反らすが、アセルスは構わずに語り掛けた。

「あなたのやったことは間違ったことだし、パスを盗まれたことはとても腹立たしいことだった。……でも、それを責めたりはしないよ」

「なぜ? そんなことをしてもらう謂われはない」

「なぜかな? 私にもよくわからない。……だけど、あなたの態度はとても立派だったと思う。不思議な話だけど、どちらかといえば私はあなたの態度を見て感心しているような気がする。……あなたがパスを手放してくれて助かったよ」

「あんた……変わった人だな。やっぱりあんたも銀河鉄道でアンドロメダまで行くのかい?」

「いいや……私は違うよ。こっちの白薔薇もね」

 答えて、アセルスは不思議そうに言う。

「機械の体……か。それって、そんなに大切なものかな……? たとえ永遠の命があったって、機械になれば何かを食べる喜びもない。人と人とが触れ合う時の温かみも何もみんな忘れてしまって、それで幸せだと言えるのかな……?」

「……俺にはわからない。でも、手に入れてみなけりゃわからないさ。それがいつになるかはわからないけど、いつかきっと俺は手に入れて見せる」

「……そう。それなら私は……あなたの『夢』が叶うことを祈っておくよ」

 アセルスは少年へ片手を差し出した。少年はその手を見て躊躇っていたが、おずおずと手を伸ばし、誓いの握手を交わした。

 去っていく少年の後ろ姿を眺めて、白薔薇姫はぽつりと問いかける。

「よろしいのですね。アセルス様」

「うん」アセルスは頷く。「いいんだ。きっとあの子は、ずっとまっすぐに生きていくし、足立さんと親友になるかもしれない。そんな気がする……」

 呟いて、アセルスははっと思い付いた。列車の発車までもうあまり時間も無い。急いで駆け出したアセルスは駅の売店でカップラーメンを買えるだけ買った。この星に来てからアルバイトで稼いだ金の残りでは、たいした量を買うことはできない。それでも両手に抱えられるだけ抱えて、下宿館へとアセルスは走った。みなが寝静まった下宿の廊下を軋ませながら階段を駆け上り、足立の部屋の前へと辿り着くと カップラーメンを置く。こんな深夜だ、足立も夢の中にいるのだろう、大きないびきが扉ごしに聞こえてくる。

「アセルス様。お気を付けください、もう時間が」

 白薔薇姫の警告に「わかった」とアセルスは頷いた。いまさら足立を叩き起こし、長々と別れの辞を述べるだけの余裕は無い。だが、やはりこのまま黙って去るというのはどうしても嫌だった。

「足立さん!」この星の住人がよくそうするように、大きな声でアセルスは扉の向こうへと呼びかける。

「あなたのことは一生わすれません。あなたがくじけず頑張るように、私も……たとえどこへ行くべきなのかがわからなくても、どんな生き方をするべきなのかが見えなくても、私も頑張ります! だからあなたも、お元気で! ……あと、最近は冬のわりに暖かかったかもしれませんけど、これからはきっと寒くなりますから、風邪をひかないように気を付けてください!」

 

 

 

 

 ……ふと、誰かに呼ばれたような気がして足立太は目を覚ます。扉の外で、誰かが何かを叫んでいる。

 ……こんな夜中に、何を叫んどるったい。

 ぶつくさと愚痴をこぼしながらあくびを零し、枕もとの眼鏡を手さぐりに見つけると足立はよたよたと自室の扉を開けた。するとそこには、カップラーメンの山ができている。

「……何ね、これは」

 訳も分からずに茫然としているうちに、先ほどの声がアセルスだったことにようやく気付いた。

「一宿一飯の恩義を感じてめぐんでくれたんか……ありがたくくおう」

 大家のおばさんを叩き起こし、ラーメンのお湯を借りに行くとアセルス達は突然下宿を出ていくことになったのだという。

「こんな夜中にいきなり、ねぇ、どうしたのかしら」

「さあ。おいどんにもわからん。もしかしたらソ連の秘密警察か何かが追ってきたのかもしれんばい」

「寂しくなるねぇ……」

「……」

 大家の言葉に、足立は黙って頷いた。出来上がったカップラーメンを持って自室へと戻り、窓辺に腰かけて夜空を見上げる。寒空の下で食べる熱々のラーメンは格別だ。ずるずると音を立てて麺が喉元を通り過ぎていく。

 空には月が輝いている。いつかアセルスと出会った夜、彼女とこうして空を見上げて星の話をしたのだったか。

「あげん真面目においどんの話ば聞いてくれた人もおらんかったもんねーあせるすさん……あ!」

 足立の見つめるその先で、星々のきらめく夜空の彼方を劈いて一筋の煙がたなびいていく。雲ではない。眼鏡の汚れでもない。それは汽車だ。……目の錯覚だろうか? 慌てて眼鏡をはずし、目をごしごしとこすってみても結果は変わらない。汽車は夜空を悠々と進む。力強く、けれども流れるように優雅に。

「あせるすさん、あれに乗っていったんじゃないのかね……」

 囁いて、足立はもう一度ラーメンをずるりと啜り上げた。

 

 

 

「……あの星が『明日の星』と呼ばれるわけがわかったよ、白薔薇」

 列車の窓から足立のいる星を眺めて、アセルスは言う。

「あの星の明日はきっと素晴らしい。だって、あの人やあの少年が頑張っているんだもの」

 しみじみと呟くアセルスを薄目で眺め、白薔薇はそっと笑う。

「……パスが返ってこなかった方が私たちも幸せだったかもしれませんね。アセルス様」

 試すようなその言葉の響きには気づくことなく、アセルスは恥ずかしそうに首を振った。

「……ううん。これでいいんだ」

「どうして?」

「私はまだ……何も知らないから。それがよくわかった。だからもっともっといろんな星を見て、いろんな考え方を経験して……そしていつか、自分で自分の生き方を選べるようにならなきゃいけないと、そう思うんだ……だから、この星は優しい場所だけれども、この優しさに甘えて旅を終えるわけにはいかないんだ。きっと……」

 アセルスは列車の窓から夜を見つめ、ちりばめられたその無数の星のことを考えた。

 明日の星には明日の人間が住むと人は言う。いつも夜空には明日を信じる明日の星が数限りなく輝いていると人は言う……。

 ちっぽけな下宿館で、足立太は窓から身を乗り出して星を眺めている。

 アセルスはいま、夜を駆ける列車の中から銀河に渦巻く星を眺めている。

 二人はきっと違うものを眺めている。けれども二人はこうも信じているのだった。自分がこうして見つめている星々の中に、アセルスがいて足立がいて、そしてまたきっと自分のように考え自分のように暮らしている人がいるのだろう、と。

 

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